茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (046)ジョウビタキが現れました

20241023撮影
ジョウビタキがやってきました。
去年より 4日遅れて庭にジョウビタキが帰って来ました。
去年は 彼女を連れていましたが、今年はコサメビタキと キビタキのメスと共に
現れました。

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photo report 朝戸夕子

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第306回 綾瀬市に早川城址・五社神社などを訪ねる 2023(R5)10/14実施

茅ヶ崎駅8:50集合―(相模線)―海老名駅―相鉄バス「武者寄橋」下車―(徒歩 以下同じ)―①江川天神社―②早川城跡(昼食)―目久尻川サイクリングロード―③宮久保遺跡―④虚空蔵橋たもとの石仏(当麻山52代霊随上人名号塔他)―⑤龍洞院―⑥五社神社・尾の井(おもいど)―相鉄バス「国分寺台3」乗車―海老名駅(相模線に乗換)―茅ヶ崎駅帰着

早川近辺の地形

相模原台地と早川の地 江戸時代の様子
早川城址は相模原台地の南の端にあります。この台地の西を目久尻川が流れ下り、川沿いに耕作地が開かれていました。目久尻川河畔の一画に今は綾瀬西高校があります。校舎建設の工事中に遺跡が見つかり、宮久保遺跡と名づけられました。川の西側は座間丘陵で、その頂部に五社神社があります。

①江川天神社

②早川城址(神奈川県指定史跡)

早川城址遠景 
目久尻川沿いのサイクリングロードから、台地上に築かれた早川城址を見上げました。城跡は標高46メートルで、目久尻川との比高差は約20㍍だそうです。
森に包まれているように見えますが、頂上部は開かれていて「城山公園」となっています。
薩摩の国に移った一族から東郷氏があらわれます。

城跡は「城山公園」として整備されています。

物見塚と東郷氏

説明板に「塚は江戸時代初期以前に築かれた。敵兵を見張るための物見塚だっただろう』と書いてあります。
その塚の上に東郷平八郎を顕彰する碑が立っています。
東郷平八郎は日露戦争の日本海海戦の折(明治38年<1905>5月)、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことで有名になりました。早川は東郷平八郎の先祖の地として、この記念碑が建てられたそうです。

堀切と土塁と城の遺構

 城の範囲は分かりませんが、青い線で囲まれた部分が神奈川県の史跡指定を受けているそうです。
 曲輪(くるわ)とされている緑色の点線で囲まれたところが二か所ありますが、曲輪全体ではなく発掘地点のことでしょう。土塁は茶色で、堀切がピンクの線で示してあります。
 早川城は「砦(とりで)」であったろうと書いてあります。
 台地の先端にある城は北側だけが平たんであったために堀切と土塁で囲まれていたそうです。
 武士たちが常駐した施設ではなく、外敵が現れた時のみ使われただろうとも説明されています。
図のようなくぼみが、城跡の北側に直線状に残っていました。
説明板にある写真のような土盛りが城の主郭とされる「桜の広場」の周りにあります。
火舎とは火鉢のことです。壊れた火鉢の破片が、城跡の北西部の腰曲輪にあった建物跡から見つかったそうです。
火舎の陶片は14世紀ころ(鎌倉時代後半~室町時代)に作られたものと判定されているそうです。この破片を元に、早川城のあった時代が想定されている重要な遺物です。

四阿(あづまや)で一休み 早川城址をあとにしました

公園の出口は和様の庭園風になっていて、池とあづまやが設けてありました。
キンモクセイが香る屋根の下で昼食としました。

③宮久保遺跡(神奈川県指定史跡) 

綾瀬西高等学校の建設に伴う昭和56~59年の事前発掘調査で、旧石器時代から近世(江戸時代)にかけてのたくさんの遺跡が発見され、宮久保遺跡と名づけられました。
中世の遺構では12~15世紀の館跡(やかたあと)や「藤原顕長」の銘文がある渥美焼の壺(経塚壺の外容器)などが発見されています。
古代(奈良・平安時代)では建物の跡や井戸などが、その井戸から木簡が発見されています。
宮久保遺跡 (説明板にある中世の館跡遺構の図)
中世の武家の屋敷跡と考えられています。
塀で区画された中にある建物跡は母屋、納屋、馬屋、その下方の建物は高床式で蔵あるいは武器庫、左上に見える比較的小型の建物は家人(けにん=従者)の住まい、納屋などだそうです。

出土した木簡



木簡には「天平五年(733)九月」の年号と「鎌倉郷鎌倉里」の地名、「田令(でんれい)」「郡稲長(ぐんとうちょう)」の職名、「軽部(かるべ)」という氏族の名が記されています。
 鎌倉郡の役所から高座郡に運ばれた稲につけられていた荷札と解されています。

④虚空蔵橋たもとの石仏

龍洞院というお寺に通じる虚空蔵橋のたもとに石仏が集められています。
庚申塔が2基、サイノカミ(道祖神塔)1基、道を挟んだ反対側に祠に入った地蔵菩薩です。
当麻山(たいまさん)無量光寺52世霊随上人の名号塔
集められた石仏の中に相模原市南区当麻にある当麻山無量光寺52世霊随上人(天保6年:1835寂)の名号塔がありました。
寒川町や藤沢市北部より北にしか見られないものです。上人の名前が無いので、藤沢の清浄光寺の52世一海上人(明和3年:1766寂)のものと混同されていたことがありました。
茅ヶ崎には相模原市の無量光寺の52世霊随上人の名号塔も、藤沢市清浄光寺52世一海上人の名号塔もありません。

⑤龍洞院の福寿大黒天

曹洞宗 龍洞院
虚空蔵橋を渡ると曹洞宗の龍洞院があります。
境内にあるお堂に「福授大黒天」を祭ってあります。福を授けてくださる大黒様なのでしょうが、その大きさにびっくりします。新しい制作と思いました。

⑥「尾の井」と五社神社

目久尻川の西側の座間丘陵を西に向かって五社神社を目指しますと、神社のすぐ近くに尾の井と呼ばれる池があります。数匹の金魚が泳いでいました。
この池は「オモイド」とも呼ばれていて、茅ヶ崎下寺尾にある「おもよ井戸」と名が似ています。共通するものが何かと興味をそそります。

五社神社

神社は丘陵の坂道を登り切ったところにあります。西側は海老名市です。
『相模風土記』に、祭神は地神五座、社地が亀の背のようで亀居山と呼ばれる。本地堂に軍荼利夜叉を祭る、別当寺実像院は本山派修験とあります。
現在の社殿は昔の社殿を覆うように建てられているそうです。拝殿に昔の社殿の写真があり、複写させてもらいました。
昔の社殿は間口3間の「三間社流れ造り」だったといわれており、この写真がそれを表しています。

五社神社の腰掛石と、茅ヶ崎市芹沢腰掛神社の腰掛石

境内の参道のわきに「日本武尊(やまとたけるのみこと)腰掛石」と表示された石が置かれています。『相模風土記』には「尊(みこと)が東征のとき休んだ石」と書いてあります。
 
茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社にもヤマトタケルが腰かけたといわれている「腰掛石」があります。
『相模風土記』には「大庭の神が腰かけた」となっています。ヤマトタケルに変わったのは明治時代の神仏分離後のことでしょう。おそらく五社神社の言われをまねて神様の名を変えたのだと思われます。
腰掛石にしろ、おもよ井戸にしろ、同じような話が伝わっていることに興味を覚えます。

五社神社の参拝を終えて記念撮影

この日の史跡・文化財めぐりは無事に終了しました。
歩くことは健康にいいことです。
それに加えて名所、史跡をめぐることはさらにいいことです。
お疲れさまでした。

photo maeda会員と hirano会員
report hirano会員

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第307回 大和市に諏訪神社・深見城址などを訪ねる 2023(R5)/12/9実施

小田急線の鶴間駅から①旧矢倉沢往還を北東に進み、②日枝神社、③伊勢社、④諏訪神社を訪ね、江戸時代の下鶴間宿に出て、⑤鶴林寺のあと、⑥大和市ふるさと館を見学して昼食を取り、⑦観音寺から境川沿いに下って⑧深見城址を見学しました。

史跡めぐり当日に参加者に配布した資料はこちらをクリックすると見ることができます。

①旧矢倉沢往還

鶴間駅を出ると数十メートルのところにバスの発着所があり、先がYの字になっているので左にたどると矢倉沢往還です。この道を東に進み諏訪神社を目指しました。
江戸の赤坂御門から南足柄の矢倉沢に至り足柄峠をへて沼津に通じる、東海道の脇往還として重要な往還でした。

②日枝神社

赤い鳥居の日枝神社です。
『新編相模国風土記稿』(次からは『風土記稿』と表記します)には「山王社」とあります。

境内の入り口に2基の庚申塔と、矢倉沢往還・滝山街道の説明碑がたっていました。この辺りは、2つの街道が重なっていたのでしょう。
滝山街道は後北条時代に八王子の滝山城と鎌倉市にある玉縄城を結んだ街道だったと書いてありました。

③伊勢社

伊勢講が盛んだったころ、お伊勢参りの折に勧請した神社だったのではないでしょうか。

④諏訪神社

下鶴間地区の鎮守です。コース下見の日は七五三の参拝者がありました。
この神社は相模国式内十三社(平安時代)の一つである岩楯尾神社(いわだておじんじゃ)と主張しています。
神奈川県内に同じ主張をしている神社が『相模風土記』によると、他に4社あります。

「元宮」

社殿に向かって左側に、玉垣で囲った一画があり、鳥居の扁額には「元宮」と記されています。
中央にある小さな石祠の、向かって右横に説明の碑があり、神社から東に100mのところにあった元宮で、式内社「岩楯尾神社」と言われていたが、昭和47年にここに移したと書いてありました。

社殿彫刻

境内の由緒書きには、祭神 建御名方神、延宝8年(1680)再建の棟札がある、江戸時代は村内の観音寺が別当寺だった、昭和57年社殿などを再建したとあります。
再建時に制作されたものと思われますが、社殿の向拝(ごはい)にある彫刻をはじめ、扉にある唐子の彫刻、脇障子の彫刻が素晴らしいです。
上の写真は向拝の彫刻。
拝殿へ入る4枚の扉にある唐子の彫刻
絵柄は何を表しているのか分かりません。
社殿に向かって左側の脇障子の彫刻
馬に乗って橋を渡る図だが、絵柄は不明です。
同じく右側の脇障子の彫刻。飛竜に乗って靴をささげている人物だが、絵柄は不明。絵の内容が分かる人はご教示願います。

地神塔と、読めない文字がある舗装工事奉納の碑

五角形の石柱、正面に「天照大神」とあり、右回りに「倉稲魂神(うかのみたまのかみ=稲荷伸)」「埴安姫神(はにやすいめのかみ)」「少彦名神(すくなひこなのかみ)」「大巳貴神(おおなむちのかみ)」とあります。基礎には「村内/社日/講中」、「文化十二年(1815)八月社日/保出谷下岩間町」とあります。
この形の地神塔は茅ヶ崎市にはありません。
「昭和」の次の一文字が読めませんが、面白い字体を使った、舗装工事一式を奉納したという碑です。
中央の行の頭から二文字、読めますか?

⑤鶴林寺

浄土宗。『風土記稿』下鶴間村の項に「本尊弥陀」「不動堂がある」と書かれています。浄土宗なのに不動堂不動堂があるのはいわれがあるのかもしれません。境内にそのお堂があり、堂の前には護摩壇らしきしつらえもありました。
鶴鶴林寺は高いところにあり、寺の前の下がった所を矢倉沢往還が通っています。往還から急な石段を上ると不動堂がありますが、石段の途中に写真のような看板が立っています。
看板の横にある「不動尊」の石柱。
傷んでいますが寛保3年(1743)の銘があり、正面に「不動尊」、向かって左側面に「江戸番町(現在千代田区内)」とあります。
石柱の頭には不動座像があったのですが壊れています。境内の不動堂は大山の不動堂と関係があったのかもしれません。
境内に「生地蔵」がありました。「生き地蔵」と読むのでしょう。地下に入って断食し即身仏になった崇信という人物を弔うために、享和3年(1803)に建立されたと伝えられています。入場塚の事例です。

⑥下鶴間宿と大和市ふるさと館

中央の通りは矢倉沢街道で、東(東京方面)を向いて撮影しました。道路わきに下鶴間ふるさと館があります。
矢倉沢往還から見たふるさと館です。商家の小倉家の母屋と土蔵です。建物の北側ですが、障子の部分が店への入り口だったのでしょう。
ふるさと館の縁側を借りて昼食です。
小春日和の温かいいっ時でした。
地図を良く見ると矢倉沢往還も大山道の一つであることが分かります。
茅ヶ崎を通る大山道は、四ツ谷(藤沢市)で東海道から分かれ、一之宮(寒川町)を通り、田村(平塚市)で相模川を渡り、「田村通大山道」と呼ばれていました。
昔の下鶴間宿の様子が良くわかる地模型です。

⑦観音寺

真言宗の寺院です。境内のイチョウが紅葉していました。
江戸時代初期の作。大和市内の仏像彫刻では傑作と言われているそうです。観音寺所蔵
背面に「天文十三年(1544)」の墨書銘があるそうです。2024年から480年も昔の貴重な木工品です。観音寺所蔵

坂井川沿いに下り、深見城址を目指します

⑧深見城址

城跡は江戸時代の下鶴間村の隣村である深見村にあります。そこは森の中でした。城跡を西側から写した写真です。森の奥は急な崖で、崖の下を境川が流れています。戦国時代までの山城はこのような要害の地に設けられています。
現地は自然のままで、このような説明板が一枚立ててあるだけでした。
「深見歴史の森」の案内図。
城跡は朱線の丸の中あたりです。
図の左下にある「現在地」の場所に説明板があります。左の案内図の「現在地」と重なります。両方の図面の北方向を合わせてご覧ください。

城跡の様子

木立が尽きる向こう側は急な崖になっています。
林の中の小路のように見える部分が空堀の底で、両脇に土塁があったことを表しているのではないでしょうか。

以上で大和市下鶴間の下鶴間宿近辺と深見地区の深見城址の探訪報告を終わります。
歩いた距離は長かったですが、収穫の多い史跡・文化財めぐりでした。

photo maeda hirano
report hirano

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茅ヶ崎の野鳥たち (045) サンコウチョウの子育て日記

2024/10/5 茅ヶ崎北部丘陵の野鳥たちのデータを送ってくれる朝戸夕子さんから大変めずらしい写真が送ってきました。
林の中で、巣を作り、産卵し、孵(かえ)し、子育てし、育て上げて巣立ちさせたサンコウチョウの夫婦の連続写真でした。
サンコウチョウが生活する林は薄暗く、声はすれども姿は見えずが普通です。
「月、日、星、ホイホイホイ」の鳴き声は独特で、姿は見えないのです。それを、朝戸さんはよくぞとらえたものです。
夫婦の作業は5月22日の、最初の撮影から4週間ほどかかりました。

巣をつくる

5月22日撮影

くもの巣を上手に使って巣を作ります

餌を与えるオス

6月16日撮影

ヒナが孵ったらしいです。お父さんが餌を持ってきました。

ヒナは二羽

6月16日撮影

家族

6月24日撮影

ヒナを見守るお母さん
ヒナを見守るお父さん

ヒナのお目見え

ヒナが巣から出てきました。

ヒナの巣立ち

巣の絵に立った様子はこどもですが、羽がそろっていました。
このあと飛びって、巣は空っぽになりました。

photo 朝戸夕子
report 芹澤七十郎(編集子)

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