第306回 綾瀬市に早川城址・五社神社などを訪ねる 2023(R5)10/14実施

茅ヶ崎駅8:50集合―(相模線)―海老名駅―相鉄バス「武者寄橋」下車―(徒歩 以下同じ)―①江川天神社―②早川城跡(昼食)―目久尻川サイクリングロード―③宮久保遺跡―④虚空蔵橋たもとの石仏(当麻山52代霊随上人名号塔他)―⑤龍洞院―⑥五社神社・尾の井(おもいど)―相鉄バス「国分寺台3」乗車―海老名駅(相模線に乗換)―茅ヶ崎駅帰着

早川近辺の地形

相模原台地と早川の地 江戸時代の様子
早川城址は相模原台地の南の端にあります。この台地の西を目久尻川が流れ下り、川沿いに耕作地が開かれていました。目久尻川河畔の一画に今は綾瀬西高校があります。校舎建設の工事中に遺跡が見つかり、宮久保遺跡と名づけられました。川の西側は座間丘陵で、その頂部に五社神社があります。

①江川天神社

②早川城址(神奈川県指定史跡)

早川城址遠景 
目久尻川沿いのサイクリングロードから、台地上に築かれた早川城址を見上げました。城跡は標高46メートルで、目久尻川との比高差は約20㍍だそうです。
森に包まれているように見えますが、頂上部は開かれていて「城山公園」となっています。
薩摩の国に移った一族から東郷氏があらわれます。

城跡は「城山公園」として整備されています。

物見塚と東郷氏

説明板に「塚は江戸時代初期以前に築かれた。敵兵を見張るための物見塚だっただろう』と書いてあります。
その塚の上に東郷平八郎を顕彰する碑が立っています。
東郷平八郎は日露戦争の日本海海戦の折(明治38年<1905>5月)、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことで有名になりました。早川は東郷平八郎の先祖の地として、この記念碑が建てられたそうです。

堀切と土塁と城の遺構

 城の範囲は分かりませんが、青い線で囲まれた部分が神奈川県の史跡指定を受けているそうです。
 曲輪(くるわ)とされている緑色の点線で囲まれたところが二か所ありますが、曲輪全体ではなく発掘地点のことでしょう。土塁は茶色で、堀切がピンクの線で示してあります。
 早川城は「砦(とりで)」であったろうと書いてあります。
 台地の先端にある城は北側だけが平たんであったために堀切と土塁で囲まれていたそうです。
 武士たちが常駐した施設ではなく、外敵が現れた時のみ使われただろうとも説明されています。
図のようなくぼみが、城跡の北側に直線状に残っていました。
説明板にある写真のような土盛りが城の主郭とされる「桜の広場」の周りにあります。
火舎とは火鉢のことです。壊れた火鉢の破片が、城跡の北西部の腰曲輪にあった建物跡から見つかったそうです。
火舎の陶片は14世紀ころ(鎌倉時代後半~室町時代)に作られたものと判定されているそうです。この破片を元に、早川城のあった時代が想定されている重要な遺物です。

四阿(あづまや)で一休み 早川城址をあとにしました

公園の出口は和様の庭園風になっていて、池とあづまやが設けてありました。
キンモクセイが香る屋根の下で昼食としました。

③宮久保遺跡(神奈川県指定史跡) 

綾瀬西高等学校の建設に伴う昭和56~59年の事前発掘調査で、旧石器時代から近世(江戸時代)にかけてのたくさんの遺跡が発見され、宮久保遺跡と名づけられました。
中世の遺構では12~15世紀の館跡(やかたあと)や「藤原顕長」の銘文がある渥美焼の壺(経塚壺の外容器)などが発見されています。
古代(奈良・平安時代)では建物の跡や井戸などが、その井戸から木簡が発見されています。
宮久保遺跡 (説明板にある中世の館跡遺構の図)
中世の武家の屋敷跡と考えられています。
塀で区画された中にある建物跡は母屋、納屋、馬屋、その下方の建物は高床式で蔵あるいは武器庫、左上に見える比較的小型の建物は家人(けにん=従者)の住まい、納屋などだそうです。

出土した木簡



木簡には「天平五年(733)九月」の年号と「鎌倉郷鎌倉里」の地名、「田令(でんれい)」「郡稲長(ぐんとうちょう)」の職名、「軽部(かるべ)」という氏族の名が記されています。
 鎌倉郡の役所から高座郡に運ばれた稲につけられていた荷札と解されています。

④虚空蔵橋たもとの石仏

龍洞院というお寺に通じる虚空蔵橋のたもとに石仏が集められています。
庚申塔が2基、サイノカミ(道祖神塔)1基、道を挟んだ反対側に祠に入った地蔵菩薩です。
当麻山(たいまさん)無量光寺52世霊随上人の名号塔
集められた石仏の中に相模原市南区当麻にある当麻山無量光寺52世霊随上人(天保6年:1835寂)の名号塔がありました。
寒川町や藤沢市北部より北にしか見られないものです。上人の名前が無いので、藤沢の清浄光寺の52世一海上人(明和3年:1766寂)のものと混同されていたことがありました。
茅ヶ崎には相模原市の無量光寺の52世霊随上人の名号塔も、藤沢市清浄光寺52世一海上人の名号塔もありません。

⑤龍洞院の福寿大黒天

曹洞宗 龍洞院
虚空蔵橋を渡ると曹洞宗の龍洞院があります。
境内にあるお堂に「福授大黒天」を祭ってあります。福を授けてくださる大黒様なのでしょうが、その大きさにびっくりします。新しい制作と思いました。

⑥「尾の井」と五社神社

目久尻川の西側の座間丘陵を西に向かって五社神社を目指しますと、神社のすぐ近くに尾の井と呼ばれる池があります。数匹の金魚が泳いでいました。
この池は「オモイド」とも呼ばれていて、茅ヶ崎下寺尾にある「おもよ井戸」と名が似ています。共通するものが何かと興味をそそります。

五社神社

神社は丘陵の坂道を登り切ったところにあります。西側は海老名市です。
『相模風土記』に、祭神は地神五座、社地が亀の背のようで亀居山と呼ばれる。本地堂に軍荼利夜叉を祭る、別当寺実像院は本山派修験とあります。
現在の社殿は昔の社殿を覆うように建てられているそうです。拝殿に昔の社殿の写真があり、複写させてもらいました。
昔の社殿は間口3間の「三間社流れ造り」だったといわれており、この写真がそれを表しています。

五社神社の腰掛石と、茅ヶ崎市芹沢腰掛神社の腰掛石

境内の参道のわきに「日本武尊(やまとたけるのみこと)腰掛石」と表示された石が置かれています。『相模風土記』には「尊(みこと)が東征のとき休んだ石」と書いてあります。
 
茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社にもヤマトタケルが腰かけたといわれている「腰掛石」があります。
『相模風土記』には「大庭の神が腰かけた」となっています。ヤマトタケルに変わったのは明治時代の神仏分離後のことでしょう。おそらく五社神社の言われをまねて神様の名を変えたのだと思われます。
腰掛石にしろ、おもよ井戸にしろ、同じような話が伝わっていることに興味を覚えます。

五社神社の参拝を終えて記念撮影

この日の史跡・文化財めぐりは無事に終了しました。
歩くことは健康にいいことです。
それに加えて名所、史跡をめぐることはさらにいいことです。
お疲れさまでした。

photo maeda会員と hirano会員
report hirano会員

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