3 秋葉山量覚院 ―小田原市

京都の聖護院を総本山とする本山修験宗(本山派)寺院。小田原市板橋にある。
火防(ひぶせ)の信仰で知られる秋葉山大権現は、養老元年(717)遠州(静岡県)秋葉山上に泰澄大師の開創といわれている。小田原城主大久保氏は代々その秋葉権現を信仰し、城主となった慶長元年(1596)に當所に勧請したと『新編相模国風土記稿』にある。
江戸時代に、量覚院はこの秋葉社の別当寺で、本山派相模本山の小田原の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)霞下だった。毎年12月6日に催される火祭りには各地の山伏が参加し、火渡りの荒行などが行われ、火難消滅や無病息災を祈願する。茅ヶ崎郷土会は、平成27年この火祭りを見学し、たくさんの画像を記録した。
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3-01 火祭り開始前の本殿参拝

俗にいう修験の火祭りは、本山派修験(天台宗系)では採燈護摩供養、当山派修験(真言宗系)では柴燈護摩供養(共に「さいとうごまくよう」)という。護摩供養は真言宗などで盛んに行われ、神聖な火炎で罪穢れを焼き尽くし、新しい力の復活を祈り、現世の利益を祈るものであり、修験道では特に力を入れて取り組んでいる。なお、量覚院は本山派に属している。
祭事を始めるにあたって、秋葉大権現に参拝する。量覚院は、神仏分離以前にはこの秋葉山大権現の別当寺であった。なお、秋葉信仰の本山の静岡県秋葉山も修験道の霊地だった。

3-02 山伏登場

ホラ貝を吹き鳴らしながら山伏が祭場に登場する。
ネット情報によれば、山伏は何事かの合図のために(例えば神事や戦闘の開始、退却など)ホラ貝を吹き、その吹き方にも決まりがあるというが、道中で吹き鳴らす場合は、その音によって道々の魔を払うという意味もあると考えられる。

3-03 祭場のしつらえ

頭上に張ったしめ縄はこの場所が神聖な範囲として区切られていることを表している。細かくはさみを入れた独特の形の紙垂(しで)を垂らしてあって、その形が美しい。祭場の中央には竹の先を六つに割って、それぞれに黄色、赤、緑、紫、青、白の色紙の紙垂を垂らす。山梨県内(例えば北杜市)などの道祖神祭の際に、これによく似たものを作ってヤナギなどと呼んでいる。サイノカミのサイト焼きと称する火祭りは修験の火祭りに共通するところがあるといわれている。
祭壇の中央には、山伏が神霊などを運ぶ、笈(おい)が置いてある。

3-04 祭礼の始めにまず修祓(しゅばつ お祓いのこと)

神道の祭事では、携わる人たちの穢れを払うお祓い(修祓)を最初に行うが、修験道でも同じである。ただ、手にするものが神道では、紙垂(しで)と麻苧(あさお)で作る大幣(おおぬさ 大麻ともいう)だが、ここで修験者が振っているのは植物の枝先か葉先のようだ。
頭につけているのは頭襟(ときん)、着ている法衣は鈴懸(すずかけ)、背中にボンボン状のものが二つ見えるが、胸にも四つ付いていて帯で繋がっている。結袈裟(ゆいげさ)と呼ばれる。これらは山伏独特のこしらえで、密教的な解釈がなされている。

3-05 献餅を搗く

お供えの餅を搗(つ)く。この間にも、修験者は数珠を繰りながら読経を続ける。
祭壇に向かって腰掛けている修験者が頭にかぶっているものは何と呼ぶものか分からないが、修験道の祖 役 小角(えんのおづぬ)がかぶっている頭巾と同じもののようだ。身に付けるものの違いが、修験者の位の違いを表しているようだ。

3-06 献餅をいただく

搗き上がった持ちを祭壇に供え、集まった人たちにも振る舞う。これも神道の神社祭礼でもよく行われることである。お供えを神様が頂かれたあと、祭に参加する全員で頂き、その御加護を願い、新たな霊力を増そうという意味がある。 

3-07 火をつける直前

量覚院の火祭りは師走6日の夜に行われている。寒い季節だが、夜の火祭りは何とも言えない雰囲気を漂わせていた。暗くなるのを待って聖なる火がつけられた。

3-08 祭場巡回

火がつくと、10人ほどの山伏がその回りを回る。先頭の数人はホラ貝を吹く。その音(ね)で魔を祓い、祭場を清める意味がある。

3-09 宝剣式舞

日本刀を振り、魔を祓い、祭場を清める。その後ろで腰掛けている修験者の姿は、まるで役 小角(えんのうづぬ)のようだ。

3-10 火踊り


頭巾をかぶり、腰掛けて控えていた山伏が、二本の松明(たいまつ)を手に登場。これを火踊りといっていいかどうか分からないが、まるで踊りのように演劇化されている。どのような意味が込められているのか、聞いてみたい気がする。この火踊りの場面は、この日のクライマックスの一つである。

3-11 火渡り

火祭りのもう一つのクライマックスは火渡りである。山伏全員が裸足になって炎が収まった炭火の上を渡る。我が身を聖なる火炎で焼くことによって、罪穢れを焼却させ、命と力を復活させる意味が込められている。
このあと、希望する一般の参加者も火を渡った。

3-12 屋台店

儀式の一つひとつに、私たち庶民にはうかがい知れない深い意味が込められているのだろう。
一方、私たちにとって祭りの魅力は別の所にある。その一つが屋台店。プラスチックの刀、ブリキの自動車、真っ赤に着色されたりんご飴、甘ったるい焼きイカ、お好み焼。屋台店独特の品々が、なんとも言えない雰囲気で私たちを呼ぶ。
息を吹き込むとくるくる巻かれていたセロファンの袋が長く伸びて、口から離すと「ビー」と音を立てて戻る。あのビーという音がいくつも重なる屋台店。

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2 日向山 宝城坊 ―伊勢原市

伊勢原市にある日向薬師宝城坊は鉈彫の薬師三尊のほか、多くの文化財を所蔵し有名である。かってここに、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)という大きな寺があって、その周辺には修験者が住まっていた。霊山寺は、僧行基の開創といわれており、霊験あらたかな薬師三尊を祭り、鎌倉武将たちの祈願参拝の記録が残る。明治の神仏分離、修験道廃止により、霊山寺も修験もなくなったが、寺の跡は今の宝城坊が継いでいる。
本尊の薬師三尊像は鉈彫りと称される技法を用いた、わが国の彫像 の中でも白眉といわれる傑作。国指定の重要文化財。また、梵鐘も国の重要文化財に指定されている。
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2-01
宝城坊の薬師三尊像
宝城坊の本尊。「日向山霊山寺縁起」に霊亀2年(716)、行基菩薩が刻んだとあり、「行者本紀」に、持統天皇13年(699)、役行者が百体の薬師などを虚空に投げたときに日向に落ちた像とあるとのこと。しかし、平安時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。鑿(のみ)あとを残す像としても有名で、脇侍の菩薩立像に顕著に見ることができる。
薬師に眼病治癒を願った相模守大江公資(きみすけ)の室、相模が平安時代に詠んだ「さして来し日向の山を頼む身は 目もあきらかに見えざらめやは」の碑を捜したが、境内の工事のために見つけられなかった。

2-02
宝城坊の山門
参道途中の、頼朝が参詣のとき衣裳を着替えたという「いしば」を過ぎ、急坂に掛かると仁王のある山門を過ぎる。ネット情報には「当初の像は天保元年に火災で焼失したが、現存する像は天保4年(1833年)に後藤慶明により復元され、明治20年代には子の後藤慶広とその長男・運久により彩色された。伊勢原市指定文化財。【Wikipedia】」とある。

2-03
本堂(薬師堂)
霊山寺薬師堂が修験だったのではなく、承仕として霊山寺に仕えていた理圓坊が本山派修験の小田原玉瀧坊の配下であると『新編相模国風土記稿』にある。同書には、このほかに12坊の名が記されている。
展示した写真は改修工事の前の撮影。平成28年10月に、展示写真撮影のため参詣したときにはまだ工事が続いていた。本堂の改修工事は平成22年11月に始められ、今年の9月末完成の予定だと宝城坊のサイトに載っている。また、同サイトに、本堂は江戸初期の建築とある。
今行われている工事は、本堂前の庭だったから予定通りに進んでいる模様。本堂の改修は終了していて、屋根は元のように草葺きだった。

2-04
本堂に掛かる「霊山寺」の額
日向薬師と呼ばれる日向山宝城坊は、今は真言宗寺院であるが、江戸時代は日向山霊山寺(りょうぜんじ)と称する大寺院だった。霊亀2年(716)行基菩薩の開創と伝えられている。
ネット情報には、「子院13坊を擁したが廃仏毀釈で多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいて、寺号は廃仏毀釈以前は霊山寺、以後は宝城坊と称するが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから、日向薬師の名で親しまれている」【Wikipedia】とある。
「霊山寺」の文字を残す額の絵は、『新編相模国風土記稿』に掲載されている。

2-05
本堂前の赤いのぼり旗
宝城坊日向薬師は昔から万病の治しで信仰を集めていた。このことは今も本堂前ののぼり旗が現している。展示した写真は改修工事前の撮影。
時は鎌倉時代、建久5年(1194)8月8日、「将軍家(頼朝)、相模国日向山(ひなたさん)に参りたまう。これ行基菩薩の建立、薬師如来の霊場なり」先陣を勤めるもの畠山重忠他13騎、中陣は梶原景時など22騎、後陣は14騎。「この御参の事、内々姫君の御祈と云々」【吾妻鏡】。なお「姫君」とは頼朝の長女、大姫のことである。

2-06
鐘堂と梵鐘
梵鐘を吊るこの建物を、鐘楼ではなく「鐘堂」と称している。そばにある説明板には「伊勢原市指定重要文化財 宝城坊の鐘堂 一宇」と銘打ってある。
その説明版に「梵鐘は暦応3年(1340)の年銘があり国指定の重要文化財」とある。さらに「最初の鐘堂(楼)は銅鐘の銘文から平安時代、天暦六年(九五二)に建造されたと考えられる。現在の鐘堂は江戸時代初期の建築とされるが、昭和五十四年度の改修にあたり宝暦十三年(1763)銘の棟札が発見された」とある。また、柱が12本あって、それは薬師を守る十二神将をあらわすとも書いてある。

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1 修験道とは

日本古来の山岳宗教が、仏教・道教・陰陽道などの影響を受けて成立・発展した日本独自の民俗宗教の一つ。開祖は役小角(えんのおづぬ 役行者)であり、彼は『続日本紀』に登場する。小角は奈良県葛城山に住んで呪法を修め、鬼神を使役したとして朝廷の命で伊豆島に流されたといわれる。
小角が修験道を開いてから、全国各地に山岳信仰の霊地が生まれた。出羽三山・日光山・白山・立山・富士山・木曽御嶽山・英彦山などである。
鎌倉時代初期には、のちに本山派となる熊野修験の教団が成立し、室町時代中期には、のちに当山派となる修験集団が発生した。その後、徳川家康の宗教政策や明治維新時の修験道廃止令で壊滅的な打撃を受けたが、太平洋戦争後は再び活況を呈している。
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1-01
役 小角 (えんのおづぬ)
修験道の祖とされて、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる。伝説に包まれているが実在の人物と考えられている。絵や彫像は、老人で岩座に座り、脛(すね)を露出させ、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履き、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と従えている。
「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」(『続日本紀』大宝元年〈701〉6月7日の条)。

1-02
役 小角の石像
役 小角(えんのおづぬ)の石像はたいへん珍しい。厚木市上荻野の荻野神社の境内に祭られているが、なぜここにあるのか理由はわからない。
年銘や文字はない。残念なことに大きく破損して補修してある。もとは右手に錫杖を持っていたと思われる。お顔は童顔で、かわいらしいところが普通の小角の像とは違っている。

1-03
代表的な修験道の聖地
修験道は深山幽谷のなかで歴史を重ねてきた。修験者(山伏)は俗人が容易には近づけない高山や厳しい自然環境の中で修行を積み、悟りを目指した。
神奈川県内では、箱根、大山、日向、八菅などが修験道の聖地だった。

1-04
神奈川県内の修験道寺院の分布
修験は深山幽谷で修業を積み、時に里に出て人々の求めに応じて験力(げんりょく・げんりき)を発揮したが、江戸時代になって幕府の統制を受け、村のなかに居を構えるようになった。幕府は、全国の修験寺院を管理するために、京都の聖護院(天台宗の本山派)と醍醐寺三宝院(真言宗の当山派)の下に本末関係を作らせた。
相模国では、本山派は玉瀧坊(小田原)などが、当山派は大験寺(現藤沢市遠藤)、瀧岡寺(現綾瀬市吉岡)などがそれぞれの派を統べていた。

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相模のもののふたち (3)三浦一族と衣笠城(横須賀市)


三浦一族は鎌倉幕府の成立に大きな働きをなし、三浦半島を本拠地に、幕府開設後も頼朝の有力御家人の一人として活躍しました。
三浦氏の系図は、桓武天皇に発し数代をおいて為通(ためみち)(初代)―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と考えられてきました。村岡の為通が前九年の合戦に参陣し、源頼義から三浦郡内の一角を領地とすることを許されて初代となったという説です。しかし最近、為通以前は三浦氏の神話の時代で、後三年合戦に名を表す為継(ためつぐ)から明確であるという考えがとなえられています。(高橋英樹『三浦一族の中世』)。
三浦氏の直系は衣笠城を居館とし、一族は三浦半島の各地を領しましたが、相模国西部にも勢力を伸ばし、義明の弟義実は岡崎(平塚市)に居を構えました。
義村は、同族の和田義盛が二代執権北条義時と勢力を争うとき北条方について、建保元年(1213)に義盛一族の滅亡を招きました。義村の子泰村は宝治元年(1247)、五代執権時頼と安達連合軍の攻撃を受けて自滅し三浦宗家は滅亡しました。宗家滅亡後は、佐原(横須賀市)に居を構えた佐原氏が継ぎました。戦国時代になって、三浦氏に連なる三浦道寸義同(どうすんよしあつ)、義意(よしおき)は北条早雲の攻撃を受けて、小網代の新井城に籠もって滅亡しました。
三浦半島の各地に残る三浦氏一族の遺跡の中には、三浦氏が関係して創設されたと考えられる寺院もあり、鎌倉時代に制作された仏像が伝えられています。
このコーナーではそのような三浦氏の遺跡と文化財を紹介します。
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3-01
衣笠城址(横須賀市指定史跡)(横須賀市衣笠町29)
横須賀市のほぼ中央部の丘陵の中に衣笠城址はある。三浦氏の祖とされる村岡為道(ためみち)が、前九年の役の功によって源頼義からこの地を与えられて三浦を名のり、その後為継(ためつぐ)(次)、義継(よしつぐ)(次)、義明(よしあき)の四代が三浦半島を経営した際の居館だった。(最近は為道を疑う説もある)。
1180(治承4)年、頼朝の旗挙げに呼応した際、ここに平家側の大軍を迎え、時の城主三浦義明は落城とともに討ち死にした。この合戦は「衣笠合戦」と言われている。
その後、鎌倉幕府が開かれてから再び三浦氏の居館となったが、三浦泰村が北条時頼との戦いに敗れて一族と最後を迎えた1247(宝治元)年に廃城となった。

3-02
城跡にある物見岩
城跡の最も高いところにあって、地面から頭を出した巨岩。衣笠合戦の折に、城主義明がこの岩に登って戦の指揮をとったという伝説がある。この巨岩は磐座(いわくら)の趣を漂わせている。

3-03
物見岩のすぐそばにある、出土遺物の碑
「大正八年十二月、陶器二個、銅筒一個、鏡一面、刀剣数口がここから発掘された。古色蒼然としていて衣笠城時代のものであることは疑われず、翌年二月に宮内省に献じた」と書いてある。
なお、これらの出土物のスケッチが、城跡の近くにある満昌寺の御霊神社社殿(宝物館を兼ねる)内に、軸装されて展示してある。撮影禁止。

3-04
衣笠城追手口あと
「追手口」は「おうてぐち」とも読み、大手口(城の正面入口)のこと。衣笠城の追手口あとが、高速道路の横浜横須賀道路と三浦縦貫道路が交差する衣笠インター入口の近くにある。コンクリートで固められた崖の縁の歩道は、進むにつれてゆるやかな坂道となり、城跡の一角にある曹洞宗大善寺に通じている。

3-05
衣笠城追手口跡の碑
巨大なコンクリートの崖の下、歩道の脇に小さな碑がある。知らなければ見落としてしまうような大きさだが、この碑があることによって、ここが城の追手口(大手口)だったことが分かる。碑には「衣笠城追手口遺址」と彫ってあった。

3-06
大善寺の不動井戸 (大善寺 横須賀市衣笠町29-1)
追手口あとから坂道を登っていくと、曹洞宗の金峯山不動院大善寺がある。説明板によると「僧行基が金峯蔵王権現と自作の不動明王を祭り、その別当寺としてこの寺を建てた」とある。衣笠城はこの寺の裏山一帯に展開していた。
寺の入口に「不動井戸」という池があって石造の不動明王が祭ってあった。「お祓いをするときに水がなくて困った行基菩薩が杖で岩を打つと清水がわき出した。衣笠城の生活用水だった」。不動明王は「三浦氏の祖、三浦為継が後三年の役に出陣したとき、敵の矢を防いでくれたので〈矢取不動〉と呼ばれる。今は寺の本尊となっている」と説明板に書いてあった。

3-07
大善寺の文化財 阿弥陀三尊像(横須賀市指定重要文化財)
境内の説明板に次の様に書いてあった。
「大善寺の本尊は不動明王となっているが、それは明治時代以降のことで、以前はこの阿弥陀三尊座像が本尊として祭られていた。像は平安時代末期(12世紀)の特色を示している。三尊像の様式は、死者の霊を浄土へ迎える来迎様式である。阿弥陀信仰は12世紀から一般化するが、この三尊像は三浦半島で最古の遺存例である。指定年月日は昭和60年4月25日」
おそらく三浦一族が、往生祈願のために祭っていた阿弥陀三尊だったのだろう。写真は説明板の写真を複写したもの。

3-08
大善寺の文化財 毘沙門天像(横須賀市指定重要文化財)
説明板に次のように書いてあった。
「製作年代は平安時代末から鎌倉時代初期と推定される。右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下を向く姿は、岩手県の中尊寺金色堂内の増長天立像とよく似ている。頼朝は1189(文治5)年の奥州合戦の折に中尊寺諸院に驚嘆し、それらを模して鎌倉に永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣しており、頼朝同様、平泉仏教文化に影響を受けたことが本像制作のきっかけになったのだろう。平泉の中尊寺金堂様式の仏像は東北・北関東に分布するが、本像はその南限に当たる。」
写真は説明板の写真を複写したもの。

3-09
大善寺門前の庚申塔群
神奈川県は庚申塔の密集地で、茅ヶ崎市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることである。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。
大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来ないが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。
向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れない。

3-10
義明山満昌寺(臨済宗) (横須賀市大矢部一丁目5-10)
山号を「義明山(ぎめいさん)」ということから三浦義明にゆかりの寺だと分かる。境内にある説明板には「頼朝の意思に基づいて三浦義明の追善のために建久五(1194)年に創建された」とある。ちなみに義明は、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの時、衣笠城に平家の大軍を迎えて城とともに討ち死にした。
また説明板には「創建時の宗派は分からないが、鎌倉時代末期に仏乗禅師 天岸慧広(てんがんえこう)が入寺し、臨済宗に改め、建長寺末寺とした。天岸慧広を中興開山とする」とある。

3-11
木像 三浦義明座像(国指定重要文化財)
三浦義明が有名なのはなぜかというと、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの際、平家の大軍が押し寄せると分かっているにもかかわらず、自分の城 衣笠城に留まり、息子の義澄などを逃がし、自分は高齢だからこの城と運命をともにするとガンバッて、落城する中で命を落としたその心意気に引かれるからである。そのとき義明は89歳。
義明の木像は、境内にある御霊神社(義明の霊を祭る。宝物館を兼ねる)内に祭られている。撮影禁止。写真は説明板にあった画像を複写したもの。
境内の説明板には「制作の時期は鎌倉時代後期と推定されている。等身大の像で、没後神格化された武人の像として重要」とあった。

3-12
伝 三浦義明の廟所(横須賀市指定史跡)
義明の木像を納める御霊神社の背後にあり、瓦塀で囲まれた中を廟所(墓)と伝えている。
寺内にある説明板「義明山 満昌寺の由来」に、「廟所は奥の院と称し三浦大介義明の首塚という」とある。
『吾妻鏡』建久5年(1194)9月29日条に「(頼朝は)三浦矢部郷内に一堂を建立すべき由の思し召しを立てらる。故介義明の没後を訪れらるため也。今日、中業(なかなり)(中原仲業 頼朝の右筆)に仰せてその地を巡検すと云々」とある。この「一堂」が満昌寺であるとは書かれていないが、前記した説明板には「当寺は、建久五年九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善のため創建されたと伝えられる。」とある。
また、鎌倉市材木座の来迎寺にも義明の墓と伝える五輪塔がある。

3-13
伝 三浦義明の廟所近景
中央に宝篋印塔、その向かって右側に、石灯籠に隠れているが五輪塔、左側に板碑が立っている。
石灯籠については、寺内の説明板に「廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したもの」とある。現地では良くは見てこなかったのだが、後に写真で見ると、その竿石正面に「享和三年四月□日」とあった。写真は「享」が明確ではないのだが、享和三年は1718年である。

3-14
義明を供養する宝篋印塔
義明の供養塔と伝えられている。下方から、基壇・基礎・塔身・笠は一具で安山岩でできている。鎌倉時代後期から南北朝時代のものと思われる。その上の九輪(くりん)は請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)とも後補か別の混入らしい。塔身の種子(しゅじ)は金剛界四仏の、阿閦如来(あしゅくにょらい)をあらわすウーン。
もとより三浦大介義明没年ころのものではない。

3-15
義明の妻を供養する五輪塔
廟所を正面から見ると、石燈籠に隠れて見えないが、説明板によると、義明の妻のものと伝えられるとある。写真で見ると地輪(ちりん)(方形)と水輪(すいりん)(球形)は一石(いっせき)のようである。火輪(かりん)(笠状のもの)は混入かも知れない。時代は分からない。その上の空風輪(くうふうりん)は室町時代末期のもので、混入したものである。

3-16
観音種子(かんのんしゅじ)の板碑
緑泥片岩(りょくでいへんがん)製の堂々とした板碑である。上部に彫ってある種子は観音菩薩をあらわす「サ」。その下の二行に渡る文字は
具一切功徳慈眼視衆生
(一切の功徳を具し慈眼をもって衆生を視(み)たもう)
福聚海無量是故応頂礼
(福聚の海は無量なり是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし)
素人なりに意訳すれば、
「観音様は大きな功徳と優しさをもって私たちに接してくださっています。観音様の救いが余すところなく及んでいる事への感謝を忘れてはいけません」。法華経の観世音菩薩普門品第二十五(観音経)の一節。
しかし、この板碑の製作年代も由来も判断がつかない。

3-17
満昌寺の文化財 木像天岸慧広(てんがんえこう)の座像(横須賀市指定重要文化財)
古い歴史を有する満昌寺にはすぐれた文化財がある。天岸慧広の木像もその一つで、寺の説明板「満昌寺の由来」に、「鎌倉時代末期に満昌寺に入り、宗旨を臨済宗に改め、中興開山」と記されている。
また別の、この像の説明板には「鎌倉円覚寺の第一座、鎌倉報国寺の開山で、建武二年(1335)に没した。像は玉眼、寄木造り像高76㎝。顔面部の個性的な風貌を写実的にとらえており、没後まもないころに制作されたものだろう。」とあった。拝観はしていない。

3-18
満昌寺の文化財 木像宝冠釈迦如来座像 (横須賀市指定重要文化財)
満昌寺の本尊。
説明板に「玉眼寄木造り。像高36.6㎝。高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただく。着衣はひだが太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北朝時代(14世紀後半)の作品」とあった。
このほか、御霊神社社殿(宝物館)内に、石造双式板碑(元応二年(1320)庚申二月日在銘)の板碑がある。また幕末―明治期作成で、雲龍・松虎・山水の絵柄のふすま絵(16面)と、神奈川県内では大変珍しい磨崖仏が、ともに横須賀市の重要文化財に指定されているが、この2件は拝観はしていない。

3-19
満昌寺山門前の庚申塔群
満昌寺の門前にもたくさんの庚申塔がある。大谷石の基壇の上に整然と並べられている様子を見ると、方々から集めたもののように思える。
三浦半島の庚申塔の、青面金剛のある塔を子細に眺めていると、三猿の所作、金剛に踏まれている邪気の苦しそうな顔つき、金剛の持物(じもつ‒持っている物)の違いなどにおもしろさをおぼえる。石工たちの遊び心を感じるのである。

3-20
近殿神社 (横須賀市大矢部一丁目9-3)
「ちかたじんじゃ」と読むようだ。境内の説明板には次のように書いてあった。
「祭神 三浦義村公
三浦義村は、三浦氏代々の頭領、三浦為道―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討ち死にしたと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。」
説明板は為道を三浦氏の祖とする説に立っている。三浦氏は、義村の子、泰村の時に5代執権時頼によって滅ぼされた。それにしても何故、義村が祭神になっているのだろうか。

3-21
清雲寺 (横須賀市大矢部五丁目9-20)
境内の説明板に次のようにあった。
「伝 三浦為継とその一党の廟所(昭和48年 横須賀市指定史跡)
清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏二代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(1939)に円通寺(廃寺=大矢部二丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。」
なお、「石造板碑 文永八年(1271)在銘」および「三浦九十三騎墓」と伝えられる石塔群も同時に移されたそうである。
諸般の事情で、茅ヶ崎郷土会の史跡巡り当日はこの廟所を見ることができなかった。
古い五輪塔や宝篋印塔を歴史上の人物の墓と称することは多くの場所で行われている。しかし実は、古代・中世の墓がどのような形態であったかはよく分かっていない。史跡の名称に「伝」を付す所以である。
文永8年銘板碑も重要文化財に指定されている。この板碑は、造立者銘と造立趣旨を刻するそうだから、特に貴重なものと思われる。

3-22
清雲寺の文化財 毘沙門天立像(神奈川県指定重要文化財)
境内の説明板に次のようにあった。
「この毘沙門天は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保元年(1213)の和田合戦の折、和田義盛のために敵の矢を受け止めたと言われ、〈矢請の毘沙門天〉と呼ばれている。像高70.7㎝の寄木造り、彩色玉眼入り。鎌倉中期以前の優作の一体である。」
清雲寺には国指定重要文化財の木像観音菩薩座像もある。当日は拝観しなかったが説明板には次のようにあった。
中国、南宋時代、江南地方で作成されたもの。京都泉涌寺の観音座像と同一。この地にもたらされたのは三浦氏が領主であった時代で、一族が滅亡した宝治元年(1247)以前。13世紀から鎌倉周辺に宋彫刻の影響を受けた仏像があるが、時代的背景を同じくするものと考えられる。」

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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