282回 鎌倉市 日蓮上人の足跡 9月25日


本番は9月25日(月)、下見は同月16日(土)、本番は快晴、下見のときは朝から雨でした。
この記録には下見のときに撮影した画像も使っています。
日蓮上人の足跡をたどるため、小町大路の妙隆寺・辻説法跡から大町に向かう、鎌倉時代で言えば武家と商家混在の町から商人町に至るコースを考えて下見も行ったのですが、本番では最後を龍口寺にしました。
またメインの見学地の一つ安国論寺が月曜休みで拝観出来ないと分かったことから材木座の長勝寺を加えました。
最後が江ノ電利用と道のりが遠くなったので、最初の長勝寺までバスに乗り、そこから歩いて鎌倉駅まで戻り、江ノ電に乗るコースでした。日蓮上人の足跡をたどるがテーマでしたが、テーマ外で、途中で見たものも含みます。
見学の順序は①長勝寺 ②日蓮乞水(にちれんこいみず)碑 ③大黒堂 ④安国論寺 ⑤妙法寺 ⑥辻の薬師堂 ⑦辻の本興寺 ⑧町屋阯碑・魚町橋 ⑨常栄寺(ぼたもち寺) ⑩妙本寺 ⑪本覚時 ⑫日蓮の辻説法跡 ⑬妙隆寺 ⑭龍口寺でした。

282回 -01
日蓮宗 石井山(せきせいざん)長勝寺 鎌倉市材木座2-12-17
山号は石井山(せきせいざん)。石井藤五郎長勝が伊豆に流されていた日蓮上人のため、鎌倉に用意した庵が寺の起源といわれています。
境内には辻説法の姿を表したという日蓮上人の像(高村光雲作)、その後ろに帝釈堂や四天王像があり、帝釈天ゆかりの霊場とわかります。

法華堂は、境内の説明版に、室町時代の建立とされるとありました。神奈川県指定重要文化財。
門柱ほかいたる所に四角い渦巻き状の帝釈天の紋が見られます。
千葉県中山(市川市)の法華経寺で、毎年11月から百日間の荒行を終えた僧が、長勝寺で2月11日に水行を行う「大國禱会成満祭(だいこくとうえじょうまんさい)は鎌倉の冬の見ものです。
お百度参りの石塔がありました。祈願のある人は、この石とご本尊の間を100回往復して願い事を訴えると叶えてもらえるとされていました。
また境内を見学していると、どういう関係か分からないのですが吉良上野介の層塔を見つけました。

 

282回 -02
日蓮乞水の石碑
境内を出て名越切通に向かう途中には、鎌倉五名水の一つ、日蓮乞水(にちれんこいみず)があります。日蓮上人が最初に鎌倉に入った時、水を求めて地面に杖を突き刺すと清水が湧き出たと言われています。
先を急ぐのと、そばにある橋のたもとに日蓮水の石碑があったので、「乞水」の現地に行かないで石碑を見るだけで済ませてしまいました。
石碑にあった文字を写しておきます。□と[ ]は読めない文字、/は改行を表します。
[右側面]昭和二年三月  大□寺住職 [     ]田邊新之助□
[正面]「日蓮水」の文字の下に次の文字があります。
建長五年五月日日蓮太古の渇を醫してより七百年矣/
混混として晝夜を舎□す□霖にも増すなし久旱に/
も減するなし□みて鑑すれば清きこと浄明の□□/
如く掬して□へば甘きこと慈母の乳にも似たり嗚/
呼日蓮水是れ亦聖者の餘澤流れて群生の心田に澱/
き永く本有の善苗を霑さん哉
[左側面]醫(得)高僧渇干今七百年餘□/
流久(盡)塵劫漑心田

282回 -03
大黒堂の石仏
長勝寺を出て、横須賀線の線路を越え、安国論寺へ向かう細道の脇に小さな神社がありました。ネット配信の地図には「大黒堂」と出ています。
境内の奥に三基の石仏が並んでいます。向かって右から「名越講中/青面金剛/弘化五年(1848)戊申二月□□日」とある庚申塔、中央は地蔵立像と思われ、左は青面金剛像の足下に一匹の猿がある庚申塔でした。
境内の鳥居の脇にも三基の石仏があります。向かって右から、摩滅して尊容不明の石仏、中央は「猿田彦大神/北斗尊星/天鈿女命」と彫ってある石碑、左は「元禄」とだけ読める聖観音立像です。
中央の石仏がおもしろいと思いました。サルタヒコとアメノウズメは天孫降臨の場面に登場する神様ですが、「北斗尊星」とあるのは珍しいです。下の方には多数の造立者銘があり。年号銘は破損していて「吉日」だけしか読めませんが、幕末から明治の頃のものと思われます。北斗尊星とあるのは庚申信仰との関係かと思われますが、サルタヒコとウズメと一緒に並んである理由が分かりません。

 

 

 

 

282回 -04
日蓮宗 妙法蓮華山安国論寺 鎌倉市大町4-4-18
月曜日は閉門していると聞いていたので寄らない予定でしたが、門が開いていたので、案内文(縁起)を読みながら、みんなでしばらく中を覗きました(決して境内に入ったわけではありません)。

ここで日蓮上人の四大法難について書きますと、日蓮上人が建長5年(1253)鎌倉に入り松葉ヶ谷に草庵を開き、小町大路で辻説法をしていた。当時、天変地異や流行っていた疫病は、念仏など邪教が興隆するからで、正しい教えが広まらず、内乱や異国からの侵略を招く所以であると予言し、文応元年(1260)、39歳で、時の最高権力者北条時頼に『立正安国論』を上奏した。その1ヶ月後に念仏信者等に草庵を襲われた。これが、一回目の松葉ヶ谷法難で、長勝寺や安国論寺、妙法寺が、法難比定の草庵であると言われています。
他の三つの法難は、1年後の伊豆の法難、その3年後の小松原の法難(千葉県鴨川市)、さらにその7年後の龍ノ口(竜の口)の法難、または同年の佐渡の法難ですが、資料によって、佐渡を入れる場合は松葉ヶ谷法難が入っていないようです。ちなみに日蓮が被る綿帽子は、小松原法難の際に洞窟にひそんでいた時、世話をした老婆が、自分の綿帽子を掛けてくれた事にちなむといわれています。

282回 -05
日蓮宗 楞厳山(りょうごんさん)妙法寺 鎌倉市大町4-7-4
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗。楞厳山妙法寺。建立、延文2年(1357)。
開祖は日蓮聖人、中興は日叡上人。
布教のため安房から鎌倉に入った日蓮聖人が最初に草案(松葉ヶ谷御小庵)を結んだと伝えられている。松葉ヶ谷法難もこのあたりという伝承がある。
のちに、護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる=日叡上人)が父の供養と、日蓮聖人の遺跡を守るためこの寺を建てた。
本堂は肥後細川家の寄進による。」
受付で線香を頂き、先ず細川家寄進の本堂に参り、各々が線香を手向けた後、加藤清正を祭る大覚殿を右手に見て、仁王門に進むと、

全身真っ赤に塗られた金剛力士が迎えてくれます。
向かって右の像は阿像、左は吽像と型どおりの並び方。
その先の石段は苔に覆われていました。苔の保護のために登ること禁止。右側にある急な石段を登るようになっています。このために苔寺とも呼ばれています。

石段を登ると釈迦堂跡で、さらに登ると水戸家寄進の法華堂があります。大きな建物で彫刻がすばらしいです。

 

さらに登った右手山頂には妙法寺を中興した日叡の父、護良親王の墓が、左手山頂には自身と母の墓があるそうですが行きませんでした。
下見のときはhirano会員とkatada会員が護良親王の墓にお参りしました。素晴らしい景色だったとの話。この日皆さんは法華堂止まりで、誰も素晴らしい景色を見に行かなかったのでした。

山門を出ると、キンモクセイが満開でした。

 

 

 

282回 -06
辻の薬師堂  鎌倉市大町2丁目4
本興寺とは道路を挟んで向かい側に辻薬師堂があります。中に祭ってあった木造薬師三尊立像と木造十二神将立像は、現在、鎌倉国宝館に寄託展示されていますので、代わりの仏像が置かれています。薬師三尊像は平安仏、十二神将像は室町時代のものと言われています(「有隣」399号)。共に神奈川県指定重要文化財です。

お堂は暗く中が良く見えません。お賽銭を入れると、何分間か灯りがつき、小さな穴から覗くという仕組みで、なかなか面白く、何人も見ていました。
「辻の薬師堂」と呼び、「辻の本興寺」というのは、この辺りを辻といっていたことの名残といわれています。鎌倉時代に、鎌倉を東西に横切る「大町大路(おおまちおおじ)」と、南北に通る「小町大路(こまちおおじ)」が交わっていたからだと説明されています。おそらく賑わいを見せていたのでしょう。日蓮上人はそのような所に出て大衆を相手に辻説法をおこなったといわれています。

扉に、これらの仏像の説明文が貼ってあって、おうよそ次のように書いてありました。
「二階堂にある鎌倉宮は明治時代にできた神社だが、鎌倉時代にはそこに東光寺という寺があって、薬師三尊が祭られていた。その後東光寺が廃絶するときに三尊像は名越にあった長善寺という寺に移された。長善寺はその後も移転を繰り返したが、幕末に火災に遭って廃寺となり、諸像だけが残された。明治22年に横須賀線が敷設されるに際し、現在地に移され、以来辻の薬師堂として地元によって祭られてきた。しかし地元管理が難しくなってきたことから平成5年に鎌倉国宝館に移された。
諸像は傷みがひどいので修理が施されて国宝館内で公開されている。現在堂内に祭ってある薬師三尊像と、十二神将像のうち迷企羅大将像と波夷羅大将像の2躯は新たに造像されたものである。           平成25年 辻薬師堂保存会」

282回 -07
日蓮宗 法華山本興寺 鎌倉市大町2-5-32

 

 

 

バス通り南の脇道を直進し、大町四つ角の南側に出ると、すぐ横が本興寺。ここにも「本興寺略縁起」の石碑がありました。この碑、形は似ていますが、鎌倉市内にたくさんある鎌倉青年団の碑とは違っていて、お寺で建てたもののようです。
碑文を写しておきます。/は改行です。
(上部に横書き)日蓮大聖人/辻説法之舊地/
日蓮大聖人鎌倉御弘通の當時此の地点は/
若宮小路に到る辻なるに今猶辻の本興寺/
と稱す御弟子天目上人聖躅(せいちょく=日蓮聖人の足跡)を継いで又/
此地に折伏説法す實に當山の開基なり/
後年日什上人(顕大法華宗/開祖)留杖せられ寺観/
大いに面目を改む常楽院日経上人も亦/
當寺の第廿七世なり

本興寺という寺院は、横浜市泉区上飯田町にもあります。横浜市の本興寺(日蓮宗 本山 法華山 本興寺)の公式サイトにはおよそ次のように記してあります。この記事によって碑にある天目上人、日什上人、日経上人のことがわかります。
「本興寺ははじめ、日蓮聖人の直弟子・天目上人が鎌倉に開創した。聖人が辻説法の途中、休息された地というので、『休息山本興寺』と称していた。
天目上人は、「迹門不読説」を主張し弟子たちもこれを唱えたが、日什門流の開祖・日什大正師の教化にふれ改派、『法華山本興寺』と改称した。これをもって日什上人を事実上の開祖としている。
27世の常楽院日経上人は、慶長13年(1608)に法難に遭う。日蓮宗の不受不施の一派や日経上人の流れをくむ者への迫害が厳しくなり、万治3年(1660)現在の地(編集者注 横浜市泉区上飯田)に寺の一切を移した。」

上飯田に移った後も、大町に同じ名前の本興寺があることについては、ネット情報(Wikipedia)に、
「その10年後の寛文10年(1670)、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興した。妙本寺末寺となって現在に至っている。」とありました。
今も「辻の本興寺」と呼ばれていて、日蓮の辻説法の場所の一つといわれています。

282回 -08
町屋阯の碑・魚町橋
薬師堂を出て北に進むと、鎌倉町青年団建立の石碑があります。碑文は次のとおりです。
町屋阯
此邊ハ往昔ニ於ケル鎌倉繁榮當時/
ノ賈區ニシテ其中央ノ通衢ヲ大町/
大路ト呼ビ其他米町辻町魚町名越/
等ノ區分アリ夫々町屋ノ在リシ所/
トオボシク其ノ稱ハ屡々東鑑ニ見エ/
今ニ其名ヲ存ス/
昭和十一年三月建 鎌倉町青年団/

鎌倉時代には、このあたりは町人の町とされていたそうです。
碑のすぐそばに小さな流れの逆川(さかさがわ)があり、この流れに架かる橋を魚町橋(いおまちばし)といいます。
流れを逆川というのは、北から南へ流れることが普通である鎌倉市内の川が、この近くでは地形の関係から南から北に向かって流れていることによるそうです。近くに、逆川橋(さかさがわばし)という橋もあるのですがこの日は説明するのを忘れていました。

282回 -09
日蓮宗 彗雲山(えうんざん)常栄寺 鎌倉市大町1-12−11
八雲神社の北側に常栄寺(ぼたもち寺)があります。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗彗雲山常栄寺 慶長11年(1606)建立 開山は日詔 開基は日祐法尼
鎌倉幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がも保ちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。」
先にも記しましたが、小松原の法難のとき日蓮上人が受けた刀傷の手当のために、老婆が登場し自分が被っていた綿帽子を被せてくれます。鎌倉でのこの法難のときも「桟敷の婆」が登場して助けてくれる話になっています。この二つの伝説には共通するものがあるようです。

訪れた日は萩の花が盛りで、多くの人が参詣に来ていました。
境内の本堂の前に、開基日祐法尼の供養塔があります。
ひげ題目の下に 當寺開山/日祐聖人/高松寺二世/と彫ってあります。
植木に囲まれていて近寄れませんので、年銘など見えませんが江戸時代の石塔の形をしています。先に紹介した説明版には日祐法尼は開基となっていましたが、この石塔には開山とありました。
なお、『新編相模風土記稿』鎌倉郡十九、常栄寺の項には日祐は中興とあります。確かに桟敷の婆と日祐とでは時代が全く違います。なお、「高松寺」はWikipediaの「鎌倉市内の寺院一覧」にある寛永19年(1643)創建、日隆尼開基とある寺のことです。「関東大震災で全壊し、宮城県若柳町に移転。山門は鎌倉山の檑亭に移築された」と注記してあります。

282回 -10
日蓮宗 長興山妙本寺 鎌倉市大町1-15-1
少し北に行くと 妙本寺に出ます。
谷間のことを「やつ」といいますが、妙本寺は比企谷(ひきがやつ)を寺域としています。
鎌倉時代にはここに比企能員(ひきよしかず)一族の屋敷がありました。
比企能員は北条氏との政争に敗れ、一族は建仁3年(1203)ここで二代将軍頼家の長男の一幡とその母、若狭局(能員のむすめ)ともども滅ぼされています。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「建立は文応元年(1260)、開山は日蓮聖人、開基は比企能本(よしもと)
乱から逃れていた能員の末子の能本が日蓮上人に帰依して、この地に建てた法華堂が寺の前身といわれている。」
法華堂が建てられたのが文応元年だったようです。

また、妙本寺の公式ホームページには次のように書かれています。
「日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。」

一族を滅ぼされ、鎌倉を追われていた比企能本が鎌倉に帰ることができたのは、頼家のむすめで、後に鎌倉四代将軍藤原頼経の夫人となった竹御所(たけのごしょ)の計らいによるものだそうです。彼女も若くして亡くなり、ここに葬られました。境内の奥の檀家墓地の中に祭られています。

総門を通って緑のトンネルの先に二天門があります。

 

 

 

二天門には向かって右に矛を持つ吽像、左に金剛杵を持つ阿像ががんばっていて、寺に入るものたちをにらみつけています。この像の並びは多数例とは逆になっています。頭上の梁には極彩色を施した二匹の龍の彫刻があります。

龍の彫刻の下、仁王の間を通って境内に進みます。二天門をくぐると、右手に幼くして命を落とした一幡の墓所があり、正面にには巨大な祖師堂があります。「一幡の袖塚」といわれる一角は竹垣で囲ってあり、「源頼家卿嫡男一幡君御廟所/享和三(1803)」癸亥年三月」と彫りつけた標柱と江戸時代の五輪塔が祭ってあります。

祖師堂の横に歴代と比企一族の墓地があります。
「比企能員公一族の墓」とある標柱の奥の築石壇の上に二本の柱が立ち、向かって右の柱には「長興長榮/第四十七祖 □□日教上人福業塔」(□は読めない字)と、左の柱には「本行院日學聖人護法廟」とあります。「長興」は妙本寺、「長榮」は池上本門寺の山号です。妙本寺のHPに「妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きました」とあるので、47世日教上人が両寺の貫首をつとめていたとき(江戸時代)に、この墓地が整備されたのでしょう。また、左柱にある「本行院日学」は比企能本のことですから、ここに能本の墓もあるということでしょうか。
そして、二つの柱の間にある小型の宝塔4基が一族と能本の墓石とされているのでしょう。向かって左から二つ目だけに文字があり年号らしく見えますが、コケと破損のためによく見えません。実に残念。
傘の上には五輪塔の空風輪がのせてあり、基礎も別石ですから、傘と塔身だけが宝塔の一部ですが、積み替えられているようです。塔身に屋根型があって、日蓮宗独特の形をした珍しい塔身です。時代は室町時代のものではないかと思われます。

袖塚の後ろは妙本寺歴代の墓地のようです。
その中に、大きな五輪塔が建っています。地輪に「経 加賀太守宰相卿之/母公/壽福院殿/日榮逆修/元和第十甲子六月十二日(1624)とあります。
寿福院殿日栄は加賀藩前田利家の側室で、二代藩主利常の母だそうです。熱心な日蓮宗の信者で各地の日蓮宗寺院にいろいろなものを寄進している(Wikipedia福寿院)ので、ここ妙本寺に逆修塔を建立したのでしょう。

最後の写真は、妙本寺の拝観を済ませて、意気揚々と歩く茅ヶ崎郷土会の会員です。

 

 

 

282回 -11
日蓮宗 妙厳山本覚寺 鎌倉市小町1丁目-12-12
境内入り口に立つ説明版に次の様に書いてあります。

 

 

「建立 永享8年(1436) 開山 日出(にっしゅつ)
本覚寺のあるこの場所は幕府裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂(えびすどう)を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮上人が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝(にっちょう)が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。」

 

 

 

 

境内には名刀工正宗の墓もあります。
見上げるほどの大きさで正面に「天保乙未季秋(1835年6年9月)/五郎入道正宗碑」とあり、裏は漢文の碑文で、文字数は1000を超えているでしょう。いつか挑戦してみたいです。
山門には大きな仁王があります。ここの仁王様は恐ろしい形相をしています。

本堂裏手に日蓮上人、日出、日朝の宝篋印塔があります。その前の回廊との間では少し休めそうでしたので、昼も近く急にお腹が空いて、ここで弁当を使えればいいなぁと思ったのは、私だけではなかったようです。

 

本堂前を行く茅ヶ崎郷土会の一行。元気に歩いているように見えますが、実はおなかをすかせているのです。

 

 

 

282回 -12
日蓮聖人辻説法跡 鎌倉市 小町2-22-13-7
現地にある鎌倉市の説明版に次の様に書いてあります。
「日蓮は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。」

日蓮上人が鎌倉に来た当時、この地は天変地異や疫病に見舞われ、人々は不安と恐怖に怯えていた。これは法華経をないがしろにし、ほかのお経に帰依するからだと幕府を批判し、文応元年(1260)『立正安国論』を著したことから迫害を受けたと考えられています。
ここにある石碑は戦前に戦争批判と死刑廃止、八紘一宇を唱えた宗教学者の田中智学が整備したとのことです。
写真は辻説法跡地付近から、小町通りの南を向いて撮った様子です。下見の日の撮影です。

 

 

 

282回 -13
日蓮宗 叡昌山 妙隆寺 鎌倉市小町2-17-20
境内の説明版に次のように書いてありました。
「叡昌山(えいしょうざん)妙隆寺 建立 至徳2年(1385) 開山 日英上人 開基 千葉胤貞
この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい『立正治国論』で室町幕府六代将軍・足利義教(よしのり)の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。」

開基の千葉胤貞や開山の日英上人よりも、鍋かぶりの法難を受けた二代日親上人の方が人気を呼ぶらしく、境内には日親上人の石製坐像、卵塔形式の供養塔、五百遠忌の報恩塔、寒中の水行を積んだ池などがあります。また、小さなお堂に「鎌倉江の島七福神」の一人寿老人が、お供の鹿と共に安置されています。広島で被爆死した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の石碑もあります。

妙隆寺に別れを告げて、鎌倉駅から江ノ電で片瀬を目指しました。

282回 -14
日蓮宗 寂光山龍口寺 藤沢市片瀬3-13-37
今回のコースの最後、龍口寺にお参りし、本堂に参拝の後、五重塔も近くで仰ぎ見ました。
堂塔はほとんど江戸時代のものですが、山門、本堂などに多くの装飾彫刻が施されています。また、後で調べたところ、五重塔には宗祖日蓮の一代記が彫刻されているとのことでした。準備不足で、折角ご案内をしながらお話し出来ずに残念でした。
龍口寺に入る前、私だけでなく皆さんもお腹を空かせていたようで、とても江の島まで歩く気力が無くなり、見かけたバス通りの魚屋さんで昼食もできるとのことで、今日の最後は楽しい昼食で終わることができ、無事に帰着しました。

(この日の説明 山本会員)
(report 山本会員 平野会員)
(photo 平野会員)

 

今までおこなった史跡・文化財の調査一覧へ
フロントページへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です