第294回 横浜市(神奈川県立歴史博物館ほか、及び中華街) 2019.07.03(水)

令和元年(2019)7月3日〈水〉、横浜市中区にある博物館施設などと中華街を訪ねました。
茅ヶ崎郷土会は、毎年5~6回の史跡文化財めぐりを行っています。
山本会員が、横浜市中区にある神奈川県立歴史博物館でボランティア解説員を務めているので、解説を受けながら館内を見学しよう、合わせて近くにある他の施設も見学したい、また中華街でランチというのもいいじゃない!という意見から生まれた企画でした。
なお、この日の様子は当会の会報『郷土ちがさき』146号(22頁)に、山本会員の筆で報告されています。

桜木町駅で下車し、弁天橋を渡り、番号の順に回りました。
桜木町駅を出るとすぐに、大岡川に架かる弁天橋を渡ります。橋の上から大岡川の下流方向(北)を撮影しました。
画面左手向こうに横浜ランドマークタワーがそびえ、川の右手は建設工事中の横浜市役所です。
横浜市役所の建設工事は終盤に入っているようでした。

① 神奈川県立歴史博物館

横浜市中区南中通5-60
昭和42年(1967)に旧橫濱正金銀行本店の建物を使って、神奈川県立博物館が開館しました。
人文系と自然科学系の総合博物館でしたが、平成7(1995)に自然科学系が小田原市に生命の星地球博物館として独立し、今は歴史博物館として運営されています。
3階建てで、その3階にテーマ1の古代とテーマ2の中世、2階にテーマ3近世と4近代と5現代・民俗の常設展示があり、1階には特別展示室とコレクション展示室その他があります。
これらを全て見学するにはとても時間が足りないので、テーマ5ははぶいて、その上に、大急ぎで回る見学になりました。

歴史博物館の正面入口
玄関の階段下に錆びた大砲が飾ってあります。
説明板には、ロシア製で、江戸末期に横浜港にあったスイスの商社が碇として販売しようとしたもの、と書いてありました。
横浜開港は、神奈川県にとって重要な歴史の一コマで、博物館でも大きく扱っているテーマです。

広い館内展示は短い時間では回りきれるものではありません。
古代から近代まで続く展示物の中から、横浜開港に関する展示を少しだけ紹介します。
一号機関車の説明板
開港当時の横浜港の中心部分を再現したジオラマ。
このホームページ冒頭のコース図と見比べて下さい。向こうが東北方向で海。
日本大通り、横浜県庁は今も同じ位置にあります。
そのジオラマの反対側。海側から見た様子です。
館内の写真撮影は可。ただフラッシュと三脚の使用はダメ。また博物館所蔵以外の資料も撮影は禁止されていました。
博物館の裏口
実はこの面が橫濱正金銀行本店だった時代の正面で「旧館部分」と呼ばれています。今の博物館の正面は増築された部分です。屋上にそびえる巨大なドームを「エースのドーム」と呼んで、神奈川県庁本庁舎の塔などとともにPRに力が込められています。
建物のそばの通りに立つ説明版

パンフレットに次のようにありました。

旧館部分は横浜正金銀行本店として明治37(1904)年に竣工し、今は国の重要文化財と史跡に指定されている。設計者は妻木頼黄(よりなか)。 地上3階、地下1階建てで、正面の巨大ドームが特徴とされていた。 大正12(1923)年9月の関東大震災には内装とドームを焼失したが、復旧工事を行い戦後まで銀行として使われていた。このときドームは撤去された。 昭和42(1967)年に神奈川県立博物館として開館するとき大がかりな改修工事を行い、ドームも復元された。 平成7(1995)年に神奈川県立歴史博物館となったときに建物全体がニューリアルされた。

横浜開港まえと開講後の変化

巨大都市横浜ですが、江戸時代は海に面した砂州の上に展開するごく小さな「横浜村」でした。 
『新編武蔵風土記稿』の横浜村の項には、江戸時代後半期の様子が次のように書いてあります。
民戸八十七、東北は海岸に沿い、西は「洲乾(しゅうかん)の湊」、水田少なく陸田多し。
洲乾湊、村の西北なり。東西十二丁(約1,300㍍)、南北四丁(436㍍)余りの入江にて、当村及び戸部村、吉田新田などにかかれり。古(にししえ)は、いと広きにて船かかり良かりしが次第に干潟となり、若干の田地となれり。

元禄のころの様子をあらわした絵図で、『新編武蔵風土記稿』久良岐郡に掲載されています。
方向や村の位置は現実離れしていますが、横浜村が海の中に突き出た半島上にあったことが分かります。
半島の先に弁才天が祭られていました。また、半島の西側には「志うかん湊」と書かれた「洲乾の湊」の入江です。この入江は後に全て埋め立てられて、今は横浜の市街地になっています。

横浜村の先にある「弁才天」は『武蔵風土記稿』に次のように書いてあります。
洲乾の出洲にあり。土人清水弁天と呼ぶ。村の鎮守なり。社中には前立の像のみを置き、神体は元禄中より別当、増徳院境内の仮殿に安んじ、彼の所にては杉山弁天と唱う。この社地(清水弁天のこと)は海面に望み、勝景の地なれば、遊客、神奈川駅(神奈川宿のこと)より乗船して至る者多し。
雄山閣版『武蔵風土記稿』4巻の81頁には、次のような清水弁天の望遠図が掲載されています。

海から西を望んだ図となっていますので、弁天社の向こう側一体に広がる入江が洲乾湊です。
のちにこの入江は全て埋め立てられます。
東海道の神奈川宿の辺りの上空から横浜村の半島を望むと、このように見えると想定したのでしょう。
半島の先に弁天社があります。
現在ある弁天橋や弁天通はこの弁天社にちなむものです。
幕末になってこの横浜村に港が開かれ、今は横浜市中区となって、県庁や横浜市役所などがあります。
明治5年(1872)測量の横浜市街地図

横浜開港は嘉永6年(1853)ですから、開港後19年を経た頃の様子です。
洲乾湊は、江戸時代から続けられた埋め立てが終了しています。
この地図の弁才天の辺りから中華街の辺りまでに横浜村の半島がありました。

諸外国に開国を迫られた幕府が、なぜへんぴな横浜村に港を作ったかということについては、この横浜めぐりを担当した山本会員が書いた文章があるので、次に引用しておきます。
 今回訪れた横浜市中区は、行政官庁が集中する市の中心部ですが、江戸時代は砂州の上にある寒村でした。一方、この村の北方には東海道の神奈川宿がありました。港が、神奈川宿に設けられず、なぜ横浜村に設けられたのかについて、県立歴史博物館の「浜浮世絵展」に分かりやすい説明があったので、それを次に要約しておきます。
 港は、日米修好通商条約により、安政六年(一八五九)に開港しました。今年は開港百五十周年です。
 米・英・仏などが「港は神奈川宿に」と、そこにあるお寺に領事館を置いたのですが、江戸幕府は「東海道は危険であり、砂洲の上の横浜も神奈川である」として、何もなかった横浜村に建設をはじめました。道もない所に横浜道を造り、砂洲の内側(西側)を埋め立てて、海に向かってコの字に川を掘り、開港地を出島のように造ったのです。正に横浜は幕府が造った傑作です。浮世絵には、野毛の切通し(横浜道)から横浜を見てびっくり仰天する人が描かれています。初代英国公使オールコックは「魔法使いの杖の一振りで開港地ができた」と言ったそうです。日本大通りを境に、海に向かって右側に外国人居留地、左側に日本人町と分けて計画的に港町が造られていきました。
(「郷土ちがさき」146号-2019年9月1日発行- 元の文章は縦書き)

②開港記念会館

横浜市中区本町1-6

次の見学地の横浜市開港記念会館をめざして歩く茅ヶ崎郷土会の一行
横浜県庁本庁舎の屋上から開港記念会館を見下ろした図です。
建物全体は赤煉瓦で統一されています。
塔屋は「ジャックの塔」としてPRされています。

「町会所」の説明板に、この地には横浜開港当時から明治初年まで、越前藩が経営する「石川屋」という生糸商があり、そこの岡倉勘右衛門を父として後の岡倉天心が生まれた、と書いてありました。「岡倉天心誕生之地」の碑文も立ててあります。

この説明板と開館で配布されているパンフレットを読み合わせると、経過は次のように移ったようです。
明治7年(1874)に、石造り2階建ての建物が建てられて、横浜市政施行の同22年(1889)まで、町政を執る「町会所」として使われた。
明治23年(1890)、「横浜貿易商組合会館」と改称し、さらに「横浜会館」と改められたが、同39年(1906)焼失した。
明治42年(1909)、その跡地に、横浜開港50周年を記念して「横浜市開港記念会館」建設が決定した。大正6年(1917)竣工・開館したが、同12年(1923)の関東大震災でドームと内部を焼失した。
昭和2年(1927)ドームを省略して再建。
同20年(1945)~33年(1958)、米軍が接収。
同53年(1978)改修工事。ステンドグラス修復。平成元年(1989)市政100周年、開港130周年記念でドーム復元。国の重要文化財に指定。
平成21年(2009)、開港150周年記念で2階広間のステンドグラスを修復。


「町会所」は聞き慣れない言葉ですが、「町政を執った」とありますので、町役場のようなものだったのでしょう。

記念会館ご自慢のステンドグラス その1 貴賓階段室にある
パンフレットによると帆船はポーハタン号(黒船の一隻)だそうです。
その2 2階広間のステンドグラス
多摩川・相模川などの渡し場を現したものでしょうか。
その3 2階広間のステンドグラス
箱根の山越え。

その4 2階広間のステンドグラス 鳳凰
2階広間はこんな風になっています。
撮影しているのは茅ヶ崎郷土会の会員

③神奈川県庁 本庁舎

横浜市中区日本大通1

縣廳 の字体が面白い

パンフレットに次のように書いてありました。

構造 鉄骨鉄筋コンクリート造り 5階、地下1階(塔屋は9階)
設計 原案は小尾嘉郎(おびかろう) 竣工 昭和3(1928)年10月 (国登録有形文化財) 関東大震災後の昭和3(1928)年に四代目の神奈川県庁舎として建てられた。 コンペに応じた小尾嘉郎の案を県の建築技師らが実施設計した。 建物屋上中央にシンボルとして塔屋が設けられている。この塔屋は五重塔をモチーフにしたと伝えられている。
初代 慶応3(1867)に建てられた神奈川県横浜奉行所の建物を継承して使われたが、明治15(1882)年に焼失。
二代 明治6(1873)年に設計され、現在の県庁舎所在地に横浜税関として建てられたものを、県が譲り受けて1883年から明治42(1909)まで使われた。
三代 現在の所在地に大正2(1913)年竣工。フランス風ネオ・バロック様式の壮麗な建物だった。大正12(1923)年の関東大震災で内部が全焼したので取り壊された。
四代目の現庁舎は「船舶出入ノ際、港外ヨリノ遠望ヲ考慮シ成ル可ク県庁舎ノ所在ヲ容易ニ認識シ得ル意匠」が求められ、塔屋の設置が考慮されていた。アールデコ風の意匠が各所に用いられ、例えば宝相華のデザインをタイルやシャンデリア、階段の手すり、時計文字盤などに見ることができる。

屋上の塔屋を「キングの塔」と呼ぶそうです。

また、このパンフレットには、
6階の歴史展示室と屋上は、開庁時間中、自由に見学できる。 知事室、旧貴賓室、旧議場などは随時公開しているので県のホームページ等で確認して下さい。
とも書いてあります。
私たちも庁舎内に入り屋上に行ってみました。

廊下はいささか狭いなという感じでしたが、きれいでした。
宝相華をデザインした階段手すり上の装飾灯。

神奈川県が自慢するだけに、クラシックな建物はすばらしいものでした。
時代を感じさせたのは一つ、エレベーターが狭く、3人も乗れば満員というものでした。
ちょうど昼休みを迎えた職員は階段を使っていました。
職員は乗ってはいけなとされているのでしょう。
私たちはそのエレベーターで屋上に出ました。

大桟橋埠頭に、日本で造られたという大型客船、ダイヤモンドプリンセスが停泊していました。
その手前、横に伸びているのは「象の鼻防波堤」です。
屋上からはすぐ近くに横浜税関の塔屋が見えます。これはクイーンの塔としてPRされています。
横浜税関は今日の五番目の見学場所です。
その向こうに赤煉瓦の倉庫群が見えます。
ヨコハマみなとみらいのシンボル、ランドマークタワー。
それらを楽しみながら本庁舎屋上を逍遙する、郷土会の会員。

④横浜開港資料館

横浜市中区日本大通3

見上げて撮影したのでゆがんでいます。

私(編集者)はこの施設にはじめて入りました。
帰宅してから、資料館のホームページを開いてみましたところ、次のように説明してありました。

浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。当館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。日米和親条約締結後、日本の国際化は急激に進みましたが、1859(安政6)年には横浜が開港し、この町は日本を代表する貿易都市になりました。当館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、関係資料を収集し展示するとともに、閲覧室で広く市民や研究者に資料を公開する活動をおこなっています。

横浜市史編纂の過程で収集された資料であれば膨大な数になり、また貴重なものが揃っていることでしょう。

これが日米和親条約締結の時からあるという「たまくすの木」だそうです。
どこかの小学生たちが大勢で見学していました。皆さん、いっしょうけんめいにノートしていました。
それから、今年2019年まで166年も経っているのです。
「たまくす」を調べてみると「タブノキ」のことだとありました。
タブノキなら茅ヶ崎にもたくさん生えています。ただ、茅ヶ崎のタブノキは、条約ともペリーさんとも関係はありませんが。
「たまくすの木」のそばにあった説明板です。
たまくすの木の説明板のほかに、有名なこの絵もパネルにして立ててありました。
画面の右端に見える木が、今もある「たまくすの木」だそうです。
「あんたたちが立っているここにペリーさんが来たんだぞー。どうだ。」というような感じです。
吉田新田を説明するときによく使われるこの2枚の絵図も開港資料館の収蔵資料であることが分かりました。
たまぐすの木のそばに立ててあった説明板です。
絵図の文字はぼやけて読めなかったので、編集者が活字を加えました。間違っているかもしれません。
この館内図も設置されていたものを撮影したものです。
私たちは「現在地」と書いてあるところから入館し、左に折れてたまくすの木を見て、「正面入口」から退出しました。
展示室や閲覧室があることも帰宅してから知りました。
ただ、訪れた日は、先を急がなければならず、知っていても寄ることが出来なかったはずですが。

⑤横浜税関

横浜市中区海岸通り1-1

横浜税関の建物です。

建物の屋上に緑色のドームのある塔屋がそびえています。この塔を「クイーンの塔」と呼ぶそうです。

税関のHPに次のように説明してあります。
「クイーンの塔」の秘話
関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。 昭和7年第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められた。この時、“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”が港ヨコハマの高層建築物であった。 塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成した。


横浜税関の現在の建物は昭和9(1934)に竣工したそうです。

横浜税関は全国に九ヶ所ある税関の一つです。
この建物の中に、密輸品、麻薬、偽物・本物などが展示してありました。

入口で入館者を迎える黄色のワンちゃんは、カスタム君という名のイメージキャラクターなのだそうです。麻薬探知犬がモデルと、税関のHPにありました。
資料展示室の一角です。
「偽物・本物コーナー」ではどっちがどっちか、私たちには分かりませんでした。
横浜開港資料館の庭に立ててある説明板です。
撮影された時期が書いてないのですが、説明文中に「1885年(明治18年)に立てられた横浜税関も、赤レンガづくりでした」とあるので、関東大震災以前の建物です。
また、所在地も日本大通りの突き当たりになっていて、現在とは違います。
しかし、塔屋を備えていたことは共通しています。

日本大通り

日本歴史地名大系14『神奈川県の地名』(平凡社刊)の日本大通りの項目にはおおよそ次のように書いてあります。
慶応2年(1866)の大火で運上所・町会所・神奈川奉行同心番長屋・調役並定役役宅・通詞住宅などを全焼した。この大火を契機に大規模な区画整理が行われた。延焼防止のために外国人居留地と日本人居住区の中央に海岸より公園(遊郭跡に造った公園。現在の横浜公園。)まで歩道と街路樹を植えて下水を完備することとした。そして中央車道10間、歩道・植樹帯各5間の全幅20間(36㍍)の大通りが明治8年(1875)に完成し、日本大通りと命名された。

日本大通りの北側の端。この向こうは海になります。
かつてここに横浜税関がありました。
その反対側。街路樹はイチョウ。
向かって右側は神奈川県庁の庁舎。
この大通りの突き当たりは横浜公園。

⑥中華街

横浜市中区山下町の一角 今日の最後の訪問地です。

横浜中華街について、日本歴史地名大系14『神奈川県の地名』(平凡社刊)から、途中を省略しながら引用しました。

中国人は開港当初は欧米商人の商館内に住み込む者が多かったが、文久元年(1861)に横浜新田が埋め立てられて居留地が拡張されると、新しい埋め立て地に居住する者が多くなり市街地化された。初め南京町とよばれ、第二次世界大戦後は中華街とよばれている。 中国人の集団的居住は欧米人との言語・風俗・習慣・生活様式の相違によるものである。
中華街の中央に中国人の鎮守、関帝廟がある。明治6年(1873)に建設された中華会館に「三国志」の武将関羽を祀ったことに始まる。正面に石彫の獅子一対を配し、白壁に朱柱の本堂には中央に関聖帝君、左側に地母娘娘(注 日本流に読めば「ちぼにゃんにゃん」でしょうか?)、右側に観音菩薩を祀る。

私たちは日本大通りから東南方向に歩き、東からの朝陽門から中華街に入りました。

さて、中華街での目的はお勉強ではなく、お食事です。
入ったお店は 元祖シュウマイの店 順海閣(横浜市中区山下町147)
茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりを、山本会員と一緒に担当している尾高会員が、高額でもなく、安かろうまずかろうでもない店を探し当てたものでした。

順海閣の看板料理
さすがに味もボリュームも言うことなしでした。
これに生ビールと紹興酒、スープほか何点かと最後にチャーハンが来ました。

食事のあとは関帝廟のおまいり
そして記念撮影

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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