郷土会 Study Room 東 哲郎さん「茅ヶ崎の別荘」 2018.05.15

東 哲郎さんの熱弁

平成30年度の1回目です。
明治時代を迎えて、世の中が新しい方向性を求めて右往左往する中、大きな出来事が天から降ってきた。鉄道―東海道線が当時の茅ヶ崎村と松林村とを東西に横切って敷設されたのである。明治20年(1887)のこと。鉄道は通ったが停車場は作られなかった。藤沢駅の次の駅は平塚駅。
2年後には横須賀線も敷設された。そして、大磯、逗子、葉山などに別荘地の開発が始まり、地域開発と経済効果に対する関心が湧き起こった。
茅ヶ崎にも停車場を! 駅はこの地の開発にとって欠かせない!当時の人々はそう思ったことだろう。
明治22年、茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村、小出村ができた。
同27年(1894)伊藤里之助が茅ヶ崎村村長になった。このころ、駅の誘致運動が盛んにおこなわれていた。
伊藤里之助は頭を悩ませていた。茅ヶ崎の将来像をどのように描こうかと。
茅ヶ崎村とその東側にある松林村は相模湾に面している。しかし、両村のちょうど鉄道線路の南側一帯は砂地で耕作地としては不適だった。
里之助は考えた。この役に立っていない土地を別荘地として開発できないものか。
里之助の活動が始まった。茅ヶ崎駅の開設に向けた運動が。駅ができれば人を呼ぶこともできる。地元の農産物・水産物の輸送にも便だ。
明治29年(1896)当時一番の人気役者、九代目市川團十郎が松林村小和田の一角に6千坪の敷地を購入した。同年には医者須田経哲も茅ヶ崎に移り住んだ。
茅ヶ崎駅の開設が近いことを見こしてのことだろう。
明治31年6月、東海道線茅ヶ崎駅ができた。
このことを契機にして、伊藤里之助の都市プランニングが動き始めた。別荘地開発はその中の重要プロジェクトだった。

東 哲郎さんの話の一部を、勝手に換骨奪胎して文章化しました。
たくさんの資料を用意して、たいへん面白く話していただきました。東さんにお礼を申し上げます。

今年度の茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりと郷土歴史民俗勉強会は、茅ヶ崎の別荘にテーマとしています。
このあとも、東さんの「別荘の話」は続きます。次は9月18日(火)「箕作一族と柳田国男」12月18日(火)「土井別荘と石川村」。ともに時間は10:00から、場所福祉会館を予定しています。

photo & report 平野会員

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