相模のもののふたち (1)武士の発生

武士の発生は、その源は摂関政治にある。その時代、中央の政治は形骸化し、藤原氏の一門、特に藤原北家が朝廷の枢要な官職を私物化した為、藤原家でも北家以外及び天皇家でも天皇になる人以外やその他の下級貴族等は、都ではその志を遂げられない。そこで国司となって地方に下り、貴種を尊ぶ地方の豪族と婚姻を結び、勢力を扶植し、任期終了後も都に戻らず地方に永住して、広大な土地を私有し、一族縁者を招き寄せ地元の土豪や農民らを懐柔して、多数の家の子・郎党として抱えた。結果、地方に豪族が 勃興する様になった。この間、武士は常に新田開発に励み、所有土地を拡大し続けた。

武士の中央政界での地位
発生当初は武士といえども「王家の犬」と言われ、天皇家、藤原家を守る役目に過ぎなかった。摂関政治から院政期に入ると、天皇家、藤原家ともに内部抗争が起こり、武士の力が必要となり武力を頼みとするようになった。その後保元・平治の乱を通して、武士が中央政界をリードし、最後には平 清盛のクーデターにより、武士が初めて国政の実権を握った。

武士の性質
上記の様に、武士は天皇家の子孫と地方の豪族が結ばれて武士団を形成、そこで、地方豪族の土地を守る事、更には新田開発してどんどん土地を開拓した結果、「一所懸命」と言われるように、その土地を守る事が武士の最大の本分であった。それだからこそ桓武天皇の子孫である坂東平氏は、「王氏を出でて遠からず」と家柄も良く、名声もある源氏を、同じ平氏の清盛一統より頼りにしたのである。

平 将門の乱 (939-940 天慶2-3年)
平安前期、関東におこった内乱。同時期、西国でおこった藤原 純友の乱とともに承平天慶の乱ともいう。桓武平氏は関東各地で勢力を伸張、将門も父の遺領をめぐり一族と紛争をおこし、935(承平5)おじの国香を殺害。翌年おじ良兼・良正、国香の子貞盛らの攻撃をうけたが、常陸、下野、下総でこれを破る。938(天慶1)将門は武蔵権守興世王武蔵介源 経基と足立郡司武蔵竹芝の争いの調停にあたったが、経基が朝廷に将門謀反を奏したため審問をうけた。また国司の追捕をうけた常陸住人藤原玄明が将門に助けをもとめたことから常陸国府を焼き払い、さらに下野・上野国府をも陥れ、自ら「新皇」と称して下総猿島郡石井郷に王城を営み、文武百官を任じて一族を関東の国司とするに至った。940朝廷は藤原 忠文を征東大将軍に任命したが、それよりさきに平 貞盛・藤原 秀郷に攻められ、将門は敗死した。

平 将門 (?ー940、?ー天慶3年)
平安前期の武将。相馬小次郎とも。高望王の孫。父は良将。本拠地は下総。父の遺領を巡る一族の紛争から内乱に発展し、平 貞盛らに討たれた。現在、神田明神などにまつられる。

平 貞盛 生没年不詳
平太・平将軍とも。平安前期の武人。父は国香、母は下野大じょう藤原 村雄の娘。京で仕官、935(承平5)父が平 将門に殺されると常陸に帰り、940(天慶3)将門を討った。その功により右馬助。鎮守府将軍、陸奥守などを歴任し、従四位下に昇進。子孫に伊勢平氏が出た。

源 経基 (?ー961、?ー応和1年)
平安前期の武将。清和源氏の祖。父は清和皇子の貞純親王。939(天慶2)武蔵介の時、平 将門の謀反を密告。平 将門の乱の鎮定に向かい、後藤原 純友の乱の鎮定に従った。

平 忠常の乱 (1028-31、長元1-4年)
平安中期、関東でおきた反乱。平 将門の乱後、関東各地に桓武平氏一族が勢力をふるったが、なかでも忠常は上総・下総に大勢力を形成し、朝貢を拒み徭役も供せず、1028(長元1)安房に侵入して国守を殺害した。朝廷は平 直方を追討使に任じて討たせたが失敗。1030忠常を家人とする甲斐国守の源 頼信を派遣。忠常は頼信の勢威に屈し、戦わずして降伏、京都護送の途中、美濃で病死した。この乱以後、東国は清和源氏の強固な地盤となった。

平 忠常 (967-1031、康保4-長元4年)
平安中期の武将。名は忠恒とも書く。父は忠頼、祖父は鎮守府将軍の良文。上総介、武蔵横領使、下総権介を歴任。1028(長元1)房総地方で平 忠常の乱をおこし、源 頼信に降伏して護送される途中、美濃で病死した。千葉氏・上総氏はその子孫。

平 直方
平 貞盛より3代目。平 忠常の乱の追討使に任命された。将門の乱以来平氏は貞盛流と良文流とは宿怨にあり、今回直方が朝廷に懇願して、忠常追討の大義名分を得て、長年の宿敵を討とうとした。しかし戦況芳しくなく、翌々年解任された。追討使が源 頼信に変わると、忠常は戦わずして降伏した。これを見た直方は関東での勢力維持は困難と思い、源 頼信の子頼義に自分の娘を嫁がせて、相模の所領及び鎌倉の館を譲り渡した。是より源氏は関東に地盤を築いた。

源 頼信 (968-1048、安和1-永承3年)
平安中期の武将。河内源氏の祖。父は満仲。左馬権守や諸国の守、鎮守府将軍を歴任。藤原 道長に仕え、平 忠常の乱を平定した。兵法にもすぐれ武名も高い。

前九年の役 (1051-62、永承6-康平5年)
陸奥でおきた反乱。代々の陸奥俘囚の長、安倍氏は奥六郡に半独立的な族長制を形成した。頼良(のち頼時)の時、隣郡を攻略したので、朝廷は源 頼義・義家父子に討たせた。頼時は一時帰順したが、中傷により硬化して再び乱をおこし、1057(天喜5)鳥海柵で敗死した。しかしその子貞任・宗任らの勢力が強く、頼義らは苦戦したが、出羽の豪族清原氏の助けを得て1062鎮圧に成功した。

源 頼義 (988-1075、永延2-承保2年)
平安中期の武将。父は頼信。名将の聞こえ高く、11C半ば陸奥の安倍 頼時・貞任父子の反乱に際し、長い戦いの末これを討滅、東国での源氏の勢力を強化した。

後三年の役 (1083-1087、永保3-寛治1年)
奥羽の豪族清原氏の乱。前九年の役後、清原氏は鎮守府将軍として奥六郡にも威をふるったが、真衡は義弟藤原 清衡・清原 家衡らと内紛をおこした。真衡の病死後、家衡は清衡・吉彦秀武らと争い、清衡の要請に応じて下向した源 義家は苦戦の後、1087ついにこれを平定。これにより清衡は奥州に、源氏は東国に確固とした基盤を築いた。

源 義家 (1039?ー1106、長暦3?ー嘉承1年)
平安後期の武将。八幡太郎と称す。父は頼義。1062(康平5)父頼義に従って前九年の役を平定、その功により翌年従五位下出羽守となる。1083(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍となり、出羽清原氏の内紛に介入。この後三年の役にも勝利したが、朝廷からは私闘とみなされたため私財で将士をねぎらったという。源氏の棟梁として信望を集め、義家への所領寄進が禁止されるほどであった。

院政 (1086-、応徳3年~)
譲位した天皇である上皇あるいは法皇が、院庁において国政を司る政治形態。平安前期の宇多上皇の治世にその萌芽形態がみられるが、1086(応徳3)白河上皇のよる院政から本格化。以後、鳥羽・後白河と3代続き、この時代を院政期と称する。白河・鳥羽院政期には、天皇と院、摂関家と院近臣たちとのあいだに対立が生じ、また有力寺社勢力とのあいだにも対立が進行した。これらの政治的対立にそなえて、上皇は武士の棟梁を取り立ててこれに当たらせるとともに、自らも北面の武士をおいて武力的警護を固めた。こうして院政は武士の棟梁が中央政界に政治的に進出する機会を与えた。

平 忠盛 (1096-1153、永長1-仁平3年)
平安後期の武将。父は正盛。白河院の寵を得て累進、検非違使・左衛門大尉、播磨・伊勢・備前などの守を歴任。正四位上。1129(大治4)と1135(保延1)山陽・南海の海賊を討ち、西国に基盤をつくった。その功により刑部卿に進んで内裏への昇殿を許され、平氏の地位を高める。また、白河院領肥前神崎荘の荘司となって日宋貿易に関係し、平氏繁栄の基礎をつくった。家集に「平 忠盛集」がある。

保元の乱 (1156、保元1年)
天皇家・摂関家内部の権力抗争に端を発し、京都でおこった内乱。1155(久寿2)近衛天皇が没すると後白河天皇が即位するが、その際に子の重仁親王即位を主張する崇徳上皇と、後白河天皇を推す鳥羽法皇妃美福門院・関白藤原 忠通・藤原 道憲(信西)らの対立が表面化。さらに摂関家内部でも、前関白藤原 忠実が寵愛する氏長者で左大臣の藤原 頼長(弟)と関白忠通との対立が進行、頼長が崇徳上皇と結び、政界を二分する情勢となった。1156年7月鳥羽法皇の死を契機に後白河天皇方は平 清盛・源 義朝らを招集、崇徳上皇方も源 為義・平 忠正らを動員して、ついに武力衝突に至った。戦闘は義朝・清盛の白河殿夜討ちにより、わずか数時間で後白河天皇方が勝利、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、忠正・為義らは公式に永く途絶えていた死刑に処せられた。中央の政争で武士が活躍したことから、武士の政界進出の端緒となった。

源 為義 (1096-1156、永長1-保元1年)
平安後期の武将。父は義親。父の謀反により祖父義家の4男義忠の養子となり、義忠の死によって源氏の家督を継ぐ。1146(久安2)検非違使となり、六条堀川に住んだので六条判官と言われた。子為朝の九州での乱行のため、1154(久寿1)解官され、家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱では崇徳上皇方について敗れ、義朝の助命運動も及ばず殺された。

平 忠正 (?ー1156、?ー保元1年)
平安後期の武将。父は正盛。忠盛は兄。清盛の叔父。左馬助に至るが、鳥羽院の勘責をうけ、以後散位。藤原 頼長に近侍し、保元の乱で敗北。斬首され、所領は後白河天皇の後院領となる。

平治の乱 1159(平治1年)
保元の乱後、戦功のあった平 清盛は後白河上皇の寵臣藤原 通憲(信西)と結んで権勢を誇った。一方、戦功の薄かった源 義朝は、信西と対立していた院近臣藤原 信頼と組んで清盛の熊野参詣中に挙兵し、清盛・信西の打倒をはかった。義朝・信頼は上皇の幽閉、信西の殺害等に成功し一時権力をにぎったが、急ぎ帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で殺された。この乱により平氏の全盛がもたらされた。

源 義朝 (1123-1160、保安4-永暦1年)
平安後期の武将。父は為義。鎌倉を拠点として東国に勢力を張り、武士団を編成。1153(仁平3)下野守。保元の乱後、左馬頭となったが、平 清盛の勢力増大を不満とし藤原 信頼と結んで平治の乱をおこした。しかし清盛に敗れ、敗走途中、長田 忠致に殺された。

源 義平 (1141-1160、永治1-永暦1年)
平安後期の武将。父は義朝。15歳で叔父義賢を武蔵大蔵館で破り、武名をあげて悪源太と称された。平治の乱で父に従い奮戦したが、敗北。飛騨で兵を募り、義朝の死後、平 清盛を狙ったが、とらえられて殺害された。

平氏政権(六波羅政権とも) 1179(治承3年)クーデターにより獲得
平安後期、平 清盛によって樹立された政権。白河・鳥羽院政期、院政の武力的支柱として台頭した平氏は、保元・平治の乱を経て政局を左右する勢力となった。1167(仁安2)以降、後白河上皇の勢力と同盟しながら国家権力を分有。しかし、宮廷内外にわたる急激な勢力拡張は既成勢力の反発を招き、治承年間(1177ー1181)には院との暗闘が表面化。1179クーデターを敢行、院政を停止して単独政権を樹立し、1180清盛の娘徳子(建礼門院)が生んだ安徳天皇を即位させた。平氏政権の基盤は、王朝の官職の独占、知行国や国守の集積、荘園の大量所有、日宋貿易などにあったが、その反面平氏は、院政期に高まった都市貴族層と在地諸勢力の間の政治的・経済的対立の圧力を、支配層内部で孤立したまま一手にひきうける形となった。同年、以仁王・源 頼政らが挙兵すると、反乱は全国化し、反平氏勢力は強大となった。1183(寿永2)源 義仲に追われた平氏は都落ちし、その政権も終わった。

以仁王 (1151-1180、仁平1-治承4年)
平安末期の皇族。後白河天皇の子で、母は藤原 成子。邸宅が三条大路、高倉小路辺にあったので、高倉宮とも呼ばれる。1165(永万1)に出家、学問、笛などに長じていたが生涯は不遇であった。後白河の皇子であったが、入内させている徳子所世皇子の即位をめざしていた平氏によって圧力をうけ親王宣下すらも得られなかった。加えて1179(治承3)に9平氏に所領を奪われ、翌年に源 頼政のすすめによって反平氏の挙兵を行い、諸国源氏に平氏打倒の令旨を発した。事は事前に漏れ、園城寺の僧兵を頼り、ついで南都の僧兵を頼って奈良に向かう途中で戦死した。しかし令旨は全国に運ばれ、源 頼朝・義仲などが挙兵に応じた。以仁王は1180に没したが、反平氏武力蜂起の大義名分は以仁王の令旨に応じるというところにあったため、以後しばらく以仁王生存説が意図的に流布されていた。

平 清盛 (1118-1181、元永1-養和1年)
平安後期の武将。通称平相国。法名静海(浄海)。父は忠盛。母は祇園女御の妹。若年期の異例の出世から、実父を白河法皇とする説も有力。忠盛死後、平氏武士団の棟梁となり、保元の乱で後白河天皇方として活躍。続く平治の乱では源 義朝を滅ぼして、朝廷の侍大将としての地位を確立した。後白河上皇や二条天皇の絶大な信頼を獲得し1160(永暦1)正三位参議として公卿に列せられ、1167(仁安2)には従一位太政大臣に昇り詰めた。翌年重病を患って出家するが、上皇と協議して妻時子の妹滋子(建春門院)が生んだ高倉天皇を即位させ、その後も隠棲した摂津福原から政界に強い発言力を保持。1171(承安1)には娘徳子(建礼門院)を入内させ、平氏全盛期を現出した。しかし1177(治承1)鹿ヶ谷事件が発覚、平氏に対する反発が強まるなか、1179関係の悪化した後白河法皇を幽閉してクーデターを強行。翌年徳子の産んだ安徳天皇を即位させ国政の実権を掌握したが、以仁王・源 頼政の挙兵を契機に内乱が全国的に拡大(治承・寿永の内乱)。福原遷都も失敗し、1181(養和1)内乱を収拾出来ぬまま病没した。

源 頼朝 (1147-1199、久安3-正治1年 在職1192-1199)
鎌倉幕府の初代将軍。父は義朝、母は熱田大宮司藤原 季範の娘。1158(保元3)、12歳で皇后宮権少進に任官する。1159(平治1)には上西門院蔵人・内蔵人となるが、同年12月の平治の乱に敗北。逃走中に美濃で捕われ、伊豆に配流された。伊豆配流は20年に及んだが、1180(治承4)8月以仁王の令旨をうけて挙兵。石橋山で平氏軍に大敗したものの、安房逃亡後は千葉・上総氏などを従えて勢力を拡大、10月には相模鎌倉に入り、南関東を制圧した。朝廷・平氏政権に反逆したまま、御家人を統率する侍所の設置や独自の論功行賞を行い、この間幕府は東国の独立国家の様相を呈したが、平氏西走後の1183(寿永2)10月宣旨ではじめて朝廷からその東国支配が公認された。翌年公文所・問注所を設置して幕府体制を強化する一方、弟範頼・義経の軍を西上させて源 義仲を追討、さらに平氏を摂津一の谷から追い落とし、1185(文治1)3月長門壇ノ浦でついに平氏を滅亡させた。その功により従二位に叙せられたが、同年10月義経がそむくと、北条 時政を上洛させて国地頭の設置を朝廷に要求、また九条兼実を中心に親幕派公卿による朝廷運営を実現させた。1189にはみずから軍を率いて奥州の藤原泰衡を討滅。翌年上洛して権大納言・右近衛大将に任官したが、まもなく辞し、1192(建久3)7月征夷大将軍に任じられた。1195東大寺再建供養のため再び上洛、その際に娘大姫の入内を推進するが失敗した。1199(正治1)落馬がもとで没したと伝えられている。

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