第293回 その-2 鎌倉市・逗子市( 和賀江島から来迎寺まで)2019.4.19

4月15日(月)
すばらしい五月晴れの一日、今年度最初の史跡めぐりで鎌倉市材木座近辺と、隣接する逗子市小坪を訪ねました。
鎌倉駅前からバスで光明寺まで行き、境内・内藤家墓地・歴代の墓所を訪ね、海岸に出て和賀江島跡を見ながら昼食、そして逗子市小坪の正覚寺、その裏山にある住吉城跡、山を降りて再び材木座に戻り、補陀落寺・実相寺・五所神社・来迎寺を参拝しながら鎌倉駅に戻りました。

293回 その-1 ①光明寺と②内藤家墓地は2019年5月29日にはこちら。

ここでは後半の、③和賀江島から⑩来迎寺までを取り上げます。

③ 和賀江島の跡

(鎌倉市材木座6丁目)

初夏の鎌倉の海
手前の黒く見える石積みが和賀江島の跡
手前の丸い石も構造材だった
新田義貞が鎌倉を攻めるときに踏破した稲村ヶ崎が中央に見え、左遠方に江ノ島が見える。 手前が和賀江島跡。

 湊としての和賀江島は鎌倉時代に築かれて、江戸時代まで使われたといいます。 今は、写真で見るように水面にわずかに石積みが見えるだけです。 どのような形の船付場だったのか想像しにくい光景です。
手前に見える人頭大の丸い石が海の中を続いていて、干潮時にはもっと姿を現すそうです。
和賀江島を解説する情報はあふれていますので、ここでは『吾妻鏡』の記述を引用します。

貞永元年(1232)七月 十二日 今日、勧進聖人 往阿弥陀仏、申請に就きて、舟船着岸の煩いなからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州(北条泰時)ことに御歓喜ありて合力せしめたもう。諸人また助成すと云々。(新人物往来社『全譯吾妻鏡』4巻124頁)

十五日 今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。(同書125頁) 

同年八月 九日 晴る。和賀江島その功を終う。よって尾藤左近入道(景綱)、平三郎左衛門尉(盛綱)、諏方兵衞尉(盛重)御使いとして巡検すと云々。(同書126頁)

これらの記事によれば、一月足らずで完成したことになります。一体どのような構造だったのかますます疑問が高まります。
かつて、この近辺から中国は南宋の国で作られた陶片を拾うことができたといいます。鎌倉幕府の、海に開いた表玄関だったと言われています。

向こうに見えるのは逗子マリーナの建物
海岸の立木にうまく収まった江ノ島遠景

和賀江島のそばの海辺に、整備された小公園のような場所があり、昼食をとりました。
海岸でお弁当を広げるときは、トビ(鳶)に要注意です。後ろから音もなく飛んできて、手にしているおにぎりを取っていきます。


昼食後に向かう住吉城址の小山です。
城跡は、和賀江島近辺からは、見上げる絶壁の断崖の上にあります。
絶壁の補強工事が行われていました。

見上げた場所に立っていた説明板です。 住吉城の説明が要領よく書いてあります。
写真で白く見える断崖が、補強工事が行われている同じ場所のようです。
この説明板にある三浦市の新井城も突き出た半島の上にあり、海から見ると見上げるばかりの絶壁の上です。両方の城ともよく似た地形の上にあります。

『新編相模国風土記稿』小坪村の項(雄山閣版5巻214頁 以降『風土記稿』と略記)にある挿絵で、住吉城跡の高台から見た鎌倉の海を表しています。画面左手の正覚寺が絶壁の途中にあるように見えます。先の写真は、この絶壁を写したものでしょう。絶壁の下は海に落ち込んでいますが、今は埋め立てられて住宅や道路が作られています。
同書は続けて、
「村の南の海岸、厳しく腹壁 立して高さ四~五丈(12~15㍍)、上に小径通ず、鎌倉道なり。この所より眺望すれば、東方 近く杜戸の浜あり、四方鎌倉霊山の崎(稲村ヶ崎)突出し中央に江ノ島浮かび出で、また大磯小磯の海浜を望み、遠くは富峰雲際に秀で、その美景を賞すべし」と記しています。

④ 六角ノ井

(鎌倉市材木座6丁目)
「鎌倉十井(じっせい)」の一つに数えられていますが、水が涸れたのか危険性防止のためか、私たちが訪れたときはブルーシートで覆ってありました。
『風土記稿』材木座村の項(26頁)に、
「六角井 飯島にあり、また矢根井とも唱なう。石にて六角にたたみたり。鎌倉十井のひとつなり。里俗の話に、むかし、鎮西八郎為朝、大島にありて、我が弓勢(ゆんぜい)昔に変わらずやとて、天照山〈村内光明寺の後ろ山を、しか 字(あざ)せり〉をうかがいて遠矢を射る。その矢十八里を越えてこの井中に落ちたり。里民その矢を取り上げるに鏃(やじり)は井の底に残る。今も井中をさらえばその鏃を見るという。あるとき取り出して明神に納めければ井水枯れたり。また井中に投ずれば元のごとく湧出すといえり。鏃の長さは四五寸(15㌢ほど)ばかりありという。」とあります。

また、そばに立ててある説明板には、
「井戸端は六角あり、六角が鎌倉分、二角が小坪分と言われている。別名、矢の根井戸ともいわれる。 かつては井戸替えの際にやじりを入れる竹筒を取り替えていましたが、これを怠った年は悪い病がはやったと伝えます。やじりは今も竹筒に封じ手井戸の中段にまつってあります。」と書いてありました。

⑤ 正覚寺

浄土宗 住吉山悟眞院正覚寺
(逗子市小坪5-12-2)

和賀江島跡から住吉城址の高台に登る途中にある寺です。
先に掲載した風土記稿掲載の図版では、画面の左端に位置しています。
うっかり、写真を撮らずに通り過ぎました。

寺のHPによれば、
本尊 阿弥陀如来
開山 然阿良忠上人
開基 眞蓮社快譽

住吉城址に登る坂道
この道の途中に正覚寺があった。

『風土記稿』小坪村の項(216頁)正覚寺の説明に、
「光明寺の末寺、記主禅師 駐錫(ちゅうしゃく)の旧跡」と書かれています。

記主禅師は然阿良忠(ねんありょうちゅう)上人のことで光明寺の開山です。正覚寺は光明寺と深い関係を持つ寺です。

同書は続けて、
「師の閑居せし岩窟今に境内にあり。その頃は悟眞寺といえり〈【高僧伝】に曰く。鎌倉光明寺開山 釋良忠、字(あざな)は然阿、仁治元年(1240)届相の(?)鎌倉住吉谷 悟眞寺にて念仏を勤唱す。平経時(幕府第4代執権)、佐介谷に蓮花寺を建て、延(ひ)きて開山の祖とす。後、寺額を光明寺と改む。〉今、師をもって(正覚寺の)開山とし、その肖像を客殿に置く。 一旦、戦争に遇いて廃寺となり、後 天文十年(1541)、光明寺十八世真蓮社快誉再考す〈快誉は天文十五年(1546)二月三日寂す。案ずるに快誉、正覚寺の号を授けしなるべし〉、本尊弥陀は(略)」とあります。

⑥ 住吉神社・住吉城址

(逗子市小坪)

住吉城の城址と言われる高台から見下ろした鎌倉の海です。
右手の木立の向こうに稲村ヶ崎、そ左手に霞んだ江ノ島が見えます。

『風土記稿』小坪村「住吉古城跡」(217頁)に「背は山により前は海に臨み要害の山城なり」とあります。
続けて、北条早雲が関東制覇を進めるころの事として、
①永正7年(1510)、越後守護代 長尾為景が関東管領の上杉顕定と対立して蜂起したとき、為景に呼応した早雲が、古城だったここに陣を敷いた。
②山之内・扇谷両上杉家と対立した早雲は、扇谷上杉家の家臣、上田蔵人入道を引き込み、熊野権現山(現横浜市神奈川区 本覚寺)に築城させた。永正7年、上杉軍が権現山を攻めたとき、早雲は高麗寺山と住吉古城を取り立てて対峙した。
③岡崎の城(現平塚市)にいた三浦一族の末裔の義同(よしあつ)は、永正9年、早雲に攻められてこの住吉城に退却し、さらに前出の新井城(三浦市)に逃れ、一族とも滅んだ。
等々を紹介し、住吉城草創のことと早雲時代以降のことは分からないと記しています。

住吉神社の社殿

城跡めざして山道を登ると、少したいらな所があり、小さな住吉神社が建っていました。
『風土記稿』小坪村(217頁)に
「(住吉神社は)寺(正覚寺)のうしろ、山上にあり〈康安二年(1362)文書に小坪住吉神田一段ならびに畑一枚と見ゆ〉。神体は故ありて鶴岡の末社に移し、当社には今、白弊を神体とし、本地仏聖観音を安んず。小名飯島の鎮守なり。いにしえは郡中の総鎮守なりしという。古松、数珠掛け松と呼ぶ。あい伝えて記主禅師〈あるいは頼朝ともいう〉数珠を掛けし故なりという、今も里民、住吉社に参詣する者、この松に数珠を掛く。」とあります。

洞窟は通路になっている

住吉神社の脇に洞窟が口を開けています。
中は真っ暗。とにかくおそるおそる進んで見ますと、やがて行く手は塞いでありました。
『風土記稿』(215頁)に、
「山間に穴道四つあり、これ土民、捷径(しょうけい 近道のこと)のために穿つところなり〈高さ七~八尺、長さ七~八間より十五間にいたる〉土俗、通矢倉とよぶ」と記すものがこれでしょうか?

⑦ 補陀落寺

(鎌倉市材木座6-7-31)
『風土記稿』材木座村(32頁)によると、
「真言宗大覚寺派 山号は南向山 院号は帰命院 開山は文覚上人 手広村(現藤沢市手広)青蓮寺末」
「開山は文覚にて、養和元年(1181)、頼朝祈願所として創建あり<案ずるに、当寺に勧進帳のきれあり、首尾破れて詳らかならず、その中に、文覚鎌倉へ下向のとき、頼朝日来(近頃)の恩を報ぜんとて、この寺を建てられしとあり(略)>。とあります。

住吉城址の山を下りて、もう一度材木座に戻り、補陀落寺を訪ねました。

ここで材木座の地名について『風土記稿』の記すところを紹介しておきます。
同書材木座村の項(25頁)に、
「『吾妻鏡』に和賀の津口(和賀江島)に材木を置き、奉行 入してその寸法を点定せしめし事見えたり。当時、木料の港たり。ゆえに往年、材木座の名は負わせしなり。今も鶴岡修造のときはこの港に筏木を運湊すという。建長三年(1251)この地に市店を置く。」とあります。

補陀落寺境内

境内入り口の門柱脇に、大小2本の石柱が立っています。
大きい方の正面に
「源頼朝公御祈祷所□□□補陀落寺」
向かって左側面に
「加いさん毛(も)ん加く上人」

小さい方に
「右大師道 雲照 弘徳會」と彫ってあります。

「源頼朝公…」は『風土記稿』の記述に基づくもので、頼朝42歳のとき自作したという木像を祭る、ともあり、32頁にはその画像が掲載されています。
他方の「大師道…」の文字は、当寺の本寺の青蓮寺が鎖大師で有名なので、その青蓮寺までの「大師道」の道しるべなのでしょう。

これらの他に、頼朝と文覚上人の位牌、平家の赤旗と称するものの断片(『風土記稿』に画像あり)などがあるそうです。
後に五社神社の紹介でも触れますが「牛頭天王見目明神合社」が祭られていたとも風土記稿に記されています。

⑧ 実相寺 

(材木座4-3-13)
住居表示は材木座となっていますが、江戸時代はその隣村だった乱橋村(みだればしむら―『風土記稿』では「羅牟波之牟良 らむはしむら」と読んでいる)に位置します。

山門の柱に架かる看板には
「日昭尊者浜土法華堂跡
当山は宗祖嫡第六老僧第一大成弁阿闍梨日昭尊者潜居の地/宗祖佐渡流竄(るざん)後門下僧俗を統率したる浜土法華堂(祖滅後法華寺と称す)/の霊跡にて玉沢(伊豆)妙法華寺の旧地なり 工藤祐親邸跡という
御廟 裏山の麓にあり 往古は峯の岩屋に/有しを元禄三年(1690)現所に移せり/弘延山 實相寺」(/は改行されているところです)
と書いてありました。
日昭尊者は、日蓮六老僧の一人で、師が佐渡配流の後も鎌倉の浜土法華堂で布教に勤めたと言われています。

⑨ 五所神社

(材木座2-9-1)

五社神社参道
この奥に社殿、神輿殿があり、境内には多くの石仏等がある

神社名の由来は、明治時代に、旧材木座村と旧乱橋村にあった五つの神社を合祀したことにあると、神社の神輿殿に置かれて自由にとっても良いとされていた説明書(以後「説明書」とする)に書いてありました。
その内容は次のとおりです。

明治22年(1889)材木座村と乱橋村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座村となった。 明治41年(1908)7月  乱橋村の鎮守 三島神社(祭神 大山祇神)の地(現地)に  
材木座村鎮守 諏訪神社(材木座5-13-8)(建御名方命)
乱橋村の八雲神社(素戔嗚尊)(材木座4-4-26 能厳寺部落)
金毘羅宮(崇徳院霊 材木座4-7-2)
見目明神(みるめみょうじん 天照大神 材木座6-7-35)
を合祀して五社神社と改称した。
見目明神は補陀落寺文書に「見目天王分」として二貫三百文の地を北条氏康が同寺に寄進したとあるが、他の4社の来歴は分からない。

また、社殿については次のように書いてありました。
「現在の社殿は昭和6年(1931)7月に新築。もとの本殿は明治16(1883)7月建立の諏訪神社本殿を合併後、移建したものだったが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災の山崩れで埋没全壊した。」

神輿殿内、向かって右の神輿
中央の神輿
左の神輿

神輿殿の中に三基の神輿が収納され披露されています。どれも こしらえが施されていてすぐに担ぎ出せるような様子です。

先に紹介した、神社の説明書に次のように書いてあります。
「神輿3基、一号諏訪神社、二・三号見目明神持ちだった。 この神輿は江戸末期(一号は弘化4年(1847)、二・三号はそれ以前と思われる)の作で、明治37年(1904)と昭和31年(1956)に三基改修された。」
鎌倉市の指定文化財一覧に、この三基の中の一つ、「旧諏訪神社神輿」が平成26年2月14日に市指定の有形民俗文化財として掲載されていますが、それがどれかは分かりませんでした。

金具の古色の具合からすると、向かって右側のものがそれかも知れません。
そうするとこれが説明書にある弘化4年建造となり、中央と左側の神輿は見目明神持ちだったということになります。

神社を管理している方の話では、見目明神は女神で、神輿も女性風だということでした。
説明書に、
「『新編鎌倉志』に、見目明神と呼んだ宝満菩薩像があったことが見える。」と書いてあるところから、地元で宝満菩薩を女性仏と解釈しての話だったのでしょう。確かに左の2基は赤緒で華やかです。

倶利迦羅龍王種子の板碑

倶利迦羅不動種子の板碑

光明寺にある阿弥陀如来種子と一対をなすと言われている板碑です。 こちらは覆い屋の中に納めてあります。

蓮華座に直立する剣に龍が巻き付いている姿が、見事な薬研彫りで施されています。龍の体は金剛界大日如来種子の(バン)で表されています。これは倶利迦羅龍王であり、倶利迦羅不動であり、また金剛界大日如来でもある事を表しています。

昭和46年(1971)に鎌倉市から、建造物の部の文化財に指定されています。

この板碑の解説が『日本石造物辞典』(吉川弘文館)317頁に記載されていますので次に転記しておきます。原文は縦書きです。

鎌倉市指定文化財
概要 弘長二年(1261)銘の黒雲母片岩製下総型板碑。かつて近在の感応寺にあったが、同寺が廃寺になったのち五所神社に移された。鎌倉市内の三基の弘長二年名板碑のうちの一基。「五所神社弘長板碑」とも呼ばれる。
現状・規模 祠の中に納められており、状態は良好。高さ一三四㌢、幅四四・五㌢。銘文も明瞭。
形状 圭頭形。碑面は二重線で枠取りされ、頭部との境は二条線で示す。主尊は、蓮座に立つ利剣に龍に見立てられた金剛界大日如来種子が巻きつく剣巻龍。不動明王の変身の倶利迦羅龍(明王)が、外道を意味する剣を飲み込もうとしているので、標記の名がある。碑面枠内下辺に蓮座、上辺に瓔珞と宝珠を伴う下向き蓮華の天蓋を彫る。彫り技法は薬研彫り。
銘文 枠外下方に、「一見卒塔婆 永離三悪道/何況造立者/必生安楽国/弘長二年十一月廿日/右志者為[ ]/父母二親往生[ ]」と刻む。
学史的意義 近在の光明寺にある阿弥陀一尊種子板碑とは種子を除き素材や大きさ、碑面の構成などが共通するところから、一対のものとみられる。下総から鎌倉に入った光明寺開山然阿良忠の強い影響が窺える。
参考文献 馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』一九九八   (馬淵)

なお、文中にある「廃寺 感応寺」のあった場所は「説明書」に「材木座4-4-25」とあり、『風土記稿』乱橋村の項(34頁)には「○感応寺 由比山宝幢院と号す。真言宗〈京都三宝院末〉不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり。中興を養源という。〈境内に倶利迦羅龍王の古碑あり〉」と載っています。「境内に倶利迦羅龍王の古碑」がこの板碑のことです。

五所神社 境内の石仏など

旧材木座村と旧乱橋村内から集められた庚申塔が、「説明書」によると15基並んでいる。
内、寛文12年(1672)銘の舟形をして「奉造立帝釈天王」の銘があるものが最古で、鎌倉市から有形民俗文化財の部の文化財に昭和40年に指定されている。
横にある説明板に「お春像 天和4年(1684)の銘がある。由来は不明…」などと書いてあり、特異な形から人目を引いているが、とても江戸時代のものとは思えない。
イノシシに乗る三面六臂の摩利支天。石仏としては珍しい。大正2年(1913)の銘がある。
「三十貫」と彫ってある力石(ちからいし)。江戸時代のもの。1貫を3.7㎏として計算すると111㎏あることになる。

⑩ 来迎寺

(材木座2-9-19)

来迎寺 参道の入口

『風土記稿』乱橋村の項(34頁)に次のように紹介されています。

○来迎寺 随我山と号す。時宗〈藤沢清浄光寺末〉。開山一向〈建治元年(1275)寂すという〉。本尊三尊弥陀を安んず〈中尊 長二尺、左右 各長一尺五寸、共に運慶作〉、三浦大介義明の守護仏という。宗祖 一遍の像あり。また三浦義明の木像を置く。△三浦義明墓 五輪塔なり、義明は庄司 義継が長子なり、治承四年(1180)八月衣笠において自盡(自害)す。今、三浦郡大矢部村〈衣笠庄に属す〉、すなわち義明自盡の所と伝う。建久年中(1190~1198)、義明が追福のため、頼朝その地に一寺を創立して満昌寺と号せり。その域内に義明が廟あり。なお彼の寺(満昌寺)の条に詳らかなり。ここ(来迎寺)に義明の墳墓ある、その縁故を知らざれど、思うに冥福を修せんがため、寺僧の造立せしならん。

向かって右の五輪塔は「三浦大介義明公の墓」、左は「多々良三郎重治公の墓」と書いてあります。三浦義明は頼朝旗揚げのときに衣笠城を守って自盡したことは有名ですが、多々良三郎重治がどのような人物かは、不勉強でわかりません。二つの五輪塔は、鎌倉時代のものではなく、南北朝~室町期のものだと思われます。
本堂の裏手に、小型の五輪塔が集めてあって「家来衆の墓」と表示されていました。

これで今回(2019年4月15日)の、茅ヶ崎郷土会第293回史跡めぐり(後半の部)の報告を終わります。
次の写真は光明寺で撮影した参加者の記念写真です。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会

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