2 日向山 宝城坊 ―伊勢原市

伊勢原市にある日向薬師宝城坊は鉈彫の薬師三尊のほか、多くの文化財を所蔵し有名である。かってここに、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)という大きな寺があって、その周辺には修験者が住まっていた。霊山寺は、僧行基の開創といわれており、霊験あらたかな薬師三尊を祭り、鎌倉武将たちの祈願参拝の記録が残る。明治の神仏分離、修験道廃止により、霊山寺も修験もなくなったが、寺の跡は今の宝城坊が継いでいる。
本尊の薬師三尊像は鉈彫りと称される技法を用いた、わが国の彫像 の中でも白眉といわれる傑作。国指定の重要文化財。また、梵鐘も国の重要文化財に指定されている。
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宝城坊の薬師三尊像
宝城坊の本尊。「日向山霊山寺縁起」に霊亀2年(716)、行基菩薩が刻んだとあり、「行者本紀」に、持統天皇13年(699)、役行者が百体の薬師などを虚空に投げたときに日向に落ちた像とあるとのこと。しかし、平安時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。鑿(のみ)あとを残す像としても有名で、脇侍の菩薩立像に顕著に見ることができる。
薬師に眼病治癒を願った相模守大江公資(きみすけ)の室、相模が平安時代に詠んだ「さして来し日向の山を頼む身は 目もあきらかに見えざらめやは」の碑を捜したが、境内の工事のために見つけられなかった。

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宝城坊の山門
参道途中の、頼朝が参詣のとき衣裳を着替えたという「いしば」を過ぎ、急坂に掛かると仁王のある山門を過ぎる。ネット情報には「当初の像は天保元年に火災で焼失したが、現存する像は天保4年(1833年)に後藤慶明により復元され、明治20年代には子の後藤慶広とその長男・運久により彩色された。伊勢原市指定文化財。【Wikipedia】」とある。

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本堂(薬師堂)
霊山寺薬師堂が修験だったのではなく、承仕として霊山寺に仕えていた理圓坊が本山派修験の小田原玉瀧坊の配下であると『新編相模国風土記稿』にある。同書には、このほかに12坊の名が記されている。
展示した写真は改修工事の前の撮影。平成28年10月に、展示写真撮影のため参詣したときにはまだ工事が続いていた。本堂の改修工事は平成22年11月に始められ、今年の9月末完成の予定だと宝城坊のサイトに載っている。また、同サイトに、本堂は江戸初期の建築とある。
今行われている工事は、本堂前の庭だったから予定通りに進んでいる模様。本堂の改修は終了していて、屋根は元のように草葺きだった。

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本堂に掛かる「霊山寺」の額
日向薬師と呼ばれる日向山宝城坊は、今は真言宗寺院であるが、江戸時代は日向山霊山寺(りょうぜんじ)と称する大寺院だった。霊亀2年(716)行基菩薩の開創と伝えられている。
ネット情報には、「子院13坊を擁したが廃仏毀釈で多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいて、寺号は廃仏毀釈以前は霊山寺、以後は宝城坊と称するが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから、日向薬師の名で親しまれている」【Wikipedia】とある。
「霊山寺」の文字を残す額の絵は、『新編相模国風土記稿』に掲載されている。

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本堂前の赤いのぼり旗
宝城坊日向薬師は昔から万病の治しで信仰を集めていた。このことは今も本堂前ののぼり旗が現している。展示した写真は改修工事前の撮影。
時は鎌倉時代、建久5年(1194)8月8日、「将軍家(頼朝)、相模国日向山(ひなたさん)に参りたまう。これ行基菩薩の建立、薬師如来の霊場なり」先陣を勤めるもの畠山重忠他13騎、中陣は梶原景時など22騎、後陣は14騎。「この御参の事、内々姫君の御祈と云々」【吾妻鏡】。なお「姫君」とは頼朝の長女、大姫のことである。

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鐘堂と梵鐘
梵鐘を吊るこの建物を、鐘楼ではなく「鐘堂」と称している。そばにある説明板には「伊勢原市指定重要文化財 宝城坊の鐘堂 一宇」と銘打ってある。
その説明版に「梵鐘は暦応3年(1340)の年銘があり国指定の重要文化財」とある。さらに「最初の鐘堂(楼)は銅鐘の銘文から平安時代、天暦六年(九五二)に建造されたと考えられる。現在の鐘堂は江戸時代初期の建築とされるが、昭和五十四年度の改修にあたり宝暦十三年(1763)銘の棟札が発見された」とある。また、柱が12本あって、それは薬師を守る十二神将をあらわすとも書いてある。

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