箱根神社の歴史は天平宝字元年(757)箱根に入った万巻上人(まんがんしょうにん)が寺院と霊廟を建立し、箱根三所権現として祭った事から始まった。
鎌倉時代になると源頼朝を中心とする鎌倉政権の援助により関東武士の鎮護神となった。この傾向は小田原北条氏にも引き継がれ、僧兵を擁して豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した。廃仏毀釈運動で打撃をうけ、その際多くの宝物類を失った。
小田原市内にある松原神社は現在は修験を表すものは全くないが、神仏習合時代には、本山派修験の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が別当として神社を管理、運営していた。玉瀧坊は大住郡や高座郡を中心に、相模国43カ寺の末寺を抱える地方本山で、相模国本山派の中心的存在だった。
7-1-01
箱根を開いた万巻上人
箱根を開いたのは万巻上人といわれている。
彼は山岳修行僧で、天平勝宝元年(749)に鹿島神宮寺を建立したあと、箱根に来たと伝えられている。
箱根に本格的な堂宇が建立されたのは上人が来山してからで、天平宝字元年(757)、霊夢の告げによって三所権現を勧請した。上人は養老年中(717-724)、洛邑(平城京)に生まれ、成長して修行僧となった。
『方広経』1万巻を看閲することを日課とするという願を立てたので、万巻上人と称されたという。(KL-NETの『箱根神社大系』の説明から)。
箱根神社には万巻上人の坐像が伝えられていて、国指定の重要文化財になっている
7-1-02
箱根神社
『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系本 風土記稿第2巻 79頁)に、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)とあり、「各坐像にて萬巻上人の作という、秘して別当といえども拝することなし」とある。また、別当は古義真言宗の東福寺とある。
神仏分離以前は箱根三所権現(はこねさんしょごんげん)と呼ばれて女体、俗体、法体を祭るものであった(五来重著『山の宗教―修験道案内」(角川ソフィア文庫 122頁)。この三体がニニギノミコトなどになぞらえられていたのだろう。今も三柱のミコトを祭神とする。
かつての修験道の痕跡を見ることは出来ないが、『新編相模国風土記稿』87頁の箱根神社の項に、6月の例祭時、「先達・山伏、神木登(志伎濃保利=しきのぼり)ということをつとむ」とある記述が、そのありさまの一端を示している。
7-1-03
九頭龍神社
箱根神社の境内にも九頭龍神社があるが、本来のものは箱根園の中にある。境内の神社はこの箱根園中の神社を勧請したものである。
『新編相模国風土記稿』箱根三所権現社の項(87頁)に「六月十二日の夜、湖水にて龍神の祭禮あり」とある。また、五来重『山の宗教』に、九頭龍神社は箱根の水の神様で、金剛院という山伏が支配していたとある。
『筥根山縁起并序』に、人々を苦しめる芦ノ湖の龍が万巻上人によって調伏され、後に神として祭られたとある。写真は神社境内にある九頭龍神社。
7-2-01
松原神社
小田原市本町にある。
『新編相模国風土記稿』第2巻8頁の小田原宿宮前町の項には松原明神社として載っている。祭神は日本武尊とある。古くは鶴森明神といったが、海中から金の十一面観音が松原に出現し、その託宣によって、この社に移し本地仏としたことから社号を改めたとある。
小田原北条氏や大久保氏の庇護をうけた。
7-2-02
神社の社額
江戸時代に松原明神社の別当は本山派修験の玉瀧坊だった。
『新編相模国風土記稿』(第2巻11頁)に、山城国(現京都)聖護院宮末で「先達奉行職なり。豆相二州及武州都筑(つづき)、久良岐(くらき)、多摩三郡を支配す、鶴松山玉流寺成就院と号す、当城主の祈祷所なり」とある。