八菅神社は愛川町八菅に鎮座する。八菅山一帯は修験道の聖地だった。江戸時代までは七社権現とその別当光勝寺を、本山派修験の本坊二十四坊と脇坊とで運営した。日本武尊・役小角・行基などの来山を伝える。
相模国の本山派修験は小田原の玉瀧坊の下寺が多いが、八菅修験はそれをきらい、貞享4年(1687)京都にある本山派の総本山聖護院の直末寺となった。
回峰修業は春と秋に、八菅山と大山などの峰々で行った。
明治の神仏分離時に光勝寺は廃され、七社権現は八菅神社と改称した。
神社の裏手に平安末期から鎌倉初期の経塚(きょうづか)の跡があり、発掘調査が行われ、神社は多くの出土品を蔵している。経塚は修験霊地に多いといわれる。
火祭りは毎年3月28日に行われている。私たちは平成28年の火祭りの様子を記録した。
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八菅神社 祭礼遠景
八菅神社は愛川町八菅にある。毎年3月28日に修験道様式の祭礼がある。平成28年のその日(月曜日)は、いささか肌寒い日だったが神社の桜が咲き始めていた。茅ヶ崎郷土会の一行は、この火祭りを見学するために意気揚々と茅ヶ崎を出発した。
八菅神社は茅ヶ崎から遠い。厚木からバスに乗って一時間足らずかかる。長い坂道を下って中津川を渡り、また坂道を登って修験集落だった八菅に着く。神社入り口に大幟が立っていた。しかし正面の幟の文字が読めなかった。
もう祭りは始まっていた。
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屋台のお面
キティーちゃん、ミニーマウス、ドラえもん、ウルトラセブン、アンパンマン、ドキンちゃん、ばいきんまん、メロンパンナちゃん、きかんしゃトーマス、ひょっとこ、おかめ名前が分かるのはそのようなお面。年が知れるというもの。
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八菅神社の社殿
普段は境内に人影は少ないがこの日は参詣者が引きも切らず。覆殿(屋内に七社の社殿があるので覆殿といわれる)は扉を大きく開いてあった。神仏分離前は八菅山七社権現といい、蔵王、箱根、八幡大菩薩、熊野、山王、白山、伊豆の各権現を祭り熊野を本殿としていた。
この七社を納める覆殿は慶応2年(1866)に建てられたもの。神社の「略縁起」や「勧進帳」によると、八菅山も役小角が開いたと伝え、県神社庁のホームページで八菅神社を見ると「山の丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者たちの修業道場として盛んであった」とある。このサイトによると、現在の祭神は次の7柱になっている。国常立命(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・金山毘古命(かなやまびこのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・天忍穂耳命(おめのおしほみみのみこと)
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神社裏手に経塚がある
修験の聖地には多く経塚を伴うといわれる。経塚とはお経を埋めた所をいう。平安時代に末法思想が広まり、仏の教えが消えると考えられ、この無仏の間、お経を伝えるために金属や焼き物の容器に入れて埋納した。
八菅山の経塚は昭和47年の発掘調査で17基が確認され、お経を納めた常滑製の壺などが見つかり、それらは神社境内の宝物館に収納されている。祭の日、この宝物館が開館される。
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火祭りの準備整う
火祭りは、七社権現を納める覆殿の正面の階段下の広場で行われる。この祭場をしめ縄で囲い結界することは、小田原市板橋の量覚院の火祭りと同じである。
祭場の中央に採燈護摩のために杉の葉などを山積みしてある。
階段側に供物檀が設けてあって、御神酒、餅、果物、野菜などが供えてある。その向こう側に碑伝(ひで)と思われる板状のものが立ててあるが、文字を読んでこなかったので、これがなんであるかは分からない。この供え物は、階段を上ったところに祭る七柱の神々に供えられたものだろうか。
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山伏登場
八菅神社は八菅山の中腹にある。社務所は、境内の一番下にあり、長い急な階段を上って火祭りの祭場となり、さらに階段を上って社殿に至る。
山伏の一行は、ホラ貝、鉞(まさかり)と続き、写真では分からないが横笛を吹く人もいたようだ。
量覚院では房の付いた袈裟だったが、八菅山伏の結袈裟(ゆいげさ)は房がなく、結び目になっている。ネット情報では、前者を梵天袈裟(ぼんてんげさ)、後者を輪宝袈裟(りんぽうげさ)と呼び、天台宗系本山派は梵天袈裟を、真言宗系当山派は輪宝袈裟を使うとあった。とすると、八菅修験も量覚院も本山派だから梵天袈裟になるなずなのだが。
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山伏問答
山伏問答と言えば歌舞伎「勧進帳」で、富樫左衛門と弁慶のやり取りが有名だ。
ずっと昔、山伏が諸国山野を経めぐっていたころ、別の一派が支配する土地を通過するとき、自らを明らかにするために土地の山伏との間で交わした問答に由来するものではなかろうか。これは素人考え、全くの思いつきだが。
今は祭礼の中の一コマとして演じられている。この問答を済ませてから、山伏は祭場に入ってくる。
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宝斧作法
模型の大きな鉞(まさかり)を持って護摩壇の回りを回る。鉞を持つのは、かつて山中で修行した修験者たちの日常生活に基づくものと思われる。
祭場を一巡することには、清めるという意味があるようだ。
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宝弓作法
続いて弓を用いた神事が続く。四方に向かって弓を放つ。魔を祓うという意味があるようだ。
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火をつける
聖なる火炎である。着火するにも作法があると思われるが、この日は分からなかった。
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火の前で読経
油分を含む杉の葉を山と積んで火をつける。瞬く間に燃え上がる。煙や火の粉、燃えかすが、見ている私たちを襲ってくる。
小さな錫杖(しゃくじょう)を右手で揺らし、山伏の読経が続く。
この炎が、俗世、俗人の罪 穢(けが)れを焼き尽くす。燃えろ!燃えろ!世のため人のため
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火渡り
炎が一段落すると、火の中に護摩木を投げ入れる。その護摩木もほぼ燃え尽きようとするときに火渡りが始まる。まず、剣をかざして渡る。修験者は裸足(はだし)。顔色一つ変えずに飛び込むことが良しとされる。
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参詣者の火渡り、子どもたちの火渡り
続いて参詣者が渡る。子どもたちも渡る。このお子たち、きっと強い人になることだろう。