コロナ禍がなかなか治まらないことから、私たちの会も事業の数を減らしています。
感染者数が減少した折を見て、大山道(田村通り大山道)の始まりの部分を訪ねました。
令和3年(2021)12月11日の土曜日、気持ちよく晴れ渡った小春日の半日でした。
(市内の大山道を歩く その-2 室田永昌寺から円蔵のさぎ茶屋跡まではこちら)
田村通り大山道
藤沢市の四ッ谷から入って伊勢原市の大山に通じる道は、江戸時代に、相模川を田村の渡しで渡ったために「田村通り大山道」と呼ばれていました。藤沢市内、東海道(国道一号)の四ッ谷付近(城南1丁目)にその入口があります。今はそのほとんどが県道44号藤沢伊勢原線となっています。
大山を目指して歩き始めると、間もなく茅ヶ崎市の赤羽根・小和田・菱沼地区に至ります。
今回、この大山道への進入口部分(藤沢市)と、沿線の赤羽根・菱沼地区を訪ねました。
見学ヶ所の説明は山本会員がつとめました。
【この報告を書くために使用した参考・引用文献】
・文献(1) 『新編相模国風土記稿』 雄山閣版
・文献(2) 塩原富男著『ふるさとの歴史散歩』茅ヶ崎郷土会1983年刊
・文献(3) 高野修「相模大山講と藤沢』 藤沢市文書館1986刊『藤沢市史研究』19所収
・文献(4) 資料館叢書10 塩原富男『茅ヶ崎の記念碑』1991年茅ヶ崎市文化資料館刊
・文献(5) 茅ヶ崎市史現代7『地図集 大地が語る歴史』茅ヶ崎市1994年刊
・文献(6) 資料館叢書12『地名が語る赤羽根のむかし』2014年茅ヶ崎市文化資料館刊
・文献(7) 資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏』3 松林地区 2020年茅ヶ崎市文化資料館刊
①観音霊場供養塔口
大山道への入口は三ヶ所あります。
その一つで、三ヶ所の内、最も西側に当たり、茅ヶ崎と藤沢の市境に位置します。国道一号を南北に交差する古道の、国道の北側の植樹帯の中に「奉巡禮西國坂東秩父供養塔」(享和3年⁃1803⁃銘)が立っており「あふり山わけいる道にしおりおく 津ゆのことのはしるべとはなれ」の歌が刻んであります。
「あふり山」は「雨降山」、大山のことです。大山を目指し東海道を上って来た導者たちが、四ッ谷の入口を通り過ぎても、ここも入口だということを表している歌だと伝えられています。
②二ッ家稲荷社口
①から藤沢方面へ約100㍍ほど進むと国道一号の北側に、国道を向いて二ッ家稲荷神社があります。稲荷社の向かって左手に北に進む道路があり、二ッ家稲荷社口になっています。
この道路の先は大山道につながっています。しかしこの道路は、昭和23年の地形図(文献6・P52)にはなく、同43年の地形図(文献6・p53)にはあるので江戸時代からの道ではありません。
境内にある「二ッ家稲荷神社歴表」(平成8年設置)によると、「江戸時代の何回かの修繕の記録があり、その後大破したので明治39年新築した。同43年、その筋により無格社は取り払えの命令を受けて個人宅内に移し、大正4年に神台426番地に再度移した。そこが戦時中の昭和18年、海軍省の命令で敷地300坪余を買収されたので現在地の城南一丁目3番地に新築した」と書いてあります。江戸時代の場所が不明ですが、明治43年の「その筋の命令」とは神社整理令のことです。
③四ッ谷不動堂口
再び国道一号を藤沢方面に進みますと辻堂駅から藤沢市北部の湘南ライフタウンを結ぶ大きな交差点があります。これを越えると、藤沢市街地に続く東海道(旧一国)と新国道一号が斜めに交わる交差点に出ます。不動堂は交差点の新一国の西側にあります。東海道から見れば真っ正面です。江戸などから来た導者は直進して、ここ不動堂口から田村通り大山道に入りました。
江戸時代にはここに、大山導者を当て込んだ茶屋が並んでいて、「四ッ谷の立て場」と呼ばれていました。広重の浮世絵に「大山みち 追分」と彫られた道標が立ち、立て場に茶屋が並んでいる様子が描かれています。
画像には右端に鳥居、中央の屋根の下にお不動様が座っている道標1、道標1に向かって左に白い御影石の道標2が写っています。不動明王が座っている道標1があることからこの地は不動堂と呼ばれています。
上の画像で、奥に見えるのは田村通り大山道の一の鳥居です。
文献(3)に引用されている古文書に、最初の鳥居は万治4年(1661)に木造で建てられ、倒壊したのを延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が再建、元禄16年(1703)の地震で倒れ、再建の志はあったがそのままになっていたところ、天保9年(1838 )に再建願いを幕府に願い出て、同11年(1959)に石造で再建された。さらに大正12年(1922)の大地震で倒壊し、現在の鳥居は昭和34(1959)に再建されたとあります。
鳥居には天狗面が架かっています。昭和34年の再建時に掛けられたがその後落下し一番大事な鼻が欠けたのだそうです。
(中央の画像) 道標1
竿石の正面上部に不動明王の種子のカーンマーン、その下に「大山道」と彫られています。この刻字の向かって右側に「延寳四(1676)丙辰歳武州江戸横山町外」、下に「講中」、左側に「六月廿八日 宿場 順學院仁兵衞」、竿石下部に瑞垣状の彫物がなされて10人(9人?)の個人名が彫ってあります。竿石の両側面には「こ連よ里大山みち」、下部に名前を彫った瑞垣があります。
銘にある「宿場 順學院仁兵衞」は大山御師の名のようです。「宿場」が四ッ谷宿を表すものなら、大山の御師がこの宿場(立場)に出向いていたことになります。
(向かって左の画像) 道標2
石柱表面に「是よ里右大山みち」、基礎石に「御藏前」、向かって左側面に「平成十七年七月一日再建/施主 鈴木得郎/四ッ谷町発起人一同/大山阿夫利神社/宮司 目黒…」、裏面には大山御師と材木座の石工の名があり、右側面は未調査です。
再建前の道標は、文献(3)に、万治4年(1661)に江戸御倉前の商人によって建てられ、天保6年(1835)に再建され、大正12年(1923)の地震で倒壊、翌年修繕して再建とあります。この現物は今は大山に移されて、同24年に大山新道沿いに再建されているそうです。
とすると、万治4年は木製の初代鳥居が建てられた年でもあり、ここ四ッ谷口が大山道の入口として大いに名を売った年だったと言えるでしょう。
(向かって右の画像) 石造不動明王坐像
竿石の上に不動明王を頂く道標は、田村通りではこの道標を最初として、大山道沿いに点々と残っています。お不動様に導かれて大山に向かうの手法です。
この四ッ谷口の道標1は、石質も良く作りも刻字もしっかりしていて、石造美術品としての価値が高いと思われます。
大山開きの折、不動明王道標の前で護摩供養が行われる。
毎年7月1日に、四ッ谷町内会によって大山の夏山登拝の無事を祈る護摩供養が行われます。不動明王道標(道標1)の前で祈願されるのは辻堂元町の宝珠寺のご住職。
左の画像は「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会」の加藤幹雄さんが2012年に撮影したものです。
④右野みちの句碑と地蔵尊
大山の一の鳥居をくぐり、いよいよ大山道に入ります。辻堂駅から北に向かう大きな自動車道路を渡って西に進むと先が二つに分かれるところに祠の中の地蔵尊とその脇に小さな句碑があります。
地蔵様は何枚も着物を着せられているので様子が分かりませんが、文献(6)p120に次のように記されています。
「地蔵菩薩の台石の向かって右側面に<右のみち>、左側面に<左大山道 享保二年:1717…>と刻まれていたという。」
文献(6)が書かれた時点で台石の刻字は読めないほど傷んでいたのでしょう。
地蔵尊の脇に立つ句碑には
「右野道/地蔵も花も笑ひけり /蕉風」とあります。
蕉風は市内の萩園の人、故菊池正平氏で郷土会員でした。
句碑の裏面に「昭和五十三年十月一日/茅ヶ崎郷土会/茅村筆」とあります。
茅村(ぼうそん)は高田の人、書家の水越咲七氏。
茅ヶ崎郷土会が今より盛んだったころの建碑です。
⑤阿弥陀堂跡と堂開基の供養塔
大山道から離れて北に向かい寺々を訪ねます。まず阿弥陀堂跡と伝えられる所を見学しました。自動車の通りが多い細い道で、道に沿った崖の高いところに新しい六地蔵と江戸時代の古い墓石が2基立っています。
『新編相模国風土記稿』赤羽根村の項に「阿弥陀堂 像は恵心作、専求比丘<寛文七年(1667) 十二月寂す>の造立する所と云ふ、西光寺持ち」とありますが、今は阿弥陀堂はありません。恵心作といわれるこの庵の本尊は西光寺に運ばれているのかも知れません。
その横の墓石は「正徳三年」銘で、江戸中期の1713年です。
寛文7年の専求比丘の墓石は固い石材の板碑型で、当地に庶民の墓石が出現する頃のもので貴重です。
⑥宝積寺 野村もと子の墓碑と顕彰碑
「村野もと子」と現代風の名前ですが江戸時代に生きた女性です。
赤羽根にある宝積寺の境内に、彼女の顕彰碑があり、次のように刻字されています。
(表面)
長閑なる 雨の名残りの露なるに おりてかざらん山桜花
妙染一貞法尼顕彰碑
空に立つうき名を何につつままし おほふ計の袖しなければ
(裏面)
野村もと子幼名直(生年不詳~天保八年九月一日 一八三七年没)は上赤羽根村/名主小沢家の娘であって 歌の師加藤千蔭の門下に入り/春夏秋冬恋歌六十九首の短歌一首の長歌を編した。「もと子家集(編者注 歌集ヵ)」を天保六年(一八三五年)四月刊行 当時の女流歌人として/豊かな教養知識をもって歌才を認められる。
昭和五十五年(一九八〇年)「かながわの一〇〇人」に女流歌人として選せられる
昭和五十七年十一月吉日
小沢家十八代 小沢卓一/ 長男 雄市 建立
宝積寺四十世 大活俊雄/ 雲外良憲 敬書
「かながわの100人」に選ばれたときに建てられた顕彰碑です。
上記の碑文は文献(4)p32~から引用しました。
本堂の裏手に小沢家の墓地があり、その中に もと子の墓碑があります。向かって右側面に、顕彰碑に刻されている同じ歌があります。墓碑正面の戒名はたいへん痛んでいて読めません。
文献(4)p32~には、もと子の母 白羊、もと子の兄 飯哥、鴫立庵四世の百明が歌と句を寄せた飯哥・もと子の兄弟と思われる聡悟禅童子の墓石も紹介されています。
⑦西光寺 大山石燈籠と石仏群
大山石燈籠
かつて市内の村々で、献燈のために7月下旬から8月半ばまで「大山灯籠」と呼ぶ組み立て式の灯籠を立てる風習がありました。
この大山灯籠を石で作り、常置したものが本市の大山道沿いに2基残っています。
その一つが、赤羽根の西光寺の山門脇にあります。西光寺は大山道から少し離れていますが、この石燈籠はかつては道沿いにあったと伝えられています。
西光寺の半鐘
鐘の銘は次のとおりです。
赤羽根/西光寺
奉寄進半鐘
相州高座郡赤羽根村/迎接山西光寺十三世/浄蓮社欣誉單信上人
為菩提江戸同行寄進
元禄二己巳年二月日
武州江戸住御鑄物師/田中丹波藤原/重行作
茅ヶ崎では最も古い「元禄2年」(1689)の年銘を持つところから重要文化財に指定されています。
また、銘に「江戸の同行の菩提のために寄進」とあり、作った鋳物師も江戸の人物であるところから、この鐘の造立に、大山道を使っていた江戸の講中が関係していると考えられます。
太平洋戦争中に供出させられましたが、西光寺と書いてあったために寺に戻ることができたといわれています。
薬師堂跡から移された石仏群
下赤羽根に薬師堂がありましたが取り壊されました。その境内にあった石仏群は平成16年に西光寺に移されました。薬師堂は『風土記稿』赤羽根村の項に「西光寺持ち、慶安三年(1659)然誉建立す」とあります。移された石仏は寛文5年(1665)銘の庚申塔をはじめ、徳本名号塔、二十三夜塔、弘法大師座像などです。
文献(7)の赤羽根の項にこれらの石仏の個々のデータが収録されています。
⑧長福寺 文学碑と七里役所役人などの墓
西光寺を辞して、国道一号のバイパスの下をくぐり長福寺に着きました。
文学碑
境内に数基の句碑、歌碑があります。画像はその中の唖蝉坊の句碑です。添田唖蝉坊、名は平吉。演歌師と紹介されています。妻の実家が長福寺の檀家です。
文献(4)p38に、句は1956年、唖蝉坊の十三回忌に手ぬぐいに染めて配られたとあります。揮毫は「右 野みち」碑で紹介した書家水越茅村です。石はフグの形をしています。
文献(4)p37~に、この碑のほかに大山古道吟行の句碑、鴫立庵芳如の句碑、水越梅二の結願歌碑などがあると紹介してあります。
七里役所役人などの墓
七里役所とは、江戸時代に尾張藩、紀州藩が江戸と領国を結ぶために七里毎に独自の継立所を設けたもので、本市では菱沼村の東海道沿いの「ぼたもち立て場」に紀州藩のそれがありました。当地で亡くなった役人や家族の墓が立て場近くの須田家に残っていたものを、大正の中頃長福寺に移したと文献(2)p46~に書いてあります。4基ある墓石の1基は童子のものです。
⑨長福寺南の石仏群
長福寺の本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路に当たります。そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っています。また、道路を挟んだ反対側にはサイノカミ(双体道祖神塔)1基が祭られています。
最近は道路整備などで多くの石仏が移設されていますが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが多かったようです。道の辻は自ずと人が多く行き交います。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まると考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説しています。
長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所です。
最後に
長福寺南の石仏群を見て私たちは解散し、茅ヶ崎郷土会第299回史跡文化財めぐりは無事に終了しました。
・この報告で使用した写真画像は前田会員と平野会員が撮影したものです。
・四ッ谷の不動堂前で2012年に行われた護摩供養の写真は、先にも紹介したように、「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会」の加藤幹雄さん撮影です。
・このホームページの構成は、令和3年11月16日に行った事前勉強会と12月11日当日の現地説明で使った山本会員作成の説明資料を元にしています。
・ホームページの作成と記事の執筆は平野会員が行いました。
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