23ヶ村調査 中島の現地探索 2018/07/03  快晴

今年の1月9日に続く久しぶりの中島探索でした。
梅雨明けと真夏日が重なった猛暑の中、何ヵ所かを確認しながら歩きました。

まず、①馬入の渡し場跡
相模川の下流を馬入川(ばにゅうがわ)といい、川を渡って西に向かうに、江戸時代までは馬入の渡しを船で渡っていました。

しかしその場所がどこだったのかは決め手がありません。
中島を昔の東海道(今は国道一号)が東西に横切っています。この道路の位置が変わっていないとすれば、道はどこかで川に突き当たり、そこに川の東側(相模川左岸)の渡し場があったはずですが、明治時代以降、相模川は大きく流路を変えていますので、渡し場跡の位置を特定することは難しいのです。

流路が変わったために、川の東側にも平塚市分の土地があります。いまある馬入橋は平塚市内に位置します。渡し場も平塚市分にあったのかも知れません。
今は、馬入橋の南側(下流)に東海道本線の二本の鉄橋が馬入橋と平行するように架かっています。その様子を写真に撮ってきました。
画像の右側の橋が国道一号(東海道)の馬入橋です。渡しはこの橋の下にあったのでしょうか。

②松山橋跡
中島村は昔から相模川の水害を受けてきました。
明治9年に、地元の村々が神奈川県に出した堤防設置の願い書に「堤防の端は松山橋」までと書いてあります。この橋がどこにあったのかがはっきりしません。
中島を囲むように、相模川に沿って南北に延びる堤防が築かれていて、川に面した土地は湘南シーサイドカントリー倶楽部というゴルフ場に取り囲まれています。ゴルフ場の一角に、大きな松が何本かあり、土地の人たちはそこを松山と呼んでいます。
昔、この地がゴルフ場になる前、ここに村から相模川に向かう小さな流れがあったといいます。
そこに橋があったとすると、それが松山橋ではなかったろうかと私たちは思っているのです。

③大堤防の一角です。画像の左側の土手は堤防ではなく、ゴルフ場との境です。道路が堤防です。堤防の両側にゴルフ場が広がっています。
明治19年の「国史下調」に、明治19年11月、498間(約896メートル)高さ・幅4尺(約120㎝)の相模川洪水除堤を作ったとあります。
その洪水除堤と今、歩いている大堤防とがどのような関係にあるのか、まだ分からないのです。

相模川河畔スポーツ公園
今年3月25日、柳島に新しいスポーツ施設がオープンし、長年市民に親しまれたスポーツ公園は肩の荷を下ろしました。
このスポーツ公園の横を真っ直ぐな道路が南北にあります。この道路も一段と高くなっているので、堤防だろうと思われます。途中からゴルフ場の中に取り込まれていて立ち入り禁止となっています。その先は相模川河口近くの小出川まで続いています。

⑥中島中学校
学校のホームページに、昭和51年4月1日開校とあります。
明治のころの地図を見ると、東海道本線の線路の脇から始まる低湿地が南に下って中島中学校の辺りまで来ており、水も流れていて大川と呼ばれていました。
この大川に沿う所は大川淵という小字になっています。江戸時代にはもっと大きな流れだったと思われます。
大川は、中島中学校とその東側にある柳島小学校の辺りで当時の相模川の支流に流れ落ちていました。
中学校ができるまで、この辺りは低い土地だったようです。

介護老人保健施設 ふれあいの渚
中島には二つの老人福祉施設があります。
ふれあいの渚と湘南ベルサイドです。
茅ヶ崎郷土会の会員も高齢化して、7~80代が多くなりました。
今は元気でも、何時何時要介護となるかしれません。
各地の施設を研究調査しておくことも必要だと思います。

浄林寺の施餓鬼
この日は、浄林寺でお施餓鬼が行われていました。
山門に変わった旗が立ててあったので調べてみましたところ、仏旗(ぶっき)というものだとネット情報にありました。
日本仏教協会に加盟している寺院や仏教各派が仏事を営むときに掲げるのだそうです。外国で始まったもので、日本の仏教界でも取り入れたのだそうです。家庭用もあるようです。

浄林寺さんの本堂の裏にある墓地の一角に、無縁になった墓石などが集めてあり、その中にひときわ立派な石塔があります。
元和九癸亥[    ]
阿弥陀三尊種子 □誉善心禅定門霊位
九(八?)日[   ]
と読めます。
元和九年は西暦1623年です。「□誉善心」の歿年日と思われますが、今から395年も昔のものです。
おそらく年号のはっきりしたものでは、中島で最古のものでしょう。
中島の宝物の一つだといえるでしょう。

ファミリーマート中島店
最近のコンビニには、店で買ったものを食べるスペースが設けられています。
猛暑の中を歩いた私たちには大変ありがたく、中島めぐりの後はよく利用させていただいております。
缶ビールのうまかったこと!
店員さんたちも感じがよく、みなさん親切です。

report photo 平野会員

中島と南湖の稲荷講 2018/2/10・11(土・日)晴

今年、平成30年の初午(はつうま)は2月7日の水曜日でした。
初午には稲荷様を祭ります。

昔は、前日の夜を「稲荷様の宵宮(よいみや)」といい、宵宮からお祭りを始めました。
茅ヶ崎市内にはたくさんの稲荷様が祭られています。家々で祭るケースと数軒から十数軒で稲荷講(いなりこう)というグループを作って祭るケースがあります。家には屋敷稲荷を祭り、講中(こうじゅう)にも入っているという家も多くあります。
稲荷講では、宵宮には、講中の子どもたちは稲荷様に集まって、差し入れの赤いご飯を食べたり、遊んだり、また太鼓を竿に吊して叩きながら近所をめぐったりしたといいます。

今はこのような習俗はなくなりましたが、家々で祭る稲荷様にも、講中で祭る稲荷様にも、幟(のぼり)を立て、お供えをしてお祭りをすることは行われています。
ただ、昔のように宵宮から初午の日に祭るところは少なく、初午を過ぎた休日に行うところが多いようです。

中島と南湖の稲荷講を紹介します。

中島の稲荷講

中島では、家々で屋敷稲荷を祭っています。

東チョウのS家の屋敷稲荷
東チョウO家の屋敷稲荷
二ツ谷S家の屋敷稲荷

中島には東チョウ西チョウ本宿(ほんじゅく)、二ッ谷(ふたつや)、ブドウ園
というチョウナイがあります。

東・西チョウは国道一号沿いにあります。東チョウと西チョウはチョウナイが別で、稲荷様の講中も別ですが、左近右近稲荷という一つの社殿の中に右近稲荷と左近稲荷を祭っていて、両チョウナイが一年おきに稲荷講を行っています。しかし、2018年は講中に不幸があって初午の祭礼は取りやめました。

本宿は鎮守の日枝神社や浄林寺があるあたりをいいます。

二ツ谷は産業道路より東側の一帯をいいます。二ツ谷のS家の稲荷様は二ツ谷の稲荷講でも祭っているようです。

ブドウ園は相模川に近く新しく開かれたチョウナイです。ブドウ園には屋敷稲荷を祭る家はないか、少ないようです。写真は2月10日(土)に撮影しました。


南湖の稲荷講

南湖(なんご)は上チョウ中チョウ下チョウ茶屋町鳥井戸に分かれています。(上町・中(仲)町・下町と書きます)

南湖は昔から漁師町でした。どのような理由があるのかわかりませんが、漁師町には稲荷様が多く祭られています。

上町で祭る金刀比羅神社の隣に宗教法人稲荷神社(南湖3-4-6)があります。
このお稲荷様を中町の東組講中と西組講中と上町の講中の三つの稲荷講中が支えています。今年は11日(日)にお祭りが行われました。

祭りの準備
赤い幟は昭和53年(1978)、藍染めの横幕は昭和13年(1938)にできています。
準備終わって祝詞奏上
神主は大和市在住の大村堯通さんにお願いしています。

西講中と稲荷神社で保管する書類
講中で保管するものに、明治40年(1907)を初めとする講中帳、神社関係書類に昭和8年(1933)日付の市内十間坂、富田石材店からの石の鳥居設置の領収書、昭和11年(1936)に金刀比羅神社と交わした土地使用契約書などがあります。しかし、いつ稲荷様を勧請したかを表すものは見当たりませんでした。

昭和8年に建てられた鳥居

[参考文献]
『茅ヶ崎市史3 考古・民俗編』564~5頁 昭和55年刊 昔の初午の様子が書いてあります

中島 report & photo 羽切会員
南湖 report & photo 尾高会員

23ヶ村調査 中島のサイトヤキ 18/1/14 晴

四チョウナイのサイノカミとサイトヤキ
中島には四つのチョウナイ(二ツ谷・本宿チョウ・東チョウ・西チョウ)があり、それぞれに一カ所ずつサイノカミ(セーノカミともいう。道祖神)を祭っています。
2018年(平成30年)1月14日、そのサイノカミ祭りを記録しました。
正月14日・15日を小正月といいます。このころ火祭りを行う習俗は全国に広がっています。神奈川県内では、この火祭りはサイノカミの祭りとなっていて、サイトヤキとかセートヤキとか言われてきました。最近はどんど焼きとかだんご焼きと呼ぶことが多いようです。

このようなチラシが家々に配られました。
今年の小正月は土・日曜日に当たっています。昔からサイノカミは子どもたちの神様とされてきましたので、各地でにぎやかに行われました。中島ではこの日の祭りを「サイノカミのお日まち」と言ってきました。

国道一号(東海道)ぞいの東チョウと西チョウでは、幟が立ててありました。東チョウの幟には「奉献猿田彦大神 平成二十六年一月十四日 中島東組氏子中」とありました。

幟が立てられる前の、東チョウのサイノカミです。

国道一号に架かる馬入橋のたもとに祭る西チョウのサイノカミです。幟には「奉献道祖神 昭和五十八年 亥一月十四日 西町氏子中」と書いてありました。

正月の飾り物や古いお札などは、飾り終わるとサイノカミに預けます。西チョウのサイノカミです。

これは西チョウのものですが、東チョウと西チョウにはこのような灯籠も掲げてありました。昔はここで小屋を建てて子どもたちがその中でサイノカミを祭っていたことの名残と考えられます。

本宿チョウのサイノカミです。納められた御飾りでその姿が見えません。

二ツ谷のサイノカミに納められた御飾りです。

14日(日)、10時から自治会館で団子作りが行われていました。団子は青、赤、白の三色。米の粉をこねて蒸して作ります。

できあがった団子を、参加した子どもたちが持って帰ります。

本宿チョウのサイトヤキは親水公園で行われます。”ぶどう園”という、新しく移り住む人たちのチョウナイもここに集まります。
午後3時からと触れてあったので、団子を持った人たちが集まってきます。

団子は柳の枝に刺します。サイトヤキの火であぶった団子を食べると、虫歯にならないとか病気にならないとか言われてきました。

正月に書き初めをしますが、この火で燃します。燃えながら高く舞い上がると“手が上がる”、字が上手になるといいます。

昔はサイトヤキは子どもたちが行う祭りでした。その名残で、集まった子どもたちにミカンが配られていました。

この日は風のない良い天気でした。サイトヤキの火にあたった人たちは、この一年無事に過ごすことができることでしょう。
東チョウの北側の位置から撮影しました。

 

photo & report 平野会員

 

 

23ヶ村調査 中島の大川跡と堤防を探して 18/1/9 晴

現在中島(江戸時代は中島村)を調べています。
相模川河口に近く、洪水との戦いを強いられてきました。
村の中に「大川淵」という小字(こあざ)が南北に延びています。おそらく昔むかしの相模川本流の跡だと思われます。この日の調査は、「大川」跡をたどることと、相模川から中島を守る堤防を歩くことでした。

セートヤキ(だんご焼き)の日が近く、中島に4カ所あるサイノカミ(道祖神)はどこも集められた御飾りに埋まっていました。



「大川」の始まりは、高い位置を走る東海道本線の脇にあり住宅と畑の間にある不自然な細長い地所です。

それが次第に南に下ると、水はありませんがいかにも流れの跡と思われる溝になります。

その先は「親水公園」。南北に長く数十メートルの流れが現れます。


親水公園の南側はゴルフ場。中には入れませんがゴルフ場に大きな池があり、これも「大川」の名残(なごり)です。

古い地図で見ると「大川」は中島中学校の東側で小出川と合流していました。産業道路と中島・柳島を結ぶ道路が交差する当たりです。
次に相模川の洪水から守る堤防を歩きました。堤防は道路になっていて、西側はゴルフ場、その向こうを相模川が流れています。
もうすぐ新スポーツ公園に移りますが「中島スポーツ公園」の前を南北に延びる高まりも堤防のようです。
私たちが中島を歩いた日は良い天気で大山がきれいに見えていました。しかし、風の強い日でした。

photo & report  平野会員

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