第286回 鎌倉市 (『太平記』の舞台 2018.3.26(月)

太平記の舞台を訪ねるのコース

29年度の最後にして7回目でした。
鎌倉市の西部に点在する『太平記』の舞台を、源氏山公園の頼朝公の像、日野俊基墓、葛原岡神社を過ぎ、銭洗弁財天宇賀福神社の脇の坂道を下り、江ノ電の和田塚駅まで歩き、そこから極楽寺駅までは電車に乗り、南に下って稲村ヶ崎で解散というコースをたどりました。
訪ねた順に次のようにまとめました。『太平記』と関係のない場所も含んでいます。
①鎌倉駅西口に集合 ②正宗工芸美術製作所 ③焼刃稲荷(やいばいなり) ④寿福寺そばの岩を穿(うが)ったトンネル ⑤源氏山への急な坂道 ⑥ハイキングコース途中に太田道灌の墓 ⑦源氏山の頂上 頼朝像の前で記念撮影 ⑧源氏山に登って下りた道順 ⑨日野俊基(ひのとしもと)の墓 ⑩葛原岡神社(くずはらがおかじんじゃ) ⑪日野俊基 終焉の地 ⑫銭洗弁天への入口とやぐらの跡 ⑬銭洗弁天宇賀福神社 ⑭塔之辻の碑 ⑮是より東海道の碑 ⑯江ノ電 和田塚駅への細道と和田塚駅 ⑰江ノ電 極楽寺駅 ⑱極楽寺と極楽寺坂の攻防戦 ⑲極楽洞(ごくらくどう) ⑳大館宗氏主従の墓 十一人塚 ㉑稲村ヶ崎
画像はクリックしてください。大きくして見ることができます。あなた様が写っているかもしれませんよ。

286回―01
鎌倉駅西口に集合
天気も良く、学校は春休み中とあって駅前は混雑していました。参加者は会員外も入れて21人でした。案内と説明は山本会員でした。

 

 

286回―02
正宗工芸美術製作所 鎌倉市御成町13-29
刀の名工、五郎正宗の家系を誇り、今は刀剣をはじめとして、包丁やはさみなどの刃物類の作成、販売をしています。
製作所のHPには次のようにあります。
鎌倉時代中期に五郎入道正宗が相州伝の祖を築く。正宗後五代を経て、廣正の時、小田原北条氏に仕え、二代氏綱より綱の一字を賜り綱廣と名乗り、以後綱廣の名前を襲名するようになる。江戸時代は、徳川直参の刀匠として仕える。明治時代の始まりまでは刀鍛冶として栄えた。
訪れた日、店は閉まっていました。

286回―03
焼刃稲荷(やいばいなり)
正宗工芸から少し行った所の道ばたにある立派な石祠の稲荷社です。その前に立ててある石碑に稲荷社 正宗屋鋪 焼刃渡と彫ってあります。
正宗屋鋪とあるから、正宗工芸が現地に移る前の屋敷と伝える無量寺ヶ谷の正宗屋鋪内にあったということでしょうか。また焼刃渡については、『広辞苑』に「刀屋が拵えあげた刀剣を注文主に引き渡すこと」とあり、ネット情報では「焼刃渡し 刀剣を鍛えて刃をつけること」とありますが、この銘が何を表しているのか分かりません。正宗工芸にたずねれば分かることでしょうが。

286回―04
寿福寺そばの岩を穿(うが)ったトンネル
鎌倉市は三方を丘陵に囲まれている。その丘陵は鎌倉石と呼ばれる凝灰質砂岩から出来ていて、露頭を方々で見ることができます。鎌倉石は柔らかいので加工がしやすいために昔は切り取ってかまどや建物の土台にたくさん使われましたが、今は採掘が禁じられているようです。
鎌倉に切り通しが多いのも、掘りやすかったためでしょう。寿福寺に通じる細道もこの岩盤をうがち抜いてつくられています。寿福寺側から撮影した画像です。

286回―05
源氏山への急な坂道
案内者の「これが近道です」との一声に、一同は疑いも抱かず、迷いもせず、急な細い坂道にとりつきました。

 

 

急坂の細道はこんな風になっていました
地盤は鎌倉石(凝灰質砂岩)からできています。この細道も誰かが掘り下げて作ったのでしょう。道の中央をさらに掘り下げてあるのは雨水を流すためでしょうか。

 

286回―06
ハイキングコースの途中に太田道灌の墓
なんでこんな所に と思うように太田道灌の墓がありました。
そばにある東光山英勝寺 太田道灌公墓前祭実行委員会 が立てた説明板に次のように書いてありました。
江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰(かさい)として活躍した。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となり、徳川家を支えた。彼女は出家後に栄勝院と号し、三代将軍家光からここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開いた。この太田道灌の墓は文政九年(1826)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再現したものです。
しかし、この説明文を読んでも なぜここにあるの? の疑問は解けません。

286回―07
源氏山の頂上 頼朝像の前で記念撮影
長谷の大仏様ほど大きくはないが、見上げるほどの頼朝公が座っておられます。像の脇にある説明碑に、頼朝が治承4年(1180)10月に鎌倉入りして800年目に当たることを記念して、昭和55年10月、多くから寄せられた浄財をもとにこの像を造ったと書いてありました。
この記念写真はmaeda会員撮影の一枚です。

 

286回―08
源氏山に登って降りた道順
頼朝公の像の前を通って葛原岡神社の方へ少し行った所に源氏山公園周辺の案内図がありました。その案内図に、鎌倉駅を出発し、源氏山を降りるまでに通った順路を赤い矢印で入れてみました。
図の頼朝公の像のそばに化粧坂とあります。この化粧坂について、平成21年に鎌倉市教育委員会が立てた説明板には次のように書いてありました。
国指定史跡 化粧坂 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たる。鎌倉の交通の要衝であったことから元弘3年(1333) 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となった。(略)坂の頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の統幕計画に加わった日野俊基が斬首された刑場でもあった。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮き彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)がある。また周辺の発掘調査で多数の火葬跡が発見されており、化粧坂は交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになった。
化粧坂には「けはいざか」とルビがふってありました。
『太平記』巻十には、鎌倉幕府を攻める新田義貞は60万7千余騎の自軍を三つに分け、自らはその第3軍を率いて「化粧坂よりぞ寄せられける」と記されています。

286回―09
日野俊基(ひのとしもと)の墓
日野俊基は、鎌倉幕府の打倒をはかる後醍醐天皇の命を受けて暗躍した公卿。正中元年(1324)に幕府に捕らえられたが、このときは許されました。なおも後醍醐天皇の倒幕計画に加わっていたため、元弘元年(1331)再び捕らえられて鎌倉に送られ、翌年の6月3日に葛原岡で処刑されました。
柵に囲まれて、俊基の墓といわれているのは室町時代の宝篋印塔です。ここに俊基の墓が作られたのは、南朝を正統とみるようになった明治時代のことですが、それが何年のことだったかは分かりませんでした。昭和2年(1927)4月8日に国指定史跡に指定されたと説明板に書いてありました。

286回―10
葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)(鎌倉市梶原5-9-1)
葛原岡で処刑された日野俊基を祭神とする神社。境内に立っている石の説明板に次のように書いてあります。
社殿は、明治天皇の思し召しにより、地元有志の方々の骨折りで全国の崇敬者の協力を得て、明治21年に創建された。例大祭は、ご命日の6月3日。
しかし神社のHPには
明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。
とあります。説明板とHPとでは、創建の年が違っていますが、HPにある明治20年創建という方が一般に使われているようです。
満開の桜のもと、訪れた人でにぎわっていました。

286回―11
日野俊基 終焉の地
俊基は葛原岡で処刑されましたが、それがどの地点かは実は分からないのです。
しかし、社殿に向かって左手に竹垣が結ってあって、中に「俊基卿終焉之地」と彫った自然石が立ててありました。
俊基処刑の有様を『太平記』巻二は次のように記しています。
俊基、ふところから紙を取り出し、辞世の頌(じゅ)を書き給う。
古来の一句 死も無く生も無し 万里雲尽きて 長江水清し
(頌の訳 昔より言いふるされたことながら、まこと死も生も恐るるに足らず、さながらわが思い、清く流れ行く揚子江の如し)
<訳は新潮日本古典集成『太平記』(一)87頁>
筆をさしおいて、びんの髪をなでたまう程こそあれ、太刀かげ 後ろに光れば、首は前に落ちけるを、(俊基は)自ら抱えて伏し給う
なお、鎌倉幕府北条氏が潰え去るのは俊基が処刑された次の年です。俊基に同情する立場からは「もう一年生きておればなぁ。歴史は非情だなぁ。」ということになるのでしょう。

286回―12
銭洗弁天への入口とやぐらの跡
葛原岡を下る道は整備されて、自動車が通う道幅になっています。下って少し行った所に、このあたりでよく見る凝灰質砂岩の岩盤にトンネルをうがって弁天社(宇賀福神社)への入口が作られています。
写真の鳥居の上を見てください。これは鎌倉時代に使われていた「やぐら」(死体の安置所、つまりお墓)の跡です。ということは、この道路整備が行われる前には、やぐらの高さに道があったもので、道路は現在の位置まで掘り下げられて作られたことを示しています。
この道路に沿って、やぐら跡がいくつかありました。

286回―13
銭洗弁天 宇賀福神社
境内の説明板に次のように書いてありました。
銭洗辨財天 宇賀福神社 御由緒
祭神 本社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)  奥院 辨財天
由緒 草創は鎌倉時代に遡るといえる。口碑によると、源頼朝、霊夢の告げによって宇賀福神を崇拝して…(略)神仏習合によって久しく辨財天の名で親しまれ、明治の神仏分離で神社となる。銭洗い水で金円を洗うと心を清め、不浄の金をあらうことにより、寿福幸運が授けられる。

また別の説明板には次のようにありました。
正嘉元年(1257)、巳の年に執権北条時頼公は、頼朝公の信心を受け継いで隠里の福神を信仰した。そのとき、公は「辛巳」「なる」「かねの日」がすべての人々に福徳が授けられる日だと調べ、この日に人々が参詣する事をすすめたということです。
頼朝が夢告によって宇賀神を崇拝したとか、北条時頼が人々に参詣するよう勧めたとかの話が何に基づいているのか知りたいと思いました。または、縁起伝説は自ずから尾ひれをつけて次第に成長する場合があることの事例の一つと考えるべきでしょうか。
奥宮も鎌倉石の岩盤をうがって作られています。この奥に、お金が貯まることを願って参詣者が銭を洗う場があります。

286回―14
塔之辻の碑
源氏山を降りて稲村ヶ崎までの道は長かった。住宅地の中を通る旧道と思われる細道で、ほぼまっすぐ南向し、江ノ電 和田駅のそばまで続いています。この道は和田駅近くで、若宮大路の下馬交差点から西へ、六地蔵を通って長谷観音前の交差点に通じる道路を横切ります。横切るところに鎌倉彫寸松堂の三重塔のような建物があります。
そのそばに鎌倉町青年団が立てた塔之辻の碑がありました。寸松堂の建物が塔のように見えるので、このことを指しているのかと思いましたが、碑文を読むと全く違いました。
由比の長者太郎太夫時忠の愛児が鷲にさらわれた。父と母はさがしたが見つけることが出来なかった。処々方々で片骨塊肉を見、これが我が子のなれの果てかと、それらの場に塔を建てて供養した。故に鎌倉にはあちこちに塔の辻がある。
というようなことが彫ってあります。由比の長者の子は成長して良弁僧正(ろうべんそうじょう)といわれ、東大寺の初代別当になったと「大山寺縁起」に書いてあります。子供の頃、鷲(わし)にさらわれて奈良まで連れて行かれたという話です。塔之辻碑に書いてある話は、その別タイプの伝説でした。
肝心の塔は、寸松堂の前を渡った先にあったようですが、見落としました。

286回―15
是より東海道の碑
寸松堂の前を東西に延びる大きな道路は長谷小路とも呼ばれているようです。寸松堂の店の前に是より東海道とある小さな碑がありました。長谷小路は鎌倉時代には大町大路とも呼ばれていたようです。この地点で「是より東海道」というから、西に向かうと京都に続いたのでしょう。

 

286回―16
江ノ電 和田塚駅への細道と和田塚駅
塔の辻から江ノ電和田駅までは近い。近いが、駅に至る通路がすごい。なにがすごいといってその通路は、線路との間に華奢な柵一列を隔てただけの、人が横になっては絶対歩けない細道なのです。別に、駅に入るチャンとした通路があるのかも知れませんが、私たちは西側から線路沿いにこのすごい道を通りました。
もっとすごいものもありました。駅ホームから線路を越した反対側に、この線路に向いて店を開いている甘味処 無心庵があるのです。「おしるこ」と染めぬた赤い小旗を立てて開店していました。
ホームに近づく通路は線路と同じレベルになっているので、ホームの面が目の高さより少し低い位置に当たり、鎌倉駅からやってきた電車がちょうどホームに入る所をねらってシャッターを押しました。まるでホームに腹ばいになって撮ったような写真になりました。

286回―17
江ノ電 極楽寺駅
いい雰囲気の駅です。昭和の初めころに戻ったような気分になりました。私は昭和22年うまれですが。
赤い郵便ポストも今は数の少なくなった貴重品でしょう。そして駅名を書いた表示板は緑色。ポストの赤を意識して、その補色関係にある緑を用いたなと、私は思ったものです。
和田駅から極楽寺駅までは電車に乗ったのであります。
『太平記』とは全く関係ない風景ですが、このような所がいきなり現れる、実に楽しい茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりなのであります。
わが世の春は楽しめるときに楽しんでおくものだと思っています。

286回―18
極楽寺と極楽寺坂の攻防戦
江ノ電極楽寺駅舎を見て、のほほんとなっていたのですが、「アァ、ここは極楽寺の切り通しだ」と思い至りました。『太平記』巻十 鎌倉合戦の事の中に、この切り通しでの激戦の模様が書かれています。
正慶2年(元弘3年)(1333)5月、勝ちに乗じた新田義貞軍は鎌倉を包囲します。60万7千余騎の兵を三手に分け、極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂から進入を図ります。この極楽寺坂が今の極楽寺駅・極楽寺の前の坂道で、合戦の頃はもっと高い位置にあったそうです。ここの大将には大館次郎宗氏(おおだてじろうむねうじ)と江田三郎行義(えださぶろうゆきよし)が命ぜられました。『太平記』にその勢すべて十万余騎、極楽寺の切り通しへぞ向かわれける。とあります。正慶2年(1333)5月18日のことでした。
正慶2年5月はユリウス暦でも5月で(Wikipedia)、今の時節と変わらなかったようです。私たちが極楽寺を訪れたのは3月の末で、桜がほぼ満開でした。鎌倉時代には、約2 ヶ月後にここで死闘があったのです。やがて戦場になるとはつゆ知らず、忍性(にんしょう)さんゆかりの古刹の境内をのんきに経めぐっておりました。

286回―19
極楽寺洞(ごくらくどう)
名前だけを聞けば怪しげな雰囲気の洞窟を思い浮かべますが、江ノ電のトンネルです。「極楽」は地名を取ったものでしょう。「洞」はトンネルのことでしょう。極楽寺駅とこのトンネルの間にある橋の上からよく見ることができます。鎌倉市と土木学会がそれぞれ建てた説明板があって次のように書いてありました。

鎌倉市景観重要建造物等33号 平成22年11月24日指定 江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができる。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にめずらしい。今なお建設当時の原型をとどめている。 建設年 明治40年(1907) 設計者土井治男

土木學會選奨土木遺産 2014 「江ノ島電鉄(極楽洞)」
江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道)
江ノ島電鉄は明治35年(1902)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本最古である。極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907)竣工。藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。平成22年(2010)鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。延長209メートル、高さ5.285メートル、幅3.940メートル

286回―20
大館宗氏主従の墓 十一人塚
先に18―極楽寺の説明中に触れましたが、新田義貞は極楽寺から攻める大将の一人に大館次郎宗氏を充てました。『太平記』は、大館宗氏が三万騎をもって極楽寺坂に布陣し、鎌倉打ち込みの指令を今か今かと待っていたと書いています。
一方鎌倉幕府方には、大仏貞直(おさらぎさだなお)に仕える本間山城左衛門という武将がいて極楽寺坂を守っていました。本間は、自分の主人である直貞から何事かの嫌疑をかけられ蟄居させられていたのですが、その汚名をそそぐには、ここで敵方の大館宗氏を討って手柄を立てるしかないと考え、わずかの手兵と共にその陣中に打って出て、やっとのことで宗氏の首を掻き、主人の直貞にその旨を報告して面目を施したのち自害したとあります。
極楽寺を出て私たちは極楽寺坂を、新田軍とは逆に南西の方向へ稲村ヶ崎をめざしました。やがて国道134号と海が間近になった辺り、道の脇に十一人塚があり、そこに立つ碑に次のように彫ってありました。
十一人塚碑 元弘三年五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ大将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシニ 敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本陣ニ切込ミ 爲メニ宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲ニ埋め十一面観音ノ像ヲ建テ 以テ其ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人塚ト称セシト云フ /昭和六年三月 鎌倉町青年團
どういう訳か、大館次郎宗氏と「又」の一字が増えていました。
またここには小型の石柱が立ててあり、その正面に元弘三癸酉年五月十九日/大館又次郎源宗氏主従十一人墓と、右側面に于時文久二年壬戌年(1862)と彫ってありました。「于時」は「時に」と読みます。
この攻防戦で大館宗氏はすぐに討たれてしまいます。主役はむしろ本間山城左衛門です。『太平記』は本間の行為を徳を以て(主の)怨みに報ずと讃えているのです。碑を建てて顕彰するなら本間山城左衛門をこそだと思うのです。なぜ大館宗氏になるのでしょうか。
また、南朝が正統とされるのは明治時代になってからですが、新田義貞方の大館宗氏の墓がすでに江戸時代の文久2年に建てられているというのも、不思議な気がします。
討ち死にした大館主従が十一人だったと断定されていることにも唐突な感じがします。
この十一人塚には、まだ説明されていない、隠れた何かがあるようです。

286回―21
稲村ヶ崎
やっと、この日の最終地、稲村ヶ崎に到着しました。まず、例の如く鎌倉町青年団が立てた碑を見学します。
稲村崎 元弘三年五月二十一日 新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ禱(いの)レリト言フハ此ノ處ナリ/ 大正六年三月建之 鎌倉町青年團
新田軍の極楽寺坂担当の大将 大館宗氏が撃たれたために、義貞は一端、兵を片瀬・腰越まで引いて、21日、再度2万の兵を率して極楽寺坂で敵の陣を望むと……。 『太平記』の記述をたどりますと、
北は切り通しまで山高く、路けわしきに、(敵は)木戸(=城門)を構え、かい楯を掻いて数万の兵、陣を並べて並みいたり。南は稲村崎にて、砂浜の路せまきに、波打ち際まで逆木(=さかぎ、柵)を引き懸けて、沖四、五町が程に大船を並べて、横矢(側面から射かける矢)を射させんと構えたり。
進むことができなくなったのです。
義貞馬から下りたまいて、冑(かぶと)を脱いで海上を伏し拝み、龍神に向かって祈誓(きせい)したまいける。(略)至信(ししん)に祈念し、みずから佩(は)きたまえる金作(こがねづくり)の太刀を抜いて海中へ投げたまいけり。
すると明け方になって、
にわかに二十町あまり干あがって平沙(砂浜)渺々(びょうびょう=広々)たり。(略)六万余騎を一手に成して稲村﨑の遠干潟を真一文字に駆け通りて、鎌倉中へ乱れ入る。
この後の、鎌倉幕府北条一族の滅亡のくだりは、平成29年12月25日におこなった第284回史跡めぐり「鎌倉の廃寺跡を訪ねる」で取り上げます。

この日の案内 山本会員
photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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“第286回 鎌倉市 (『太平記』の舞台 2018.3.26(月)” への2件の返信

    1. コメントをいただきありがとうございました。
      しかもお褒めのコメントを!
      地図作成は悪戦苦闘しております。
      試行錯誤を積んでみます。

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