その-2 下寺尾の史跡 ⑧原のサイノカミ~⑬十二天神社
令和4年(2022)12月10日(土)実施
コース
茅ヶ崎駅改札前集合(8:50)―香川駅集合(9:10)―(徒歩 以下同じ)―①駒寄川―②川津(かわづ)跡―③西方(にしかた)貝塚など―④七堂伽藍跡碑―⑤下寺尾廃寺跡―⑥西方遺跡(弥生時代の環濠集落跡)―⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)―⑧原のサイノカミ―⑨陣屋の池跡―⑩領主の松平氏陣屋跡―⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ―⑫おもよ井戸跡―⑬十二天社―⑭白峰寺―⑮鎮守の諏訪神社(解散)
(解散は諏訪神社12:30の予定でしたが、実際はこれを割愛し、白峰寺12:30としました。)
事前の勉強会
令和4年11月15日(火)に市立図書館で行いました。
⑧原のサイノカミ
道祖神と呼ぶ人が多いようですが、半世紀くらい前まで、地元ではサイノカミ、あるいはセーノカミと呼んでいました。小正月(1月15日)ころに行うドンドヤキ(サイトヤキ、セートヤキともいう)は、このサイノカミのお祭りです。
一つの村が数ヶ所に分かれて祭っています。その祭る単位はチョウナイと呼ばれる家々のまとまりです。はじめにも書きましたが、下寺尾は4チョウナイに分かれていて、このサイノカミは原チョウナイで祭っています。
正面に「道祖神」・向かって右側面に「文化二(1805)乙丑年正月吉祥□」・左側面に「願主/氏子中/世話人 佐藤□右エ門」と彫ってあります。200年ほど以前に作られたものです。
⑨陣屋の池 跡
江戸時代に下寺尾村を収めていたのは旗本の松平氏でした。
のちに紹介しますが、江戸時代の初期に、松平氏は領地の下寺尾村に、一時屋敷を構えていました。その場所は「陣屋(じんや)の跡」と呼ばれています。
その陣屋跡から南に下る、人ひとりが通る細い坂道があり「陣屋の池坂」と呼ばれていました。道の西側に小さな池があったことからそのような名が付いたようです。地元では「火災の時の用心池として造られたもの。松平氏の乗馬の飲み水として使われた。」と伝えています。
今は埋め立てられて個人住宅が建っています。
なお、白峰寺の『寺誌』には「昭和40年代まで存在していた。」と書いてあります。
⑩陣屋跡
領主 松平氏の陣屋跡(郷中)
江戸時代の下寺尾村の領主、松平氏の陣屋の跡は個人の所有地となり、住宅が建っています。
『風土記稿』下寺尾村、白峰寺の項に、松平重継がこの村で生まれたと書いてあります。
景徳山と号す。曹洞宗。足柄下郡早川村(現 小田原市)海蔵寺末。本尊阿弥陀。開山は我国、天文13年(1544)9月23日卒。開基 古地頭 松平隼人正重継(寛政重修諸家譜で4代)なり。家譜によるに、重継は忠政(2代)の孫なり。慶長12年(1607)当村に生まる。始め七十郎と称す。また孫太夫に改む。寛文11年(1671)6月3日卒。年64歳。境内に葬り、月照院白峯道皓と諡(おくりな)す。
按ずるに、開山我国が卒年を去ることはなはだ遠し、重継は当寺を中興せし人にや。
(曹洞宗とありますが本尊は阿弥陀となっています。また、寺内の松平氏の墓石の戒名をみると浄土宗系のものが多数です。寺の宗旨は以前は違っていたのかも知れません。)
⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ
角柱型の道祖神
右側面に「安政二(1856)乙卯年」
正面に「道祖神」
左側面に「氏子中」
⑧原チョウと⑪郷中のサイノカミを紹介しましたが、下寺尾にはこの他に池端(いけはた)と北ヶ谷(きたげやと)のチョウナイにも祭られています。
池端は庚申講中が建てたほぼ同型の双体立像2基で、年銘も同じ「天明6(1786)」。
北ヶ谷は「安永8(1779)」の双体立像と、自然石に「道祖神」と彫った昭和53年建立の新しいものが立っています。双体立像が折れたので昭和になって再び建てたものと思われます。
⑫おもよ井戸跡
「その昔「おもよ」さんと云う可愛い娘がいたそうな。彼女は虫歯に悩み、痛みに耐えかねて、その井戸に身を投げて死んでしまった。その井戸は昭和30年頃までは水がコンコンと湧き出ていた。その水で含嗽(がんそう=うがい)をすると、たちどころに歯の痛みが治ると信仰を集めていた。今は水が枯れてしまったが、伝説と共にその場所は残っている。」(白峰寺 『寺誌』)
「虫歯の娘「おもよ」が井戸に飛び込んで死んだ所。海老名の大谷におもよ井戸があり、ここの水で目を洗うと眼病が治ると云う。」(岡崎・樋田メモ)
茅ヶ崎市史3巻P581に明治29年生れの川島イトさんが語るおもよ井戸の伝説が載っています。
「下寺尾にオモヨ井戸という井戸があった。やぶの中で、いつも冷たい水が出ていた。奥の方に入っていくと井戸があるといわれていた。池の中に田島(たじま)のように突き出ているところがあり、そこにカツの木(ヌルデ)があり、藁ツトがぶら下げてあった。虫歯で苦しんだ人が願をかける。治ったら御札に塩をツトッコに入れてあげた。オヨモ様という人がむし歯で苦しんでその井戸に身を投げたので、それからそこに願をかけると治るといわれている。」
当会の町田悦子会員の話によると、茅ヶ崎の下寺尾のおもよ井戸は「おも井戸」とも呼んだそうです。
海老名市の大谷にある大谷神明社の近くにも「おも井戸」があり、綾瀬市の早川の五社神社のそばにも「おも井戸」があります。この3つの「おも井戸」に伝わる話の内容には多少の相違はあるものの、同じ名を名乗り、信仰の池として土地の人に親しまれ続けてきたという共通点があります。
とすると、離れたところに同じようなものがあるのはなぜか?という課題が出てきます。
⑬十二天社
茅ヶ崎市の芹沢から西に向かって下り、寒川町方面に延びる県道は、整備されるまえは「十二天の坂」と呼ばれていました。
この道路の北側の小高いところに十二天社があります。この神社は、仏教を守る12の神々を祭るものです。
「岡崎・樋田メモ」に依ると、拝殿は昭和37年9月15に再建されたものだそうです。また、下寺尾の鎮守、諏訪神社の下宮で、各村の下宮の多くは明治時代に寄せ宮(統合)されたが、そうならずに、残されて今にあるとも書かれて居ます。下寺尾を含む小出地区には、芹沢の冠木、堤の十二天にも寄せ宮されなかった十二天社があるそうです。
寄せ宮を免れたのは、十二天が仏教を守る神々であるために、神仏分離を目指した明治政府の宗教政策により、神道の神々に仏教の神である十二天神を集合させなかったからと考えられます。
社(やしろ)は高床式になっており、その床下の空間に縄文時代の大きな石棒が立ててあります。なぜこのようになっているのは定かではありませんが、珍しいことです。
【参考・引用文献】
・『新編相模国風土記稿』下寺尾村の項
・『明治12年 皇国地誌村誌』下寺尾の項 (『茅ヶ崎地誌集成』に収録)
・『白峰寺 寺誌』
・『茅ヶ崎市史 3巻』
・『岡崎 樋田メモ』岡崎孝夫、樋田豊広著「下寺尾調査」(未刊)
report 平野文明会員
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