281回 小田原市 小田原城とその周辺 平成29年6月26(月)曇

参加者19名

今年度の史跡めぐりは鎌倉市内4回、小田原市とその周辺を3回予定しています。今回はその小田原市とその周辺の第一回として、小田原城が第一の目的でした。小田原城天守閣は昨年耐震補強工事をすると共に展示を大規模リニューアルしました。どのように変わったか楽しみです。

いつものように茅ヶ崎駅に集合し、JR東海道本線で小田原駅へ行き新幹線口を出た広場に①北条早雲公像が建っています。そこから徒歩10分で②北条氏政・氏照の墓所に着きました。次いでお堀端通りを進むと③幸田口門跡があり、そこは江戸時代築造の「三の丸土塁」が小田原郵便局の裏側まで続いていました。そこからはいよいよ小田原城址公園に入りました。④歴史見聞館⑤常盤木門・巨松(おおまつ)、⑥小田原城天守閣を経て⑦土産物館外郎(ういろう)、⑧小田原宿なりわい交流館で本日の史跡めぐりは終了しました。その後全員で「だるま料理店本店」で舌鼓を打ち解散、それぞれに茅ヶ崎へ帰りました。

今回の史跡めぐりの目玉は小田原城でありますので、その歴史を簡単に述べておきます。小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年頃に戦国大名小田原北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を構築しました。これで城の規模は最大に達し、日本最大級の中世城郭に発展しました。

江戸時代を迎えると、小田原城は時の領主達によって改修が進められ、近世の城郭として生まれ変わり、箱根を控えて関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として幕末まで重要な役割を担ってきました。

明治三年に小田原城は廃城になりほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。現在の小田原城跡は本丸・二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されており、「日本一〇〇名城」「日本の歴史公園一〇〇選」にも選ばれております。

天守閣は、江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造りで復興されたものですが、昨年耐震補強工事を完成させ、内部の展示も五階層になっており、常設展示・企画展等で、古文書・絵画・武具・刀剣などの歴史資料の展示室になっています。

小田原北条氏の経歴・事績については既にご承知の事と思います。そして次回の「阿弥陀寺」めぐりの時、早雲寺にも寄りたいと思いますので、今回は言及しません。

そこで、今回是非知って頂きたい事があります。小田原城が初めて築かれたのは大森氏と前述しました。この大森氏について調べてみました。大森氏は駿河郡の古い土豪であり、台頭するのは大森頼春の代からだそうです。鎌倉公方に仕え「上杉禅秀の乱」の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼしその勢力圏の相模・伊豆に勢力を拡げました。「永享の乱」の後、国人として勢力を保ち「享徳の乱」以後の混乱期に憲頼・成頼と氏頼・実頼の系統に分かれ対立しましたが、氏頼系が勝利し扇谷上杉家の重臣となり、小田原城を中心に勢力を拡げ繁栄しました。その後大森氏は藤頼の代に北条早雲に小田原城を落とされ没落しました。しかし一族の末裔が小田原北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え幕府の旗本として存続していきました。

   大森頼春――氏頼―――――実頼
―憲頼 ― 成頼 ―藤頼

この大森一族は歴代、仏教に対する関心が高く、氏頼(法号寄栖庵明照)は数々の寺々を建立しています。その最大の寺が道了山最乗寺です。今でも四千の末寺を抱え宗門最大の勢力を示して、大森氏の絶頂期を築いております。頼春の弟には箱根権現の別当の証実(澄実)がおり、さらにその弟には安叟宗楞(あんそうそうりょう)がおります。彼は小田原久野総世寺・早川海蔵寺・箱根阿弥陀寺等を建立しています。

(report 源会員)

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