今年の1月9日に続く久しぶりの中島探索でした。
梅雨明けと真夏日が重なった猛暑の中、何ヵ所かを確認しながら歩きました。
まず、①馬入の渡し場跡。
相模川の下流を馬入川(ばにゅうがわ)といい、川を渡って西に向かうに、江戸時代までは馬入の渡しを船で渡っていました。
しかしその場所がどこだったのかは決め手がありません。
中島を昔の東海道(今は国道一号)が東西に横切っています。この道路の位置が変わっていないとすれば、道はどこかで川に突き当たり、そこに川の東側(相模川左岸)の渡し場があったはずですが、明治時代以降、相模川は大きく流路を変えていますので、渡し場跡の位置を特定することは難しいのです。
流路が変わったために、川の東側にも平塚市分の土地があります。いまある馬入橋は平塚市内に位置します。渡し場も平塚市分にあったのかも知れません。
今は、馬入橋の南側(下流)に東海道本線の二本の鉄橋が馬入橋と平行するように架かっています。その様子を写真に撮ってきました。
画像の右側の橋が国道一号(東海道)の馬入橋です。渡しはこの橋の下にあったのでしょうか。
②松山橋跡
中島村は昔から相模川の水害を受けてきました。
明治9年に、地元の村々が神奈川県に出した堤防設置の願い書に「堤防の端は松山橋」までと書いてあります。この橋がどこにあったのかがはっきりしません。
中島を囲むように、相模川に沿って南北に延びる堤防が築かれていて、川に面した土地は湘南シーサイドカントリー倶楽部というゴルフ場に取り囲まれています。ゴルフ場の一角に、大きな松が何本かあり、土地の人たちはそこを松山と呼んでいます。
昔、この地がゴルフ場になる前、ここに村から相模川に向かう小さな流れがあったといいます。
そこに橋があったとすると、それが松山橋ではなかったろうかと私たちは思っているのです。
③大堤防の一角です。画像の左側の土手は堤防ではなく、ゴルフ場との境です。道路が堤防です。堤防の両側にゴルフ場が広がっています。
明治19年の「国史下調」に、明治19年11月、498間(約896メートル)高さ・幅4尺(約120㎝)の相模川洪水除堤を作ったとあります。
その洪水除堤と今、歩いている大堤防とがどのような関係にあるのか、まだ分からないのです。
④相模川河畔スポーツ公園
今年3月25日、柳島に新しいスポーツ施設がオープンし、長年市民に親しまれたスポーツ公園は肩の荷を下ろしました。
このスポーツ公園の横を真っ直ぐな道路が南北にあります。この道路も一段と高くなっているので、堤防だろうと思われます。途中からゴルフ場の中に取り込まれていて立ち入り禁止となっています。その先は相模川河口近くの小出川まで続いています。
⑥中島中学校
学校のホームページに、昭和51年4月1日開校とあります。
明治のころの地図を見ると、東海道本線の線路の脇から始まる低湿地が南に下って中島中学校の辺りまで来ており、水も流れていて大川と呼ばれていました。
この大川に沿う所は大川淵という小字になっています。江戸時代にはもっと大きな流れだったと思われます。
大川は、中島中学校とその東側にある柳島小学校の辺りで当時の相模川の支流に流れ落ちていました。
中学校ができるまで、この辺りは低い土地だったようです。
⑦介護老人保健施設 ふれあいの渚
中島には二つの老人福祉施設があります。
ふれあいの渚と湘南ベルサイドです。
茅ヶ崎郷土会の会員も高齢化して、7~80代が多くなりました。
今は元気でも、何時何時要介護となるかしれません。
各地の施設を研究調査しておくことも必要だと思います。
⑧浄林寺の施餓鬼
この日は、浄林寺でお施餓鬼が行われていました。
山門に変わった旗が立ててあったので調べてみましたところ、仏旗(ぶっき)というものだとネット情報にありました。
日本仏教協会に加盟している寺院や仏教各派が仏事を営むときに掲げるのだそうです。外国で始まったもので、日本の仏教界でも取り入れたのだそうです。家庭用もあるようです。
浄林寺さんの本堂の裏にある墓地の一角に、無縁になった墓石などが集めてあり、その中にひときわ立派な石塔があります。
元和九癸亥[ ]
阿弥陀三尊種子 □誉善心禅定門霊位
九(八?)日[ ]
と読めます。
元和九年は西暦1623年です。「□誉善心」の歿年日と思われますが、今から395年も昔のものです。
おそらく年号のはっきりしたものでは、中島で最古のものでしょう。
中島の宝物の一つだといえるでしょう。
⑨ファミリーマート中島店
最近のコンビニには、店で買ったものを食べるスペースが設けられています。
猛暑の中を歩いた私たちには大変ありがたく、中島めぐりの後はよく利用させていただいております。
缶ビールのうまかったこと!
店員さんたちも感じがよく、みなさん親切です。
report photo 平野会員