第307回 大和市に諏訪神社・深見城址などを訪ねる 2023(R5)/12/9実施

小田急線の鶴間駅から①旧矢倉沢往還を北東に進み、②日枝神社、③伊勢社、④諏訪神社を訪ね、江戸時代の下鶴間宿に出て、⑤鶴林寺のあと、⑥大和市ふるさと館を見学して昼食を取り、⑦観音寺から境川沿いに下って⑧深見城址を見学しました。

史跡めぐり当日に参加者に配布した資料はこちらをクリックすると見ることができます。

①旧矢倉沢往還

鶴間駅を出ると数十メートルのところにバスの発着所があり、先がYの字になっているので左にたどると矢倉沢往還です。この道を東に進み諏訪神社を目指しました。
江戸の赤坂御門から南足柄の矢倉沢に至り足柄峠をへて沼津に通じる、東海道の脇往還として重要な往還でした。

②日枝神社

赤い鳥居の日枝神社です。
『新編相模国風土記稿』(次からは『風土記稿』と表記します)には「山王社」とあります。

境内の入り口に2基の庚申塔と、矢倉沢往還・滝山街道の説明碑がたっていました。この辺りは、2つの街道が重なっていたのでしょう。
滝山街道は後北条時代に八王子の滝山城と鎌倉市にある玉縄城を結んだ街道だったと書いてありました。

③伊勢社

伊勢講が盛んだったころ、お伊勢参りの折に勧請した神社だったのではないでしょうか。

④諏訪神社

下鶴間地区の鎮守です。コース下見の日は七五三の参拝者がありました。
この神社は相模国式内十三社(平安時代)の一つである岩楯尾神社(いわだておじんじゃ)と主張しています。
神奈川県内に同じ主張をしている神社が『相模風土記』によると、他に4社あります。

「元宮」

社殿に向かって左側に、玉垣で囲った一画があり、鳥居の扁額には「元宮」と記されています。
中央にある小さな石祠の、向かって右横に説明の碑があり、神社から東に100mのところにあった元宮で、式内社「岩楯尾神社」と言われていたが、昭和47年にここに移したと書いてありました。

社殿彫刻

境内の由緒書きには、祭神 建御名方神、延宝8年(1680)再建の棟札がある、江戸時代は村内の観音寺が別当寺だった、昭和57年社殿などを再建したとあります。
再建時に制作されたものと思われますが、社殿の向拝(ごはい)にある彫刻をはじめ、扉にある唐子の彫刻、脇障子の彫刻が素晴らしいです。
上の写真は向拝の彫刻。
拝殿へ入る4枚の扉にある唐子の彫刻
絵柄は何を表しているのか分かりません。
社殿に向かって左側の脇障子の彫刻
馬に乗って橋を渡る図だが、絵柄は不明です。
同じく右側の脇障子の彫刻。飛竜に乗って靴をささげている人物だが、絵柄は不明。絵の内容が分かる人はご教示願います。

地神塔と、読めない文字がある舗装工事奉納の碑

五角形の石柱、正面に「天照大神」とあり、右回りに「倉稲魂神(うかのみたまのかみ=稲荷伸)」「埴安姫神(はにやすいめのかみ)」「少彦名神(すくなひこなのかみ)」「大巳貴神(おおなむちのかみ)」とあります。基礎には「村内/社日/講中」、「文化十二年(1815)八月社日/保出谷下岩間町」とあります。
この形の地神塔は茅ヶ崎市にはありません。
「昭和」の次の一文字が読めませんが、面白い字体を使った、舗装工事一式を奉納したという碑です。
中央の行の頭から二文字、読めますか?

⑤鶴林寺

浄土宗。『風土記稿』下鶴間村の項に「本尊弥陀」「不動堂がある」と書かれています。浄土宗なのに不動堂不動堂があるのはいわれがあるのかもしれません。境内にそのお堂があり、堂の前には護摩壇らしきしつらえもありました。
鶴鶴林寺は高いところにあり、寺の前の下がった所を矢倉沢往還が通っています。往還から急な石段を上ると不動堂がありますが、石段の途中に写真のような看板が立っています。
看板の横にある「不動尊」の石柱。
傷んでいますが寛保3年(1743)の銘があり、正面に「不動尊」、向かって左側面に「江戸番町(現在千代田区内)」とあります。
石柱の頭には不動座像があったのですが壊れています。境内の不動堂は大山の不動堂と関係があったのかもしれません。
境内に「生地蔵」がありました。「生き地蔵」と読むのでしょう。地下に入って断食し即身仏になった崇信という人物を弔うために、享和3年(1803)に建立されたと伝えられています。入場塚の事例です。

⑥下鶴間宿と大和市ふるさと館

中央の通りは矢倉沢街道で、東(東京方面)を向いて撮影しました。道路わきに下鶴間ふるさと館があります。
矢倉沢往還から見たふるさと館です。商家の小倉家の母屋と土蔵です。建物の北側ですが、障子の部分が店への入り口だったのでしょう。
ふるさと館の縁側を借りて昼食です。
小春日和の温かいいっ時でした。
地図を良く見ると矢倉沢往還も大山道の一つであることが分かります。
茅ヶ崎を通る大山道は、四ツ谷(藤沢市)で東海道から分かれ、一之宮(寒川町)を通り、田村(平塚市)で相模川を渡り、「田村通大山道」と呼ばれていました。
昔の下鶴間宿の様子が良くわかる地模型です。

⑦観音寺

真言宗の寺院です。境内のイチョウが紅葉していました。
江戸時代初期の作。大和市内の仏像彫刻では傑作と言われているそうです。観音寺所蔵
背面に「天文十三年(1544)」の墨書銘があるそうです。2024年から480年も昔の貴重な木工品です。観音寺所蔵

坂井川沿いに下り、深見城址を目指します

⑧深見城址

城跡は江戸時代の下鶴間村の隣村である深見村にあります。そこは森の中でした。城跡を西側から写した写真です。森の奥は急な崖で、崖の下を境川が流れています。戦国時代までの山城はこのような要害の地に設けられています。
現地は自然のままで、このような説明板が一枚立ててあるだけでした。
「深見歴史の森」の案内図。
城跡は朱線の丸の中あたりです。
図の左下にある「現在地」の場所に説明板があります。左の案内図の「現在地」と重なります。両方の図面の北方向を合わせてご覧ください。

城跡の様子

木立が尽きる向こう側は急な崖になっています。
林の中の小路のように見える部分が空堀の底で、両脇に土塁があったことを表しているのではないでしょうか。

以上で大和市下鶴間の下鶴間宿近辺と深見地区の深見城址の探訪報告を終わります。
歩いた距離は長かったですが、収穫の多い史跡・文化財めぐりでした。

photo maeda hirano
report hirano

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