7 箱根神社(箱根町)と松原神社(小田原市)

箱根 芦ノ湖 冬の景

箱根神社の歴史は天平宝字元年(757)箱根に入った万巻上人(まんがんしょうにん)が寺院と霊廟を建立し、箱根三所権現として祭った事から始まった。
鎌倉時代になると源頼朝を中心とする鎌倉政権の援助により関東武士の鎮護神となった。この傾向は小田原北条氏にも引き継がれ、僧兵を擁して豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した。廃仏毀釈運動で打撃をうけ、その際多くの宝物類を失った。
小田原市内にある松原神社は現在は修験を表すものは全くないが、神仏習合時代には、本山派修験の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が別当として神社を管理、運営していた。玉瀧坊は大住郡や高座郡を中心に、相模国43カ寺の末寺を抱える地方本山で、相模国本山派の中心的存在だった。

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箱根を開いた万巻上人

箱根神社蔵

箱根を開いたのは万巻上人といわれている。
彼は山岳修行僧で、天平勝宝元年(749)に鹿島神宮寺を建立したあと、箱根に来たと伝えられている。
箱根に本格的な堂宇が建立されたのは上人が来山してからで、天平宝字元年(757)、霊夢の告げによって三所権現を勧請した。上人は養老年中(717-724)、洛邑(平城京)に生まれ、成長して修行僧となった。
『方広経』1万巻を看閲することを日課とするという願を立てたので、万巻上人と称されたという。(KL-NETの『箱根神社大系』の説明から)。
箱根神社には万巻上人の坐像が伝えられていて、国指定の重要文化財になっている

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箱根神社
『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系本 風土記稿第2巻 79頁)に、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)とあり、「各坐像にて萬巻上人の作という、秘して別当といえども拝することなし」とある。また、別当は古義真言宗の東福寺とある。
神仏分離以前は箱根三所権現(はこねさんしょごんげん)と呼ばれて女体、俗体、法体を祭るものであった(五来重著『山の宗教―修験道案内」(角川ソフィア文庫 122頁)。この三体がニニギノミコトなどになぞらえられていたのだろう。今も三柱のミコトを祭神とする。
かつての修験道の痕跡を見ることは出来ないが、『新編相模国風土記稿』87頁の箱根神社の項に、6月の例祭時、「先達・山伏、神木登(志伎濃保利=しきのぼり)ということをつとむ」とある記述が、そのありさまの一端を示している。

7-1-03
九頭龍神社
箱根神社の境内にも九頭龍神社があるが、本来のものは箱根園の中にある。境内の神社はこの箱根園中の神社を勧請したものである。
『新編相模国風土記稿』箱根三所権現社の項(87頁)に「六月十二日の夜、湖水にて龍神の祭禮あり」とある。また、五来重『山の宗教』に、九頭龍神社は箱根の水の神様で、金剛院という山伏が支配していたとある。
『筥根山縁起并序』に、人々を苦しめる芦ノ湖の龍が万巻上人によって調伏され、後に神として祭られたとある。写真は神社境内にある九頭龍神社。

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松原神社
小田原市本町にある。
『新編相模国風土記稿』第2巻8頁の小田原宿宮前町の項には松原明神社として載っている。祭神は日本武尊とある。古くは鶴森明神といったが、海中から金の十一面観音が松原に出現し、その託宣によって、この社に移し本地仏としたことから社号を改めたとある。
小田原北条氏や大久保氏の庇護をうけた。

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神社の社額
江戸時代に松原明神社の別当は本山派修験の玉瀧坊だった。
『新編相模国風土記稿』(第2巻11頁)に、山城国(現京都)聖護院宮末で「先達奉行職なり。豆相二州及武州都筑(つづき)、久良岐(くらき)、多摩三郡を支配す、鶴松山玉流寺成就院と号す、当城主の祈祷所なり」とある。


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3 秋葉山量覚院 ―小田原市

京都の聖護院を総本山とする本山修験宗(本山派)寺院。小田原市板橋にある。
火防(ひぶせ)の信仰で知られる秋葉山大権現は、養老元年(717)遠州(静岡県)秋葉山上に泰澄大師の開創といわれている。小田原城主大久保氏は代々その秋葉権現を信仰し、城主となった慶長元年(1596)に當所に勧請したと『新編相模国風土記稿』にある。
江戸時代に、量覚院はこの秋葉社の別当寺で、本山派相模本山の小田原の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)霞下だった。毎年12月6日に催される火祭りには各地の山伏が参加し、火渡りの荒行などが行われ、火難消滅や無病息災を祈願する。茅ヶ崎郷土会は、平成27年この火祭りを見学し、たくさんの画像を記録した。
【画像をクリックすると大きな画像で見ることができます】

3-01 火祭り開始前の本殿参拝

俗にいう修験の火祭りは、本山派修験(天台宗系)では採燈護摩供養、当山派修験(真言宗系)では柴燈護摩供養(共に「さいとうごまくよう」)という。護摩供養は真言宗などで盛んに行われ、神聖な火炎で罪穢れを焼き尽くし、新しい力の復活を祈り、現世の利益を祈るものであり、修験道では特に力を入れて取り組んでいる。なお、量覚院は本山派に属している。
祭事を始めるにあたって、秋葉大権現に参拝する。量覚院は、神仏分離以前にはこの秋葉山大権現の別当寺であった。なお、秋葉信仰の本山の静岡県秋葉山も修験道の霊地だった。

3-02 山伏登場

ホラ貝を吹き鳴らしながら山伏が祭場に登場する。
ネット情報によれば、山伏は何事かの合図のために(例えば神事や戦闘の開始、退却など)ホラ貝を吹き、その吹き方にも決まりがあるというが、道中で吹き鳴らす場合は、その音によって道々の魔を払うという意味もあると考えられる。

3-03 祭場のしつらえ

頭上に張ったしめ縄はこの場所が神聖な範囲として区切られていることを表している。細かくはさみを入れた独特の形の紙垂(しで)を垂らしてあって、その形が美しい。祭場の中央には竹の先を六つに割って、それぞれに黄色、赤、緑、紫、青、白の色紙の紙垂を垂らす。山梨県内(例えば北杜市)などの道祖神祭の際に、これによく似たものを作ってヤナギなどと呼んでいる。サイノカミのサイト焼きと称する火祭りは修験の火祭りに共通するところがあるといわれている。
祭壇の中央には、山伏が神霊などを運ぶ、笈(おい)が置いてある。

3-04 祭礼の始めにまず修祓(しゅばつ お祓いのこと)

神道の祭事では、携わる人たちの穢れを払うお祓い(修祓)を最初に行うが、修験道でも同じである。ただ、手にするものが神道では、紙垂(しで)と麻苧(あさお)で作る大幣(おおぬさ 大麻ともいう)だが、ここで修験者が振っているのは植物の枝先か葉先のようだ。
頭につけているのは頭襟(ときん)、着ている法衣は鈴懸(すずかけ)、背中にボンボン状のものが二つ見えるが、胸にも四つ付いていて帯で繋がっている。結袈裟(ゆいげさ)と呼ばれる。これらは山伏独特のこしらえで、密教的な解釈がなされている。

3-05 献餅を搗く

お供えの餅を搗(つ)く。この間にも、修験者は数珠を繰りながら読経を続ける。
祭壇に向かって腰掛けている修験者が頭にかぶっているものは何と呼ぶものか分からないが、修験道の祖 役 小角(えんのおづぬ)がかぶっている頭巾と同じもののようだ。身に付けるものの違いが、修験者の位の違いを表しているようだ。

3-06 献餅をいただく

搗き上がった持ちを祭壇に供え、集まった人たちにも振る舞う。これも神道の神社祭礼でもよく行われることである。お供えを神様が頂かれたあと、祭に参加する全員で頂き、その御加護を願い、新たな霊力を増そうという意味がある。 

3-07 火をつける直前

量覚院の火祭りは師走6日の夜に行われている。寒い季節だが、夜の火祭りは何とも言えない雰囲気を漂わせていた。暗くなるのを待って聖なる火がつけられた。

3-08 祭場巡回

火がつくと、10人ほどの山伏がその回りを回る。先頭の数人はホラ貝を吹く。その音(ね)で魔を祓い、祭場を清める意味がある。

3-09 宝剣式舞

日本刀を振り、魔を祓い、祭場を清める。その後ろで腰掛けている修験者の姿は、まるで役 小角(えんのうづぬ)のようだ。

3-10 火踊り


頭巾をかぶり、腰掛けて控えていた山伏が、二本の松明(たいまつ)を手に登場。これを火踊りといっていいかどうか分からないが、まるで踊りのように演劇化されている。どのような意味が込められているのか、聞いてみたい気がする。この火踊りの場面は、この日のクライマックスの一つである。

3-11 火渡り

火祭りのもう一つのクライマックスは火渡りである。山伏全員が裸足になって炎が収まった炭火の上を渡る。我が身を聖なる火炎で焼くことによって、罪穢れを焼却させ、命と力を復活させる意味が込められている。
このあと、希望する一般の参加者も火を渡った。

3-12 屋台店

儀式の一つひとつに、私たち庶民にはうかがい知れない深い意味が込められているのだろう。
一方、私たちにとって祭りの魅力は別の所にある。その一つが屋台店。プラスチックの刀、ブリキの自動車、真っ赤に着色されたりんご飴、甘ったるい焼きイカ、お好み焼。屋台店独特の品々が、なんとも言えない雰囲気で私たちを呼ぶ。
息を吹き込むとくるくる巻かれていたセロファンの袋が長く伸びて、口から離すと「ビー」と音を立てて戻る。あのビーという音がいくつも重なる屋台店。

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相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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相模のもののふたち (6)土肥実平と石橋山の合戦(湯河原町・小田原市)

相模国の各地に勢力を張っている豪族たちは、平安時代末からさらなる勢力拡大を図って、息子たちを本拠地以外の地におもむかせます。三浦義明は本貫の地を義澄に継がせ、四郎義実を岡崎におきます。また、相模西部に勢力を張っていた豪族の中村宗平(むねひら)は次郎実平を土肥郷に、三郎宗遠を土屋におき、中村党をなしました。このような豪族たちは、頼朝の旗挙げに参加し、御家人となって鎌倉幕府を支えました。
土肥実平は、頼朝の旗挙げのとき、景親に破れて敗走する頼朝のそばを離れず、勝手知ったる土肥郷の山中を案内し逃げ回りました。
『吾妻鏡』、治承4年(1180)8月24日の条は、頼朝が石橋山の合戦で破れ、山中を逃げる様子を詳細に記しています。景親が三千騎を率いて襲いかかる中、付き従う者たちは次第に数を減らし、北条親子をはじめ一党はちりじりになります。そこに突然6人の味方の武士があらわれ、頼朝の元に駆けつけたいと言ったところ、北条時政は「早くそうしろ」と命じます。そして彼らが嶮岨(けんそ)をよじ登って頼朝のそばに着いたとき頼朝は喜びますが、土肥実平が言ったことは「おのおの無事で参上したことは喜ぶべしといえども、これだけの人数を頼朝が率い給わば、この山にお隠しすることは出来ないだろう」と。しかし、それでも同行したいと6人は主張し、頼朝も許しそうだったため、実平はさらに言葉を継ぎます。「今、分かれて逃げることは後のためには大きな幸いとなろう。生き延びて、さらに考えをめぐらせば、ここで破れたことの恥をいずれ晴らすこともできよう」と。
このコーナーでは、土肥実平ゆかりの湯河原町の史跡などや、石橋山合戦の場を紹介します。
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6-01
実平夫婦の銅像(湯河原町 湯河原駅前)
湯河原駅前に立つ土肥次郎実平夫婦の銅像。像の由来書きには「頼朝旗挙げ800年と土肥会創設50周年を記念して、実平公とその夫人の遺徳を伝えんがため建立した」とある。
甲冑に身を固めた実平の横に控えるのは実平夫人だが、夫人が両手で持つ包みは何か分かりますか?
その答えは弁当。大庭景親に破れた頼朝は、この地を知り尽くした実平の手引きで杉山の山中を逃げ惑う。『源平盛衰記』には、もはや最後と覚悟した頼朝主従が、山中で「小道の地蔵堂」にたどり着き、そこの上人法師に助けられる場面がある。地蔵堂に潜む彼らに実平の女房が、花かごに見せて食い物を運ぶ。「心さかしき土肥次郎が女房は、あじか(容器のこと)に御料(食糧)をかまえ入れ、上にシキミ(植物)を覆い、桶に水を入れて、上人法師の花摘む由にもてなして、忍々に(ひそかに)送りけり」
それにしても銅像ではあるが土肥次郎の女房の、なんと美人であることか。

 

6-02
城願寺とビャクシン (湯河原町城堀252)
曹洞宗、萬年山城願寺は湯河原駅の近くにある。寺のホームページの文章を、途中を省略しながら引用すると、
「約八百数十年前、この地(相模土肥郷)の豪族土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように“萬年山”と号して持仏堂を整えたことからその歴史は始まる。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏の末裔の土肥兵衛入道が再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改めた。やがて土肥氏が失脚し、小田原大森氏の時代になると再び衰退するが、戦国時代に大州梵守〈1525:大永5年卒〉が再興、曹洞宗に改宗し現在に至る。」
参道の石段を登り切ったところにビャクシンが聳えている。国の天然記念物であり、神奈川の名木100選に選ばれている。説明板には「樹高20㍍、胸高周囲6㍍、土肥実平手植えと伝え樹齢推定800年」とある。

6-03
城願寺の土肥一族の墓所 (神奈川県指定史跡)
檀家墓地の奥に土肥一族の墓所と伝えられ、五輪塔、宝篋印塔、層塔などを集めた一角がある。湯河原町と「土肥会」が連名で立てた説明板に次のように記してある。
「五輪塔はどれも銘がなく建立年や施主など不明。中央が実平、向かって左は実平の妻、同右は遠平(長男)、そのさらに右は遠平の妻と伝える。
幕府成立後、実平は広島県三原市の沼田荘に遠平と移住し亡くなった。三原市米山寺にも墓があるが、山形県鶴岡市井岡、静岡県静岡市安養寺、小田原市谷津鳳巣院などにもある。」
また、町教育委員会の説明板には、これらの石塔の中に「嘉元二年(1304)七月銘の五層の層塔、永和元年(1375)六月銘の宝篋印塔がある」と書いてあった。

6-04
土肥祭 武者パレード①
湯河原町では毎年4月第一日曜日に「土肥祭」が行われている。祭りの中心は武者行列で、土肥実平などの武者が所々で名乗りを上げる。今年、土肥祭を訪れ、その様子を撮影してきた。
土肥氏は、相模国西部で平安時代末期から勢力を張った中村党に属した。淘綾郡(ゆるぎぐん)中村荘(現小田原市・中井町)に拠った武士に中村宗平(むねひら)がおり、その子実平(さねひら)は土肥郷で土肥氏を、宗遠(むねとお)は土屋郷(平塚市)で土屋氏を、友平(ともひら)は二宮氏をなした。宗平の女は、三浦一族で岡崎(平塚市)に勢力を張った岡崎義実の妻となった。
また、湯河原町には「土肥会」という団体があって、土肥実平公の事跡を顕彰し後世に伝えるとともに土肥祭の武者行列を全面的に支えている。(土肥会のホームページから)
写真は甲冑武者たちが名乗りを上げているところである。

6-05
土肥祭 武者パレード②
パレードの中で、騎馬武者が二人いた。どちらかが実平で、もう一方は頼朝だろうか。あるいは、実平、遠平の親子だろうか。扮しているのは町長さんと町議会の議長さんではなかろうか。

 

6-06
石橋山古戦場 (小田原市)
1180年(治承4)6月、平清盛は幼い安徳天皇を伴い福原に遷都した。その福原へ9月2日、相模国の大庭三郎景親から早馬をもって報告が届いた。『平家物語』(巻5早馬)に、
「去ぬる八月十七日、伊豆の流人頼朝、舅(しゅうと)北条四郎時政を使わして伊豆の目代兼隆を山木の館(たち)に夜討ちす。その後土肥(次郎実平)、土屋(三郎宗遠)、岡崎(義実)をはじめ伊豆、相模のつわもの三百余騎、頼朝にかたらわて相模国石橋山にたて籠もって候ところに、景親三千余騎を引率(いんぞつ)して押し寄せ攻め候うほどに、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=頼朝)七、八騎に討ちなされ、土肥の杉山に逃げこもり候いぬ。」
写真の向かって右側の斜面の奥が石橋山の古戦場。今はみかん畑が点々とする。

「遠くからみかん畑にときのこえ」 “フーテンの熊”詠む

 

 

6-07
古戦場の碑
みかん畑の一角に「石橋山古戦場」の碑があって「源頼朝挙兵之地」と彫ってあった。『吾妻鏡』8月23日の条に、前日は「夜にいりて甚雨(じんう)いるがごとし」とある。
「今日寅の刻(午前4時ころ)、武衞(頼朝)、北条殿父子、盛長、茂光、実平(土肥)以下三百騎を相率して石橋山に陣したまう。この間、件(くだん)の令旨(りょうじ)(以仁王の令旨)をもって御旗の横上に付けらる。
ここに同国の住人大庭三郎景親、俣野五郎景久…平家被官の輩(やから)三千余騎、精兵を率して同じく石橋山の辺にあり。両陣の間、一谷(ひとたに)を隔つるなり。また伊東祐親(すけちか)法師、三百余騎を率して、武衞の陣の後の山に宿してこれを襲いたてまつらんと欲す。」
頼朝の元に駆けつけた三浦の衆は増水した酒匂川に阻まれた。それを見た景親は、
「すでに黄昏(たそがれ)に臨むといえども合戦を遂ぐべし。明日を期(ご)せば三浦の衆馳せ加わりて定めて喪敗しがたからんか。群議終わりて数千の強兵武衞の陣を襲い攻む。」

6-08
城願寺の七騎堂 (湯河原町)
城願寺の境内に「七騎堂」と呼ぶ六角形の建物がある。説明板には、
「謡曲“七騎落(しちきおち)”は鎌倉武士の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。石橋山で破れ逃げる頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。頼朝は、八騎は不吉として、七騎にせよと土肥実平に命じた。我が子遠平を犠牲にして下船させたが、遠平は和田義盛に救われ、歓喜のあまり宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。七騎堂には七騎の木像が納められている。」
ちなみに七騎とは、謡曲の中では田代信綱、新開荒次郎、土屋三郎宗遠、土佐坊昌俊、土肥次郎実平、岡崎四郎義実と頼朝である。

6-09
佐奈田与一と俣野五郎の一騎打ち (小田原市石橋山)
石橋山合戦の山場は、頼朝の敗走と佐奈田与一義忠の最後を語る場面である。『源平盛衰記』は与一落命時を「弓手(ゆんで)は海 妻手(めて)は山、暗さは暗し雨はいにいで降る、道は狭し」と書く。景親の平家軍と対峙した頼朝から「今日の軍(いくさ)、先陣つかまつれ」といわれて、与一義忠は、景親かその弟俣野五郎景久を倒そうと思って捜す折、暗い中で組みついてきた岡部弥次郎を討つ。その後、狙うところの五郎景久と出会う。両者馬から落ち、組み合ったまま上になり下になり転び回る。ようやく景久を組み伏せて、その首を掻かんと郎党の文三家安を呼ぶが、文三は遠くにいて声が届かない。そこに景久の家来長尾新五が来て「どちらが敵か味方か」と問う。ばれるのを恐れた与一は信吾を蹴飛ばし、その隙に景久を突こうとするが、岡部を討ったときの血糊が災いして刀が鞘から抜けない。そして長尾新五と新六兄弟のために首をとられる。文三家安も敵方の稲毛三郎の郎党に倒される。
写真の浮世絵は平塚市真田の天徳寺境内に立つ説明板の複写。鞘から抜けない刀を持つ与一を描いている。

6-10
ねじり畑 (小田原市石橋山)
みかん畑に立つ標柱に「佐奈田与一義忠 討死(うちじに)の地」とある。この畑はどういう訳か「ねじり畑」と呼ばれている。何でもない、横に細長い段々畑で、みかんが植えてあって、訪れたときはまだ若い実がたくさんついていた。
与一を祭神とする佐奈田霊社の説明板に「ねじり畑は与一が組み討ちしたところと伝えられ、この畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる」とある。上になり下になって組み討ちしたことの連想から「ねじり畑」といわれるようになったのだろうか。『新編相模国風土記稿』早川庄石橋村の項(雄山閣版2巻143頁)には「ねじが畑 義忠、景久を組み伏せしところという」とある。

6-11
佐奈田霊社の与一塚 (小田原市石橋420)
石橋山古戦場はかなり広い範囲を指すものと思われる。古戦場の碑の近くに佐奈田霊社があり、境内に「与一塚」がある。「石橋山古戦場と佐奈田霊社」という説明板には「与一討ち死にの地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた」とある。
『吾妻鏡』によると、1190年(建久元)1月15日、頼朝は伊豆山權現(現熱海市の伊豆山神社)と箱根權現(箱根神社)を参拝する二所詣(にしょもうで)に出立した。そして鎌倉に帰着した20日の記事の中に次のようにある。
「路次石橋山において、佐奈田與一、豊三(ママ)らが墳墓を見、御落涙数行に及ぶ。件(くだん)の両人、治承合戦(石橋山の合戦)の時御敵のために命を奪われおわんぬ。今、さらにその哀傷を思(おぼ)しめし出さるるが故なり。」
今の与一塚が、頼朝が詣った与一の墓だったのだろうか。

6-12
佐奈田霊社の全景
写真の佐奈田霊社の建物はどう見ても寺院の作りである。小田原版タウンニュースのホームページに「佐奈田霊社は寶壽寺が管理している」とあった。宝寿寺は石橋の集落の中にあり、佐奈田霊社は古戦場の近くにある。宝寿寺は『新編相模国風土記稿』足柄下郡石橋村の項(雄山閣版2巻142頁)に「石王山地蔵院、古義真言宗、天正15年建、本尊不動、寺宝に與一義忠の肖像一軸あり」とあった。そして、風土記稿には宝寿寺の記事の次に
「佐奈田與一義忠墳」の記事が「熱海道の側より石段四十二段を登り、丘上に老椙樹あり。丘は圍(まわり)一丈八尺、高さ六丈。是を與一塚と呼ぶ。樹前に碑あり。長さ六尺、幅二尺。佐奈田與一義忠墓 治承四庚子八月二十三夜、と題す。こは稲葉美濃守正則の臣、田辺権大夫信吉建つるところ也。碑上に覆屋を設く」
とある。要するに、江戸時代には宝寿寺が石橋山山中の与一塚を管理していて、塚の上の覆い屋がその後、佐奈田霊社になったのだろう。

6-13
佐奈田霊社の効能書き
『源平盛衰記』に、与一は組み討ちの時、大声で文三家安を呼んだのだが、郎党たちは遠くにいて来ることができなかったとある。しかし、今に伝わる話では、のどに痰がからんで呼ぶことが出来ずに敵に命を奪われたという。
痰がからんで不幸がもたらされたというのに、お詣りすれば「ぜんそく・せき・のど」の病気に効くというのは逆なことのようにも思えるが、社前にはその効能が書いてあった。

6-14
江戸消防の奉納額
境内には江戸消防が奉納した石碑がたくさん立っており、また社殿には奉納額が掛かっていた。江戸消防組は鳶職の人たちから構成されていて、催し事のときに木遣りを歌うので、いい声がでるようにと願をかけるのだといわれている。

 

6-15
文三堂入口
主人の与一が討たれたところに、敵方稲毛三郎重成が文三家安の前に出て言うようには「己(おのれ)が主の与一は討たれぬ、今は誰がおまえを使おうぞ、逃げよ、助けん」と。しかし文三家安は「幼少より組んで戦うことは習えども、逃げ隠れすることは知らず。逃げよと宣(の)たまわらんより、組んで戦え」と叫んで敵方に突入し、8人を討ち取ったのちに討ち死にした。『源平盛衰記』の一節である。
その文三家安を祭る文三堂も石橋山古戦場の中にある。

6-16
文三堂
文三堂はささやかな建物だった。820年前、頼朝が詣でて涙を流したというのはここのことだろうか。

 

 

6-17
目印を刻んだ石
小田原から真鶴にかけて良質の石材が取れる。箱根火山の溶岩が固まった安山岩だそうである。最上のものを小松石といい、江戸城を建設するときも大量に運ばれた。
石橋山の古戦場を歩いているとき、道ばたに転がる大きな石に模様のようなものが刻んであった。所有者を表す印だと思う。運ぼうとしたが何らかの理由で置いておかれたものではなかろうか。

 

photo & report 平野会員

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281回 小田原市 小田原城とその周辺 平成29年6月26(月)曇

参加者19名

今年度の史跡めぐりは鎌倉市内4回、小田原市とその周辺を3回予定しています。今回はその小田原市とその周辺の第一回として、小田原城が第一の目的でした。小田原城天守閣は昨年耐震補強工事をすると共に展示を大規模リニューアルしました。どのように変わったか楽しみです。

いつものように茅ヶ崎駅に集合し、JR東海道本線で小田原駅へ行き新幹線口を出た広場に①北条早雲公像が建っています。そこから徒歩10分で②北条氏政・氏照の墓所に着きました。次いでお堀端通りを進むと③幸田口門跡があり、そこは江戸時代築造の「三の丸土塁」が小田原郵便局の裏側まで続いていました。そこからはいよいよ小田原城址公園に入りました。④歴史見聞館⑤常盤木門・巨松(おおまつ)、⑥小田原城天守閣を経て⑦土産物館外郎(ういろう)、⑧小田原宿なりわい交流館で本日の史跡めぐりは終了しました。その後全員で「だるま料理店本店」で舌鼓を打ち解散、それぞれに茅ヶ崎へ帰りました。

今回の史跡めぐりの目玉は小田原城でありますので、その歴史を簡単に述べておきます。小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年頃に戦国大名小田原北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を構築しました。これで城の規模は最大に達し、日本最大級の中世城郭に発展しました。

江戸時代を迎えると、小田原城は時の領主達によって改修が進められ、近世の城郭として生まれ変わり、箱根を控えて関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として幕末まで重要な役割を担ってきました。

明治三年に小田原城は廃城になりほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。現在の小田原城跡は本丸・二の丸の大部分と総構の一部が国の史跡に指定されており、「日本一〇〇名城」「日本の歴史公園一〇〇選」にも選ばれております。

天守閣は、江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造りで復興されたものですが、昨年耐震補強工事を完成させ、内部の展示も五階層になっており、常設展示・企画展等で、古文書・絵画・武具・刀剣などの歴史資料の展示室になっています。

小田原北条氏の経歴・事績については既にご承知の事と思います。そして次回の「阿弥陀寺」めぐりの時、早雲寺にも寄りたいと思いますので、今回は言及しません。

そこで、今回是非知って頂きたい事があります。小田原城が初めて築かれたのは大森氏と前述しました。この大森氏について調べてみました。大森氏は駿河郡の古い土豪であり、台頭するのは大森頼春の代からだそうです。鎌倉公方に仕え「上杉禅秀の乱」の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼしその勢力圏の相模・伊豆に勢力を拡げました。「永享の乱」の後、国人として勢力を保ち「享徳の乱」以後の混乱期に憲頼・成頼と氏頼・実頼の系統に分かれ対立しましたが、氏頼系が勝利し扇谷上杉家の重臣となり、小田原城を中心に勢力を拡げ繁栄しました。その後大森氏は藤頼の代に北条早雲に小田原城を落とされ没落しました。しかし一族の末裔が小田原北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え幕府の旗本として存続していきました。

   大森頼春――氏頼―――――実頼
―憲頼 ― 成頼 ―藤頼

この大森一族は歴代、仏教に対する関心が高く、氏頼(法号寄栖庵明照)は数々の寺々を建立しています。その最大の寺が道了山最乗寺です。今でも四千の末寺を抱え宗門最大の勢力を示して、大森氏の絶頂期を築いております。頼春の弟には箱根権現の別当の証実(澄実)がおり、さらにその弟には安叟宗楞(あんそうそうりょう)がおります。彼は小田原久野総世寺・早川海蔵寺・箱根阿弥陀寺等を建立しています。

(report 源会員)

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