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photo report 朝戸夕子
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茅ヶ崎駅8:50集合―(相模線)―海老名駅―相鉄バス「武者寄橋」下車―(徒歩 以下同じ)―①江川天神社―②早川城跡(昼食)―目久尻川サイクリングロード―③宮久保遺跡―④虚空蔵橋たもとの石仏(当麻山52代霊随上人名号塔他)―⑤龍洞院―⑥五社神社・尾の井(おもいど)―相鉄バス「国分寺台3」乗車―海老名駅(相模線に乗換)―茅ヶ崎駅帰着
相模原台地と早川の地 江戸時代の様子
早川城址は相模原台地の南の端にあります。この台地の西を目久尻川が流れ下り、川沿いに耕作地が開かれていました。目久尻川河畔の一画に今は綾瀬西高校があります。校舎建設の工事中に遺跡が見つかり、宮久保遺跡と名づけられました。川の西側は座間丘陵で、その頂部に五社神社があります。
城跡は「城山公園」として整備されています。
物見塚と東郷氏
説明板に「塚は江戸時代初期以前に築かれた。敵兵を見張るための物見塚だっただろう』と書いてあります。
その塚の上に東郷平八郎を顕彰する碑が立っています。
東郷平八郎は日露戦争の日本海海戦の折(明治38年<1905>5月)、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことで有名になりました。早川は東郷平八郎の先祖の地として、この記念碑が建てられたそうです。
堀切と土塁と城の遺構
四阿(あづまや)で一休み 早川城址をあとにしました
出土した木簡
五社神社
五社神社の腰掛石と、茅ヶ崎市芹沢腰掛神社の腰掛石
小田急線の鶴間駅から①旧矢倉沢往還を北東に進み、②日枝神社、③伊勢社、④諏訪神社を訪ね、江戸時代の下鶴間宿に出て、⑤鶴林寺のあと、⑥大和市ふるさと館を見学して昼食を取り、⑦観音寺から境川沿いに下って⑧深見城址を見学しました。
史跡めぐり当日に参加者に配布した資料はこちらをクリックすると見ることができます。
鶴間駅を出ると数十メートルのところにバスの発着所があり、先がYの字になっているので左にたどると矢倉沢往還です。この道を東に進み諏訪神社を目指しました。
江戸の赤坂御門から南足柄の矢倉沢に至り足柄峠をへて沼津に通じる、東海道の脇往還として重要な往還でした。
赤い鳥居の日枝神社です。
『新編相模国風土記稿』(次からは『風土記稿』と表記します)には「山王社」とあります。
伊勢講が盛んだったころ、お伊勢参りの折に勧請した神社だったのではないでしょうか。
下鶴間地区の鎮守です。コース下見の日は七五三の参拝者がありました。
この神社は相模国式内十三社(平安時代)の一つである岩楯尾神社(いわだておじんじゃ)と主張しています。
神奈川県内に同じ主張をしている神社が『相模風土記』によると、他に4社あります。
「元宮」
社殿彫刻
地神塔と、読めない文字がある舗装工事奉納の碑
城跡の様子
以上で大和市下鶴間の下鶴間宿近辺と深見地区の深見城址の探訪報告を終わります。
歩いた距離は長かったですが、収穫の多い史跡・文化財めぐりでした。
photo maeda hirano
report hirano
2024/10/5 茅ヶ崎北部丘陵の野鳥たちのデータを送ってくれる朝戸夕子さんから大変めずらしい写真が送ってきました。
林の中で、巣を作り、産卵し、孵(かえ)し、子育てし、育て上げて巣立ちさせたサンコウチョウの夫婦の連続写真でした。
サンコウチョウが生活する林は薄暗く、声はすれども姿は見えずが普通です。
「月、日、星、ホイホイホイ」の鳴き声は独特で、姿は見えないのです。それを、朝戸さんはよくぞとらえたものです。
夫婦の作業は5月22日の、最初の撮影から4週間ほどかかりました。
5月22日撮影
6月16日撮影
6月16日撮影
6月24日撮影
photo 朝戸夕子
report 芹澤七十郎(編集子)
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編集 芹澤七十郎(編集子)
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