相模国の各地に勢力を張っている豪族たちは、平安時代末からさらなる勢力拡大を図って、息子たちを本拠地以外の地におもむかせます。三浦義明は本貫の地を義澄に継がせ、四郎義実を岡崎におきます。また、相模西部に勢力を張っていた豪族の中村宗平(むねひら)は次郎実平を土肥郷に、三郎宗遠を土屋におき、中村党をなしました。このような豪族たちは、頼朝の旗挙げに参加し、御家人となって鎌倉幕府を支えました。
土肥実平は、頼朝の旗挙げのとき、景親に破れて敗走する頼朝のそばを離れず、勝手知ったる土肥郷の山中を案内し逃げ回りました。
『吾妻鏡』、治承4年(1180)8月24日の条は、頼朝が石橋山の合戦で破れ、山中を逃げる様子を詳細に記しています。景親が三千騎を率いて襲いかかる中、付き従う者たちは次第に数を減らし、北条親子をはじめ一党はちりじりになります。そこに突然6人の味方の武士があらわれ、頼朝の元に駆けつけたいと言ったところ、北条時政は「早くそうしろ」と命じます。そして彼らが嶮岨(けんそ)をよじ登って頼朝のそばに着いたとき頼朝は喜びますが、土肥実平が言ったことは「おのおの無事で参上したことは喜ぶべしといえども、これだけの人数を頼朝が率い給わば、この山にお隠しすることは出来ないだろう」と。しかし、それでも同行したいと6人は主張し、頼朝も許しそうだったため、実平はさらに言葉を継ぎます。「今、分かれて逃げることは後のためには大きな幸いとなろう。生き延びて、さらに考えをめぐらせば、ここで破れたことの恥をいずれ晴らすこともできよう」と。
このコーナーでは、土肥実平ゆかりの湯河原町の史跡などや、石橋山合戦の場を紹介します。
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6-01
実平夫婦の銅像(湯河原町 湯河原駅前)
湯河原駅前に立つ土肥次郎実平夫婦の銅像。像の由来書きには「頼朝旗挙げ800年と土肥会創設50周年を記念して、実平公とその夫人の遺徳を伝えんがため建立した」とある。
甲冑に身を固めた実平の横に控えるのは実平夫人だが、夫人が両手で持つ包みは何か分かりますか?
その答えは弁当。大庭景親に破れた頼朝は、この地を知り尽くした実平の手引きで杉山の山中を逃げ惑う。『源平盛衰記』には、もはや最後と覚悟した頼朝主従が、山中で「小道の地蔵堂」にたどり着き、そこの上人法師に助けられる場面がある。地蔵堂に潜む彼らに実平の女房が、花かごに見せて食い物を運ぶ。「心さかしき土肥次郎が女房は、あじか(容器のこと)に御料(食糧)をかまえ入れ、上にシキミ(植物)を覆い、桶に水を入れて、上人法師の花摘む由にもてなして、忍々に(ひそかに)送りけり」
それにしても銅像ではあるが土肥次郎の女房の、なんと美人であることか。
6-02
城願寺とビャクシン (湯河原町城堀252)
曹洞宗、萬年山城願寺は湯河原駅の近くにある。寺のホームページの文章を、途中を省略しながら引用すると、
「約八百数十年前、この地(相模土肥郷)の豪族土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように“萬年山”と号して持仏堂を整えたことからその歴史は始まる。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏の末裔の土肥兵衛入道が再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改めた。やがて土肥氏が失脚し、小田原大森氏の時代になると再び衰退するが、戦国時代に大州梵守〈1525:大永5年卒〉が再興、曹洞宗に改宗し現在に至る。」
参道の石段を登り切ったところにビャクシンが聳えている。国の天然記念物であり、神奈川の名木100選に選ばれている。説明板には「樹高20㍍、胸高周囲6㍍、土肥実平手植えと伝え樹齢推定800年」とある。
6-03
城願寺の土肥一族の墓所 (神奈川県指定史跡)
檀家墓地の奥に土肥一族の墓所と伝えられ、五輪塔、宝篋印塔、層塔などを集めた一角がある。湯河原町と「土肥会」が連名で立てた説明板に次のように記してある。
「五輪塔はどれも銘がなく建立年や施主など不明。中央が実平、向かって左は実平の妻、同右は遠平(長男)、そのさらに右は遠平の妻と伝える。
幕府成立後、実平は広島県三原市の沼田荘に遠平と移住し亡くなった。三原市米山寺にも墓があるが、山形県鶴岡市井岡、静岡県静岡市安養寺、小田原市谷津鳳巣院などにもある。」
また、町教育委員会の説明板には、これらの石塔の中に「嘉元二年(1304)七月銘の五層の層塔、永和元年(1375)六月銘の宝篋印塔がある」と書いてあった。
6-04
土肥祭 武者パレード①
湯河原町では毎年4月第一日曜日に「土肥祭」が行われている。祭りの中心は武者行列で、土肥実平などの武者が所々で名乗りを上げる。今年、土肥祭を訪れ、その様子を撮影してきた。
土肥氏は、相模国西部で平安時代末期から勢力を張った中村党に属した。淘綾郡(ゆるぎぐん)中村荘(現小田原市・中井町)に拠った武士に中村宗平(むねひら)がおり、その子実平(さねひら)は土肥郷で土肥氏を、宗遠(むねとお)は土屋郷(平塚市)で土屋氏を、友平(ともひら)は二宮氏をなした。宗平の女は、三浦一族で岡崎(平塚市)に勢力を張った岡崎義実の妻となった。
また、湯河原町には「土肥会」という団体があって、土肥実平公の事跡を顕彰し後世に伝えるとともに土肥祭の武者行列を全面的に支えている。(土肥会のホームページから)
写真は甲冑武者たちが名乗りを上げているところである。
6-05
土肥祭 武者パレード②
パレードの中で、騎馬武者が二人いた。どちらかが実平で、もう一方は頼朝だろうか。あるいは、実平、遠平の親子だろうか。扮しているのは町長さんと町議会の議長さんではなかろうか。
6-06
石橋山古戦場 (小田原市)
1180年(治承4)6月、平清盛は幼い安徳天皇を伴い福原に遷都した。その福原へ9月2日、相模国の大庭三郎景親から早馬をもって報告が届いた。『平家物語』(巻5早馬)に、
「去ぬる八月十七日、伊豆の流人頼朝、舅(しゅうと)北条四郎時政を使わして伊豆の目代兼隆を山木の館(たち)に夜討ちす。その後土肥(次郎実平)、土屋(三郎宗遠)、岡崎(義実)をはじめ伊豆、相模のつわもの三百余騎、頼朝にかたらわて相模国石橋山にたて籠もって候ところに、景親三千余騎を引率(いんぞつ)して押し寄せ攻め候うほどに、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=頼朝)七、八騎に討ちなされ、土肥の杉山に逃げこもり候いぬ。」
写真の向かって右側の斜面の奥が石橋山の古戦場。今はみかん畑が点々とする。
「遠くからみかん畑にときのこえ」 “フーテンの熊”詠む
6-07
古戦場の碑
みかん畑の一角に「石橋山古戦場」の碑があって「源頼朝挙兵之地」と彫ってあった。『吾妻鏡』8月23日の条に、前日は「夜にいりて甚雨(じんう)いるがごとし」とある。
「今日寅の刻(午前4時ころ)、武衞(頼朝)、北条殿父子、盛長、茂光、実平(土肥)以下三百騎を相率して石橋山に陣したまう。この間、件(くだん)の令旨(りょうじ)(以仁王の令旨)をもって御旗の横上に付けらる。
ここに同国の住人大庭三郎景親、俣野五郎景久…平家被官の輩(やから)三千余騎、精兵を率して同じく石橋山の辺にあり。両陣の間、一谷(ひとたに)を隔つるなり。また伊東祐親(すけちか)法師、三百余騎を率して、武衞の陣の後の山に宿してこれを襲いたてまつらんと欲す。」
頼朝の元に駆けつけた三浦の衆は増水した酒匂川に阻まれた。それを見た景親は、
「すでに黄昏(たそがれ)に臨むといえども合戦を遂ぐべし。明日を期(ご)せば三浦の衆馳せ加わりて定めて喪敗しがたからんか。群議終わりて数千の強兵武衞の陣を襲い攻む。」
6-08
城願寺の七騎堂 (湯河原町)
城願寺の境内に「七騎堂」と呼ぶ六角形の建物がある。説明板には、
「謡曲“七騎落(しちきおち)”は鎌倉武士の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。石橋山で破れ逃げる頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。頼朝は、八騎は不吉として、七騎にせよと土肥実平に命じた。我が子遠平を犠牲にして下船させたが、遠平は和田義盛に救われ、歓喜のあまり宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。七騎堂には七騎の木像が納められている。」
ちなみに七騎とは、謡曲の中では田代信綱、新開荒次郎、土屋三郎宗遠、土佐坊昌俊、土肥次郎実平、岡崎四郎義実と頼朝である。
6-09
佐奈田与一と俣野五郎の一騎打ち (小田原市石橋山)
石橋山合戦の山場は、頼朝の敗走と佐奈田与一義忠の最後を語る場面である。『源平盛衰記』は与一落命時を「弓手(ゆんで)は海 妻手(めて)は山、暗さは暗し雨はいにいで降る、道は狭し」と書く。景親の平家軍と対峙した頼朝から「今日の軍(いくさ)、先陣つかまつれ」といわれて、与一義忠は、景親かその弟俣野五郎景久を倒そうと思って捜す折、暗い中で組みついてきた岡部弥次郎を討つ。その後、狙うところの五郎景久と出会う。両者馬から落ち、組み合ったまま上になり下になり転び回る。ようやく景久を組み伏せて、その首を掻かんと郎党の文三家安を呼ぶが、文三は遠くにいて声が届かない。そこに景久の家来長尾新五が来て「どちらが敵か味方か」と問う。ばれるのを恐れた与一は信吾を蹴飛ばし、その隙に景久を突こうとするが、岡部を討ったときの血糊が災いして刀が鞘から抜けない。そして長尾新五と新六兄弟のために首をとられる。文三家安も敵方の稲毛三郎の郎党に倒される。
写真の浮世絵は平塚市真田の天徳寺境内に立つ説明板の複写。鞘から抜けない刀を持つ与一を描いている。
6-10
ねじり畑 (小田原市石橋山)
みかん畑に立つ標柱に「佐奈田与一義忠 討死(うちじに)の地」とある。この畑はどういう訳か「ねじり畑」と呼ばれている。何でもない、横に細長い段々畑で、みかんが植えてあって、訪れたときはまだ若い実がたくさんついていた。
与一を祭神とする佐奈田霊社の説明板に「ねじり畑は与一が組み討ちしたところと伝えられ、この畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる」とある。上になり下になって組み討ちしたことの連想から「ねじり畑」といわれるようになったのだろうか。『新編相模国風土記稿』早川庄石橋村の項(雄山閣版2巻143頁)には「ねじが畑 義忠、景久を組み伏せしところという」とある。
6-11
佐奈田霊社の与一塚 (小田原市石橋420)
石橋山古戦場はかなり広い範囲を指すものと思われる。古戦場の碑の近くに佐奈田霊社があり、境内に「与一塚」がある。「石橋山古戦場と佐奈田霊社」という説明板には「与一討ち死にの地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた」とある。
『吾妻鏡』によると、1190年(建久元)1月15日、頼朝は伊豆山權現(現熱海市の伊豆山神社)と箱根權現(箱根神社)を参拝する二所詣(にしょもうで)に出立した。そして鎌倉に帰着した20日の記事の中に次のようにある。
「路次石橋山において、佐奈田與一、豊三(ママ)らが墳墓を見、御落涙数行に及ぶ。件(くだん)の両人、治承合戦(石橋山の合戦)の時御敵のために命を奪われおわんぬ。今、さらにその哀傷を思(おぼ)しめし出さるるが故なり。」
今の与一塚が、頼朝が詣った与一の墓だったのだろうか。
6-12
佐奈田霊社の全景
写真の佐奈田霊社の建物はどう見ても寺院の作りである。小田原版タウンニュースのホームページに「佐奈田霊社は寶壽寺が管理している」とあった。宝寿寺は石橋の集落の中にあり、佐奈田霊社は古戦場の近くにある。宝寿寺は『新編相模国風土記稿』足柄下郡石橋村の項(雄山閣版2巻142頁)に「石王山地蔵院、古義真言宗、天正15年建、本尊不動、寺宝に與一義忠の肖像一軸あり」とあった。そして、風土記稿には宝寿寺の記事の次に
「佐奈田與一義忠墳」の記事が「熱海道の側より石段四十二段を登り、丘上に老椙樹あり。丘は圍(まわり)一丈八尺、高さ六丈。是を與一塚と呼ぶ。樹前に碑あり。長さ六尺、幅二尺。佐奈田與一義忠墓 治承四庚子八月二十三夜、と題す。こは稲葉美濃守正則の臣、田辺権大夫信吉建つるところ也。碑上に覆屋を設く」
とある。要するに、江戸時代には宝寿寺が石橋山山中の与一塚を管理していて、塚の上の覆い屋がその後、佐奈田霊社になったのだろう。
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佐奈田霊社の効能書き
『源平盛衰記』に、与一は組み討ちの時、大声で文三家安を呼んだのだが、郎党たちは遠くにいて来ることができなかったとある。しかし、今に伝わる話では、のどに痰がからんで呼ぶことが出来ずに敵に命を奪われたという。
痰がからんで不幸がもたらされたというのに、お詣りすれば「ぜんそく・せき・のど」の病気に効くというのは逆なことのようにも思えるが、社前にはその効能が書いてあった。
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江戸消防の奉納額
境内には江戸消防が奉納した石碑がたくさん立っており、また社殿には奉納額が掛かっていた。江戸消防組は鳶職の人たちから構成されていて、催し事のときに木遣りを歌うので、いい声がでるようにと願をかけるのだといわれている。
6-15
文三堂入口
主人の与一が討たれたところに、敵方稲毛三郎重成が文三家安の前に出て言うようには「己(おのれ)が主の与一は討たれぬ、今は誰がおまえを使おうぞ、逃げよ、助けん」と。しかし文三家安は「幼少より組んで戦うことは習えども、逃げ隠れすることは知らず。逃げよと宣(の)たまわらんより、組んで戦え」と叫んで敵方に突入し、8人を討ち取ったのちに討ち死にした。『源平盛衰記』の一節である。
その文三家安を祭る文三堂も石橋山古戦場の中にある。
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文三堂
文三堂はささやかな建物だった。820年前、頼朝が詣でて涙を流したというのはここのことだろうか。
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目印を刻んだ石
小田原から真鶴にかけて良質の石材が取れる。箱根火山の溶岩が固まった安山岩だそうである。最上のものを小松石といい、江戸城を建設するときも大量に運ばれた。
石橋山の古戦場を歩いているとき、道ばたに転がる大きな石に模様のようなものが刻んであった。所有者を表す印だと思う。運ぼうとしたが何らかの理由で置いておかれたものではなかろうか。
photo & report 平野会員
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