柳島と南湖は隣接しています。
柳島には藤間家住宅、南湖には南湖院第一病舎があって、共に国指定の登録文化財になっている、会員も多く住んでいるので、地元の協力が得やすいだろうということから選んだコースでした。
市教育委員会の後援名義を申請し、「広報ちがさき」1月1日号でPRし、20人に限って会員外の参加者を募ったところ19人の応募(3人欠席)がありました。会員は15人の参加で合計31人、茅ヶ崎市の南西部を半日歩き、神社仏閣その他の史跡・文化財を見学しました。
集合場所は、一つは駅南口の目的地行きのバス乗り場、二つ目は現地柳島の善福寺として、解散は最後の見学地の南湖仲町の八雲神社で12時半近くでした。
柳島村
柳島は江戸時代は柳島村、南湖は茅ヶ崎村の一部でした。 柳島村について『風土記稿』(雄山閣版第3巻所収)には次のように記してあります。
「この地、相模川および諸流の落口に村落をなし、水田の用水も海潮を引て耕植を助け、水溢(すいいつ)の患ももとより多し、その地形、新古相模川の二流、村の西を流れ、その間すべて河原なり、また南方は海に面し、海岸は総て砂州にて、その地に地頭林一所あり。洲觜湊口に陟出(ちょくしゅつ)せし所、眺望佳景多し。富士箱根大山近く聳(そび)ゑ、南海は渺茫(びょうぼう)として天に連れり」
柳島村は茅ヶ崎市の南西端、その西を流れる相模川を挟んで平塚市の須賀と向かい合っています。 江戸時代には、相模川を使った物資輸送の拠点で、須賀湊に対抗する柳島湊が開かれていました。
①柳島山宝亀院善福寺 真言宗
柳島1-3-28
『風土記稿』に、
「本尊阿弥陀、また不動・愛染・弘法の像を置く〈弘法の像は豆州般若院御影堂の模刻にて自作の像を腹籠とす〉、開山快盛〈寛正二年四月五日寂すと云ふ。」とあります。
「寛正二年(1461)」がそのとおりであれば、当地の寺院ではとても古い成立です。
正面にはご本尊の阿弥陀如来、その向かって右脇に、伊豆の般若院御影堂の像を写したという弘法大師坐像が祭ってあります。
善福寺は、いままでに何回かの火災にあい、ご本尊は3代目だそうです。
弘法大師像は『茅ヶ崎市史』3考古・民俗編に写真が掲載されていて次のように説明してあります。
「像高60.7センチ、寄木造・玉眼嵌入・像底を張っているので木寄せは不明。全面を古色仕上げとする。一般に見られる弘法大師とはやや異なる顔立ちをみせるが、人形化していないので、像としてはすぐれていないけれど、江戸時代初期に遡るきかもしれない。」
江戸初期の作とすると、市内では数少ない例の一つです。
今回、善福寺さんに特にお願いして九頭龍の木像を拝ませて頂きました。 これは、昭和52年(1977)に、我が茅ヶ崎郷土会の先輩方が出版した『ふるさとの寺と仏像』に「八大龍王」として画像ともども掲載してあるものです。
八大龍王は、この九頭龍を初め8体の龍族の代表からなり、仏教の守護神となっています。
源実朝の有名な歌「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」にもあり、茅ヶ崎では主に豊漁をもたらす神として、海岸に点々と6ヶ所に7基の石碑が祭られています。
九頭龍神は箱根神社にも祭られていて、芦ノ湖に住むと言われています。
善福寺に祭られるこの像は、上段に四頭、下段に五頭があり、下段の中央の竜頭は他より大きく作られています。
金泥が厚く塗られていて、実態が見えにくくなっていますが、江戸時代後期から明治時代の制作と思われます。
境内に「ある相模国準四国八十八ヶ所」の弘法大師像が二体並んで居ます。
準四国札所38番善福寺のものと、廃寺の同39番札所地蔵院にあったものです。
前に、それぞれの説明石碑があり、①の裏に善福寺、②の裏に地蔵院と刻してあります。
どちらかの大師像と②は地蔵院から移されたものです。
大師像右が善福寺の、左が地蔵院のものと解釈されているようですが、実は、大師像と説明石碑の位置は対応しているかどうかは分からないのです。
②柳島八幡宮
柳島2-3-10
柳島の本村(ほんむら)の鎮守。
拝殿の脇に建つ説明板におおよそ次のように書いてあります。
・現在の祭神は誉田別尊(ホムタワケノミコト、応神天皇)。
・文政5年(1822) 関東大震災時に倒れた鳥居が造られた。(鳥居の年銘による)
・天保12年(1841) 『新編相模国風土記稿』に、「十羅刹女社 鎮守なり」とある。
・嘉永元年(1848) 柳島の鎮守として、鎌倉郡邨岡郷高谷村(現在藤沢市内)の大工文蔵が、総工費29両で社殿建立を受け、同年11月15日に竣工した。(藤間家資料による)
・大正12年(1923)9月1日 関東大震災のため全壊した。
・大正15年(1926) 当時の区長の片野荘太郎は、神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決めた。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡相川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿に竣工した。
・昭和20年(1945)7月16日 太平洋戦争の平塚空襲の際に火災にあって全焼した。
・昭和24年(1949) 千葉県市川市行徳関ヶ島の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調した。
・昭和32年(1957)11月23日 氏子をはじめ多くの寄付を得て、社殿を建立した。大工は石井幸三郎、府川篤、木彫師は江口裕康など。
・昭和50年(1975)5月4日 奥殿を再建した。大工は石井幸三郎、府川篤など、鳶職は山口道雄など。現在に至る。 (平成30年3月吉日 柳島自治会 柳島八幡宮)
拝殿の彫刻
茅ヶ崎あたりの神社では、多くの場合、向拝(こうはい=拝殿への入口)の上部に彫刻を施してあります。絵柄は、その神社の祭神に関係する場面が多いようです。八幡社(宮)の祭神は多くは誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)と神功皇后になっています。
柳島八幡宮の絵柄は、武装した神功皇后と、皇后から生まれたばかりで産着に包まれた誉田別命を抱く武内宿禰(たけしうちのすくね、神功皇后の功臣)です。皇后が武装しているのは新羅を攻めて帰着したときの姿だからです。
彫刻が作られたのは、空襲で焼けた社殿を再興した昭和32年(1957)、その作者名は、彫刻の裏に「江口裕泰」と彫ってありますが、どういう彫刻師かは分かりません。 (参考文献 茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』18号所載の平野文明「神功皇后の新羅侵攻」。同資料館のHPで見ることができる。)
万治三年(1660)銘の庚申塔
境内には見るべき石仏がたくさんありますが、標記の庚申塔を紹介します。
境内の裏手に石仏を一列に集めてあり、その向かって1番右手のものがそれです。
三つの種子とたくさんの漢字がありますが、彫りが浅くとても読みづらいです。判読は昭和50年(1975)ころ、郷土会会員だった故天ヶ瀬恭三さんが読んだ成果が今も踏襲されています。[資料館叢書3『茅ヶ崎の庚申塔』(茅ヶ崎市文化資料館1977刊)に発表、後にそれを補完して同叢書13『茅ヶ崎の石仏1 鶴嶺地区』(2015)に収録]
種子のほかに5行の銘があり、次のとおりです。
(種子) バン(大日を表す)・ア(不明)・ウン(青面金剛)
万治三年相州柳嶋村施主/啓白
厥庚申者半夜凌睡眠離生死當夜
如等所行是菩薩道漸々修覚悉/當成佛
□□善男善女集数年庚申奉/待
子二月吉日 本願善福寺隆真
(万治3年は1660年。銘文最後にある「隆真」は『柳島の移り変わり』(柳島自治会・五三会1990刊)のp20に善福寺2代とある)
この塔は市内では8番目に古い年銘を持ち、傷みはなく、銘文も研究の余地を残している重要なもので、文化財に指定される価値を十分に持っています。
③民俗資料館藤間家住宅
柳島2-6-30
柳島の本村(ほんむら)の一角に藤間家住宅はあります。 故藤間雄蔵さんは先に亡くなられた父善一郎さんともども、茅ヶ崎の郷土史に詳しく、旧家藤間家に伝わる数多くの文化財と歴史史料を管理されていましたが、晩年に屋敷地と住宅、文化財などを茅ヶ崎市に寄贈されました。 屋敷跡は茅ヶ崎市の史跡に、屋敷林は保存樹林に、住宅は国の登録有形文化財の指定を受け、今は市教育委員会が管理し、民俗資料館として公開されています。
昭和7年(1932)藤間家住宅建設される
平成25年(2013)3月 屋敷跡が「藤間家(近世商家)屋敷跡」として市の史跡に
平成26年(2014) 屋敷林が市の保存樹林に
平成27年(2015)3月26日 住宅が国の登録有形文化財に
平成29年(2017)7月 敷地3,898平方㍍と住宅、文化財や歴史史料が茅ヶ崎市に寄贈される
平成30年(2018)4月13日 民俗資料館 旧藤間家住宅として一般に公開される
藤間柳庵
藤間家住宅でもう一つ特質すべきは、かつての藤間家の主、藤間柳庵のことです。
柳庵の本名は善五郎で、享和元年(1801)生まれ、明治16(1883)に没しました。
柳庵についてはいろんなところに解説されていますが、ここでは、柳島八幡境内にある「藤間柳庵之碑」の銘を掲げておきます。
「 藤間善五郎翁は享和元年(一八〇一)相模国高座郡柳島村に生まれ、青潭と号しまた柳庵と称した。翁は多年柳島村名主役を勤めて村政に尽力し村の繁栄をはかった。一方家業の農業と廻船業を隆盛にして物資流通の重要な中継地柳島湊を中心とする近郷の経済的発展に貢献した。また傍ら学問に志して多くの詩文句歌記録を留めとりわけ雨窓雑書十編 太平年表録七編 年中公触録七編等は翁の流麗な書風をもってその学芸の一端を示すとともに明治維新期の激動する世相を活写して後世に遺した。翁は郷土の卓越した指導者でありまた当時の地域文化の一高峰であった。明治十六年(一八八三)翁は八十一歳で柳島村に没した。昭和五十五年神奈川県は翁を歴史上の人物「神奈川の百人」のうちに選んだ。いま翁の没後百年にあたりその遺徳を敬慕する者、相はかりここに碑を建て翁の事蹟を顕彰して永く後世に伝えるものである。 昭和五十八年十一月 川城三千雄文 茅村水越咲七書 」(裏面に「昭和五十八年(一九八三)十一月建之 柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店」とある)
住宅南面の写真に見える井戸
庭に井戸の跡が残されています。
この井戸を掘った様子を、柳庵は『雨窓雑書』に詳しく書き残しています。活字化されて茅ヶ崎市から刊行(茅ヶ崎市史史料集7集-1『藤間柳庵「雨窓雑書」』上)されているので読むことができます。それには、
「万延元年(1860)5月25日、屋敷の申酉の方位(西より)に掘り抜き井戸掘り始めた。翌年の文久元年(辛酉)12月8日の酉の刻(17~19時ころ)水が吹き上がった。そこでこの井戸を三酉水と呼ぶ。」と記されています。
柳庵は掘り方も記録しています。江戸末期に上総地方で始められたという上総掘りを使っており、上総掘り初期の工法であることがわかります。
柳島ではこのあと何軒かが同じような井戸を掘り、湯屋を開いています。「三酉水」も隣の藤間姓の家が利用して「藤間温泉」を開きました。(『郷土ちがさき』147号の杉山全「柳島の湯屋四例」参照)
④旧南湖院第一病舎(竹子室)
南湖七丁目12869-201
明治時代の後半期から昭和20年の太平洋戦争終戦のころまで、南湖の一角に、広大な規模を構えた結核療養所の「南湖院(なんこいん)」がありました。
その第一病舎が今も残り、国の有形文化財に登録されています。第一病舎は「竹子室」とも呼びますが、竹子とは、南湖院の創設者の高田畊安の母の名前です。 この第一病舎は、茅ヶ崎市のHPに次のように記してあります。
「明治32年に建築された敷地北寄りに立つ、二階建ての木造の建物です。外壁は下見板張で上下窓を並べ、二階窓にはペディメントが設けられています。北面に切妻屋根の玄関部、西面に階段室が設けられています。開口が多く採光通風に配慮されている、療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟です。
南湖院は明治32年に医師高田畊安が開設し、大正期には第11病舎まで建築され、東洋一の結核療養施設とうたわれました。」
高田畊安と南湖院については『ぶらり散歩郷土再発見』(塩原富男著2012年改訂版茅ヶ崎市教育委員会刊)に次のように記してあります。
「県立西浜高校、有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の郷の辺り一帯には、かつて東洋一の設備と規模とうたわれた結核療養所南湖院があった。現在は、第一病舎が国の登録有形文化財になっている。
南湖院は、医師高田畊安(1861~1945)が開設した。畊安は京都府加佐郡中筋村(現・舞鶴市)で生まれ明治29年(1896)東京の神田鈴木町に東洋内科医院を開業した。新島襄に師事してキリスト教の洗礼を受け、明治25年(1892)に勝海舟の孫娘にあたる疋田輝子と結婚した。結核で兄を失い、自分も同じ病気で転地療養をした体験から、結核の治療に生涯をかけた。
明治31年(1898)茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設した。開院以来、順次拡大整備され、最盛時は約4万坪とも5万坪とも言われる敷地に、多くの患者がいたと言われている。療養生活を送った人々の中に、国木田独歩など多くの著名人がいる。」
年表式にまとめると次のようになります。
明治31年(1898)高田畊安、茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設。
明治32年(1899)9月 第一病舎新築竣工
昭和20年(1945)高田畊安死去 海軍により南湖院を接収。
昭和21年~32年は米軍の接収(太陽の里のHPから)
昭和54年(1979)有料老人ホーム「太陽の郷」が開設される。(太陽の里のHP)
平成27年(2015)12月10日、第一病舎、市に寄贈される。
平成28年(2016)4月、茅ヶ崎市と太陽の郷は、第一病舎を核とする「南湖院記念 太陽の郷庭園」を般公開。(太陽の里のHP)
平成30年(2018)3月 南湖院第一病舎が国の登録有形文化財に登録された。
この続き、297回 その-2(南湖の住吉神社と八雲神社)はこちら
report 平野会員
photo 前田会員・平野会員