第297回 その-1 茅ヶ崎市( 柳島から南湖)柳島善福寺から南湖院第一病舎まで 2020.01.25(土)

柳島と南湖は隣接しています。
柳島には藤間家住宅、南湖には南湖院第一病舎があって、共に国指定の登録文化財になっている、会員も多く住んでいるので、地元の協力が得やすいだろうということから選んだコースでした。
市教育委員会の後援名義を申請し、「広報ちがさき」1月1日号でPRし、20人に限って会員外の参加者を募ったところ19人の応募(3人欠席)がありました。会員は15人の参加で合計31人、茅ヶ崎市の南西部を半日歩き、神社仏閣その他の史跡・文化財を見学しました。
集合場所は、一つは駅南口の目的地行きのバス乗り場、二つ目は現地柳島の善福寺として、解散は最後の見学地の南湖仲町の八雲神社で12時半近くでした。

柳島村

柳島は江戸時代は柳島村、南湖は茅ヶ崎村の一部でした。 柳島村について『風土記稿』(雄山閣版第3巻所収)には次のように記してあります。
「この地、相模川および諸流の落口に村落をなし、水田の用水も海潮を引て耕植を助け、水溢(すいいつ)の患ももとより多し、その地形、新古相模川の二流、村の西を流れ、その間すべて河原なり、また南方は海に面し、海岸は総て砂州にて、その地に地頭林一所あり。洲觜湊口に陟出(ちょくしゅつ)せし所、眺望佳景多し。富士箱根大山近く聳(そび)ゑ、南海は渺茫(びょうぼう)として天に連れり」
柳島村は茅ヶ崎市の南西端、その西を流れる相模川を挟んで平塚市の須賀と向かい合っています。 江戸時代には、相模川を使った物資輸送の拠点で、須賀湊に対抗する柳島湊が開かれていました。

①柳島山宝亀院善福寺 真言宗
柳島1-3-28

『風土記稿』に、
「本尊阿弥陀、また不動・愛染・弘法の像を置く〈弘法の像は豆州般若院御影堂の模刻にて自作の像を腹籠とす〉、開山快盛〈寛正二年四月五日寂すと云ふ。」とあります。
「寛正二年(1461)」がそのとおりであれば、当地の寺院ではとても古い成立です。

正面にはご本尊の阿弥陀如来、その向かって右脇に、伊豆の般若院御影堂の像を写したという弘法大師坐像が祭ってあります。
善福寺は、いままでに何回かの火災にあい、ご本尊は3代目だそうです。

弘法大師像は『茅ヶ崎市史』3考古・民俗編に写真が掲載されていて次のように説明してあります。
「像高60.7センチ、寄木造・玉眼嵌入・像底を張っているので木寄せは不明。全面を古色仕上げとする。一般に見られる弘法大師とはやや異なる顔立ちをみせるが、人形化していないので、像としてはすぐれていないけれど、江戸時代初期に遡るきかもしれない。」
江戸初期の作とすると、市内では数少ない例の一つです。

木像九頭龍像

今回、善福寺さんに特にお願いして九頭龍の木像を拝ませて頂きました。 これは、昭和52年(1977)に、我が茅ヶ崎郷土会の先輩方が出版した『ふるさとの寺と仏像』に「八大龍王」として画像ともども掲載してあるものです。
八大龍王は、この九頭龍を初め8体の龍族の代表からなり、仏教の守護神となっています。
源実朝の有名な歌「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」にもあり、茅ヶ崎では主に豊漁をもたらす神として、海岸に点々と6ヶ所に7基の石碑が祭られています。

九頭龍神は箱根神社にも祭られていて、芦ノ湖に住むと言われています。
善福寺に祭られるこの像は、上段に四頭、下段に五頭があり、下段の中央の竜頭は他より大きく作られています。
金泥が厚く塗られていて、実態が見えにくくなっていますが、江戸時代後期から明治時代の制作と思われます。

境内に「ある相模国準四国八十八ヶ所」の弘法大師像が二体並んで居ます。
 準四国札所38番善福寺のものと、廃寺の同39番札所地蔵院にあったものです。
前に、それぞれの説明石碑があり、①の裏に善福寺、②の裏に地蔵院と刻してあります。
どちらかの大師像と②は地蔵院から移されたものです。
大師像右が善福寺の、左が地蔵院のものと解釈されているようですが、実は、大師像と説明石碑の位置は対応しているかどうかは分からないのです。

②柳島八幡宮

柳島2-3-10

柳島の本村(ほんむら)の鎮守。
拝殿の脇に建つ説明板におおよそ次のように書いてあります。
・現在の祭神は誉田別尊(ホムタワケノミコト、応神天皇)。
・文政5年(1822) 関東大震災時に倒れた鳥居が造られた。(鳥居の年銘による)
・天保12年(1841) 『新編相模国風土記稿』に、「十羅刹女社 鎮守なり」とある。
・嘉永元年(1848) 柳島の鎮守として、鎌倉郡邨岡郷高谷村(現在藤沢市内)の大工文蔵が、総工費29両で社殿建立を受け、同年11月15日に竣工した。(藤間家資料による)
・大正12年(1923)9月1日 関東大震災のため全壊した。
・大正15年(1926) 当時の区長の片野荘太郎は、神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決めた。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡相川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿に竣工した。
・昭和20年(1945)7月16日 太平洋戦争の平塚空襲の際に火災にあって全焼した。
・昭和24年(1949) 千葉県市川市行徳関ヶ島の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調した。
・昭和32年(1957)11月23日 氏子をはじめ多くの寄付を得て、社殿を建立した。大工は石井幸三郎、府川篤、木彫師は江口裕康など。
・昭和50年(1975)5月4日 奥殿を再建した。大工は石井幸三郎、府川篤など、鳶職は山口道雄など。現在に至る。    (平成30年3月吉日 柳島自治会 柳島八幡宮)

拝殿の彫刻
茅ヶ崎あたりの神社では、多くの場合、向拝(こうはい=拝殿への入口)の上部に彫刻を施してあります。絵柄は、その神社の祭神に関係する場面が多いようです。八幡社(宮)の祭神は多くは誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)と神功皇后になっています。
柳島八幡宮の絵柄は、武装した神功皇后と、皇后から生まれたばかりで産着に包まれた誉田別命を抱く武内宿禰(たけしうちのすくね、神功皇后の功臣)です。皇后が武装しているのは新羅を攻めて帰着したときの姿だからです。
彫刻が作られたのは、空襲で焼けた社殿を再興した昭和32年(1957)、その作者名は、彫刻の裏に「江口裕泰」と彫ってありますが、どういう彫刻師かは分かりません。 (参考文献 茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』18号所載の平野文明「神功皇后の新羅侵攻」。同資料館のHPで見ることができる。)


万治三年(1660)銘の庚申塔
境内には見るべき石仏がたくさんありますが、標記の庚申塔を紹介します。
境内の裏手に石仏を一列に集めてあり、その向かって1番右手のものがそれです。
三つの種子とたくさんの漢字がありますが、彫りが浅くとても読みづらいです。判読は昭和50年(1975)ころ、郷土会会員だった故天ヶ瀬恭三さんが読んだ成果が今も踏襲されています。[資料館叢書3『茅ヶ崎の庚申塔』(茅ヶ崎市文化資料館1977刊)に発表、後にそれを補完して同叢書13『茅ヶ崎の石仏1 鶴嶺地区』(2015)に収録]
種子のほかに5行の銘があり、次のとおりです。
(種子) バン(大日を表す)・ア(不明)・ウン(青面金剛)
万治三年相州柳嶋村施主/啓白
厥庚申者半夜凌睡眠離生死當夜
如等所行是菩薩道漸々修覚悉/當成佛
□□善男善女集数年庚申奉/待
子二月吉日 本願善福寺隆真
(万治3年は1660年。銘文最後にある「隆真」は『柳島の移り変わり』(柳島自治会・五三会1990刊)のp20に善福寺2代とある)
この塔は市内では8番目に古い年銘を持ち、傷みはなく、銘文も研究の余地を残している重要なもので、文化財に指定される価値を十分に持っています。


③民俗資料館藤間家住宅

柳島2-6-30
柳島の本村(ほんむら)の一角に藤間家住宅はあります。 故藤間雄蔵さんは先に亡くなられた父善一郎さんともども、茅ヶ崎の郷土史に詳しく、旧家藤間家に伝わる数多くの文化財と歴史史料を管理されていましたが、晩年に屋敷地と住宅、文化財などを茅ヶ崎市に寄贈されました。 屋敷跡は茅ヶ崎市の史跡に、屋敷林は保存樹林に、住宅は国の登録有形文化財の指定を受け、今は市教育委員会が管理し、民俗資料館として公開されています。





東に向いた玄関とその付近
玄関の面の作図
南面の様子 画面右手の松の根元に井戸がある。
南面の作図(作図は敷地に立つ説明版から)

昭和7年(1932)藤間家住宅建設される
平成25年(2013)3月 屋敷跡が「藤間家(近世商家)屋敷跡」として市の史跡に
平成26年(2014) 屋敷林が市の保存樹林に
平成27年(2015)3月26日 住宅が国の登録有形文化財に
平成29年(2017)7月 敷地3,898平方㍍と住宅、文化財や歴史史料が茅ヶ崎市に寄贈される
平成30年(2018)4月13日 民俗資料館 旧藤間家住宅として一般に公開される

藤間柳庵
藤間家住宅でもう一つ特質すべきは、かつての藤間家の主、藤間柳庵のことです。
柳庵の本名は善五郎で、享和元年(1801)生まれ、明治16(1883)に没しました。
柳庵についてはいろんなところに解説されていますが、ここでは、柳島八幡境内にある「藤間柳庵之碑」の銘を掲げておきます。
「 藤間善五郎翁は享和元年(一八〇一)相模国高座郡柳島村に生まれ、青潭と号しまた柳庵と称した。翁は多年柳島村名主役を勤めて村政に尽力し村の繁栄をはかった。一方家業の農業と廻船業を隆盛にして物資流通の重要な中継地柳島湊を中心とする近郷の経済的発展に貢献した。また傍ら学問に志して多くの詩文句歌記録を留めとりわけ雨窓雑書十編 太平年表録七編 年中公触録七編等は翁の流麗な書風をもってその学芸の一端を示すとともに明治維新期の激動する世相を活写して後世に遺した。翁は郷土の卓越した指導者でありまた当時の地域文化の一高峰であった。明治十六年(一八八三)翁は八十一歳で柳島村に没した。昭和五十五年神奈川県は翁を歴史上の人物「神奈川の百人」のうちに選んだ。いま翁の没後百年にあたりその遺徳を敬慕する者、相はかりここに碑を建て翁の事蹟を顕彰して永く後世に伝えるものである。   昭和五十八年十一月 川城三千雄文 茅村水越咲七書 」(裏面に「昭和五十八年(一九八三)十一月建之  柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店」とある)

住宅南面の写真に見える井戸
庭に井戸の跡が残されています。
この井戸を掘った様子を、柳庵は『雨窓雑書』に詳しく書き残しています。活字化されて茅ヶ崎市から刊行(茅ヶ崎市史史料集7集-1『藤間柳庵「雨窓雑書」』上)されているので読むことができます。それには、
「万延元年(1860)5月25日、屋敷の申酉の方位(西より)に掘り抜き井戸掘り始めた。翌年の文久元年(辛酉)12月8日の酉の刻(17~19時ころ)水が吹き上がった。そこでこの井戸を三酉水と呼ぶ。」と記されています。
柳庵は掘り方も記録しています。江戸末期に上総地方で始められたという上総掘りを使っており、上総掘り初期の工法であることがわかります。
柳島ではこのあと何軒かが同じような井戸を掘り、湯屋を開いています。「三酉水」も隣の藤間姓の家が利用して「藤間温泉」を開きました。(『郷土ちがさき』147号の杉山全「柳島の湯屋四例」参照)

④旧南湖院第一病舎(竹子室)

南湖七丁目12869-201
明治時代の後半期から昭和20年の太平洋戦争終戦のころまで、南湖の一角に、広大な規模を構えた結核療養所の「南湖院(なんこいん)」がありました。
その第一病舎が今も残り、国の有形文化財に登録されています。第一病舎は「竹子室」とも呼びますが、竹子とは、南湖院の創設者の高田畊安の母の名前です。 この第一病舎は、茅ヶ崎市のHPに次のように記してあります。
「明治32年に建築された敷地北寄りに立つ、二階建ての木造の建物です。外壁は下見板張で上下窓を並べ、二階窓にはペディメントが設けられています。北面に切妻屋根の玄関部、西面に階段室が設けられています。開口が多く採光通風に配慮されている、療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟です。
南湖院は明治32年に医師高田畊安が開設し、大正期には第11病舎まで建築され、東洋一の結核療養施設とうたわれました。」

第一病舎竹子室 北側にある玄関部分
遠景 東側部分

高田畊安と南湖院については『ぶらり散歩郷土再発見』(塩原富男著2012年改訂版茅ヶ崎市教育委員会刊)に次のように記してあります。
「県立西浜高校、有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の郷の辺り一帯には、かつて東洋一の設備と規模とうたわれた結核療養所南湖院があった。現在は、第一病舎が国の登録有形文化財になっている。
南湖院は、医師高田畊安(1861~1945)が開設した。畊安は京都府加佐郡中筋村(現・舞鶴市)で生まれ明治29年(1896)東京の神田鈴木町に東洋内科医院を開業した。新島襄に師事してキリスト教の洗礼を受け、明治25年(1892)に勝海舟の孫娘にあたる疋田輝子と結婚した。結核で兄を失い、自分も同じ病気で転地療養をした体験から、結核の治療に生涯をかけた。
明治31年(1898)茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設した。開院以来、順次拡大整備され、最盛時は約4万坪とも5万坪とも言われる敷地に、多くの患者がいたと言われている。療養生活を送った人々の中に、国木田独歩など多くの著名人がいる。」

年表式にまとめると次のようになります。
明治31年(1898)高田畊安、茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設。
明治32年(1899)9月 第一病舎新築竣工
昭和20年(1945)高田畊安死去 海軍により南湖院を接収。
昭和21年~32年は米軍の接収(太陽の里のHPから)
昭和54年(1979)有料老人ホーム「太陽の郷」が開設される。(太陽の里のHP)
平成27年(2015)12月10日、第一病舎、市に寄贈される。
平成28年(2016)4月、茅ヶ崎市と太陽の郷は、第一病舎を核とする「南湖院記念 太陽の郷庭園」を般公開。(太陽の里のHP)
平成30年(2018)3月 南湖院第一病舎が国の登録有形文化財に登録された。

旧南湖院の一部が「有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の里」になっていて、その庭園部分が公開されている。
私たちは、上の図に朱字で示したところを見学した。
昭和11年(1936)測量の南湖院平面図に、訪ねたところを落としてみた。
南湖院時代から残る「丸池」と藤棚。庭園内を太陽の里の理事、神奈川一郎さんに案内して頂いた。
北からの進入路にあった門柱の跡。
高田畊安の碑 昭和13年(1938)5月建
裏面 母竹子、妻輝子(勝海舟の家系を引く)などの名がある。

この続き、297回 その-2(南湖の住吉神社と八雲神社)はこちら

report 平野会員
photo 前田会員・平野会員

297回「柳島から南湖」その2へ

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テキスト 297回 茅ヶ崎市内の史跡・文化財めぐり(柳島から南湖)-2020年1月25日(土)実施

令和2年(2020)1月25日(土)、茅ヶ崎市柳島(江戸時代の柳島村)から南湖(同茅ヶ崎村の一部)までをめぐりました。
ここに掲載するテキストは、参加者に当日配布したものを、さらに修正したものです。
次の文献などから引用し、参照しています。

・大日本地誌大系21『新編相模国風土記稿』第3巻昭和47年(1972)雄山閣刊
・資料館叢書4山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』昭和53年(1978)茅ヶ崎市文化資料館刊
・資料館叢書10塩原富男『茅ヶ崎の記念碑』平成3年(1991)茅ヶ崎市文化資料館刊
・資料館叢書11『南湖郷土誌』平成7年(1995)茅ヶ崎市文化資料館刊
・茅ヶ崎市史史料集第3集『茅ヶ崎地誌集成』平成12年(2000)茅ヶ崎市刊
・『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』18号 茅ヶ崎市文化資料館平成26年(2014)9月刊(市文化資料館のHPに掲載)
・ちがさき丸ごとふるさと発見博物館ガイドブック(文化財編)塩原富男著『ぶらり散歩 郷土再発見』平成24年(2012)改訂版
・資料館叢書13『茅ヶ崎の石仏1―鶴嶺地区』平成27年(2015)茅ヶ崎市文化資料館刊
・『郷土ちがさき』139号平成29年(2017)5月茅ヶ崎郷土会刊(郷土会のHPに掲載)
・資料館叢書14『茅ヶ崎の石仏2―茅ヶ崎地区』平成30年(2018)茅ヶ崎市文化資料館刊

表紙に掲載のコース図は、国土地理院の電子地形図1/25000を使っています。

下段のテキスト表紙をクリックするとPDFファイルが開きます。

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テキスト 296回 史跡・文化財めぐり「海老名市に相模国分寺跡と海老名氏の遺跡を訪ねる」2019.11.16〈土〉実施

 通算296回 茅ヶ崎郷土会史跡・文化財めぐりのテキストを紹介します。
テキストに引用したのは
ウォーキングガイドブック 海老名文化財散策『自然と歴史の散歩道』(海老名市教育委員会平成18年刊)
『新編相模国風土記稿』(雄山閣出版 大日本地誌大系本3巻)
『日本歴史地名大系』14神奈川県(平凡社)
 海老名市国分・川原橋の寺社などに立つ説明板の解説
 海老名市温故館配布のカード版「えびなむかしばなし」 などです。
表紙のコース地図は、国土地理院の1/25000電子地形図を使っています。
なお、縦書きの8~16頁は最終頁からさかのぼって見て下さい。

下段のテキスト表紙をクリックするとPDFファイルが開きます。
当日は参加者に印刷版を配布しますが、下段のPDFファイルをプリントアウトするほうが鮮明なテキストを得ることができます。

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第294回 横浜市(神奈川県立歴史博物館ほか、及び中華街) 2019.07.03(水)

令和元年(2019)7月3日〈水〉、横浜市中区にある博物館施設などと中華街を訪ねました。
茅ヶ崎郷土会は、毎年5~6回の史跡文化財めぐりを行っています。
山本会員が、横浜市中区にある神奈川県立歴史博物館でボランティア解説員を務めているので、解説を受けながら館内を見学しよう、合わせて近くにある他の施設も見学したい、また中華街でランチというのもいいじゃない!という意見から生まれた企画でした。
なお、この日の様子は当会の会報『郷土ちがさき』146号(22頁)に、山本会員の筆で報告されています。

桜木町駅で下車し、弁天橋を渡り、番号の順に回りました。
桜木町駅を出るとすぐに、大岡川に架かる弁天橋を渡ります。橋の上から大岡川の下流方向(北)を撮影しました。
画面左手向こうに横浜ランドマークタワーがそびえ、川の右手は建設工事中の横浜市役所です。
横浜市役所の建設工事は終盤に入っているようでした。

① 神奈川県立歴史博物館

横浜市中区南中通5-60
昭和42年(1967)に旧橫濱正金銀行本店の建物を使って、神奈川県立博物館が開館しました。
人文系と自然科学系の総合博物館でしたが、平成7(1995)に自然科学系が小田原市に生命の星地球博物館として独立し、今は歴史博物館として運営されています。
3階建てで、その3階にテーマ1の古代とテーマ2の中世、2階にテーマ3近世と4近代と5現代・民俗の常設展示があり、1階には特別展示室とコレクション展示室その他があります。
これらを全て見学するにはとても時間が足りないので、テーマ5ははぶいて、その上に、大急ぎで回る見学になりました。

歴史博物館の正面入口
玄関の階段下に錆びた大砲が飾ってあります。
説明板には、ロシア製で、江戸末期に横浜港にあったスイスの商社が碇として販売しようとしたもの、と書いてありました。
横浜開港は、神奈川県にとって重要な歴史の一コマで、博物館でも大きく扱っているテーマです。

広い館内展示は短い時間では回りきれるものではありません。
古代から近代まで続く展示物の中から、横浜開港に関する展示を少しだけ紹介します。
一号機関車の説明板
開港当時の横浜港の中心部分を再現したジオラマ。
このホームページ冒頭のコース図と見比べて下さい。向こうが東北方向で海。
日本大通り、横浜県庁は今も同じ位置にあります。
そのジオラマの反対側。海側から見た様子です。
館内の写真撮影は可。ただフラッシュと三脚の使用はダメ。また博物館所蔵以外の資料も撮影は禁止されていました。
博物館の裏口
実はこの面が橫濱正金銀行本店だった時代の正面で「旧館部分」と呼ばれています。今の博物館の正面は増築された部分です。屋上にそびえる巨大なドームを「エースのドーム」と呼んで、神奈川県庁本庁舎の塔などとともにPRに力が込められています。
建物のそばの通りに立つ説明版

パンフレットに次のようにありました。

旧館部分は横浜正金銀行本店として明治37(1904)年に竣工し、今は国の重要文化財と史跡に指定されている。設計者は妻木頼黄(よりなか)。 地上3階、地下1階建てで、正面の巨大ドームが特徴とされていた。 大正12(1923)年9月の関東大震災には内装とドームを焼失したが、復旧工事を行い戦後まで銀行として使われていた。このときドームは撤去された。 昭和42(1967)年に神奈川県立博物館として開館するとき大がかりな改修工事を行い、ドームも復元された。 平成7(1995)年に神奈川県立歴史博物館となったときに建物全体がニューリアルされた。

横浜開港まえと開講後の変化

巨大都市横浜ですが、江戸時代は海に面した砂州の上に展開するごく小さな「横浜村」でした。 
『新編武蔵風土記稿』の横浜村の項には、江戸時代後半期の様子が次のように書いてあります。
民戸八十七、東北は海岸に沿い、西は「洲乾(しゅうかん)の湊」、水田少なく陸田多し。
洲乾湊、村の西北なり。東西十二丁(約1,300㍍)、南北四丁(436㍍)余りの入江にて、当村及び戸部村、吉田新田などにかかれり。古(にししえ)は、いと広きにて船かかり良かりしが次第に干潟となり、若干の田地となれり。

元禄のころの様子をあらわした絵図で、『新編武蔵風土記稿』久良岐郡に掲載されています。
方向や村の位置は現実離れしていますが、横浜村が海の中に突き出た半島上にあったことが分かります。
半島の先に弁才天が祭られていました。また、半島の西側には「志うかん湊」と書かれた「洲乾の湊」の入江です。この入江は後に全て埋め立てられて、今は横浜の市街地になっています。

横浜村の先にある「弁才天」は『武蔵風土記稿』に次のように書いてあります。
洲乾の出洲にあり。土人清水弁天と呼ぶ。村の鎮守なり。社中には前立の像のみを置き、神体は元禄中より別当、増徳院境内の仮殿に安んじ、彼の所にては杉山弁天と唱う。この社地(清水弁天のこと)は海面に望み、勝景の地なれば、遊客、神奈川駅(神奈川宿のこと)より乗船して至る者多し。
雄山閣版『武蔵風土記稿』4巻の81頁には、次のような清水弁天の望遠図が掲載されています。

海から西を望んだ図となっていますので、弁天社の向こう側一体に広がる入江が洲乾湊です。
のちにこの入江は全て埋め立てられます。
東海道の神奈川宿の辺りの上空から横浜村の半島を望むと、このように見えると想定したのでしょう。
半島の先に弁天社があります。
現在ある弁天橋や弁天通はこの弁天社にちなむものです。
幕末になってこの横浜村に港が開かれ、今は横浜市中区となって、県庁や横浜市役所などがあります。
明治5年(1872)測量の横浜市街地図

横浜開港は嘉永6年(1853)ですから、開港後19年を経た頃の様子です。
洲乾湊は、江戸時代から続けられた埋め立てが終了しています。
この地図の弁才天の辺りから中華街の辺りまでに横浜村の半島がありました。

諸外国に開国を迫られた幕府が、なぜへんぴな横浜村に港を作ったかということについては、この横浜めぐりを担当した山本会員が書いた文章があるので、次に引用しておきます。
 今回訪れた横浜市中区は、行政官庁が集中する市の中心部ですが、江戸時代は砂州の上にある寒村でした。一方、この村の北方には東海道の神奈川宿がありました。港が、神奈川宿に設けられず、なぜ横浜村に設けられたのかについて、県立歴史博物館の「浜浮世絵展」に分かりやすい説明があったので、それを次に要約しておきます。
 港は、日米修好通商条約により、安政六年(一八五九)に開港しました。今年は開港百五十周年です。
 米・英・仏などが「港は神奈川宿に」と、そこにあるお寺に領事館を置いたのですが、江戸幕府は「東海道は危険であり、砂洲の上の横浜も神奈川である」として、何もなかった横浜村に建設をはじめました。道もない所に横浜道を造り、砂洲の内側(西側)を埋め立てて、海に向かってコの字に川を掘り、開港地を出島のように造ったのです。正に横浜は幕府が造った傑作です。浮世絵には、野毛の切通し(横浜道)から横浜を見てびっくり仰天する人が描かれています。初代英国公使オールコックは「魔法使いの杖の一振りで開港地ができた」と言ったそうです。日本大通りを境に、海に向かって右側に外国人居留地、左側に日本人町と分けて計画的に港町が造られていきました。
(「郷土ちがさき」146号-2019年9月1日発行- 元の文章は縦書き)

②開港記念会館

横浜市中区本町1-6

次の見学地の横浜市開港記念会館をめざして歩く茅ヶ崎郷土会の一行
横浜県庁本庁舎の屋上から開港記念会館を見下ろした図です。
建物全体は赤煉瓦で統一されています。
塔屋は「ジャックの塔」としてPRされています。

「町会所」の説明板に、この地には横浜開港当時から明治初年まで、越前藩が経営する「石川屋」という生糸商があり、そこの岡倉勘右衛門を父として後の岡倉天心が生まれた、と書いてありました。「岡倉天心誕生之地」の碑文も立ててあります。

この説明板と開館で配布されているパンフレットを読み合わせると、経過は次のように移ったようです。
明治7年(1874)に、石造り2階建ての建物が建てられて、横浜市政施行の同22年(1889)まで、町政を執る「町会所」として使われた。
明治23年(1890)、「横浜貿易商組合会館」と改称し、さらに「横浜会館」と改められたが、同39年(1906)焼失した。
明治42年(1909)、その跡地に、横浜開港50周年を記念して「横浜市開港記念会館」建設が決定した。大正6年(1917)竣工・開館したが、同12年(1923)の関東大震災でドームと内部を焼失した。
昭和2年(1927)ドームを省略して再建。
同20年(1945)~33年(1958)、米軍が接収。
同53年(1978)改修工事。ステンドグラス修復。平成元年(1989)市政100周年、開港130周年記念でドーム復元。国の重要文化財に指定。
平成21年(2009)、開港150周年記念で2階広間のステンドグラスを修復。


「町会所」は聞き慣れない言葉ですが、「町政を執った」とありますので、町役場のようなものだったのでしょう。

記念会館ご自慢のステンドグラス その1 貴賓階段室にある
パンフレットによると帆船はポーハタン号(黒船の一隻)だそうです。
その2 2階広間のステンドグラス
多摩川・相模川などの渡し場を現したものでしょうか。
その3 2階広間のステンドグラス
箱根の山越え。

その4 2階広間のステンドグラス 鳳凰
2階広間はこんな風になっています。
撮影しているのは茅ヶ崎郷土会の会員

③神奈川県庁 本庁舎

横浜市中区日本大通1

縣廳 の字体が面白い

パンフレットに次のように書いてありました。

構造 鉄骨鉄筋コンクリート造り 5階、地下1階(塔屋は9階)
設計 原案は小尾嘉郎(おびかろう) 竣工 昭和3(1928)年10月 (国登録有形文化財) 関東大震災後の昭和3(1928)年に四代目の神奈川県庁舎として建てられた。 コンペに応じた小尾嘉郎の案を県の建築技師らが実施設計した。 建物屋上中央にシンボルとして塔屋が設けられている。この塔屋は五重塔をモチーフにしたと伝えられている。
初代 慶応3(1867)に建てられた神奈川県横浜奉行所の建物を継承して使われたが、明治15(1882)年に焼失。
二代 明治6(1873)年に設計され、現在の県庁舎所在地に横浜税関として建てられたものを、県が譲り受けて1883年から明治42(1909)まで使われた。
三代 現在の所在地に大正2(1913)年竣工。フランス風ネオ・バロック様式の壮麗な建物だった。大正12(1923)年の関東大震災で内部が全焼したので取り壊された。
四代目の現庁舎は「船舶出入ノ際、港外ヨリノ遠望ヲ考慮シ成ル可ク県庁舎ノ所在ヲ容易ニ認識シ得ル意匠」が求められ、塔屋の設置が考慮されていた。アールデコ風の意匠が各所に用いられ、例えば宝相華のデザインをタイルやシャンデリア、階段の手すり、時計文字盤などに見ることができる。

屋上の塔屋を「キングの塔」と呼ぶそうです。

また、このパンフレットには、
6階の歴史展示室と屋上は、開庁時間中、自由に見学できる。 知事室、旧貴賓室、旧議場などは随時公開しているので県のホームページ等で確認して下さい。
とも書いてあります。
私たちも庁舎内に入り屋上に行ってみました。

廊下はいささか狭いなという感じでしたが、きれいでした。
宝相華をデザインした階段手すり上の装飾灯。

神奈川県が自慢するだけに、クラシックな建物はすばらしいものでした。
時代を感じさせたのは一つ、エレベーターが狭く、3人も乗れば満員というものでした。
ちょうど昼休みを迎えた職員は階段を使っていました。
職員は乗ってはいけなとされているのでしょう。
私たちはそのエレベーターで屋上に出ました。

大桟橋埠頭に、日本で造られたという大型客船、ダイヤモンドプリンセスが停泊していました。
その手前、横に伸びているのは「象の鼻防波堤」です。
屋上からはすぐ近くに横浜税関の塔屋が見えます。これはクイーンの塔としてPRされています。
横浜税関は今日の五番目の見学場所です。
その向こうに赤煉瓦の倉庫群が見えます。
ヨコハマみなとみらいのシンボル、ランドマークタワー。
それらを楽しみながら本庁舎屋上を逍遙する、郷土会の会員。

④横浜開港資料館

横浜市中区日本大通3

見上げて撮影したのでゆがんでいます。

私(編集者)はこの施設にはじめて入りました。
帰宅してから、資料館のホームページを開いてみましたところ、次のように説明してありました。

浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。当館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。日米和親条約締結後、日本の国際化は急激に進みましたが、1859(安政6)年には横浜が開港し、この町は日本を代表する貿易都市になりました。当館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっています。

横浜市史編纂の過程で収集された資料であれば膨大な数になり、また貴重なものが揃っていることでしょう。

これが日米和親条約締結の時からあるという「たまくすの木」だそうです。
どこかの小学生たちが大勢で見学していました。皆さん、いっしょうけんめいにノートしていました。
それから、今年2019年まで166年も経っているのです。
「たまくす」を調べてみると「タブノキ」のことだとありました。
タブノキなら茅ヶ崎にもたくさん生えています。ただ、茅ヶ崎のタブノキは、条約ともペリーさんとも関係はありませんが。
「たまくすの木」のそばにあった説明板です。
たまくすの木の説明板のほかに、有名なこの絵もパネルにして立ててありました。
画面の右端に見える木が、今もある「たまくすの木」だそうです。
「あんたたちが立っているここにペリーさんが来たんだぞー。どうだ。」というような感じです。
吉田新田を説明するときによく使われるこの2枚の絵図も開港資料館の収蔵資料であることが分かりました。
たまぐすの木のそばに立ててあった説明板です。
絵図の文字はぼやけて読めなかったので、編集者が活字を加えました。間違っているかもしれません。
この館内図も設置されていたものを撮影したものです。
私たちは「現在地」と書いてあるところから入館し、左に折れてたまくすの木を見て、「正面入口」から退出しました。
展示室や閲覧室があることも帰宅してから知りました。
ただ、訪れた日は、先を急がなければならず、知っていても寄ることが出来なかったはずですが。

⑤横浜税関

横浜市中区海岸通り1-1

横浜税関の建物です。

建物の屋上に緑色のドームのある塔屋がそびえています。この塔を「クイーンの塔」と呼ぶそうです。

税関のHPに次のように説明してあります。
「クイーンの塔」の秘話
関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。 昭和7年第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められた。この時、“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”が港ヨコハマの高層建築物であった。 塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成した。


横浜税関の現在の建物は昭和9(1934)に竣工したそうです。

横浜税関は全国に九ヶ所ある税関の一つです。
この建物の中に、密輸品、麻薬、偽物・本物などが展示してありました。

入口で入館者を迎える黄色のワンちゃんは、カスタム君という名のイメージキャラクターなのだそうです。麻薬探知犬がモデルと、税関のHPにありました。
資料展示室の一角です。
「偽物・本物コーナー」ではどっちがどっちか、私たちには分かりませんでした。
横浜開港資料館の庭に立ててある説明板です。
撮影された時期が書いてないのですが、説明文中に「1885年(明治18年)に立てられた横浜税関も、赤レンガづくりでした」とあるので、関東大震災以前の建物です。
また、所在地も日本大通りの突き当たりになっていて、現在とは違います。
しかし、塔屋を備えていたことは共通しています。

日本大通り

日本歴史地名大系14『神奈川県の地名』(平凡社刊)の日本大通りの項目にはおおよそ次のように書いてあります。
慶応2年(1866)の大火で運上所・町会所・神奈川奉行同心番長屋・調役並定役役宅・通詞住宅などを全焼した。この大火を契機に大規模な区画整理が行われた。延焼防止のために外国人居留地と日本人居住区の中央に海岸より公園(遊郭跡に造った公園。現在の横浜公園。)まで歩道と街路樹を植えて下水を完備することとした。そして中央車道10間、歩道・植樹帯各5間の全幅20間(36㍍)の大通りが明治8年(1875)に完成し、日本大通りと命名された。

日本大通りの北側の端。この向こうは海になります。
かつてここに横浜税関がありました。
その反対側。街路樹はイチョウ。
向かって右側は神奈川県庁の庁舎。
この大通りの突き当たりは横浜公園。

⑥中華街

横浜市中区山下町の一角 今日の最後の訪問地です。

横浜中華街について、日本歴史地名大系14『神奈川県の地名』(平凡社刊)から、途中を省略しながら引用しました。

中国人は開港当初は欧米商人の商館内に住み込む者が多かったが、文久元年(1861)に横浜新田が埋め立てられて居留地が拡張されると、新しい埋め立て地に居住する者が多くなり市街地化された。初め南京町とよばれ、第二次世界大戦後は中華街とよばれている。 中国人の集団的居住は欧米人との言語・風俗・習慣・生活様式の相違によるものである。
中華街の中央に中国人の鎮守、関帝廟がある。明治6年(1873)に建設された中華会館に「三国志」の武将関羽を祀ったことに始まる。正面に石彫の獅子一対を配し、白壁に朱柱の本堂には中央に関聖帝君、左側に地母娘娘(注 日本流に読めば「ちぼにゃんにゃん」でしょうか?)、右側に観音菩薩を祀る。

私たちは日本大通りから東南方向に歩き、東からの朝陽門から中華街に入りました。

さて、中華街での目的はお勉強ではなく、お食事です。
入ったお店は 元祖シュウマイの店 順海閣(横浜市中区山下町147)
茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりを、山本会員と一緒に担当している尾高会員が、高額でもなく、安かろうまずかろうでもない店を探し当てたものでした。

順海閣の看板料理
さすがに味もボリュームも言うことなしでした。
これに生ビールと紹興酒、スープほか何点かと最後にチャーハンが来ました。

食事のあとは関帝廟のおまいり
そして記念撮影

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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テキスト 295回 戸田の渡しを訪ねる(海老名市門沢橋・厚木市戸田)-9月28日〈土〉実施

茅ヶ崎郷土会 史跡・文化財めぐり通算295回「戸田の渡しを訪ねる」で用いたテキストを紹介します。
資料としたのは
『海老名市史7』(2001年海老名市刊)
『新編相模国風土記稿』(雄山閣出版 大日本地誌大系本3巻)
『角川日本地名大辞典』14神奈川県(角川書店刊)
海老名市門沢橋・厚木市戸田の寺社などに立つ説明板の解説 などです。
表紙のコース地図は、国土地理院の1/25000電子地形図を使っています。

なお、縦書きの14~16頁は最終頁からさかのぼって見て下さい。
下段のテキスト表紙をクリックするとPDFファイルが開きます。

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