こんにちは!花たち フウラン・コロナ雑記

茅ヶ崎市芹沢から、近所や庭に咲く花たちを紹介します。

2020年7月6日(月) 朝から終日雨。
九州はまた水害で大変なことになってしまった。特に熊本県の被害が大きい。
私の故郷も熊本県です。町の中央を川が流れているが、今のところ決壊したという話はありません。
人吉などでは今後の復旧作業も大変です。皆さんたちの苦労に、何と申し上げていいのか分かりません。

フウランの白い花
熊本の実家の庭から移したものです

コロナ雑記
6月27日(月)の朝日新聞に、佐伯啓思(けいし)さんが「死生観への郷愁」というコラムを書いています。
コロナ関係の記事で、宗教に触れた文章はあまり眼にしませんでした。そのことを正面からあつかった文章ではありませんが、私には興味深かったので、いつものように抜粋します。

 昔の日本人にとっては、疫病にせよ災害にせよ悪霊の祟りであった。その時、人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を「世の定め」として受け入れるほかなかった。人知は限られており人力も限界がある。人は自然や天の前に頭(こうべ)を垂れ、神や仏にすがるほかなかった。そしてこの世の不条理な定めを、昔の人は「無常」といった。
 (昔の日本人は)とうてい受け入れがたい不条理な死をも受け止め、死という必然の方から逆に生を映し出そうとした。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。
 そのかわりに、今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのである。17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意思で国家に委ねたことになる。
 かくて、コロナのような感染症のパンデミックにおいては、国家が全面に登場することになる。
 ドイツの法学者カール・シュミットのいう例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。これが、ホッブスから始まる近代国家の理論である。
 そして、いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく「緊急事態宣言」を出すように要求したのである。ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党でさえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。
 (今回の緊急時代宣言は一時的なものでかつ「自粛要請」だったが)真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとしないからである。
 国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私には思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう。


要旨は以上のようでした。そして最後に次のようにまとめてありました。

 少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する恐れも畏(おそ)れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。われわれも、こころのどこかに、多少は古人の死生観を受け継ぐ場所をもっておいてもよいのではなかろうか。

福岡伸一さんのコラムで、ウイルスをこの世からなくすことは不可能だと知りました。その上に、人は死から逃れることができないこともあきらかです。いくら科学が発達しても、人知には限界があることを、私は今回のコロナウイルス騒ぎで教えられました。

photo & report 石野文蔵

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