テキスト 294回史跡・文化財めぐり「神奈川県立歴史博物館と付近の博物館施設・中華街を訪ねて」

令和元年(2019)7月3日(水)に、横浜市中区の博物館施設と中華街を訪ねたときのテキストを紹介します。
用いた資料はそれぞれに引用元を書きました。
コース地図は国土地理院の1/25000電子地形図を使っています。
なお、5頁以降は縦書きになっていますので、最終の13頁からさかのぼってご覧下さい。
印刷する方が見やすいです。

上の表紙の画像をクリックすると、PDFファイルのテキストが開きます。

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テキスト 293回 史跡・文化財めぐり「鎌倉光明寺と材木座近辺の社寺・逗子住吉城跡を訪ねて」

令和元年(2019)4月15日(月)に行いました鎌倉市材木座と逗子市小坪の史跡・文化財めぐり(その①その②)で用いたテキストを紹介します。
資料としたのは、雄山閣刊行の 大日本地誌大系㉓『新編相模国風土記稿』第五巻中、鎌倉郡材木座村(同書25頁から)、乱橋村(33頁から)、三浦郡小坪村(213頁から)です。
『風土記稿』の部分は最終頁から遡ってご覧下さい。
また、コース地図は国土地理院の1/25000電子地形図を使っています。

 

(画像をクリックすると、PDFファイルが開きます)
 

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第293回 その-2 鎌倉市・逗子市( 和賀江島から来迎寺まで)2019.4.19

4月15日(月)
すばらしい五月晴れの一日、今年度最初の史跡めぐりで鎌倉市材木座近辺と、隣接する逗子市小坪を訪ねました。
鎌倉駅前からバスで光明寺まで行き、境内・内藤家墓地・歴代の墓所を訪ね、海岸に出て和賀江島跡を見ながら昼食、そして逗子市小坪の正覚寺、その裏山にある住吉城跡、山を降りて再び材木座に戻り、補陀落寺・実相寺・五所神社・来迎寺を参拝しながら鎌倉駅に戻りました。

293回 その-1 ①光明寺と②内藤家墓地は2019年5月29日にはこちら。

ここでは後半の、③和賀江島から⑩来迎寺までを取り上げます。

③ 和賀江島の跡

(鎌倉市材木座6丁目)

初夏の鎌倉の海
手前の黒く見える石積みが和賀江島の跡
手前の丸い石も構造材だった
新田義貞が鎌倉を攻めるときに踏破した稲村ヶ崎が中央に見え、左遠方に江ノ島が見える。 手前が和賀江島跡。

 湊としての和賀江島は鎌倉時代に築かれて、江戸時代まで使われたといいます。 今は、写真で見るように水面にわずかに石積みが見えるだけです。 どのような形の船付場だったのか想像しにくい光景です。
手前に見える人頭大の丸い石が海の中を続いていて、干潮時にはもっと姿を現すそうです。
和賀江島を解説する情報はあふれていますので、ここでは『吾妻鏡』の記述を引用します。

貞永元年(1232)七月 十二日 今日、勧進聖人 往阿弥陀仏、申請に就きて、舟船着岸の煩いなからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州(北条泰時)ことに御歓喜ありて合力せしめたもう。諸人また助成すと云々。(新人物往来社『全譯吾妻鏡』4巻124頁)

十五日 今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。(同書125頁) 

同年八月 九日 晴る。和賀江島その功を終う。よって尾藤左近入道(景綱)、平三郎左衛門尉(盛綱)、諏方兵衞尉(盛重)御使いとして巡検すと云々。(同書126頁)

これらの記事によれば、一月足らずで完成したことになります。一体どのような構造だったのかますます疑問が高まります。
かつて、この近辺から中国は南宋の国で作られた陶片を拾うことができたといいます。鎌倉幕府の、海に開いた表玄関だったと言われています。

向こうに見えるのは逗子マリーナの建物
海岸の立木にうまく収まった江ノ島遠景

和賀江島のそばの海辺に、整備された小公園のような場所があり、昼食をとりました。
海岸でお弁当を広げるときは、トビ(鳶)に要注意です。後ろから音もなく飛んできて、手にしているおにぎりを取っていきます。


昼食後に向かう住吉城址の小山です。
城跡は、和賀江島近辺からは、見上げる絶壁の断崖の上にあります。
絶壁の補強工事が行われていました。

見上げた場所に立っていた説明板です。 住吉城の説明が要領よく書いてあります。
写真で白く見える断崖が、補強工事が行われている同じ場所のようです。
この説明板にある三浦市の新井城も突き出た半島の上にあり、海から見ると見上げるばかりの絶壁の上です。両方の城ともよく似た地形の上にあります。

『新編相模国風土記稿』小坪村の項(雄山閣版5巻214頁 以降『風土記稿』と略記)にある挿絵で、住吉城跡の高台から見た鎌倉の海を表しています。画面左手の正覚寺が絶壁の途中にあるように見えます。先の写真は、この絶壁を写したものでしょう。絶壁の下は海に落ち込んでいますが、今は埋め立てられて住宅や道路が作られています。
同書は続けて、
「村の南の海岸、厳しく腹壁 立して高さ四~五丈(12~15㍍)、上に小径通ず、鎌倉道なり。この所より眺望すれば、東方 近く杜戸の浜あり、四方鎌倉霊山の崎(稲村ヶ崎)突出し中央に江ノ島浮かび出で、また大磯小磯の海浜を望み、遠くは富峰雲際に秀で、その美景を賞すべし」と記しています。

④ 六角ノ井

(鎌倉市材木座6丁目)
「鎌倉十井(じっせい)」の一つに数えられていますが、水が涸れたのか危険性防止のためか、私たちが訪れたときはブルーシートで覆ってありました。
『風土記稿』材木座村の項(26頁)に、
「六角井 飯島にあり、また矢根井とも唱なう。石にて六角にたたみたり。鎌倉十井のひとつなり。里俗の話に、むかし、鎮西八郎為朝、大島にありて、我が弓勢(ゆんぜい)昔に変わらずやとて、天照山〈村内光明寺の後ろ山を、しか 字(あざ)せり〉をうかがいて遠矢を射る。その矢十八里を越えてこの井中に落ちたり。里民その矢を取り上げるに鏃(やじり)は井の底に残る。今も井中をさらえばその鏃を見るという。あるとき取り出して明神に納めければ井水枯れたり。また井中に投ずれば元のごとく湧出すといえり。鏃の長さは四五寸(15㌢ほど)ばかりありという。」とあります。

また、そばに立ててある説明板には、
「井戸端は六角あり、六角が鎌倉分、二角が小坪分と言われている。別名、矢の根井戸ともいわれる。 かつては井戸替えの際にやじりを入れる竹筒を取り替えていましたが、これを怠った年は悪い病がはやったと伝えます。やじりは今も竹筒に封じ手井戸の中段にまつってあります。」と書いてありました。

⑤ 正覚寺

浄土宗 住吉山悟眞院正覚寺
(逗子市小坪5-12-2)

和賀江島跡から住吉城址の高台に登る途中にある寺です。
先に掲載した風土記稿掲載の図版では、画面の左端に位置しています。
うっかり、写真を撮らずに通り過ぎました。

寺のHPによれば、
本尊 阿弥陀如来
開山 然阿良忠上人
開基 眞蓮社快譽

住吉城址に登る坂道
この道の途中に正覚寺があった。

『風土記稿』小坪村の項(216頁)正覚寺の説明に、
「光明寺の末寺、記主禅師 駐錫(ちゅうしゃく)の旧跡」と書かれています。

記主禅師は然阿良忠(ねんありょうちゅう)上人のことで光明寺の開山です。正覚寺は光明寺と深い関係を持つ寺です。

同書は続けて、
「師の閑居せし岩窟今に境内にあり。その頃は悟眞寺といえり〈【高僧伝】に曰く。鎌倉光明寺開山 釋良忠、字(あざな)は然阿、仁治元年(1240)届相の(?)鎌倉住吉谷 悟眞寺にて念仏を勤唱す。平経時(幕府第4代執権)、佐介谷に蓮花寺を建て、延(ひ)きて開山の祖とす。後、寺額を光明寺と改む。〉今、師をもって(正覚寺の)開山とし、その肖像を客殿に置く。 一旦、戦争に遇いて廃寺となり、後 天文十年(1541)、光明寺十八世真蓮社快誉再考す〈快誉は天文十五年(1546)二月三日寂す。案ずるに快誉、正覚寺の号を授けしなるべし〉、本尊弥陀は(略)」とあります。

⑥ 住吉神社・住吉城址

(逗子市小坪)

住吉城の城址と言われる高台から見下ろした鎌倉の海です。
右手の木立の向こうに稲村ヶ崎、そ左手に霞んだ江ノ島が見えます。

『風土記稿』小坪村「住吉古城跡」(217頁)に「背は山により前は海に臨み要害の山城なり」とあります。
続けて、北条早雲が関東制覇を進めるころの事として、
①永正7年(1510)、越後守護代 長尾為景が関東管領の上杉顕定と対立して蜂起したとき、為景に呼応した早雲が、古城だったここに陣を敷いた。
②山之内・扇谷両上杉家と対立した早雲は、扇谷上杉家の家臣、上田蔵人入道を引き込み、熊野権現山(現横浜市神奈川区 本覚寺)に築城させた。永正7年、上杉軍が権現山を攻めたとき、早雲は高麗寺山と住吉古城を取り立てて対峙した。
③岡崎の城(現平塚市)にいた三浦一族の末裔の義同(よしあつ)は、永正9年、早雲に攻められてこの住吉城に退却し、さらに前出の新井城(三浦市)に逃れ、一族とも滅んだ。
等々を紹介し、住吉城草創のことと早雲時代以降のことは分からないと記しています。

住吉神社の社殿

城跡めざして山道を登ると、少したいらな所があり、小さな住吉神社が建っていました。
『風土記稿』小坪村(217頁)に
「(住吉神社は)寺(正覚寺)のうしろ、山上にあり〈康安二年(1362)文書に小坪住吉神田一段ならびに畑一枚と見ゆ〉。神体は故ありて鶴岡の末社に移し、当社には今、白弊を神体とし、本地仏聖観音を安んず。小名飯島の鎮守なり。いにしえは郡中の総鎮守なりしという。古松、数珠掛け松と呼ぶ。あい伝えて記主禅師〈あるいは頼朝ともいう〉数珠を掛けし故なりという、今も里民、住吉社に参詣する者、この松に数珠を掛く。」とあります。

洞窟は通路になっている

住吉神社の脇に洞窟が口を開けています。
中は真っ暗。とにかくおそるおそる進んで見ますと、やがて行く手は塞いでありました。
『風土記稿』(215頁)に、
「山間に穴道四つあり、これ土民、捷径(しょうけい 近道のこと)のために穿つところなり〈高さ七~八尺、長さ七~八間より十五間にいたる〉土俗、通矢倉とよぶ」と記すものがこれでしょうか?

⑦ 補陀落寺

(鎌倉市材木座6-7-31)
『風土記稿』材木座村(32頁)によると、
「真言宗大覚寺派 山号は南向山 院号は帰命院 開山は文覚上人 手広村(現藤沢市手広)青蓮寺末」
「開山は文覚にて、養和元年(1181)、頼朝祈願所として創建あり<案ずるに、当寺に勧進帳のきれあり、首尾破れて詳らかならず、その中に、文覚鎌倉へ下向のとき、頼朝日来(近頃)の恩を報ぜんとて、この寺を建てられしとあり(略)>。とあります。

住吉城址の山を下りて、もう一度材木座に戻り、補陀落寺を訪ねました。

ここで材木座の地名について『風土記稿』の記すところを紹介しておきます。
同書材木座村の項(25頁)に、
「『吾妻鏡』に和賀の津口(和賀江島)に材木を置き、奉行 入してその寸法を点定せしめし事見えたり。当時、木料の港たり。ゆえに往年、材木座の名は負わせしなり。今も鶴岡修造のときはこの港に筏木を運湊すという。建長三年(1251)この地に市店を置く。」とあります。

補陀落寺境内

境内入り口の門柱脇に、大小2本の石柱が立っています。
大きい方の正面に
「源頼朝公御祈祷所□□□補陀落寺」
向かって左側面に
「加いさん毛(も)ん加く上人」

小さい方に
「右大師道 雲照 弘徳會」と彫ってあります。

「源頼朝公…」は『風土記稿』の記述に基づくもので、頼朝42歳のとき自作したという木像を祭る、ともあり、32頁にはその画像が掲載されています。
他方の「大師道…」の文字は、当寺の本寺の青蓮寺が鎖大師で有名なので、その青蓮寺までの「大師道」の道しるべなのでしょう。

これらの他に、頼朝と文覚上人の位牌、平家の赤旗と称するものの断片(『風土記稿』に画像あり)などがあるそうです。
後に五社神社の紹介でも触れますが「牛頭天王見目明神合社」が祭られていたとも風土記稿に記されています。

⑧ 実相寺 

(材木座4-3-13)
住居表示は材木座となっていますが、江戸時代はその隣村だった乱橋村(みだればしむら―『風土記稿』では「羅牟波之牟良 らむはしむら」と読んでいる)に位置します。

山門の柱に架かる看板には
「日昭尊者浜土法華堂跡
当山は宗祖嫡第六老僧第一大成弁阿闍梨日昭尊者潜居の地/宗祖佐渡流竄(るざん)後門下僧俗を統率したる浜土法華堂(祖滅後法華寺と称す)/の霊跡にて玉沢(伊豆)妙法華寺の旧地なり 工藤祐親邸跡という
御廟 裏山の麓にあり 往古は峯の岩屋に/有しを元禄三年(1690)現所に移せり/弘延山 實相寺」(/は改行されているところです)
と書いてありました。
日昭尊者は、日蓮六老僧の一人で、師が佐渡配流の後も鎌倉の浜土法華堂で布教に勤めたと言われています。

⑨ 五所神社

(材木座2-9-1)

五社神社参道
この奥に社殿、神輿殿があり、境内には多くの石仏等がある

神社名の由来は、明治時代に、旧材木座村と旧乱橋村にあった五つの神社を合祀したことにあると、神社の神輿殿に置かれて自由にとっても良いとされていた説明書(以後「説明書」とする)に書いてありました。
その内容は次のとおりです。

明治22年(1889)材木座村と乱橋村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座村となった。 明治41年(1908)7月  乱橋村の鎮守 三島神社(祭神 大山祇神)の地(現地)に  
材木座村鎮守 諏訪神社(材木座5-13-8)(建御名方命)
乱橋村の八雲神社(素戔嗚尊)(材木座4-4-26 能厳寺部落)
金毘羅宮(崇徳院霊 材木座4-7-2)
見目明神(みるめみょうじん 天照大神 材木座6-7-35)
を合祀して五社神社と改称した。
見目明神は補陀落寺文書に「見目天王分」として二貫三百文の地を北条氏康が同寺に寄進したとあるが、他の4社の来歴は分からない。

また、社殿については次のように書いてありました。
「現在の社殿は昭和6年(1931)7月に新築。もとの本殿は明治16(1883)7月建立の諏訪神社本殿を合併後、移建したものだったが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災の山崩れで埋没全壊した。」

神輿殿内、向かって右の神輿
中央の神輿
左の神輿

神輿殿の中に三基の神輿が収納され披露されています。どれも こしらえが施されていてすぐに担ぎ出せるような様子です。

先に紹介した、神社の説明書に次のように書いてあります。
「神輿3基、一号諏訪神社、二・三号見目明神持ちだった。 この神輿は江戸末期(一号は弘化4年(1847)、二・三号はそれ以前と思われる)の作で、明治37年(1904)と昭和31年(1956)に三基改修された。」
鎌倉市の指定文化財一覧に、この三基の中の一つ、「旧諏訪神社神輿」が平成26年2月14日に市指定の有形民俗文化財として掲載されていますが、それがどれかは分かりませんでした。

金具の古色の具合からすると、向かって右側のものがそれかも知れません。
そうするとこれが説明書にある弘化4年建造となり、中央と左側の神輿は見目明神持ちだったということになります。

神社を管理している方の話では、見目明神は女神で、神輿も女性風だということでした。
説明書に、
「『新編鎌倉志』に、見目明神と呼んだ宝満菩薩像があったことが見える。」と書いてあるところから、地元で宝満菩薩を女性仏と解釈しての話だったのでしょう。確かに左の2基は赤緒で華やかです。

倶利迦羅龍王種子の板碑

倶利迦羅不動種子の板碑

光明寺にある阿弥陀如来種子と一対をなすと言われている板碑です。 こちらは覆い屋の中に納めてあります。

蓮華座に直立する剣に龍が巻き付いている姿が、見事な薬研彫りで施されています。龍の体は金剛界大日如来種子の(バン)で表されています。これは倶利迦羅龍王であり、倶利迦羅不動であり、また金剛界大日如来でもある事を表しています。

昭和46年(1971)に鎌倉市から、建造物の部の文化財に指定されています。

この板碑の解説が『日本石造物辞典』(吉川弘文館)317頁に記載されていますので次に転記しておきます。原文は縦書きです。

鎌倉市指定文化財
概要 弘長二年(1261)銘の黒雲母片岩製下総型板碑。かつて近在の感応寺にあったが、同寺が廃寺になったのち五所神社に移された。鎌倉市内の三基の弘長二年名板碑のうちの一基。「五所神社弘長板碑」とも呼ばれる。
現状・規模 祠の中に納められており、状態は良好。高さ一三四㌢、幅四四・五㌢。銘文も明瞭。
形状 圭頭形。碑面は二重線で枠取りされ、頭部との境は二条線で示す。主尊は、蓮座に立つ利剣に龍に見立てられた金剛界大日如来種子が巻きつく剣巻龍。不動明王の変身の倶利迦羅龍(明王)が、外道を意味する剣を飲み込もうとしているので、標記の名がある。碑面枠内下辺に蓮座、上辺に瓔珞と宝珠を伴う下向き蓮華の天蓋を彫る。彫り技法は薬研彫り。
銘文 枠外下方に、「一見卒塔婆 永離三悪道/何況造立者/必生安楽国/弘長二年十一月廿日/右志者為[ ]/父母二親往生[ ]」と刻む。
学史的意義 近在の光明寺にある阿弥陀一尊種子板碑とは種子を除き素材や大きさ、碑面の構成などが共通するところから、一対のものとみられる。下総から鎌倉に入った光明寺開山然阿良忠の強い影響が窺える。
参考文献 馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』一九九八   (馬淵)

なお、文中にある「廃寺 感応寺」のあった場所は「説明書」に「材木座4-4-25」とあり、『風土記稿』乱橋村の項(34頁)には「○感応寺 由比山宝幢院と号す。真言宗〈京都三宝院末〉不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり。中興を養源という。〈境内に倶利迦羅龍王の古碑あり〉」と載っています。「境内に倶利迦羅龍王の古碑」がこの板碑のことです。

五所神社 境内の石仏など

旧材木座村と旧乱橋村内から集められた庚申塔が、「説明書」によると15基並んでいる。
内、寛文12年(1672)銘の舟形をして「奉造立帝釈天王」の銘があるものが最古で、鎌倉市から有形民俗文化財の部の文化財に昭和40年に指定されている。
横にある説明板に「お春像 天和4年(1684)の銘がある。由来は不明…」などと書いてあり、特異な形から人目を引いているが、とても江戸時代のものとは思えない。
イノシシに乗る三面六臂の摩利支天。石仏としては珍しい。大正2年(1913)の銘がある。
「三十貫」と彫ってある力石(ちからいし)。江戸時代のもの。1貫を3.7㎏として計算すると111㎏あることになる。

⑩ 来迎寺

(材木座2-9-19)

来迎寺 参道の入口

『風土記稿』乱橋村の項(34頁)に次のように紹介されています。

○来迎寺 随我山と号す。時宗〈藤沢清浄光寺末〉。開山一向〈建治元年(1275)寂すという〉。本尊三尊弥陀を安んず〈中尊 長二尺、左右 各長一尺五寸、共に運慶作〉、三浦大介義明の守護仏という。宗祖 一遍の像あり。また三浦義明の木像を置く。△三浦義明墓 五輪塔なり、義明は庄司 義継が長子なり、治承四年(1180)八月衣笠において自盡(自害)す。今、三浦郡大矢部村〈衣笠庄に属す〉、すなわち義明自盡の所と伝う。建久年中(1190~1198)、義明が追福のため、頼朝その地に一寺を創立して満昌寺と号せり。その域内に義明が廟あり。なお彼の寺(満昌寺)の条に詳らかなり。ここ(来迎寺)に義明の墳墓ある、その縁故を知らざれど、思うに冥福を修せんがため、寺僧の造立せしならん。

向かって右の五輪塔は「三浦大介義明公の墓」、左は「多々良三郎重治公の墓」と書いてあります。三浦義明は頼朝旗揚げのときに衣笠城を守って自盡したことは有名ですが、多々良三郎重治がどのような人物かは、不勉強でわかりません。二つの五輪塔は、鎌倉時代のものではなく、南北朝~室町期のものだと思われます。
本堂の裏手に、小型の五輪塔が集めてあって「家来衆の墓」と表示されていました。

これで今回(2019年4月15日)の、茅ヶ崎郷土会第293回史跡めぐり(後半の部)の報告を終わります。
次の写真は光明寺で撮影した参加者の記念写真です。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会

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第293回 その-1 鎌倉市(光明寺と住吉城跡など材木座近辺)2019.4.15

その-1 鎌倉駅から光明寺まで

(追記:2019.7.10)綱引き地蔵・延命地蔵尊について追記しました。
(追記:2019.7.10) 阿弥陀如来種子の板碑について追記しました。 
(追記:2019.6.11)国宝「当麻曼荼羅二巻」が寄進された年に関する光明寺サイトの記述について追記しました。

   (その-2 住吉城跡から材木座周辺はこちら

4月15日(月)
すばらしい五月晴れの一日、今年度最初の史跡めぐりで鎌倉市材木座近辺と、隣接する逗子市小坪を訪ねました。
鎌倉駅前からバスで光明寺まで行き、境内・内藤家墓地・歴代の墓所を訪ね、海岸に出て和賀江島跡を見ながら昼食、そして逗子市小坪の正覚寺、その裏山にある住吉城跡、山を降りて再び材木座に戻り、補陀落寺・実相寺・五所神社・来迎寺を参拝しながら鎌倉駅に戻りました。
一度では紹介しきれないので、まず光明寺を取り上げます。

鎌倉駅前を出発する茅ヶ崎郷土会の面々

天照山蓮華院光明寺(浄土宗)
       (材木座六丁目17番19号)

山門の楼上から見る光明寺の大殿(本堂)と開山堂など。この画像に収まらないほど広い敷地です。

浄土宗大本山。
開山は然阿良忠(記主禅師)<ねんありょうちゅう・きしゅぜんじ>。
開基は第四代執権、北条経時。
創建は寛元元年(1243)と伝えられています。

良忠は浄土宗の第三祖で、鎌倉に住んだことで浄土宗が関東以北へ広がったと言われています。
江戸時代には徳川家康が定めた関東十八檀林の筆頭寺院として、各地から学僧が集まり、修行の中心として栄えたそうです。

朝廷との関係が深く、山門の「天照山」の扁額は後花園天皇の直筆と伝えられています。
(後花園天皇 在位1428~1464 室町時代、102代天皇)

また、後土御門天皇からは関東総本山の称号を受け、勅願所に定められました。後土御門天皇からは「十夜法要」も勅許されました。今も念仏法要が10月12日から15日間、盛大に行われています。
(後土御門天皇 在位1464~1500 室町時代、103代天皇)

本堂に向かって左手の記主庭園は伝小堀遠州作です。 戦後間もなく、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校されました。

境内への入り口の総門そばに掲げられていた表示板。
建物の創建年など、わかりやすくまとめてあります。

このような掲示板もありました。
浄土宗では「往生は一度の念仏で可か、多念を要するのか」という論議があり、そのことについての一つの考え方が示してありました。
「一念で往生は決定との信をもって、数多くの行を積むことが大事」と、素人ながら解してみましたが、いかがなものでしょうか。
しかし誰のことばなのでしょうか。

これも総門の近くに掲げてあった境内図。
総門をくぐって石畳を進むと山門、そのずっと奥に本堂の大殿があります。
裏山の天照山に、開山と開基の供養塔を含む歴代の墓地があります。
大殿へ進む石畳の左手に記主禅師をまつる開山堂が、その前に、中国で浄土思想を確立したと言われる善導大師の像があります。

総門

先に掲げた「御案内」の看板に承応4年(1655)に建てられたとあります。
素木づくりの簡素な建物で、扁額の文字は「勅願所」で右から左へ読みます。
『新編相模国風土記稿』(以後、『相模風土記稿』と略記)の材木座村光明寺の項に、「永正六年(1509)に亡くなった祐崇(ゆうすう)は光明寺中興の祖で、明応四年(1509)に禁裏に招かれ後土御門帝の前で阿弥陀経と念仏を誦唱し勅願所の綸旨などを賜った。その後、光明寺でも念仏を行い、これが今も続く十夜念仏の始まり」と書いてあります。さらに、「勅願所」の扁額の絵を掲載して「書は祐崇の筆による」とあります。

山門(三門)

弘化4年(1847)再建。
説明版に「鎌倉に現存する最大の山門」とありました。
建長寺でも円覚寺でも、まず総門があって次に山門(三門)があります。 光明寺で配っているパンフレットによると「総門は寺の入り口。山門は寺の聖域の入り口で、主は山門」なのだそうです。

山門の扁額「天照山」
後花園天皇の直筆と伝えられ、山門に架かる、寺の山号「天照山」の扁額です。この表と裏をあらわす絵が『相模風土記稿』にあり、裏面にある文字は「永享八年(1436)丙辰十二月十五日賜畢 後花園帝」と読むようです。

山門は非公開ですが、平成31年は、3月24日から5月6日まで特別に公開されました。
4月15日に史跡めぐりを計画したのは、この山門の楼上を拝観できるからでした。
この期間中は、別の建物の中で寺宝展も行われていました。

楼上の様子
南向きに、中央に釈迦三尊像、その両脇に八人ずつの羅漢像が祭ってありました。
この日、参拝の人たちが、途切れることなく礼拝に訪れていました。

山門のご本尊、釈迦三尊
説明版には江戸時代後期の作とありました。
三尊を囲んで極彩色の四天王像がありましたが、この画像には写っていません。
室内の写真撮影は許可されていました。

釈迦三尊の左右に、八人ずつの羅漢像が祭ってありました。

楼上から鎌倉の海を望む
ずっと遠くに江ノ島が見えます。
そのすぐ横は稲村ヶ崎の断崖。
境内の石畳の先には総門があります。

楼上から北の方角を望む
左端に見える大屋根は光明寺の大殿(本堂)です。その先の樹木の茂っている台地上に、午後に訪れる住吉城跡があります。

大殿(本堂)

説明版に「元禄十一年(1698)、第五十一世洞誉上人の代に建立された。十四間四方の大建築で、現存する木造古建築では鎌倉一の大堂。内部の円柱、格天井、欄間の透かし彫りなどは建立当初の荘厳さを今に伝える」とあります。
国の重要文化財に指定されています。
中に入ると、正面に光明寺の本尊の阿弥陀三尊、その向かって右側の間に善導大師像と和賀江島弁財天、左側の間に宗祖法然上人像と如意輪観音像が祭ってあります。
堂内は撮影禁止です。

三尊五祖の石庭
大殿の左にある庭は「三尊五祖の石庭」と名付けられています。
三尊は阿弥陀如来と観音、勢至両菩薩。
五祖は釈迦、善導(唐の浄土教僧)、宗祖法然、浄土宗第二祖鎮西、第三祖で開山の良忠のことで、石をおいてそれぞれになぞらえてあります。

記主庭園
大殿の右うしろに設けられています。小堀遠州の作と伝えられているそうです。
蓮の花が見事だそうです。
池の向こうの高いところの建物は大聖閣と名付けられています。 2階の窓の奥に、金色に光る阿弥陀様があって、こちらを見ています。 この庭はお浄土をあらわしているようです。

開山堂

山門をくぐり、大殿に向かう左手にあります。 開山の良忠上人と歴代の法主(住職)の像がまつってあります。

『相模風土記稿』光明寺の項に
「仁治元年(1240)北条武蔵守経時(四代執権)、佐介谷において浄刹を創立し蓮花寺と名づく。時に僧 良忠、悟眞寺に在り。経時延(ひ)きて開山初祖とし…(略)。寛元元年(1243)、今の地に移転して堂宇を修復す。かくて経時、夢兆に感じて光明寺と改む。」
とあります。

説明版に
「良忠上人は現在の島根県那賀郡に生まれ、各地で修行と修学を積み、正嘉二年(1258)のころ鎌倉に入り、四代執権北条経時公の帰依を受けてこの寺を開かれた。多くの僧侶を育て、また多くの書物を著し今日の浄土宗の基盤をつくり、その功績により、没後、伏見天皇から記主禅師の諡号(しごう)を贈られた。毎年七月六日に開山忌法要を勤めている」とありました。
(伏見天皇 在位1287~1298 第92代天皇 鎌倉時代)
『相模風土記稿』は、勅諡があったのは永仁元年(1293)としています。

私達が訪れたとき、開山堂の一室で寺宝展が行われていました。 その中に、国宝の「当麻曼荼羅縁起」の、寛政5年(1793)箱書きのある模本が展示してありました。光明寺には本物もあって、鎌倉国宝館に寄託してあるそうです。

奈良の当麻曼寺の、しかも国宝の曼荼羅がなぜここにあるの?と不思議でしたが、この縁起と光明寺との関係は、後で内藤家墓地を記述する中で記します。

善導大師の像 善導塚

開山堂の前に、善導の銅像(露仏)と「善導塚」と彫ってある石柱があります。
善導塚について、『相模風土記稿』と『新編鎌倉志』(1685貞享2年<1685>刊行)の光明寺の項に次のような記事があります。
「善導塚は総門の前の松原にあって善導の金銅の像を安んず。昔、善導の像が僧になって筑前の国に着いた。九州にあった善導寺の聖光という僧の夢に立って、迎えに来てくれという。聖光迎えて寺に祭った。良忠が九州にあるとき、聖光からその像を託された。良忠は像に向かい、自分は今から関東に赴くが有縁の地があったらそこに跡を留めよ、と言って海に流し、鎌倉に来て佐介谷(さすけがやつ)に居した。あるとき由比ヶ浜に霊光が射し、忽然として善導の像が出現した。良忠は一宇を建立し、この像を祭り、これが光明寺の始まりである。」
数多くある漂着神伝承の一つです。

『相模風土記稿』に掲載の境内図には、総門と三門の間に善導堂が、二尊堂という建物が本堂の向かって右側に描かれています。
『風土記稿』はさらに続けて「舶来した像は二尊堂にあるものが善導自作の本物で、善導堂のものはその模像。二尊堂には善導像と弁財天を祭る。弁財天は江ノ島の弁財天で、暴風によって流れ来て、3度まで戻したがまた来るので留め祭っている」と述べています。

今、大殿に善導像と弁財天像が祭られていると前記しましたが、これが『風土記稿』にいう二尊堂にあったもので、開山堂前に立つ露仏の銅像は、善導堂にあって模像と書かれている像だと思われます。

高倉 健さんの墓

光明寺に行けば健さんのお墓があるよ、とどこかで聞いていました。 山門をくぐってすぐの右手にありました。 御影石のすごいお墓でした。阿弥陀如来をあらわすキリークの種子(しゅじ)の下に「高倉 健」と彫ってありました。 その場所は墓地のような所ではないので、やっぱり違う人は亡くなっても違うなと思いました。

梵鐘寄進者の供養塔

真ん中の僧形の坐像がある石塔がそうです。

高倉 健さんの墓石のそばに石仏が集めてありました。無縁さんになった供養塔のようでした。
すべて江戸時代のもので、地蔵さまや阿弥陀さまの像があるので、りっぱな形をしたものを選んで保存しているように思いました。
その中に、興味を引かれた石塔がありました。

石塔の向かって右側面に文字があります。
読んでみると、江戸の由比平左衛門の子、由比松兵衞が建てたと書いてあるようです。
興味を覚えたのは「當山鐘施主」とあったことです。昔、由比平左衛門という人物が、光明寺に梵鐘を寄進したという意味だと思います。

左側面は、その隣の石塔とくっついているのでうまく写真が撮れませんが、「慶安元年(1648)」と読めます。
この年銘は、この石塔を建てた年とも、平左衛門の卒年とも考えられます。
今、境内の鐘楼に梵鐘がありますが、それは新しいものなので、平左衛門が寄進した梵鐘ではありません。
『相模風土記稿』光明寺の項に「鐘楼 正保四年鋳造の鐘を掛く」とあります。正保4年は1647年です。
この記事から、慶安元年(1648)に亡くなった由比平左衛門がその前年に梵鐘を寄進しているとみていいように思います。
しかし、その梵鐘は今は残っていないようです。

網引き地蔵尊・延命地蔵尊

二つの表示を掲げた地蔵坐像です。
覆い屋の中に何体かの像があるので呼び分けられているのかもしれません。網引き地蔵と名がついていますから、これも漂着神の一つだと思われますが、『相模風土記稿』や『新編鎌倉志』などにも掲載されていません。
大きい方の坐像の背中に「正中二年(1325)」とあるというネット情報もありますが、出典が不明確です。
この地蔵さまに関する資料などをご存じの方はご教示願います。

→2019.07.10 追記
『鎌倉の石仏・宝塔 ―鎌倉国宝館図録第23集― 』にこの地蔵菩薩の単色図版と解説が掲載されているので、下に全文を写しておきます。

7 地蔵菩薩坐像 一躯 光明寺
 現在は本堂右脇の地蔵堂に安置されているが、元は裏山の第一中学校門前の山腹にあった「やぐら」(大悲窟・地蔵岩窟)に安置されていた。
 像背面に次の刻銘がある。

啓白
奉造立地蔵[菩薩]像一[  ]
発願満福寺[住ヵ]侶教義
勧進聖尚養[寺]常住西連
右志趣者爲結縁衆生安全
正中二年乙丑九月廿四日仏師沙弥□□

 銘文中、教義・尚養寺・西連・仏師等は未詳だが、満福寺は金沢文庫古文書に「於鎌倉和賀江万(ママ)福寺書了、于時貞治三年二月日 浄宏」と出てくる和賀江(光明寺の近く)の万福寺らしい(貫達人氏『鎌倉の廃寺・諸宗の部』鎌倉国宝館論集第六集)。  通例の像容で、右手錫杖(欠失)・左手宝珠・右足を左脛(すね)前へ出す。二重蓮華座(大仏座)に坐し、後補の拳身光(きょしんこう)を背にする。割れ落ちた頭部や欠けた右脚の下部などはセメントで固められ、鼻先・右手先・右足先・宝珠一部などを欠失するなど、損傷が甚だしい。このように保存状態は決して良好とはいえないが、正中二年(一三二五)に造立されたことがわかる点、貴重である。形式化が進み、彫りも浅く硬いが、智的でひきしまった面部、ゆったりとした体躯、厚みのある奥行きや膝部、量感豊かな台座の蓮弁など、鎌倉期の重厚で的確な作風は失われていない。後補の舟形光背には阿弥陀如来の種子(キリーク)一字と左右に地蔵菩薩の種子(カ)六字、そして下方に結縁者名が刻まれている。
 当像が安置されていた「やぐら」は、『檀林光明寺志』や享保五年(一七二〇)の光明寺境内図などによると、祈祷堂(廃)の右の山上、眺望の開けた所にあって、明治初年まで拝殿があった(三浦勝男氏『鎌倉の古絵図Ⅰ』鎌倉国宝館図録十五集)。また、鎌倉二十四所地蔵霊場の第二十二番で鉢地蔵と呼ばれ、明和六年(一七六九)の石碑によると、弘法大師御位鉢(ママ)の地蔵尊という。(清泉女学院郷土研究部「地蔵を求めて・鎌倉二十四所地蔵尊の研究」(鎌倉第二十五号)。
 安山岩製。台座別石。像高八六・五㎝、台座高三〇・〇㎝。(山田)
参考文献 『鎌倉市史・考古編』鎌倉市  『鎌倉の文化財』第五集 鎌倉市教育委員会

キリーク(阿弥陀如来の種子)の板碑

摩滅していて読めません。

大殿の前を、右手に折れて材木座幼稚園の方に曲がる所に立っています。 頂部に欠損があり途中で折れていますが、1メートルを少し越す高さがあり、見事な種子、キリーク(阿弥陀如来)が彫ってあります。
五所神社にも、石質、大きさ、彫刻がこれに似た板碑があります。五社神社の板碑には不動明王の種子、カンのほかに「弘長二年(1262)」の年銘、銘文があり、鎌倉市の有形文化財(建造物)に指定されて、覆い屋で保護されています。
それに比べ、この板碑はそっけなく露座で立ててあり、説明板もなく、もったいないような気がします。両方とも作られた時期はそんなに違っていないと思われます。

【追記 2019.7.10】
『日本石造物辞典』(2012)吉川弘文館(312p)にあるこの板碑の解説を写しておきます。(元の文章は縦書き)

光明寺阿弥陀一尊種子板碑
弘長二年(一二六二) 概要 黒雲母片岩製下総型板碑。鎌倉市内に残る三基の弘長二年銘板碑のうちの一基。
現状・規模 本堂右手に立つ。中央で折れているのをコンクリートで接合している。頭部は欠損、下部はコンクリートで土台の中に埋め込まれているため高さは不明だが、近在の五所神社倶利迦羅不動板碑とほぼ同規模(一三〇㌢)と推定される。幅四五㌢。表面は風化が進み、服部清道によれば、銘文もかつては「弘長二」と読めたというが、現在は不明瞭。
形状 頭部を欠損しているが、圭頭形。碑面は五所神社板碑と同じく二重線で枠取りされ、頭部と碑面との境には二条線が設けられる。碑面枠内下辺に蓮座、上辺に瓔珞と宝珠で荘厳された下向き蓮華の天蓋を持つ点も五所神社板碑と共通するが、主尊種子は阿弥陀如来。薬研彫りである。
銘文 枠外下方に、『観無量寿経』から引用された偈が「其仏本願力/聞名欲往生/皆悉到彼国/自致不退転」とある。
学史的意義 近在の五所神社にある倶利迦羅不動板碑と種子を除き素材や大きさ、碑面構成などが共通するところから、双碑とみられる。弘長二年は光明寺の金石文でもっとも古く、寺の創建に関わる可能性を示唆する。また、下総型である点は、当地から鎌倉に入った光明寺開山然阿良忠との密接な関係を窺わせる。
参考文献  服部清道『鎌倉の板碑』(鎌倉国宝館論集九、一九六五)  馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』一九九八                  (馬淵)

歴代の墓所 

中央の卵塔が開山、記主禅師の供養塔

大殿の裏手に回って天照山に上ると歴代の墓所があります。
卵塔形墓石の中央にある一段と大きい石塔が開山塔です。基礎に「開山記主祖師」と銘がありますが、建立されたのは祖師卒去のころではないような気がします。確証はありませんが、後世の建造ではないかと思います。間違っているかもしれませんが。
少し離れて開基の北条経時公の供養塔がありました。こちらは宝篋印塔で、その形から江戸時代の建立と分かります。

開山塔の基礎の刻字

開基、北条経時公の供養塔

天照山の中腹から見た鎌倉の海です。
光明寺大殿の屋根の向こうに稲村ヶ崎、その向こうに江ノ島が見えます。

内藤家の墓所

神奈川県鎌倉市材木座六丁目21-12

光明寺に隣接する材木座幼稚園の隣にあります。
二百坪を超すと思われる墓地の中に、江戸時代のスタイルの巨大な宝篋印塔などが林立しています。
立ててある鎌倉市教育委員会の説明板におおよそ次のように書いてありました。

昭和37年9月7日 鎌倉市史跡に指定
日向延岡藩内藤家の歴代墓地。
墓碑が58基ある。 宝篋印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基 そのほかに灯籠118基、手水鉢17基、地蔵など9基。
江戸時代初期以降、代々にわたる墓碑を良く保存する大名の墓地として貴重である。

内藤家は多くの支族を擁していますが、ここの墓地に眠る一族は、宗家の磐城平藩(後に日向延岡藩に移封)内藤家と磐城湯長谷(ゆながや)藩内藤家の二家のようです。
内藤家は、義清が松平家に仕え、三河国加茂郡に領地を与えられました。内藤家はこの義清を初代として語られています。 義清の孫、家長が家康に仕え、その子、政長は元和8(1622)磐城平藩7万石に移封になりました。長政亡き後、子、忠興が跡を継ぎました。

また、一方の磐城湯長谷藩は、忠興の子、政亮(まさすけ)が父の領地を分与されて独立して起こした家系です。

磐城平藩、磐城湯長谷藩はともに今の福島県いわき市内にありました。

磐城平藩内藤家は、延享4(1747)、義清から数えて9代政樹のとき日向延岡藩に転封となります。これを延岡藩内藤家と呼びます。

出典不明の内藤家墓地を解説したメモがあり、それに「忠興のときまで、内藤家の菩提寺は江戸の霊厳寺(浄土宗)だった」とありました。何かの事情があって、1660年頃、200石を光明寺に寄進して檀家となったのだそうです。 この話の出典が知りたいところです。
この墓地にある石塔類は霊厳寺から移したものということになります。

光明寺には「当麻曼荼羅縁起」正副が収蔵されていて、山門が公開されている期間中、その写本(副本)が公開されていました。
正本は国宝となっていて、鎌倉国宝館に寄託してあるそうです。

展示を見ながら「なぜ光明寺にこれらがあるのだろう?」と思っていたのですが、展示場で販売されていた『大本山光明寺蔵 当麻曼荼羅縁起 解説書』に「内藤家6代義概(よしむね:忠興の子)が延宝3年(1675)に修復した」と書いてありました。
修復したのは正本のようです。

また、副本は寛政5年(1793)に作られたとありました。

そうするとこれらの「当麻曼荼羅縁起」は内藤家から光明寺にもたらされたものということになりますが、それがいつのことかは書いてありません。 想像をたくましくすると、父忠興が新しく光明寺を檀那寺とし、子義概が家宝の縁起を修復して寄進し、後に寛政5年に寺で副本を作ったということでしょうか。

当麻曼荼羅の寄進時期

【追記 2019.6.11】
上記の記事を書いたあと、光明寺のサイトに、国宝の当麻曼荼羅二巻が寄進された年に関する次のような記載を見つけました。

宝物について
国宝 『当麻曼荼羅縁起絵巻二巻・附松平定信添書一巻』 紙本著色/ 上巻 縦51.5×長796.7  下巻 縦51.5×長689.8
延宝三年(1675)、光明寺の大檀越であった内藤義概により寄進されたものです。

解説書の表紙

photo 前田会員・平野会員
report 平野会員

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5 茅ヶ崎とその近くの修験道寺院(廃寺)

5-0-00 
相模の修験道寺院

修験道は、江戸時代、幕府によって天台宗系の本山派と真言宗系の当山派にまとめられた。共に総本山は京都にあり、本山派は聖護院、当山派は醍醐寺三宝院で、各地には地方本山が置かれ、それぞれピラミッド型の二つの組織体制を幕府が監視した。
相模では、本山派は小田原の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が大住郡や高座郡を中心に多くの末寺を抱えていたが、八菅修験集団は独立して聖護院の直末となった。貞享4年(1687) のことといわれている。
一方、当山派は相模本山が数多くあり、それぞれに末寺を抱えていた。
茅ヶ崎近辺にあった寺院をあげると、
高座郡遠藤村(現藤沢市)の大験寺、
同郡吉岡村(現綾瀬市)の龍岡寺が相模本山で、
後に紹介する西俣野(藤沢市)の神礼寺は前者の、茅ヶ崎市芹沢の宝沢寺は後者の末寺だった。
【画像をクリックすると大きな画像で見ることができます】

5-0-01
相模 修験寺院分布地図

この分布図は松村雄介著『相模の石仏』(昭和56年木耳社刊)に掲載されているもので、江戸時代末期の相模国内にあった修験道寺院を、本山派(天台宗系)と当山派(真言宗系)に分けて、それぞれ地図に落としてある。『新編相模国風土記稿』に基づいて作成し、寺院数は約150ヶ寺にのぼるとある。三浦半島と現在の横浜市戸塚区・泉区などに当山派の偏りがみられるものの、その他の地域では両派の分布は重なっている。茅ヶ崎市内では、芹沢に宝沢寺(ほうたくじ)、香川に普賢寺(ふげんじ)の当山派修験の2寺があった。

5-0-02
 相模 郡別修験寺院一覧

『八菅周辺の歴史と信仰』―愛川町郷土博物館展示基礎調査会報告書 第4集―(愛川町教育委員会1997年刊)に掲載されている。『新編相模国風土記稿』を元に、相模国内の修験寺院を、郡ごとにまとめた一覧表。修験寺院の本末関係も明記してあり、便利に使うことができる。分量があるので、ここでは同書を紹介するにとどめる。
『新編相模国風土記稿』には、江戸時代に今の茅ヶ崎市内にあった芹沢村の宝沢寺(ほうたくじ)は吉岡村(綾瀬市)にあった瀧岡寺の触下とあるが、香川村にあった普賢寺(ふげんじ)の本寺の記述は欠けている。

5-0-03
相模 修験寺院本末一覧

同じく『八菅周辺の歴史と信仰』に掲載されている、相模国内修験寺院の本末関係の一覧。本山派修験では小田原にあった玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が多くの末寺を抱えていた。
しかし愛甲郡内で51ヶ寺が聖護院の直末となっているのは、玉瀧坊から分離した八菅修験のことである。これに対して、当山派は総本山の醍醐三宝院の直末寺院をはじめ、本寺の数が多く、それぞれに末寺を抱えており、複雑な本末関係にあったと記してある。

5-1-00
藤沢市西俣野の神礼寺

江戸時代には相模国高座郡西俣野村(現藤沢市)に当山派修験の神礼寺(じんれいじ)があり地神坊(じじんぼう)と呼ばれていた。地神坊と呼ばれたのは、特徴ある地神(じじん)の絵像を頒布していたからである。絵像は、左手に花を盛った器(これを「盛花器」という)を、右手に矛(ほこ)を持ち立ち姿の武神で、人々はこれを掛け軸に仕立てて地神講の礼拝本尊としたり、石に彫って地神塔として立てた。
当地方の地神信仰には修験の神礼寺が係わっていたと考えられている。その影響は相模国に限らず、隣接する、現在の町田市、横浜市、川崎市にもおよんでいる。

5-1-01
御嶽神社とその別当寺の神礼寺

明治政府の神仏分離令(神仏判然令 1868年)が出されるまで日本では長い間神仏習合が続いていた。村々の鎮守は、特定の寺院が管理しており、そのような寺を別当寺という。別当寺は、管理する神社の近くにあることが多かった。
今は藤沢市内の西俣野村は、御嶽神社(みたけじんじゃ)が村鎮守で、別当寺は当山派修験の神礼寺だった。御嶽神社は今も残っているが、神礼寺は神仏分離令後、明治5年の修験宗廃止令で痕跡を失った。修験道そのものが存在を認められなかったからである。

5-1-02
神礼寺で発行していた地神像の写し

地神とは、農作物の豊穣を願って農民が祭った神で、これを祭るには、地神講という講をなし、石で地神を表す塔を建てた。地神講は春秋に催され、地神の像や文字でそれと表した掛け軸を掛けて飲食をした。神奈川県内は全国的に見て地神の信仰が盛んな土地だった。
神礼寺像には「相州高座郡西俣野村神禮寺堅牢地神」と書かれている。堅牢地神(けんろうじじん)とは『金光明経』の「堅牢地神品」に基づく呼び方で、地神の由来を仏教の天部に求めたものである。


5-1-03
 藤沢市獺郷 東陽院十八世描く肉筆地神像の写し

藤沢市獺郷にある曹洞宗東陽院は修験寺院ではないが、十八世の輝外良準和尚は絵が堪能で、肉筆の地神像図を残している(『御所見の今昔』平成9年)。
その絵を比べると西俣野の神礼寺の地神像を手本にしたものであることが分かる。藤沢市宮原の百石講中が所有しているそうである。

5-1-04
 西俣野の御嶽神社境内にある水鉢

「御嶽大権現」「堅牢地神供」

正面左右に「御嶽大権現」「堅牢地神供」とある。作られた年は、右側面に「文化三丙寅十一月」とある。文化3年は1806年で、約200年前のものである。「大権現」という言い方は神仏習合に基づくもので、神仏分離で禁止される。また、「堅牢地神供」とあるのは、別当寺の神礼寺が地神の信仰の発信源になっていたことを表している。村人の日常生活に強く結びついて、その現世利益成就にかかわった修験の、かつての姿を今に残す水鉢である。

「文化三丙寅十二月」

5-1-05
 神礼寺型の地神塔 その1(寒川町田端の路傍)

茅ヶ崎市近辺の市町にある地神塔をいくつか紹介しよう。石で作られ、路傍などに立っている地神塔は、地神の像を彫ったものと、文字でそれと表したものがあり、前者から後者へと時代と共に変化したと考えられている。
像を彫るものには、神礼寺の掛け軸にある絵に基づくものと、「堅牢地神品」に記す女神像があるが、ここでは修験道がテーマであるから神礼寺型を取り上げることとする。
寒川町田端の路傍にある。安永(1779)の銘があり、比較的初期のもの。頭髪の形が違うほかは神礼寺の神像と同じである。

5-1-06
 神礼寺型の地神塔 その2(藤沢市藤沢の庚申堂の境内)

享和(1803)の年銘を持つ。
地神講を行うのは春、秋の社日(しゃにち)だった。社日とは、春分と秋分に(春分の日、秋分の日)に最も近い戊(つちのえ)の日をいう。「つちのえ」の「つち」が「土」を連想させるところから、農作物の豊穣祈願に結びついたものと考えられる。
この地神塔には、年銘の次に「二月吉日」とある。つまり、春の社日に近いある日に立てられたものである。

5-1-07
 神礼寺型の地神塔 その3(横浜市保土ケ谷区仏向町の路傍)

文化9年(1812)の年銘を持つ。この塔をはじめとして、その4・5は同じ材質の石を使っているようだ。緻密な赤茶色の石材。彫刻が細かく施されている割に摩滅や薄利が少ない。石質は固いようだ。
像は磐座(いわざ)に立ち、右手に矛、左手に花を盛った器を抱える。広がった袖先、火炎の様な頭髪、鎧にある青海波の彫刻は精緻になされている。地神の表情はリアルである。
頭の周りの頭光に火炎が三つ付いている。像のバランスも良く、かなり腕の立つ石工の手になるものだろう。

5-1-08
 神礼寺型の地神塔 その4(横浜市泉区和泉台の路傍)

文政12年(1829)の銘。
その3・5と同じ石材のようだ。
これら3基を比べると、最も彫刻が大雑把であり、石工の手が違っている。

5-1-09
 神礼寺型の地神塔 その5(藤沢市柄沢の柄沢神社境内)

文政13年(1830)の年銘を持つ。
像はいささか寸が詰まっていて、身長の割に頭が大きいが、頭光を含む全体のバランスは悪くない。両足の下に敷くものは蓮の葉と思われる。三つの火炎をつけた頭光があるところはその3と同じ。
顔の表情と全体の彫刻の有り様にも共通するものがある。おそらく同じ石工になるものと思われる。これも地神塔の優品である。

5-1-10
 神礼寺型の地神塔 その6(藤沢市藤沢の白旗神社境内)

天保3年(1832)の年銘を持つ。
先の3例とは石材が違うようだ。また、像を刻んだ石柱が笠を被り、形態も異なる。しかし頭光と顔の表情、袖先の表し方、両足の下の蓮の葉と思われるものなど、その3・5に共通するところがある。同じ石工になるものではなかろうか。

5-1-11
 神礼寺型の地神塔 その7(綾瀬市上土棚の路傍)

天保7年(1836)の年銘を持つ。
石の質はその4と同じであるように写真では見える。頭髪の様子、大雑把で粗い鎧の表現、ぬめっとした感じの袖先、肩のライン、花を盛る器の持ち方や首からその器までの表し方などに共通点があり、その4と7は同じ石工になるものと思われる。

5-2-00
 藤沢市遠藤の大験寺

明治政府の修験道廃止令によって廃寺となった藤沢市遠藤の大験寺(だいけんじ)は相模の当山派地方本山の一つで、高座郡内に吉祥院(現寒川町小谷)・感応院(相模原市上溝)・神礼寺(藤沢市西俣野)・最勝寺(藤沢市石川)・金剛院(藤沢市打戻)・正明院(相模原市田名)の末寺6寺を抱えていた。また、遠藤村(現藤沢市)の村鎮守である御嶽神社の別当寺でもあった。
その場所は御嶽神社のそばだと思われるが、神社を訪ねてみても痕跡は何も残っていない。この有様はほかの修験寺院の跡でも同じである。修験廃止令は徹底して行われた模様である。

5-2-01
 藤沢市遠藤の御嶽神社

遠藤の鎮守。大験寺がかつて管理していた遠藤の御嶽神社を訪れても、修験の痕跡は見当たらない。

5-3-00
 茅ヶ崎市香川の普賢寺と芹沢の宝沢寺

茅ヶ崎市内には、かつて二つの修験道寺院があった。香川の普賢寺(ふげんじ)と芹沢の宝沢寺(ほうたくじ)である。共に当山派(真言宗系)に属した。
普賢寺は香川村の鎮守の諏訪神社の別当寺で、宝沢寺は芹沢村の鎮守の腰掛神社(こしかけじんじゃ)の別当寺だった。ともに明治5年の修験道廃止令によって廃寺となった。修験道の廃止は明治初年の神仏分離令に続くもので、神仏分離では次の様なことが行われた。
◯神社名の変更 仏語を神号とする神社はその名称を変更した。八王子権現は八王子神社に、牛頭天王(ごずてんのう)は八雲神社あるいは八坂神社に、山王権現は日枝神社、日吉神社などに。
◯祭神の変更 牛頭天王の8人の御子はアマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた8柱の御子神に。

5-3-01
 茅ヶ崎市香川の諏訪神社

修験道寺院も本末寺制度で系統化され、江戸幕府の管理を受けていたので、末寺は地方本寺に、地方本寺は総本山に抱えられていた。相模国の中のその系統図は『新編相模国風土記稿』でたどることができるが、香川の普賢寺は本寺が記されていない。 神仏分離まで鎮守の諏訪神社は普賢寺が別当寺だった。

5-3-02
 諏訪神社の拝殿に掛かる神社銘

拝殿の向拝にケヤキの一枚板で出来ている社額があり「諏訪大神/明治丁酉(ひのととり)孟冬/十二竹子書」と書かれている。明治丁酉は明治30年(1897)。今の社殿は昭和3年に建て替えられたそうである。この社額は旧社殿にあったもので、12歳の竹子さんが書いたと『香川の歩み』(昭和53年香川自治会発行)に出ている。

5-3-03
 茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社

茅ヶ崎市内にあった二つ目の修験寺院、宝沢寺も今はその跡をとどめていない。腰掛神社まだ農村風景が広がる茅ヶ崎北部の丘陵の中にあって、緑の樹林に囲まれている。その樹林は市の天然記念物の指定を受けている。雪の腰掛神社。

5-3-04
 腰掛神社の腰掛石

腰掛神社の名前は普通にない名前である。境内の社殿の前に大石が一つ置かれていて、そばに立っている説明板には「日本武尊、東征のとき腰掛けられた石」と書いてある。神社の名前はこの石に由来する。
また『新編相模国風土記稿』には「大庭の神 腰を掛し旧蹟といい伝う」とある。「大庭の神」とは何なのか分からないが、この腰掛石は、ここに神が出現したことを伝える影向石(ようごういし)と呼ばれる霊石の一つである。

5-3-05
 宝沢寺の跡地

茅ヶ崎郷土会は、平成27年度に県内各地の修験道の関係する史跡をめぐったが、修験道の跡をとどめる所は少なかった。修験道寺院が建っていたその土地を確認することさえ十分には出来なかった。
そういう中で、宝沢寺跡地は腰掛神社の脇にあり、今は樹木が茂っているが関東大震災まで建物があったという。今でも井戸が残っている。
一段低くなっていて、木々が茂っているところが廃寺の跡地である。宝沢寺は当山派(真言宗系)に属し、高座郡吉岡村(現綾瀬市内)の瀧岡寺の触下だった。


5-3-06
 腰掛神社で発行していた地神像写し

修験寺院宝沢寺でも地神の刷り物の画像を発行していた。図柄は、右手に矛を、左手に花を盛った器を抱える武神像で、いわゆる神礼寺型の地神像である。ただ、神礼寺の画像と違う点は、神礼寺は堅牢地神としていたことに対して、宝沢寺では「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」としている点である。「埴(はに)」は粘土、つまり「土」のことで、土の神、すなわち豊作を祈る神、地神ということになる。
画像には「石腰神主」とあるので、宝沢寺がなくなったあと腰掛神社で発行したものである。

photo 坂井会員
report 平野会員


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