古い時代から、日本人は山岳を神聖視して生活してきた。
形の美しい山を、カミが宿る、あるいは先祖の霊が宿るとしてあがめてきた。
いくつかの自然環境の厳しい山岳は、俗界から離れているが故に修行の場とされた。
このようなヤマの中に霊場が出来て、仏教や神道、両者が習合した修験道が歴史を重ねた。
先に見てきたように、日本各地には多くの修験道霊場がある。その中で茅ヶ崎辺りにまで及んでいるのは、
山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)
静岡県の富士(浅間)
長野県の御嶽(おんたけ)
そして地元大山の信仰であり、いずれも修験が関与している。その信仰の跡は石造物として残されていて、今も身近に見ることができる。
8-1
出羽三山信仰の石造物
羽黒修験は蜂子皇子が開いたといわれる。王子は推古元年(593) 由良(山形県鶴岡市)の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。羽黒修験の元になり、月山も開山した。推古13年(605) 湯殿山に湯殿山神社を建てる。(ウィキペディア引用)
出羽三山は山形県にある。長く羽黒修験として栄え関東にもその石造物が多い。神仏分離後、月山山頂に月読尊、湯殿山に大山祇命・大国主命・少彦名尊、羽黒山頂に稲倉魂命を祭神とする神社となった。三山の中心は羽黒山で、文政3年(1818)三山合祭殿が出来ている。
8-1-01
藤沢市葛原 王子神社の供養塔
碑の上部に彫ってある像は大日如来である。中程に「月山/湯殿山大権現/羽黒山」、下部に「西國 秩父 板東」とある。出羽三山登拝と観音霊場巡拝を兼ねた供養塔である。
右側面に「導師 大先達 宮原邑壽原寺觀明法印」とある。宮原村の寿原寺は、当山派の総本山醍醐三宝院の末寺の修験寺院だった。この碑を建てるに修験寺院が関係していることを示す貴重な例である。
左側面に「高座郡葛原邑 導師 長盛寺正山阿闍梨」とある。長盛寺は地元葛原にあったが今は廃寺である。『新編相模国風土記稿』葛原村(第日本地誌大系本3巻293頁)には村鎮守の王子権現社の真言宗の別当寺とある。この寺は修験ではないが、正山阿闍梨が宮原村の修験寿原寺の觀明法印を先達として出羽三山と観音霊場を回る講中を組んでいたのに関与していたことが分かる。
年銘は安永三年(1774)、凝灰岩七沢石を使ってあるので傷んでいるのが残念。
8-1-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の供養塔
元は大山道沿いにあった。多くの人の目に触れて供養を受けるよう、出羽三山に限らず、供養塔は道ばたに立てられていることが多い。
角柱の上に乗る摩滅した像は大日如来坐像。
正面に、月山・湯殿山・羽黒山、その下に秩父三拾四所・西國三拾三所・四国八拾[ ]・坂東三拾三所供養[ ]とある。
出羽三山、四国八十八ヶ所、百観音霊場供養が合体している。
寛政十二年(1800) 庚申天 三月十三日の年銘がある。
8-1-03
相模原市上溝路傍にある供養塔
向かって右側面に、享和三年(1803)癸七月吉祥日と、正面にアーンク(胎蔵界大日如来種子)、キリク(阿弥陀如来種子)、サ(観音菩薩種子)と「月山 湯殿山 羽黒山」の文字がある。この三つの種子は、三山の本地仏に対応しているようだ。
凝灰岩製で傷んでおり、角柱の上には剥落した大日如来坐像がわずかに形を保っている。
8-1-04
茅ヶ崎市松尾 善性寺の供養塔
角柱正面上部にアーンク、向かって右側面に「文化十有四丁丑年(1817)三月日建之」 左側面に「行者 青木幸八」と刻む。
「青木幸八」は、同じ松尾の共同墓地にある文化十四年(1817)銘の無縁法界供養塔にも名を残している。
青木姓は地元にある姓だから、行者と呼ばれる地元の民間宗教者だったと思われる。療法や祈祷、各地の霊場とこの地の橋渡しなどに携わったと思われる。修験者の一人だったのかもしれない。
基礎石は別の石仏の混入である。
8-1-05
横浜市保土ケ谷区仏向町路傍の供養塔
横浜市保土ケ谷区仏向町にある文化九年(1812)銘神礼寺型地神塔(5-1-07参照)と同じ石質の石を使っている。この塔の特徴は上部に彫ってある種子の見事さである。上はアーンク、向かって右はキリク、同左はサであることは出羽三山供養塔に共通する。
左側面に「東叡山御持羽黒山大先達 御本坊□前院/山先達源正坊/安政二卯年(1855)八月吉日 導師 圓福寺」とある。東叡山寛永寺が羽黒修験に関係していることは知られているが、そのことを表す例である。先に述べた仏向町の文化九年銘地神塔と同じ石工になるものと思う。
8-2
富士信仰の石造物
富士山を神聖視し、講中を組織して富士山登拝を行う冨士講が主に関東地方で江戸時代中期から盛んになった。冨士講の教義は神道・仏教・修験の思想に独特の思想を織り込んでいる(『日本石仏事典』)。
冨士講の指導者を先達とか講元といい、講中を率いたり、自らも33、50、66度などの登拝回数を誇った。富士講碑にはこの願が満了した折に立てられたものが多い。碑の文字は独特の書体をなし、「浅間」を「仙元」と書いたものがある。
神仏分離後は一時衰退したが、やがて丸山教、扶桑教、實行教として教派神道の活動が続き、石碑も建立された。
8-2-01
藤沢市片瀬 泉蔵寺前の富士講碑
日輪と月輪、富士山の絵に「庚申」の文字、三宝の上に枡、下方に三猿とたくさんの文字が彫ってあるが、彫りが浅い上に苔(コケ)がのっていて見えにくい。枡の中がどうなっているのかも分からない。
冨士講では「庚申縁年」を重視する。富士山は庚申(かのえさる)の年に出現したので、庚申の年に登ると大きな御利益があるとする。また猿はお山のお使いともいうそうである。冨士信仰に庚申の習俗が取り込まれたのだろう。
この塔は寛政十二年(1800)の銘を持つ。同年は庚申の年である。庚申縁年には造塔も行われたことが分かる。しかし枡の図柄は何を表しているのだろうか。
8-2-02
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の富士講碑
「不動大明王 富士浅間大神 石尊大権現」とあるので大山信仰と冨士信仰が一緒になっている。
大山に参ったら富士山にも登るといわれているから、大山講が冨士講でもあったのかも知れない。年銘は萬延元歳庚申年(1860)とあり、庚申縁年に作られたもの。
なお「柳庵欽書(花押)」とあり、茅ヶ崎柳島の、幕末・明治の文化人といわれている藤間柳庵の筆である。
8-2-03
小田原市柏山 柏山神社境内の富士講碑
頂部に冨士山が描かれその中に「浅間大神 木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)」とある。
万延元年(1860)庚申歳の年銘があるので庚申縁年の建碑。講紋は◯の中に「花」。「丸花講」と読むのだろうか。
浅間神社と名乗る神社の中で、延喜式内社は山梨県笛吹市一宮町の浅間神社(神社では「甲斐国一宮 浅間神社」としている)と静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社(神社では「浅間大社」)の二社とされているが、他にも浅間神社はあるので、この富士講碑がどこの神社と結びつくものかはわからない。なお二社の縁起式内社の内、前者は祭神を「木花開耶姫命」と、後者は「木花之佐久夜毘売命」と表記を異にする。
8-2-04
秦野市今泉 今泉神社境内の富士講碑
正面上部に富士山の絵と○の中に「岩」の講紋、その下に「中道十四/三十三度/八湖成就」の銘。◯に「岩」は、冨士講の中に「丸岩講」というものがあるのでそれに当たるのであろう。
富士山の5~6合目に、お山をぐるりと回る「お中道(ちゅうどう)」という道があって、3回以上登拝したものだけが通れるという。それを14度めぐり、登拝を33度、忍野八海めぐりをして登拝が成就したことで立てた碑である。
背面に「明治十九年(1886)十一月 小社長 小泉治平」とあるが、この年の干支(えと)は丙戌(ひのえいぬ)で庚申縁年ではない。
8-2-05
藤沢市高倉 七ツ木神社境内の富士講碑
表に「仙元大菩薩」とある。浅間を「仙元」と書く例の一つである。
基礎の正面は富士山の絵に「真」、背面に「庚申 万延元年(1860)四月吉日」の年銘がある。
この碑も庚申縁年の建碑。
8-2-06
鎌倉市上町屋 天神社境内の富士講碑
正面に「南無仙元大菩薩」
右側面に「大天狗/小御嶽石尊大権現/小天狗」
左側面に「元祖 食行身禄□」
背面に「元治初甲年(1864) 登山十三度 泉光院覺□」
基礎には富士山の絵の中に「真」の一文字と「當所先達 内海六郎右ヱ門」とある。
食行身禄(じきぎょう みろく)については、ネット情報に「寛文11年1月17日(1671年2月26日) – 享保18年7月13日(1733年8月22日)。日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤伊兵衛(いとう いへい)。伊勢国一志郡(現三重県津市)出身。伊藤食行とも。」とある。【ウィキペディア】
この碑も構成員を同じくする冨士講と大山講の建碑と思われる。泉光院は『新編相模国風土記稿』(日本地大誌大系本風土記稿第5巻167頁)の上町谷村に、古義真言宗、鎮守天神社の別当と記載されており、上町屋に今もある。その泉光院が主催する講中が、当地の内海六右ヱ門を先達として13回の富士山・大山の登拝を行った記念として建てたと解するが、どうであろうか。ただ、泉光院は修験寺院ではない。
8-3
大山信仰の石造物
相模大山の美しい山容は遠くからも目につき、神奈備山(かんなびやま)として古来、信仰の対象となっていた。この相模大山のお膝元の神奈川県には、多くの大山道が通っているので、大山灯籠、鳥居、道標、不動石像などを各地に見ることができる。
大山も江戸時代以前には修験者の活動が盛んで、戦国時代には武力をもって戦いに参加した形跡がある。徳川期には御師となって関東各地に大山講(石尊講)を組織し、関東各地から多くの人々を大山に誘った。
講中のお導者は、大山道沿いのこれらの石造物をたどって大山に到着した。
8-3-01
伊勢原市桜台 路傍の大山道道標
角柱の上に乗っている像は、被せてある頭巾などのために何だか分からないが不動明王だろう。大山導者のために、道沿いにこのような道標が立てられた。
角柱の上部の種子は、いささか変わった書き方の不動明王種子のカーンマーンである。その下に「右 日向道/左 大山道」とある。これがある桜台は小田急線伊勢原駅南側一帯だから、北西を向いて、右手に進めば日向薬師、左手なら大山となる。現地を見ていないが、道標は南東を向いて立っているのだろう。道標の向かって左側面に元文四年(1739)己未(つちのとひつじ)の年銘がある。
8-3-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の大山灯籠
竿石表面にカーンマーン(不動明王)・タラ(矜羯羅童子)・タ(制吨迦童子)の種子と
「大天狗/石尊大権現/小天狗」、右側面に寛政十年(1798)の年銘がある。石尊大権現と大小の天狗は大山の頂上に祭られていた。
県内では、夏山が開かれている間、村の村組ごとに大山灯籠を立てる習俗があった。取り外しのできる木製のものが多いが、石製もあり、石製はそれを常設にしたものと思われる。
この灯籠のある西光寺は市内を通る田村通り大山道の少し北にある。大山道沿いにあったものを移したと伝えられている。
8-3-03
伊勢原市下谷 八幡神社境内の大山道道標
角柱の竿石の上に剣を持つ不動明王坐像が乗る。その右側面は荒れているが、天保三年(1832)の銘と「田村ふなわたし」、左側面「あつぎみち」とある。南を向いて立てられているのだろう。
8-3-04
茅ヶ崎市高田 本在寺の大山灯籠
本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。
竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居(6-10参照)にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。
8-3-05
藤沢市獺郷(おそごう) 路傍の不動明王三尊
きちっとした覆い屋の中にある。基礎石の正面に「獺郷村/東/講中/嘉永二[ ]/酉(1849)四月/立之」とある。
像は不動三像で、火炎光背の中で右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像と、その下に、滝の流れの両脇に立つ矜羯羅童子(こんがらどうじ 向かって右)、制吨迦童子(せいたかどうじ 左)。三像の顔面は摩滅しているが、削られたようにも見える。廃仏毀釈の被害だろうか。
二童子の間に滝があるのは、大山の禊ぎ場の滝を現すか、『平家物語』巻第五中「文学(文覚)荒行」の一場面、滝でおぼれる文覚を助ける二童子に由来するものか、どちらだろうか。
8-3-06
茅ヶ崎市西久保 日吉神社境内の道標
茅ヶ崎市はその中央部を大山道が東西に突っ切っているので、もっと大山道標があってもいいように思われるが、この一基しか見つかっていない。
この道標がある日吉神社はその大山道から少し離れた南側に位置している。
傷みがひどく、一面に「右大…」の二文字しか残っていない。おそらく「…山道」と続いていたのだろう。昔は大山道沿いにあったといわれている。
8-4
御嶽山信仰の石造物
長野県と岐阜県にまたがってそびえる木曽御嶽山は古くから修験の山だった。御嶽の修験者も江戸時代半ばからは各地に出向いて御嶽講社を組織していった。旧暦6月1日に山開き、7月18日が山じまいで(『日本石仏事典』)、白衣に脚絆、鉢巻き、金剛杖、鈴を下げた導者が先達に導かれて山に登った。
各地に残る石碑には神号が刻まれている。それが江戸時代と明治とで違うのは、神仏分離の影響である。
8-4-01
茅ヶ崎市菱沼 茶屋町稲荷境内の御嶽講碑
江戸時代の菱沼村は南北に長い村で、この碑は村の南、東海道(現国道一号)に近い茶屋町稲荷の境内にある。
菱沼には、ここと鎮守八王子神社境内とこの茶屋町稲荷に御嶽講碑がある。その二つの碑は形、石質、大きさ、彫ってある文字がほとんど同じである。三角形の形は富士山を模している。
正面に「當所中/御嶽山大權現」とあるが年銘はない。「御嶽大権現」という表記から神仏分離以前、江戸時代末期に作られたことが分かる。
八王子神社は村の北側にある。
当時の御嶽講は村の北方と南とに分かれて二つあったのだろう。
8-4-03
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その1)
菱沼と小和田は隣り合っている。小和田の鎮守、熊野神社には3基の御嶽講碑がある。最も古い年銘をもつこの碑は根府川石製。
銘は正面に「當村中/御嶽山大権現/柳庵謹書(花押)」、
裏面に「萬延元歳在庚申(かのえさる)秋(1860)/八月吉立之」。
「御嶽大権現」は神仏分離以前のいい方で、山岳信仰の蔵王権現に由来し、修験道が関係している。
熊野神社には別に柳庵筆の冨士講・大山講合同碑があり先に紹介した(8-2-02)。石材は同じく根府川石。柳庵はこの二つの碑の文字を同時に頼まれて書いたもののようだ。
8-4-04
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その2)
表に「国狭槌尊(くにさつちのみこと)/国常立尊(くにのとこたちのみこと)/豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)」、裏面に「明治十二年(1879)建設」とある。
木曽の御嶽山のふもと長野県木曽郡王滝村にある御嶽神社は、
里宮と山頂の奥社に国常立尊・大己貴命・少彦名命
五合目の八海山神社に国狭槌尊
七合目の三笠山神社に豊斟渟尊
を祭る(神社のホームページより)。
この御嶽講碑は、木曽御嶽神社の里宮・奥社の主祭神と八海山神社、三笠山神社の祭神を彫りつけたことになる。
国常立・国狭槌・豊斟渟は日本書紀にある神世七代の中の三神である。神仏分離以前の御嶽山信仰では「御嶽山大権現」を祭っていたものが、分離以後は後、神世七代中の三神に変わったことを、この碑は現している。
8-4-05
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その3)
熊野神社境内の三基のうち、一番新しい年銘を持つ。板状の石3基で構成されており、向かって右の碑に「八海山提頭羅神王」、中央の碑に「御嶽大神」、左の碑に「三笠山刀利天」、中央碑の裏面に「本山信州木曽谷鎮座/神道御嶽教会起立講(以下略)」、大正十四年(1925)の年銘がある。
中央碑にある御嶽大神は、江戸時代のいいかたの御嶽大権現を明治時代になってから神道流で表したものである。
八海山は新潟県にある霊山で、その近くにはこの霊山を信仰する八海山神社がある。提頭羅神王(だいずらしんのう)は八海山信仰で祭られる神なのだろう。この神は神世七代の国狭槌(くにさづち)とされている。
御嶽講碑では、御嶽大神(国常立尊)、八海山(国狭土尊)、八海山刀利天(豊斟渟尊)の三神を大書したものが多い。
photo 坂井会員 平野会員
report 平野会員