2020年(令和2)10月24日(土) 茅ヶ崎市内西南部の中島を訪ねました。
2021年、2020年はコロナウィルス蔓延の影響で、茅ヶ崎郷土会の事業はほとんど中止です。昨年度の史跡・文化財探訪は、市内中島の現地見学だけが実施できました。
2021年度ももう9月。年度の半分に達しましたが、8月に発せられた緊急事態宣言のために、9月に予定した市内下寺尾探訪の事前勉強会と10月に予定した現地探訪を中止しました。
中島探訪を終えた後、ずいぶん日がたちました。やっとここにその様子を掲載します。
なお、「郷土ちがさき」150号に実施当日の様子を山本俊雄会員が報告しています。
中島探訪のコース
茅ヶ崎市中島は、江戸時代は中島村でした。下の図の黒い実線が村境です。中島の北側には平塚市須賀の一部と平太夫新田、東北に下町屋、東に今宿と柳島、西には相模川があります。
下の図に、訪ねたところを朱字で示し、丸数字で順番を示しました。
①いかだま跡・古相模川 ②なんどき橋 ③東チョウのサイノカミ ④小字の番屋と耕作地
⑤ポンプ場(未掲載) ⑥馬入の渡し場跡 ⑦馬入橋 ⑧馬入川橋梁 ⑨村を囲む堤防 ⑩領主 山岡氏の屋敷跡 ⑪鎮守 日枝神社・八坂神社・大山不動尊 ⑫浄林寺・板碑型供養塔・忠霊塔 ⑬殿道 ⑭右近左近稲荷 ⑮状部屋跡
江戸時代は中島村
『新編相模国風土記稿』(雄山閣版第3巻283頁)の高座郡中島村の項に次のように書いてあります。
中島村
旗本、山岡伝五郎の領地。江戸まで15里。東海道が村内を貫く。その傍らに状部屋(じょうべや)がある。これは、官辺および尾紀二侯(徳川幕府・尾張藩・紀州藩)を初め書状往来の時、相模川の増水にあえばここに止置いて村民等これを守る。中島村が馬入の渡しの東岸にあるをもってなり。慶安2年(1649)検地の水帳を用ゆ。相模川の縁に位置するので毎秋川の泛濫(はんらん)の害にたえず。崩入せし田地も若干なりという。民家50。相模川の流作場および芝地あり。
◯高札場一 ◯古相模川、東界にあり。今宿村にいう筏川(いかだがわ)これなり。 〇相模川、村の西にあり。
〇山王社、村の鎮守なり。大住郡馬入村(現平塚市馬入)連光寺持。
〇浄林寺、故詠山山王院と号す。浄土宗。大住郡須賀村(現平塚市須賀)海宝寺末。天正4年(1576)城蓮社厳誉起立。本尊阿弥陀を安ず。△地蔵堂
相模川について同書262頁の高座郡図説には次のように書いてあります。
相模川
相模の国の大河なればこの名を負へり。高座郡の北方田名村(相模原市)と愛甲郡角田村(愛川町)の境を南流し、中程より大住郡の郡界となり、次第に曲直南流して東海道を横切り〈この辺馬入川ととなう。対岸に大住郡馬入村あり。〉柳島村と大住郡須賀村の境にて海にそそげり。〈この辺、中流に洲ありて二流となる。洲の西を流るゝを本流とし、洲よりこの方は当郡(高座郡)に属す、この流を古相模川とよぶ。また大住郡の馬入・四之宮・須賀三村の地、川を隔て大住郡中にあるは、水溢の時、水路変易によって、郡界を改めしゆえなり〉(以下『新編相模国風土記稿』は『風土記稿』と略記する。出典は雄山閣版。)
江戸時代の馬入の渡し (新編相模国風土記稿から)
① 古相模川と 筏間(いかだま)=筏川(いかだがわ)の跡
② なんどき橋
現在の相模川より一つ前の古い川跡は古相模川と呼ばれて、切れ切れにたどることが出来ます。今宿にその一部が筏間あるいは筏川と呼ばれて残っています。
『風土記稿』に次の様に記されています。
萩園村の項に
「相模川、平常は新古二川分流し、中間に洲渚若干あり。須賀村に沿いたる川、今の相模川にして〈幅三十間(54㍍)〉、当村に沿いたる流れは古相模川なり〈幅五十間(90㍍)、この川上、斜に北の村界より西の方まで中島村の界を廻れり〉、流末は共に湊口にいたりて海に入る」。
中島村の項に
「古相模川、東界にあり、すなわち今宿村に言う筏川これなり」。
また、夜中に橋を渡る人に幽霊が「今はなんどきだァ~」と聞いたと言われる②なんどき橋については、今宿村の項に「今宿橋」と書かれています。東海道に架かる橋でした。
③ 東チョウのサイノカミ
道祖神と呼ばれますが、当地の伝統的な呼び名はサイノカミ。村(近世村=大字)を区分するチョウ(町・丁)毎に祭ることが多い。その祭礼は小正月の火祭り(サイトヤキ・セートヤキ・ドンド焼き)で、穢れを焼き尽くし、新たに霊力を復活させるという意味があります。昔は子どもが祭ったもので、疱瘡や風邪を治す神でもありました。
中島には、本宿(ほんしゅく)、二ツ谷、東チョウ、西チョウ、ぶどう園の五つのチョウナイがあり、ぶどう園は新しい。古くからの四チョウナイに祭られています。本宿には明治18年(1885)銘の文字塔、二ツ谷には文政3年(1820)銘の双体立像、東チョウには双体立像で紀年銘不明、西チョウには紀年銘不明の双体立像と明治15年(1882)銘の文字塔です。
サイトヤキもチョウナイごとに今も盛んに行われています。本宿とブドウ園は一緒になって親水公園で行うように変わりました。
④ 番屋(ばんや)と中島の耕作地
昭和22年(1947)に撮影の航空写真を見ると、4チョウナイの集落のほかは耕作地です。その耕作地はほとんど畑でした。大正12年(1923)の関東大震災で相模川河口近辺が隆起する前は水田もあったようですが、相模川の堆積作用で出来た耕作地は肥沃で、野菜類の栽培が盛んでした。
東チョウと西チョウの北側に番屋という小字があります。「相模川の洪水のときなどに増える水かさを見るところだった」という話がありますが、それを示す資料は今の所ありません。他に考えられるのは、かつては村の入口・出口に番人を置いて、その地をばんば(番場)などと呼んだ例があるので、それに共通する地名かも知れません。
⑤ ポンプ場(未掲載)
⑥ 馬入の渡し場の跡
国道1号は東海道と重なっているので、渡し場はその延長線上にあったのでしょう。しかし「船着き場はここだった」と指すことはできません。
中島村と馬入村の境は、今の相模川を越えた東側、中島側にあります。広い河原は平塚市です。江戸時代にも、馬入の渡しの両端は馬入村だったと考えられます。『風土記稿』大住郡の図説(雄山閣版2巻341頁)には、渡しは「大住郡馬入村―高座郡中島村の間」とありますが間違いではないでしょうか。
慶長6年(1601)馬入の渡しは江戸幕府公認になりました。川会所は馬入村にあって川役人が詰めており、渡しを管理し、渡船賃を取っていました。将軍や朝鮮通信使などの大勢が渡るときは船橋(浮橋)を掛けたことが記録されています。
『風土記稿』馬入村の項に、平水のとき渡し幅70間(約126㍍)、常は船6艘〈渡船3、平田船2、御召船と称する1をおくとあります。寛文6年(1666)に馬入・今宿・松尾・下町屋・萩園村が渡船場の定助郷と指定され、水主(船頭)や人足などの諸役を負担することとなりましたがなぜか中島村はこれに入っていません。元禄4年(1691)、回船を巡る須賀、柳島村の争論に幕府が裁定を下したときから、この両村が渡し場の定掛り村となりました。
『風土記稿』2巻353頁に「(馬入村の)北方に東海道古往還と称する小径あり、幅2間(3.6㍍)。往古は今の渡しより、5(約545㍍)ばかり川上を渡りて往来せしといい伝う」とあり、この古往還が以前の東海道であったと記しています。この伝承に対応する話が東側の中島にも伝えられていないものかどうかは調べる必要があると思われます。
⑦馬入橋と ⑧馬入川橋梁
馬入橋(『茅ヶ崎市史』4-通史編 414頁以降から引用)
◯明治8年(1875)4月、馬入の渡しの渡船による渋滞解消のため、時の足柄県令柏木忠俊は、内務卿に船橋架橋の伺いを提出し翌月許可された。計画は船橋だが、渡船に代わる馬入川架橋工事の計画はこれが初めてである。
◯同9年(1876)12月、神奈川県令は内務卿に、官費を以て馬入川に木橋架設の申請をしたが却下される。
◯同10年(1877)11月13日、神奈川県が民費による馬入橋架橋と渡船賃銭による償却を申請し許可される。
◯同11年、夏頃にはおおかたが完成したが秋に洪水があり流出した模様。
◯同16年(1883)、長さ230間(414㍍)、幅3間(5.4㍍)の木橋が建設されたが流出。
◯同23年7月1日、台風による増水のため、相模川の橋と堤防が決壊する(市史5-P505)。
◯同26年8月11日、台風により相模川の橋と堤防が決壊する。(市史5-p506)
◯同31年9月7日、台風により橋は流失。(市史5-p508)
◯同36・37年、洪水で橋流失。(市史4-p414)
◯同41年(1908)、一部鉄材を使用し川上側の橋桁手前に流木除けの川杭を打ち込んで洪水にも強い馬入橋がようやく開通。
◯大正12年(1923)9月、関東大震災で崩壊。
同15年コンクリートの橋として建造。
◯昭和55年(1980)4月、現在の馬入橋に掛け替えられる。
馬入川橋梁(『茅ヶ崎市史』4巻-p506など)
◯明治5年、鉄道は新橋〜横浜間が開通しているがその先が進まない。
◯同18年(1885)政府は東海道鉄道敷設を決定。明治19年、横浜〜国府津間を一ケ年で完成するよう命じた。
◯同20年2月、馬入川鉄橋の起工。だがこの時期、川の水量が多く川幅も広く、かつ地盤も悪いため、三度も架け直すほどの難工事だった。
◯大正12年9月1日、関東大震災で全壊。
⑨ 村を囲む堤防
相模川沿いの村々は長い間洪水の危険にさらされていました。江戸時代の様子は『風土記稿』に、萩園村と平太夫新田は相模川側に、柳島村は古相模川に沿って「堤」(ていと読むヵ)が設けられてあると記されています。しかし、中島村の項には「毎秋泛濫(はんらん)の患に堪ず、崩入せし田地も若なり」とあるのみで、堤防があったとは記されていません。
中島などを囲む現在の堤防は次のようになっています。
①国道1号に沿う西チョウのはずれから新田方面に向かう道路は小高くなっている。聞き取りでは大正8年(1919)に出来たという。この道路が国道と東海道本線の線路を南に越えると、ブドウ園の西側で再び、上に掲載した小高い道路となり、ゴルフ場を含み中島をぐるりと囲んで中島中学校のところに出る。建設年代不明だが、相模川と中島を隔てる堤防と思われる。
②元スポーツ公園の東側からはじまって、ゴルフ場の中を南に延びる小高い道路も堤防として作られたものと思えるが建設年代は不明。
③明治時代の迅速測図に、古相模川の流路跡に沿って、現在の柳島小学校から北に延びて、田端村(寒川町)の西側まで延びる堤防が描かれている。『風土記稿』柳島村に記されている「堤」と思われるが、現在はその面影は残っていない。
④聞き取りでは、東・西チョウの北側に土手があって竹やぶが茂っていたが、大正8年(1919)に東チョウから新田に行く道を作ったときにその土手を崩したという。
『茅ヶ崎市史』2巻近現代資料編及び『茅ヶ崎市史』4巻通史編には、明治時代になっても何度も洪水に襲われ、治水対策費用のために村々が困窮している資料が掲載されています。
⑩ 領主 山岡氏の屋敷跡
日枝神社の南側の楳田家を含む一帯は「殿屋敷」と呼ばれ、江戸時代の中島村の領主、山岡氏の屋敷跡と伝えられています。山口金次著『茅ケ崎歴史見てある記』p84に
「楳田家の宅地の北側の、西方より1005番地から1029番地に至る小割りの土地は、明治初年に屋敷跡を楳田氏の先々代が買い受けたものであり、その折に村方へ小割りにして分けたものといわれる。」と書かれています。
⑪ 日枝神社・八坂神社・大山不動尊
中島の鎮守で浄林寺と殿道を挟んで並んでいます。八坂神社は日枝神社の裏手にあり、神社役員は両社を兼ねています。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守なり、大住郡馬入村連光寺持」とあります。別当寺を他村の寺院がつとめているのは珍しい事例です。
祭神は大山咋命(現在の日吉大社東本宮の祭神)です。近江から来て中島を領地した山岡景長が慶安2年(1649)に祭ったと地元に伝えられていますが、景長はすでに文禄4年(1593)に亡くなっているので、伝承に混乱があるようです。
なお、八坂神社は『風土記稿』にも明治時代の地誌類にも記録されていません。
拝殿に掲げられている「山王」の扁額には領主景忠(元禄11年:1698)の名前があります。
「郷土ちがさき」151号にこの扁額の詳しい資料紹介があります。
また八坂神社境内に日清戦争で戦死した大森菊次郎の招魂碑、日枝神社境内に大山不動尊、享保8(1723)年銘の六臂青面金剛塔(庚申塔)などがあります。
⑫ 浄林寺
『風土記稿』中島村の項に
「浄林寺 故詠山山王院と号す、浄土宗(大住郡須賀村海宝寺末)天正四年(1576)城蓮社厳誉起立、本尊阿弥陀を安ず」とあります。院号を「山王院」とするのは、鎮守の日枝神社(江戸時代は山王社)が隣にあるからです。
故根本康明さんは聞き取りの時に次の様に語っておられました。「浄林寺は須賀の海宝寺の隠居寺だった。海宝寺の檀家は3千軒と言われる。浄林寺が明治時代に海宝寺から独立するとき、中島在住の8軒の旧家が海宝寺檀家を離れ浄林寺檀家になった。」
板碑型の供養塔
上部に阿弥陀三尊種子があり、銘は
「元和九年(1623)癸亥年/欽譽善心禅定門霊[ ]/八月廿日 施主[ ]
とあります。
本堂裏手の無縁墓地の一角に建っていますが、中島では古い歴史資料になると思われます。
忠霊塔
昭和32(1957)年9月23日に中島地区の有志によって建立されました。裏側に「日清日露及び大東亜戦役等に際し戦没せられたる諸勇士の英魂を慰霊せんがため当部落民の総意によりここに忠霊塔を建立しその偉烈を仰ぎ後世に伝えんとす」と彫ってあります。
戦死及び戦没者28人の氏名が刻まれています。その内訳は、日清戦争1人、日露戦争3人、支那事変1人、大東亜戦争21人、平塚空襲による死者2人です。空襲死亡者2名を除く戦死者の年齢は、20歳1人、22歳1人、23歳1人、25歳4人、26歳2人、27歳5人、28歳4人、29歳1人、32歳3人、35歳1人、36歳1人、37歳1人、年齢不明1人です。故国を離れた中国、旧満州、フィリッピン、ビルマなどでの戦死です。また、昭和20年7月17日の平塚空襲による死者は布川浅次郎、根岸ツルさんです。(資料館叢書10『茅ケ崎の記念碑』119頁)
⑬ 殿道(とのみち)
日枝神社と浄林寺の間にあって、殿屋敷から線路を越えて北に延びて国道1号に至る道路を「殿道」といいます。領主の山岡さんが東海道に出るときに使った道だと伝えられています。
⑭ 右近左近稲荷
殿道の中島踏切と国道1号の間にあります。一つの小祠に右近と左近の稲荷が祭ってあり、東チョウと西チョウが1年交替で稲荷講をしています。
元は寒川神社の「祓い道」にあったとか、洪水に流され「戻りたい」というのでここに戻したという伝説があります。
祭られている場所は「稲荷元」と言われる旧家の屋敷内で、稲荷元の家には弘化3年(1846)2月銘の京都の伏見稲荷本宮が発行した分祀文書の写しがあります。
境内の石燈籠の年銘は文久2年(1862)壬戌12月吉日です。
⑮ 状部屋(じょうべや)跡
この「中島を訪ねる」の記事の冒頭にも紹介しましたが、状部屋について『風土記稿』中島村に次のように記されています。
「東海道、村内を貫けり。海道のかたわらに状部屋と号する所を置く、官辺及尾紀二侯を初め書状往来の時、相模川水溢にあわばこのところに止め置いて村民などこれを守る。これ当村が馬入渡しの東岸にあるを以てなり」。
相模川が洪水で川留めになったとき、幕府や尾張・紀伊両藩の書状を留めて村民が守った施設だったことが分かります。
状部屋は東チョウの岡田家がそうだったと伝えられています。山口金次著『歴史見て歩き』84頁に「明治維新により、地頭の山岡氏は大政奉還に係わり、用人であった岡田氏(状部屋)は江戸の邸に引き移られたので、日枝神社の傍らの根岸家から跡目を継いで、岡田家へはいられた。浜之郷の龍前院にある山岡家墓所内の石燈籠の銘文に『奉寄上/元禄十三(1700)庚辰天 正月十三日/泰雲院殿陽国玄正居士塔前/施主 両臣 岡田平蔵光政 和田亦右衛門義勝』とあれば、岡田家は元禄以前から続いたもので、和田亦右衛門とあるのは、浜之郷にあった家柄だろう。まだその和田家は確認できていない。(以下略)」
しかし現在、状部屋に関する資料、古文書などは何も見つかっていません。
photo 前田会員 平野会員
report 平野会員