第303回 その-3 茅ヶ崎市(下寺尾の白峰寺)2022.12.10

その-3 白峰寺

その-2 下寺尾の史跡の続きです。

白峰寺境内の石仏を見る

令和4年(2022)12月10日実施

コース
茅ヶ崎駅改札前集合(8:50)―香川駅集合(9:10)―(徒歩 以下同じ)―①駒寄川―②川津(かわづ)跡―③西方(にしかた)貝塚など―④七堂伽藍跡碑―⑤下寺尾廃寺跡―⑥西方遺跡(弥生時代の環濠集落跡)―⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)―⑧原のサイノカミ―⑨陣屋の池跡―⑩領主の松平氏陣屋跡―⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ―⑫おもよ井戸跡―⑬十二天社―⑭白峰寺―⑮鎮守の諏訪神社(解散)
(解散は諏訪神社12:30の予定でしたが、白峰寺で終了の予定時間になったためにこれを割愛しました。)

⑭景徳山白峰寺 (曹洞宗)

茅ヶ崎市下寺尾1551 小字では「北方」、チョウナイの名では「北ヶ谷(キタガヤト)」にあります。
白峰寺の見学のポイントは、(1)領主の松平家系の墓碑と、(2)江戸時代に白峰寺の信仰が江戸に広がっていたことの2点に絞りました。



松平家の墓碑
松平家は、江戸時代の下寺尾村の領主の一人で、初代忠政が、天正18年(1590)に村内の300石を宛がわれたことで下寺尾村との関係が出来ました。


境内の本堂の西側の道を北に上ると、松平家の墓地があります。
墓地の東側に5基、北側に7基、西側に4基の墓碑が並んでいます。
南を向いて北側に並ぶ7基が、合葬されているものもありますが、④重継(重次とも書く)から⑬勘義までの墓碑です。④重継の卒年は墓碑の銘に寛文11年(1671)と、⑫勘義は文久(1863)と彫ってあります。

④重継は、先に「⑩陣屋跡」で紹介したように、『風土記稿』に下寺尾村の館で生まれたと書かれている人物です。

両脇に並ぶ墓石は、一族あるいは奥方たちのものと思われます。

江戸時代の領主の墓石がこれだけ残っているのは、堤の浄見寺(大岡家)と浜之郷の龍前院(山岡家)の墓地に並ぶ貴重な遺跡です。


江戸に広がった白峰寺の観音信仰
白峰寺には江戸の商人たちが奉納したものがいくつかあります。

まず、参道の入り口に植え込みに囲まれた祠(ほこら)があり、中に石の柱(標石)と石の地蔵菩薩が並んでいます。
歌碑も2基あり、その1基に
 里まもる観音様も江戸育ち包む白衣も子等安かれと
  「昭和53年10月吉日 地蔵尊並観音碑債権記念 白峰寺檀徒一同」とあり、
   祠の中の白衣観音の標石に関係する歌です。

もう一つの碑は
 朝霧に深き緑の白峯の後世守り給いし地蔵尊 佐藤セン
  「昭和60年3月吉日建立」と刻まれています。地蔵尊を詠んだものです。


中央の白衣観音の標石は傷んでいて読めない文字がありますが、『白峰寺 寺誌』16頁に次の様に記してあります。
 正面 子安観世音菩薩
 右横 惟時天明二壬寅秋 八月十四日造立
 左横 江戸芝源助町 施主 伊勢屋孫兵衞
 

「子安観音」とは「白衣観音」のことで、「白衣観音にお参りする入口はここだよ」と示してある標柱です。江戸時代半ばには、白峰寺の白衣観音は江戸にも知られていたのです。
地蔵尊は県道の南側に立っていたのですが、破損していたのでしょう。昭和53年に再建され、標柱と並べて新しい祠の中に祭られました。
 

白峰寺の白衣観音(子安観音・子育て観音とも)
 『白峰寺 寺誌』には、同書18頁の「白峰禅寺観音霊場記」(天明2年:1782)を引いて、次の様に記してあります。
 「天明元年3月18日 江戸芝宇田川町花屋治郎兵衛は、唐渡りの玻璃(ガラス)の観音像を白峰寺に奉納した。」
 「観音霊場記」を読んでみると、白峰寺11世の梅薫和尚が江戸で布教し、観音像の奉納はその成果によるもので、観音菩薩を信仰していた伊予(愛媛県)松山藩主の定国卿も、天明元年(1781)に「円通」の書を奉納したとあります。また同年3月7日には観音堂が完成したとあります。「梅薫和尚は同年7月、白峰寺に帰山された」とも書かれています。

 残念なことに、信仰を集めた玻璃の観音像は関東大震災の折に、本堂や観音堂、庫裏と一緒に灰燼に帰したそうです。
 
 「円通」の書は天明2年3月、江戸の布袋屋六兵衛が扁額に仕上げ、その裏に沿革を記しました。現在は本堂に掛けてあり、白峰寺の寺宝となっています。



梅薫和尚の江戸での布教を伝える禁盃石 

白峰寺に昇る階段の下に
「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)
と彫った禁盃石(きんぱいせき)があります。寺に酒さかなを持ち込むな!、つまり修行に専念しなさいという意味です。

この石柱の一面に次の様に書いてあります。

「前の養命(梅薫和尚)が現住の時、江戸に托鉢修行し大乗経千部を読修した。ここに禁盃石を建てるに当たって、法華経を中に納め、天下太平・国家安全・山門繁栄・御開基(松平氏のこと)の武運長久・村方和合などを願うものである。」
「時に安永三年(1774)七月 現住智暾(ちとん)叟」
「前の当山十一世 大嶺叟梅薫これを造立」

「11世大嶺叟梅薫」と「現住(現在の住職)12世の智暾叟」との関係が分かりにくいですが、建てたのは11世梅薫和尚で時は安永3年、その時の住職は12世智暾和尚ということです。
梅薫和尚は、江戸に布教したことの記念にこの禁盃石をたてましたが、その時には住職を次の12世智暾和尚に譲っていたことになります。

白峰寺の「石坂」と「手水鉢」
禁盃石の横に、本堂に昇る石の階段(「石坂」)があります。その四隅に小さな石の柱(標柱)があり、この階段を作った経過が彫ってあります。

白峰寺の「石坂」 数字は四隅の標石
「石坂」左上の標石-2
「□金/金三両従御開基/金二両惣檀家」
「石坂」右上の標石-1
「安永四(1775)乙未年/九月二十三日」
「石坂」左下の標石-4
「新造立/門外石坂/殿前雨落/同 水鉢」
「石坂」右下の標石-3
「現住大温智暾□」

 「石坂」が作られたのは安永4年(1775)、御開基(領主松平氏)から三両、地元総檀家から二両の奉納があり、時の住職は12代大温智暾(ちとん)和尚、この時一緒に造立したのは①「石坂」(石の階段)、②本堂前の「雨落」(屋根から落ちる雨水を受ける鉢)、③「水鉢」(手水鉢)と書かれています。
 安永3年造立の禁盃石に続けてこれらのものが作られています。

本堂前と本堂横の二つの「水鉢」
「石坂」の標石-4にある「水鉢」は今も本堂前に据えられて手水鉢として使われています。
それとは別に、天明2(1782)年銘で「江戸尾張町」「坪井・・・」とある手水鉢も境内の松平家墓地にのぼる道の横にあります。この手水鉢も江戸に広まった白峰寺の信仰を表すものと思われます。

「石坂」の標柱-4にある安永4年(1775)銘の「水鉢」
松平家墓地への道の脇にある天明2年(1782)銘の手水鉢(正面)
天明2年銘の手水鉢(裏面)

梅薫和尚の功績
 梅薫和尚が行った江戸市中での布教活動は観音菩薩への信仰を進めるものでした。それが成功して信者を集めたことは、今も白峰寺に残っている手水鉢などから分かります。
 境内に昇るための石段(石坂)ができたのは12世智暾和尚が住職の時でしたが、11世梅薫和尚の働きがあったからの事、と思われます。
 茅ヶ崎市内に多くの寺院がありますが、寺の名を江戸に広め、信者を集めたお寺は他に聞きません。
 『白峰寺 寺誌』15頁に、白峰寺が江戸の信仰を集めたのは「当時盛んだった大山参りの江戸っ子達はその帰り道、一之宮から下寺尾の「鐘が橋」(現在の下寺尾橋)を渡り、白峰寺に参って旅行の安全を祈り…」とあります。
 述べてあるように、白峰寺の江戸布教が成功したのは、江戸時代には大山信仰が盛んで、下寺尾の近くを大山道が通っていたことも関係していると思われます。

ここで予定の終了時間を迎えたために、最後に訪れるはずの、下寺尾の鎮守、諏訪神社は割愛しました。
見るところが多かったのでいささか駆け足でしたが、天気も良く、楽しい半日でした。

【参考・引用文献】
・『新編相模国風土記稿』下寺尾村の項
・『明治12年 皇国地誌村誌』下寺尾の項 (『茅ヶ崎地誌集成』に収録)
・『寛政重修諸家譜』松平家
・白峰寺『寺誌』臼井孝之 臼井洋一郎著 平成11年白峰寺刊

report 平野文明会員

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