第296回 海老名市(相模国分寺跡と海老名氏の遺跡)2019.11.16(土)

2019年9月28日に訪ねた戸田の渡し跡に続いて、海老名市内のもう一つの渡し場、厚木の渡し跡と相模国分寺跡・海老名氏の遺跡を歩きました。コースは次のとおりです。

茅ヶ崎駅―(相模線)―海老名駅下車―①中央公園の七重塔ー②大けやきー③国分寺―④海老名市温故館―⑤相模国分寺跡―⑥逆川と船付場跡―⑦相模国分尼寺跡―⑧大山道青山通り―(昼食)―⑨海老名氏記念碑―⑩水道道ー⑪有鹿神社―⑫信州高遠石工の石仏ー⑬海老名氏霊堂―⑭厚木の渡し場跡―相模線厚木駅から茅ヶ崎駅へ

海老名駅にて

① 海老名市中央公園の七重塔

建物に挟まれた中央公園に朱塗りの塔が建っている。説明板に次のように記されている。
「故大岡實氏の復元図を基に相模国分寺の塔を、実物大の約3分の1のスケールで建設した。
2回行われた発掘調査により、塔の基壇(土壇)は一辺20.4㍍、高さは1.3㍍、現存する礎石から塔の初重の広さは10.8平方㍍、塔の高さは65㍍と推定されている。
発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは立て替えが行われたことが分かっている。」

② 県天然記念物指定の大けやき

現地の現地の説明板に次のように記されている。
「船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなったと伝えられている。根回り15.3㍍、樹高20㍍。昭和29年3月29日指定」
今は傷んでいて、樹高も説明板の数値とは違っている。
『ウォーキングガイドブック海老名文化財散歩―自然と歴史のさんぽみち』(海老名市教育委員会平成18年刊ー以後『海老名文化財散歩』と略記)には「杭が根付いたので 逆さケヤキ ともよばれる」とも書いてある。

③ 高野山真言宗 東光山医王院国分寺(相模国分寺)
  ー海老名市国分南一丁目-25-38ー

画面左側の鐘楼に国指定重要文化財の鐘楼がある

『海老名文化財散歩』に次のように記されている。

「本尊は薬師三尊像で、中尊の木造薬師如来立像は、作風から室町時代南北朝期(14世紀後半)造立と考えられている。脇侍の日光菩薩立像は室町時代中期(15世紀頃)、月光菩薩立像は室町時代後期(16世紀頃)の作風と考えられている。本尊の眷属として木造十二神将立像があり、貞享4年(1687)に色彩された記録があることや作風から江戸時代前期に室町時代の作風に習ってつくられたとされている。
また平安時代から鎌倉時代の作風を模して江戸時代前期に造立されたと考えられる木造不動明王坐像、享保20年(1735)造立の木造大黒天立像が安置されている。
天平13年(741)のいわゆる「国分寺建立の詔」により創建された相模国分寺の法灯を継ぐ市内屈指の古刹。平安時代中期頃に史跡相模国分寺跡の場所から上の台に移り、江戸時代頃までに現在の位置に移ったと考えられている。」

尼の泣き水

境内の一角に、庚申塔・如意輪観音坐像・新しい石造の如来坐像と「天明五年(1785)乙巳六月吉日」の銘を持つ手水鉢が置いてあり、「尼のなき水」と表示してある。
海老名市温故館で配布しているカード版の「えびなむかしばなし」に尼の泣き水の伝説が次の様に記載されている。

いまから千二百年もの遠い昔のお話しです。天平13年、聖武天皇は、人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう命じました。相模の国では、海老名がよい土地であったのでここに建てられることになりました。やがて、天をつくような七重塔を始めとした国分寺ができ、そこから北500メートルほど離れた場所に国分尼寺が出来ました。
そのころ、国分寺の下を流れる相模川で、魚を取って暮らしていた若い漁師がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼さんと知り合い、たがいに愛し合うようになりました。
尼さんは結婚が禁じられていましたので、二人はみんなに見つからないようにひっそりと会っていました。ある日のこと、若者がだまりこくって困った顔をしているので、尼さんは「どうしたのですか。何か心配ごとでもあるのですか」とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し「じつは、国分寺があまりにまぶしく輝くので魚が遠くへ逃げてしまい、漁をしても魚がとれないのです。それで困っているのです。あの国分寺さえなければ…」と訳を話しました。尼さんもどうすることもできないので、だまってしまい、二人はさびしそうにその場は分かれていきました。 その夜のことです。「火事だー 火事だー 国分寺が燃えて居るぞー」
漁師のことを思うあまりに尼さんが国分寺に火をつけたのです。一度燃え始めた国分寺は、消すこともできず、一晩のうちに焼けてなくなりました。
尼さんはとらえられ岡の上に生き埋めにされ、のこぎり引きの刑になってしまいました。
その後、不思議なことに、その場所から一滴、二滴とわき水が流れ出てきました。村人は尼さんが罪をわびて流している涙だといって、そのわき水を「尼のなき水」と呼びました。
尼さんがおしおきされた丘は、現在海老名小学校の上の台地です。尼のなき水は、昭和40年ころまで流れ出ていましたが、まわりに家ができたりしたので、いつとなく枯れてしまいました。(こどもえびなむかしばなし第1集より)

この話は『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』と略記)の国分村にも次のように掲載されている。
「今、少しばかりの水澤なり。国分寺の東南三町を隔つかたわらに、三杉樹立てり。あい伝う、古昔、尼ありて業の妨げとなるを以て、尼寺伽藍に放火す。よってこの所にて死に処せらる。故にこの名ありという。あるいは言う、尼寺の尼、恨みごと有って放火すともいう。この所除地にて国分寺に属す」

国指定重要文化財 銅鐘

『海老名文化財散歩』に
「海老名氏の一族、国分季頼(源季頼)が承応5年(1292)に国分尼寺に寄進したもの。作者は、銘文から鎌倉円覚寺や金沢の称名寺などの梵鐘を手がけた名工、物部国光とされている。」と記されている。

寶篋塔

大変変わった形の宝篋印塔である。
3㍍を越す高さがある。文政七年(1824)の年銘をもち、正面に「寶篋塔」と彫ってあるので、宝篋印塔として作られたことが分かる。基壇に宝篋院陀羅尼経の一部が彫ってある。
この塔の特徴は、彫刻が細かいことと宝篋印塔としては全体の形が特異であることである。
基礎には、正面に岩場で身を横たえる男性像と、その右側面には竹林の虎の絵柄がある。しかし、この絵が何を表しているかは分からない。
裏面には、今は東京都新宿区内にあたる「市谷田町講中」と、その近辺の町内で組織していた町火消し「六番組」の名がある。また、発願主と世話人は地元の人たちの名前である。
江戸の講中と町火消しの名があるのは大山詣りが関係しているのだろう。
茅ヶ崎郷土会の会報『郷土ちがさき』147号(令和2年1月1日発行)にこの塔の報告があるので参照して貰いたい。

④ 海老名市温故館
  ー海老名市国分南一丁目6-36ー

温故館は国分寺跡に面してある。その遺跡から望んだ望んだ図。
国分寺跡の出土品。
2階には民俗資料が展示されている。

『海老名文化財散歩』にある温故館の説明。
「相模国分寺跡が国指定史跡となった大正10年(1982)に、海老名小学校の校庭に建てられた遺跡陳列館が始まり。昭和57年(1982)に海老名市立郷土資料館として開設され、考古・歴史・民俗資料を収蔵、展示している。
温故館の建物は、大正7年(1918)に海老名村役場として建築されたもので、当時よく採用された郡役所様式により作られている。平成元年度(1988)に『かながわ建築物100選』に選ばれた。」

⑤ 相模国分寺跡 (国指定史跡)
 ー海老名市国分南一丁目-19ー

手前に塔跡。基壇が復元されている。
その向こうに金堂跡。

史跡として整備されている。
上に掲げた配置図はともに現地に設置されている説明板の絵を加工したものである。

『海老名文化財散歩』に次のように説明されている。
「相模国分寺は天平13年(741)の国分寺建立の詔によって建立された。例の少ない法隆寺式伽藍配置で、南北300㍍、東西240㍍の寺域があったことが発掘調査で分かった。」

「塔・金堂・講堂跡には礎石と基壇が残り、北・南回廊、僧坊、鐘楼、経蔵などの跡や大型建物跡などが確認された。塔跡(推定高さ65㍍)や金堂・講堂跡(東西40㍍、南北31㍍)の基壇規模は諸国の国分寺の中で最大級である創建年代は、出土した瓦の分析や発掘で得られた資料から8世紀中頃に完成されたと考えられている。
『新編相模国風土記稿』にも記載されるほど古くから知られている。大正10年(1921)に国指定史跡になった。現在は塔基壇などが復元整備されている。」

⑥ 逆川(さかさがわ)跡と船着き場跡

奈良時代の構築と考えられている逆川跡を歩く茅ヶ崎郷土会の一行
今は道路になっている。
温故館のボランティア解説員、三沢さんに、館内の説明と、館外に出て逆川までの案内をしていただいた。事前予約もなく訪ねたのだが応じて下さった。
逆川に設けられていたという船着き場跡での説明の様子。かつて、國學院大學の考古学の樋口清之教授が学生と発掘調査を行ったとのこと。

『海老名文化財散歩』の説明。
「逆川(さかさがわ)は人工の水路といわれ、市立杉本小学校の辺りから、目久尻川の水を取り入れ、伊勢山の南側を回って国分の台地を経て、国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていた。後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、新堀と呼ばれるようになった。
発掘調査により、平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから運河跡ではないかといわれている。国分付近では南から北へ、目久尻川流域の低地から台地上へ流れていることから逆川と呼ばれるようになったとされている。
昭和40年代までは流れていたが、次第に埋め立てられ、ごく一部の地形にその面影を見ることできる。川が北へ曲がっている地点に由来と地図を刻んだ記念碑がある。」

⑦ 相模国分尼寺跡 (国指定史跡)
  ー海老名市国分北二丁目6-27ー

尼寺の寺域が全てが保存されていないだろうが、国分寺に比べると規模は小さいようだ。
遺跡の一部が少し高くなっていて庚申堂があった。中には寛文6年銘(1666)の立派な庚申塔が祭ってあった。

『海老名文化財散歩』の解説。
「天平13年(741)の国分寺建立の詔によって建立された寺院。発掘調査によって金堂跡、経蔵跡、回廊跡などが見つかっている。出土した瓦などから8世紀後半に完成したと考えられている。『新編相模国風土記稿』にも記載されている。金堂跡などの保存状態が良好であったため、平成9年(1997)に国指定史跡になった。」

また、現地に建つ説明板には次のように書いてあった。
相模国分尼寺跡(金堂跡)
この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600㍍に位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鐘楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・梁行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。
平成3年3月31日 海老名市教育委員会

寛文6年銘の庚申塔

お堂の中にはこの一基だけだが、堂の外にも時代の下る3基の庚申塔と何基かの供養塔(墓石)が残っている。その中で、庚申塔2基の年銘が読める。延宝8年(1680)と宝暦10年(1760)で、共に庚申の年だった。

お堂の中に祭られている庚申塔。
板碑型のりっぱな塔で石質も良く、傷みは少ないようだ。
この時代の特徴で、文字の彫りが浅く、離れた位置から読む事は難しい。
篠崎信『海老名の庚申塔』(平成8年市教育委員会刊)に拠る銘を下に転記しておく。
なお、寛文6年は1660年で干支は丙午。「箴」はシンでいましめの意。銘の中にある「視箴聴箴言箴」は「見ること・聴くこと・言うこと」を「いましめる」と解釈できて、「見るな・聴くな・言うな」という意味になる。庚申塔に付きものの三猿を「見ざる・聴かざる・言わざる」と言ってしまうと、何に対して言われた言葉なのかがあいまいだが、この塔の文字のように解釈すると結衆(人間)に対してのタブーとなって、意味が明確になる。銘文の中にこのタブーを記す他の事例を報告者は知らない。貴重な塔だと思われる。

銘文
種子ウーン(青面金剛)
寛文六季
夫神霊必有感[   ]同心
一揆之善男庚申観□結願造視箴
聴箴言箴者発願益欲衛二世之希
望而己
丙午三月十六日
(改行は報告書のままにした)




⑧ 大山道青山通り

海老名市国分から門沢橋までの青山通りは、市街地を横断しているので拡幅されて大きな道路になっている。
この写真は、小田急線をまたぐための跨線橋となっている部分で、西を向いて撮影した。
天気が良ければ、正面に大山が見えるのではなかろうか。

『海老名文化財散歩』の説明は次のとおり。
「江戸時代は大山詣りが盛んで市内に大山道が多く通っていた。
江戸の赤坂御門から青山、多摩川、長津田、鶴間を通り、市内の柏ヶ谷、国分、河原口を通って相模川を越え厚木市に渡り、伊勢原市の大山までの道が大山道青山通りと呼ばれていた。
この道はさらに西に延びて、善波峠(伊勢原市と秦野市の境)を越えて、秦野市、松田町、矢倉沢の関所、足柄峠を通過し御殿場から沼津に続き東海道につながる。古代から使われた道で、矢倉沢往還とも呼ばれる。」

⑨ 海老名氏記念碑(上郷遺跡)

住宅の一角が囲ってあり、海老名氏記念碑、新しい五輪塔、板碑、寄進者の名前を記した碑が植木の中に立っている。
『海老名文化財散歩』に次のように記してある。
「上郷遺跡は畑の耕作中に偶然発見された。発掘調査により五輪塔や板碑、集石遺構が確認された。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、宝樹寺跡の存在から、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられている。また、道を挟んだ南側には海老名氏の記念碑がある。」

写真に写っている新しい五輪塔の、向かって右側の碑が「海老名氏記念碑」である。
銘文は次のとおり。
改行は「/」で示した。なお、碑文に句読点はない。後ろから3行目の碑文の選者名の「てつ」はフォントがなく、平かなで示し、後ろから2行目の建立日の月は樹木の陰で読めなかった。

河原口 上郷/あたり一体の有賀郷は/古くから有鹿神社を中心に/一大集落を営んでいたと思われます/約八百年以前 相模守として当地にまいり/ました源四郎親季を祖とする海老名氏の一族には 孫の源八季定をはじめ武勇をもって聞こえた人びとが/数多く輩出したと言われます/今日残っているお屋/敷 道場前等の名称は 海老名氏往時の盛況を物語/るものでしょう 時流茫々 かかる幾多武勇の士の/拠ったゆかりの地も 今や世人の記憶からその言い/伝えさえ忘れられようとしているとき これらの諸/霊を慰め その由来を永く後世に伝えるため 海老/名市が記念碑を建てるにあたり これを記します/海老名市文化財保護委員 児島てつ造 撰/昭和四十六年□月二十六日 建之/海老名市/

⑩ 水道みち(横須賀水道)

この道路の突き当たりの森は有鹿神社。
この道路の脇に、点々と小さい標柱が立ててあって、「水道部」とか「海[ ]」と書かれている。
この道路の下に水道管が埋けてあるのだろう。
次の⑪有鹿神社に、相模川を渡る、この水道管の橋の写真を掲載した。

カード版「えびなむかしばなし」に次のように記されている。

「横須賀水道 愛川町と横須賀市を結ぶ全長53キロメートルの上水道。大正10年(1921)に全面が完成した。市内は、上郷から海老名耕地を横切り、大谷の大地を上り綾瀬市へと抜けている。
当時の日本海軍は、世界列強との軍艦の建艦競争に躍起となっていた。この軍艦を造っている横須賀海軍工廠では、スクリュー軸の冷却水や焼き入れに必要な良質の水が不足し、また艦艇出航の際に積載する飲料水も、横須賀市民との配分に苦慮していた。」

「そこで海軍省は、良質の水を大量に供給できる水源地を愛川町の半原に求め、半原と横須賀を結ぶ直線を県央に一本、「グイ!」と引いた。それが横須賀海軍水道で、現在の横須賀水道。「水道みち」とも呼ばれている。
時を移さず測量が始まり、あとは山も川も野も池もおかまいなしで、お宮もお寺もそこのけそこのけで、墓地も史跡も踏みつぶしての突貫工事だった。相模川を渡る水道橋も、有鹿神社裏の水の勢いの激しい場所で、しかも川幅の特に広い場所を避けもせずに無理やり押し切った。(こどもえびなむかしばなし第3集より)」

⑪ 有鹿神社(あるかじんじゃ)
  ー海老名市上郷一丁目4-41ー

神社の住所は前記したように上郷一丁目(旧上郷村)だが、『風土記稿』には河原口村の項に「有鹿神社〈阿利加神社〉」と記載されている。住居表示が変わったのだろうか。地元では「ありか」ではなく「あるか神社」と呼んでいる。江戸時代の別当寺は、神社の近くにる総持院(真言宗海老山満蔵寺総持院)だったと同書にある。

『海老名文化財散歩』にある説明は次のとおり。

祭神は大日霊貴命=天照大神
鳩川が相模川に流れ込む地点に鎮座する。平安時代中期の「延喜式」神名帳に記載されている相模十三社の一つ。江戸時代には海老名五ヶ村(河原口村・上郷村・中野村・中新田村・社家村)の総鎮守だった。創建時期は不明だが、永和3年(1377)の作成とされる「有鹿明神縁起」では、神亀3年(726)に存在し、天平宝字元年(757)に海老名郷司藤原広政が中心となって再建、鎌倉幕府滅亡時に兵火にかかり本殿以外の建物が失われたとしている。
本殿と拝殿の天井画は海老名市指定重要文化財となっている。
有鹿神社本殿
大型の一間社流造で、内部は前後二室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面に一本引きの建具を入れることや、特徴ある向拝の造りなど珍しい造りである。肘木は鋭い鎬(しのぎ)を持つ絵様肘木。建築年代は、虹梁の絵様などの意匠から18世紀中頃と考えられている。
有鹿神社拝殿天井の龍の絵図(海老名市指定重要文化財) 
大住郡坪の内村の絵師、近藤如水(藤原隆秀)が画いた。諸国遍歴から帰郷した後の嘉永2年(1849)頃の作とされている。

カード版「えびなむかしばなし」には次の二つの伝説が記されている。

有鹿谷の霊石 
有鹿郷五ヶ村といわれた上郷(かみごう)、河原口、中新田、社家、中野の農業用水は、その水源が相模原市勝坂にあります。この勝坂の水源にはこんな話があります。
今から約四百年前、総持院に慶雄(けいゆう)というお坊さんがいました。ある晩、神霊が慶雄の夢の中に現れて、「よい水源を教えるから、明日の朝、境内から飛び立つ白鳥(しらとり)の後を追え」と言いました。この鳥は白い鳥であったとも、金色の鳥であったともいわれていますが、翌朝、この鳥は慶雄を北へ北へと導いて、磯部村勝坂の集落で姿を消しました。
そこには洞窟があり、清水がこんこんと湧き出ていたので、此処を有鹿谷(あるかたに)と名づけ、有鹿郷五ヶ村の水源としました。それからは毎年四月八日の祭礼には、有鹿神社のみこしがこの有鹿谷まで行き、六月十四日まで、ご神体を洞窟においておくことがしきたりとなりました。このしきたりは「有鹿様の水もらい」と言われました。
勝坂のお年寄りの話では、ご神体はきれいな玉石ですが、不思議なことに、子どもたちがいたずらをしてそれを動かすと、いつの間にか必ず元の位置に戻っていたということです。(こどもえびなむかしばなし第2集より)」

有鹿姫(あるかひめ) 
今から約五百年前、愛川の小沢(こさわ)というところに金子掃部助(かもんのすけ)という武将がいました。金子掃部助は、関東管領 山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走しました。
この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。
しかし、時すでに遅く、父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に、天に向かって手を合わせると、ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。
するとどうでしょう、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。途中、六倉(むつくら)という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。 さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近づくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社裏の河原に打ち上げられました。
神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、そのなきがらを葬りました。現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。(こどもえびなむかしばなし第4集より)

⑫ 信州高遠の石工が作った庚申塔

高遠の石工 秋山甚四郎の名がある「庚申墳」

有鹿神社から総持院の前を通り南方向に向かうと、すぐに右に向かう道路が分かれる三叉路に出る。この三叉路に次の様な石仏があり、その一つに信州高遠の石工の名前がある。
『風土記稿』河原口村の項に「往還、村の東西に貫くもの矢倉澤道なり、西北に係れるもの八王子道なり〈幅各三間〉」とあり、有鹿神社と総持院の前を南北に通る道は八王子道で、この三叉路を西に向かうと渡船場に通じ、厚木に渡るものと思われる。

石仏は向かって左からの次の4基が元の姿を留め、他に部材の石材の破片らしいものもある。

① 角柱道標
向かって右側面 右隣の②とくっついていて読めない。
正面      此方 厚□(下部が埋まっているか折れていて読めない)
向かって左側面 此方 座□(同じ)
背面      此方 厚□(同じ)

②角柱庚申塔
向かって右側面 松尾大明神
正面      庚申墳
向かって左側面 相州高座郡河原口邑
          催主 中野源六
              邑講中
    寛政六年歳次甲寅秋八月日(一七九四)
         石工信州高遠産秋山甚四郎

③角柱庚申塔(笠らしきものが載る)
向かって右側面 剥落
正面      庚申塔
向かって左側面 剥落

④角柱道祖神(四角の石の後ろにある)
向かって右側面 河原口村□中
        女念仏講中
        [    ]
正面      寛政四年[  ](一七九二)
       (双体道祖神)
        正月[  ]日


②の庚申塔にある「庚申憤」は珍しい書き方である。当地方では見かけないが「庚申塚」という言い方があることを知って「憤」の文字を使ったのだろう。この塔の石工が信州高遠の産であることが関係しているのではなかろうか。

⑬ 海老名氏霊堂
  ー海老名市河原口三町目8付近ー

渋谷氏霊堂
霊堂の中にある宝篋印塔
『風土記稿』河原口村に「丘の上に古碑が2基あり、その一つは源八兵衞(海老名源八=季貞④)が墳墓」とあるのが、この宝篋印塔なのだろうか。

平安時代から室町時代に掛けて、海老名氏がこの地にあったと言われている。
この海老名氏は、平安時代に相模国国司として赴任した源有兼②が、横山党①の女との間にもうけた子が海老名の地に居付き、海老名氏を名乗ったのに始まるとある(『海老名市史』-通史編)。海老名季貞=源八④は保元の乱に後白河天皇方の源義朝の家来として出てくる(同書p415)。この季貞の子どもたち⑤が今の海老名市・厚木市などに分かれて住んだ。その一人季久⑥は播磨国矢野荘に分かれた。また、荻野季重⑦は石橋山の戦いに大庭景親方の武将として出てきて、後に頼朝に誅せられる(同書p432)。海老名季景⑨は子息季直に門沢橋村内の土地を譲っている。
国分季頼⑧は今、国分寺にある国重要文化財指定の梵鐘の寄進者である。

『海老名文化財散歩』の説明。
「海老名氏は、源有兼②が永久元年(1113)から4年間、相模守として在任したとき、武蔵国と相模国にまたがる武士団の横山氏①(横山党)の女性と婚姻関係を結び、そこに生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったのに始まるとされている。海老名氏は吾妻鏡や曽我物語、保元物語に登場する。のちに本間氏、国分氏、下海老名氏、荻野氏などの分家を出す。和田義盛の乱(建暦3年:1213)に和田方について敗北し、勢力をそがれ、また永享の乱(永享10年:1438)で足利持氏方についたために本家は滅んだとされている。」

現地に立つ説明板には次のように記されている。
「海老名氏の菩提寺は、現在は廃寺の宝樹寺と伝えられ、その跡地が霊堂のあるこの辺一帯と考えられる。霊堂の堂内には海老名氏ゆかりの物と伝わる宝篋印塔や五輪塔が安置されている。霊堂周辺の河原口坊中(ぼうじゅう)遺跡からは12~14世紀の建物跡やかわらけなどが多く出土し、宝樹寺の存在と合わせて、この辺一帯が海老名氏の本拠地だったと考えられる。」

⑭ 厚木の渡し場跡

海老名市河原口から相模川を越して対岸の厚木市を望む。
画面の左に見える橋は「あゆみ橋」

『風土記稿』の河原口村に次の様に記されている。
「相模川 西界を流る〈幅一町ばかり、河原を合わせては三町ばかりあり〉、堤あり〈高さ六尺〉。」
「渡船場 相模川にあり、矢倉沢往還の係る所、対岸は厚木村なり、当村及び厚木・中新田三村の持ち船五艘を置いて往来に便す。」

2019年9月に戸田の渡しを訪ねたときもそうだったが、江戸時代の渡し場跡の多くは、川の流れが変わった今ではその場所が分からないようだ。
今回の厚木の渡し場も同じだった。
『海老名の地名』P82に掲載されている略地図を参考に訪ねてみたが、地点を落とす決め手は無かった。

厚木は江戸時代、相模川を使う物資輸送の中継点として繁栄していた。その厚木と、矢倉沢往還(青山通り)がつなぐこの渡し場は、東海道の馬入の渡しとともに大変賑わったことだろう。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

今までおこなった史跡・文化財の調査一覧へ
フロントページへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です