第293回 その-1 鎌倉市(光明寺と住吉城跡など材木座近辺)2019.4.15

その-1 鎌倉駅から光明寺まで

(追記:2019.7.10)綱引き地蔵・延命地蔵尊について追記しました。
(追記:2019.7.10) 阿弥陀如来種子の板碑について追記しました。 
(追記:2019.6.11)国宝「当麻曼荼羅二巻」が寄進された年に関する光明寺サイトの記述について追記しました。

   (その-2 住吉城跡から材木座周辺はこちら

4月15日(月)
すばらしい五月晴れの一日、今年度最初の史跡めぐりで鎌倉市材木座近辺と、隣接する逗子市小坪を訪ねました。
鎌倉駅前からバスで光明寺まで行き、境内・内藤家墓地・歴代の墓所を訪ね、海岸に出て和賀江島跡を見ながら昼食、そして逗子市小坪の正覚寺、その裏山にある住吉城跡、山を降りて再び材木座に戻り、補陀落寺・実相寺・五所神社・来迎寺を参拝しながら鎌倉駅に戻りました。
一度では紹介しきれないので、まず光明寺を取り上げます。

鎌倉駅前を出発する茅ヶ崎郷土会の面々

天照山蓮華院光明寺(浄土宗)
       (材木座六丁目17番19号)

山門の楼上から見る光明寺の大殿(本堂)と開山堂など。この画像に収まらないほど広い敷地です。

浄土宗大本山。
開山は然阿良忠(記主禅師)<ねんありょうちゅう・きしゅぜんじ>。
開基は第四代執権、北条経時。
創建は寛元元年(1243)と伝えられています。

良忠は浄土宗の第三祖で、鎌倉に住んだことで浄土宗が関東以北へ広がったと言われています。
江戸時代には徳川家康が定めた関東十八檀林の筆頭寺院として、各地から学僧が集まり、修行の中心として栄えたそうです。

朝廷との関係が深く、山門の「天照山」の扁額は後花園天皇の直筆と伝えられています。
(後花園天皇 在位1428~1464 室町時代、102代天皇)

また、後土御門天皇からは関東総本山の称号を受け、勅願所に定められました。後土御門天皇からは「十夜法要」も勅許されました。今も念仏法要が10月12日から15日間、盛大に行われています。
(後土御門天皇 在位1464~1500 室町時代、103代天皇)

本堂に向かって左手の記主庭園は伝小堀遠州作です。 戦後間もなく、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校されました。

境内への入り口の総門そばに掲げられていた表示板。
建物の創建年など、わかりやすくまとめてあります。

このような掲示板もありました。
浄土宗では「往生は一度の念仏で可か、多念を要するのか」という論議があり、そのことについての一つの考え方が示してありました。
「一念で往生は決定との信をもって、数多くの行を積むことが大事」と、素人ながら解してみましたが、いかがなものでしょうか。
しかし誰のことばなのでしょうか。

これも総門の近くに掲げてあった境内図。
総門をくぐって石畳を進むと山門、そのずっと奥に本堂の大殿があります。
裏山の天照山に、開山と開基の供養塔を含む歴代の墓地があります。
大殿へ進む石畳の左手に記主禅師をまつる開山堂が、その前に、中国で浄土思想を確立したと言われる善導大師の像があります。

総門

先に掲げた「御案内」の看板に承応4年(1655)に建てられたとあります。
素木づくりの簡素な建物で、扁額の文字は「勅願所」で右から左へ読みます。
『新編相模国風土記稿』(以後、『相模風土記稿』と略記)の材木座村光明寺の項に、「永正六年(1509)に亡くなった祐崇(ゆうすう)は光明寺中興の祖で、明応四年(1509)に禁裏に招かれ後土御門帝の前で阿弥陀経と念仏を誦唱し勅願所の綸旨などを賜った。その後、光明寺でも念仏を行い、これが今も続く十夜念仏の始まり」と書いてあります。さらに、「勅願所」の扁額の絵を掲載して「書は祐崇の筆による」とあります。

山門(三門)

弘化4年(1847)再建。
説明版に「鎌倉に現存する最大の山門」とありました。
建長寺でも円覚寺でも、まず総門があって次に山門(三門)があります。 光明寺で配っているパンフレットによると「総門は寺の入り口。山門は寺の聖域の入り口で、主は山門」なのだそうです。

山門の扁額「天照山」
後花園天皇の直筆と伝えられ、山門に架かる、寺の山号「天照山」の扁額です。この表と裏をあらわす絵が『相模風土記稿』にあり、裏面にある文字は「永享八年(1436)丙辰十二月十五日賜畢 後花園帝」と読むようです。

山門は非公開ですが、平成31年は、3月24日から5月6日まで特別に公開されました。
4月15日に史跡めぐりを計画したのは、この山門の楼上を拝観できるからでした。
この期間中は、別の建物の中で寺宝展も行われていました。

楼上の様子
南向きに、中央に釈迦三尊像、その両脇に八人ずつの羅漢像が祭ってありました。
この日、参拝の人たちが、途切れることなく礼拝に訪れていました。

山門のご本尊、釈迦三尊
説明版には江戸時代後期の作とありました。
三尊を囲んで極彩色の四天王像がありましたが、この画像には写っていません。
室内の写真撮影は許可されていました。

釈迦三尊の左右に、八人ずつの羅漢像が祭ってありました。

楼上から鎌倉の海を望む
ずっと遠くに江ノ島が見えます。
そのすぐ横は稲村ヶ崎の断崖。
境内の石畳の先には総門があります。

楼上から北の方角を望む
左端に見える大屋根は光明寺の大殿(本堂)です。その先の樹木の茂っている台地上に、午後に訪れる住吉城跡があります。

大殿(本堂)

説明版に「元禄十一年(1698)、第五十一世洞誉上人の代に建立された。十四間四方の大建築で、現存する木造古建築では鎌倉一の大堂。内部の円柱、格天井、欄間の透かし彫りなどは建立当初の荘厳さを今に伝える」とあります。
国の重要文化財に指定されています。
中に入ると、正面に光明寺の本尊の阿弥陀三尊、その向かって右側の間に善導大師像と和賀江島弁財天、左側の間に宗祖法然上人像と如意輪観音像が祭ってあります。
堂内は撮影禁止です。

三尊五祖の石庭
大殿の左にある庭は「三尊五祖の石庭」と名付けられています。
三尊は阿弥陀如来と観音、勢至両菩薩。
五祖は釈迦、善導(唐の浄土教僧)、宗祖法然、浄土宗第二祖鎮西、第三祖で開山の良忠のことで、石をおいてそれぞれになぞらえてあります。

記主庭園
大殿の右うしろに設けられています。小堀遠州の作と伝えられているそうです。
蓮の花が見事だそうです。
池の向こうの高いところの建物は大聖閣と名付けられています。 2階の窓の奥に、金色に光る阿弥陀様があって、こちらを見ています。 この庭はお浄土をあらわしているようです。

開山堂

山門をくぐり、大殿に向かう左手にあります。 開山の良忠上人と歴代の法主(住職)の像がまつってあります。

『相模風土記稿』光明寺の項に
「仁治元年(1240)北条武蔵守経時(四代執権)、佐介谷において浄刹を創立し蓮花寺と名づく。時に僧 良忠、悟眞寺に在り。経時延(ひ)きて開山初祖とし…(略)。寛元元年(1243)、今の地に移転して堂宇を修復す。かくて経時、夢兆に感じて光明寺と改む。」
とあります。

説明版に
「良忠上人は現在の島根県那賀郡に生まれ、各地で修行と修学を積み、正嘉二年(1258)のころ鎌倉に入り、四代執権北条経時公の帰依を受けてこの寺を開かれた。多くの僧侶を育て、また多くの書物を著し今日の浄土宗の基盤をつくり、その功績により、没後、伏見天皇から記主禅師の諡号(しごう)を贈られた。毎年七月六日に開山忌法要を勤めている」とありました。
(伏見天皇 在位1287~1298 第92代天皇 鎌倉時代)
『相模風土記稿』は、勅諡があったのは永仁元年(1293)としています。

私達が訪れたとき、開山堂の一室で寺宝展が行われていました。 その中に、国宝の「当麻曼荼羅縁起」の、寛政5年(1793)箱書きのある模本が展示してありました。光明寺には本物もあって、鎌倉国宝館に寄託してあるそうです。

奈良の当麻曼寺の、しかも国宝の曼荼羅がなぜここにあるの?と不思議でしたが、この縁起と光明寺との関係は、後で内藤家墓地を記述する中で記します。

善導大師の像 善導塚

開山堂の前に、善導の銅像(露仏)と「善導塚」と彫ってある石柱があります。
善導塚について、『相模風土記稿』と『新編鎌倉志』(1685貞享2年<1685>刊行)の光明寺の項に次のような記事があります。
「善導塚は総門の前の松原にあって善導の金銅の像を安んず。昔、善導の像が僧になって筑前の国に着いた。九州にあった善導寺の聖光という僧の夢に立って、迎えに来てくれという。聖光迎えて寺に祭った。良忠が九州にあるとき、聖光からその像を託された。良忠は像に向かい、自分は今から関東に赴くが有縁の地があったらそこに跡を留めよ、と言って海に流し、鎌倉に来て佐介谷(さすけがやつ)に居した。あるとき由比ヶ浜に霊光が射し、忽然として善導の像が出現した。良忠は一宇を建立し、この像を祭り、これが光明寺の始まりである。」
数多くある漂着神伝承の一つです。

『相模風土記稿』に掲載の境内図には、総門と三門の間に善導堂が、二尊堂という建物が本堂の向かって右側に描かれています。
『風土記稿』はさらに続けて「舶来した像は二尊堂にあるものが善導自作の本物で、善導堂のものはその模像。二尊堂には善導像と弁財天を祭る。弁財天は江ノ島の弁財天で、暴風によって流れ来て、3度まで戻したがまた来るので留め祭っている」と述べています。

今、大殿に善導像と弁財天像が祭られていると前記しましたが、これが『風土記稿』にいう二尊堂にあったもので、開山堂前に立つ露仏の銅像は、善導堂にあって模像と書かれている像だと思われます。

高倉 健さんの墓

光明寺に行けば健さんのお墓があるよ、とどこかで聞いていました。 山門をくぐってすぐの右手にありました。 御影石のすごいお墓でした。阿弥陀如来をあらわすキリークの種子(しゅじ)の下に「高倉 健」と彫ってありました。 その場所は墓地のような所ではないので、やっぱり違う人は亡くなっても違うなと思いました。

梵鐘寄進者の供養塔

真ん中の僧形の坐像がある石塔がそうです。

高倉 健さんの墓石のそばに石仏が集めてありました。無縁さんになった供養塔のようでした。
すべて江戸時代のもので、地蔵さまや阿弥陀さまの像があるので、りっぱな形をしたものを選んで保存しているように思いました。
その中に、興味を引かれた石塔がありました。

石塔の向かって右側面に文字があります。
読んでみると、江戸の由比平左衛門の子、由比松兵衞が建てたと書いてあるようです。
興味を覚えたのは「當山鐘施主」とあったことです。昔、由比平左衛門という人物が、光明寺に梵鐘を寄進したという意味だと思います。

左側面は、その隣の石塔とくっついているのでうまく写真が撮れませんが、「慶安元年(1648)」と読めます。
この年銘は、この石塔を建てた年とも、平左衛門の卒年とも考えられます。
今、境内の鐘楼に梵鐘がありますが、それは新しいものなので、平左衛門が寄進した梵鐘ではありません。
『相模風土記稿』光明寺の項に「鐘楼 正保四年鋳造の鐘を掛く」とあります。正保4年は1647年です。
この記事から、慶安元年(1648)に亡くなった由比平左衛門がその前年に梵鐘を寄進しているとみていいように思います。
しかし、その梵鐘は今は残っていないようです。

網引き地蔵尊・延命地蔵尊

二つの表示を掲げた地蔵坐像です。
覆い屋の中に何体かの像があるので呼び分けられているのかもしれません。網引き地蔵と名がついていますから、これも漂着神の一つだと思われますが、『相模風土記稿』や『新編鎌倉志』などにも掲載されていません。
大きい方の坐像の背中に「正中二年(1325)」とあるというネット情報もありますが、出典が不明確です。
この地蔵さまに関する資料などをご存じの方はご教示願います。

→2019.07.10 追記
『鎌倉の石仏・宝塔 ―鎌倉国宝館図録第23集― 』にこの地蔵菩薩の単色図版と解説が掲載されているので、下に全文を写しておきます。

7 地蔵菩薩坐像 一躯 光明寺
 現在は本堂右脇の地蔵堂に安置されているが、元は裏山の第一中学校門前の山腹にあった「やぐら」(大悲窟・地蔵岩窟)に安置されていた。
 像背面に次の刻銘がある。

啓白
奉造立地蔵[菩薩]像一[  ]
発願満福寺[住ヵ]侶教義
勧進聖尚養[寺]常住西連
右志趣者爲結縁衆生安全
正中二年乙丑九月廿四日仏師沙弥□□

 銘文中、教義・尚養寺・西連・仏師等は未詳だが、満福寺は金沢文庫古文書に「於鎌倉和賀江万(ママ)福寺書了、于時貞治三年二月日 浄宏」と出てくる和賀江(光明寺の近く)の万福寺らしい(貫達人氏『鎌倉の廃寺・諸宗の部』鎌倉国宝館論集第六集)。  通例の像容で、右手錫杖(欠失)・左手宝珠・右足を左脛(すね)前へ出す。二重蓮華座(大仏座)に坐し、後補の拳身光(きょしんこう)を背にする。割れ落ちた頭部や欠けた右脚の下部などはセメントで固められ、鼻先・右手先・右足先・宝珠一部などを欠失するなど、損傷が甚だしい。このように保存状態は決して良好とはいえないが、正中二年(一三二五)に造立されたことがわかる点、貴重である。形式化が進み、彫りも浅く硬いが、智的でひきしまった面部、ゆったりとした体躯、厚みのある奥行きや膝部、量感豊かな台座の蓮弁など、鎌倉期の重厚で的確な作風は失われていない。後補の舟形光背には阿弥陀如来の種子(キリーク)一字と左右に地蔵菩薩の種子(カ)六字、そして下方に結縁者名が刻まれている。
 当像が安置されていた「やぐら」は、『檀林光明寺志』や享保五年(一七二〇)の光明寺境内図などによると、祈祷堂(廃)の右の山上、眺望の開けた所にあって、明治初年まで拝殿があった(三浦勝男氏『鎌倉の古絵図Ⅰ』鎌倉国宝館図録十五集)。また、鎌倉二十四所地蔵霊場の第二十二番で鉢地蔵と呼ばれ、明和六年(一七六九)の石碑によると、弘法大師御位鉢(ママ)の地蔵尊という。(清泉女学院郷土研究部「地蔵を求めて・鎌倉二十四所地蔵尊の研究」(鎌倉第二十五号)。
 安山岩製。台座別石。像高八六・五㎝、台座高三〇・〇㎝。(山田)
参考文献 『鎌倉市史・考古編』鎌倉市  『鎌倉の文化財』第五集 鎌倉市教育委員会

キリーク(阿弥陀如来の種子)の板碑

摩滅していて読めません。

大殿の前を、右手に折れて材木座幼稚園の方に曲がる所に立っています。 頂部に欠損があり途中で折れていますが、1メートルを少し越す高さがあり、見事な種子、キリーク(阿弥陀如来)が彫ってあります。
五所神社にも、石質、大きさ、彫刻がこれに似た板碑があります。五社神社の板碑には不動明王の種子、カンのほかに「弘長二年(1262)」の年銘、銘文があり、鎌倉市の有形文化財(建造物)に指定されて、覆い屋で保護されています。
それに比べ、この板碑はそっけなく露座で立ててあり、説明板もなく、もったいないような気がします。両方とも作られた時期はそんなに違っていないと思われます。

【追記 2019.7.10】
『日本石造物辞典』(2012)吉川弘文館(312p)にあるこの板碑の解説を写しておきます。(元の文章は縦書き)

光明寺阿弥陀一尊種子板碑
弘長二年(一二六二) 概要 黒雲母片岩製下総型板碑。鎌倉市内に残る三基の弘長二年銘板碑のうちの一基。
現状・規模 本堂右手に立つ。中央で折れているのをコンクリートで接合している。頭部は欠損、下部はコンクリートで土台の中に埋め込まれているため高さは不明だが、近在の五所神社倶利迦羅不動板碑とほぼ同規模(一三〇㌢)と推定される。幅四五㌢。表面は風化が進み、服部清道によれば、銘文もかつては「弘長二」と読めたというが、現在は不明瞭。
形状 頭部を欠損しているが、圭頭形。碑面は五所神社板碑と同じく二重線で枠取りされ、頭部と碑面との境には二条線が設けられる。碑面枠内下辺に蓮座、上辺に瓔珞と宝珠で荘厳された下向き蓮華の天蓋を持つ点も五所神社板碑と共通するが、主尊種子は阿弥陀如来。薬研彫りである。
銘文 枠外下方に、『観無量寿経』から引用された偈が「其仏本願力/聞名欲往生/皆悉到彼国/自致不退転」とある。
学史的意義 近在の五所神社にある倶利迦羅不動板碑と種子を除き素材や大きさ、碑面構成などが共通するところから、双碑とみられる。弘長二年は光明寺の金石文でもっとも古く、寺の創建に関わる可能性を示唆する。また、下総型である点は、当地から鎌倉に入った光明寺開山然阿良忠との密接な関係を窺わせる。
参考文献  服部清道『鎌倉の板碑』(鎌倉国宝館論集九、一九六五)  馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』一九九八                  (馬淵)

歴代の墓所 

中央の卵塔が開山、記主禅師の供養塔

大殿の裏手に回って天照山に上ると歴代の墓所があります。
卵塔形墓石の中央にある一段と大きい石塔が開山塔です。基礎に「開山記主祖師」と銘がありますが、建立されたのは祖師卒去のころではないような気がします。確証はありませんが、後世の建造ではないかと思います。間違っているかもしれませんが。
少し離れて開基の北条経時公の供養塔がありました。こちらは宝篋印塔で、その形から江戸時代の建立と分かります。

開山塔の基礎の刻字

開基、北条経時公の供養塔

天照山の中腹から見た鎌倉の海です。
光明寺大殿の屋根の向こうに稲村ヶ崎、その向こうに江ノ島が見えます。

内藤家の墓所

神奈川県鎌倉市材木座六丁目21-12

光明寺に隣接する材木座幼稚園の隣にあります。
二百坪を超すと思われる墓地の中に、江戸時代のスタイルの巨大な宝篋印塔などが林立しています。
立ててある鎌倉市教育委員会の説明板におおよそ次のように書いてありました。

昭和37年9月7日 鎌倉市史跡に指定
日向延岡藩内藤家の歴代墓地。
墓碑が58基ある。 宝篋印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基 そのほかに灯籠118基、手水鉢17基、地蔵など9基。
江戸時代初期以降、代々にわたる墓碑を良く保存する大名の墓地として貴重である。

内藤家は多くの支族を擁していますが、ここの墓地に眠る一族は、宗家の磐城平藩(後に日向延岡藩に移封)内藤家と磐城湯長谷(ゆながや)藩内藤家の二家のようです。
内藤家は、義清が松平家に仕え、三河国加茂郡に領地を与えられました。内藤家はこの義清を初代として語られています。 義清の孫、家長が家康に仕え、その子、政長は元和8(1622)磐城平藩7万石に移封になりました。長政亡き後、子、忠興が跡を継ぎました。

また、一方の磐城湯長谷藩は、忠興の子、政亮(まさすけ)が父の領地を分与されて独立して起こした家系です。

磐城平藩、磐城湯長谷藩はともに今の福島県いわき市内にありました。

磐城平藩内藤家は、延享4(1747)、義清から数えて9代政樹のとき日向延岡藩に転封となります。これを延岡藩内藤家と呼びます。

出典不明の内藤家墓地を解説したメモがあり、それに「忠興のときまで、内藤家の菩提寺は江戸の霊厳寺(浄土宗)だった」とありました。何かの事情があって、1660年頃、200石を光明寺に寄進して檀家となったのだそうです。 この話の出典が知りたいところです。
この墓地にある石塔類は霊厳寺から移したものということになります。

光明寺には「当麻曼荼羅縁起」正副が収蔵されていて、山門が公開されている期間中、その写本(副本)が公開されていました。
正本は国宝となっていて、鎌倉国宝館に寄託してあるそうです。

展示を見ながら「なぜ光明寺にこれらがあるのだろう?」と思っていたのですが、展示場で販売されていた『大本山光明寺蔵 当麻曼荼羅縁起 解説書』に「内藤家6代義概(よしむね:忠興の子)が延宝3年(1675)に修復した」と書いてありました。
修復したのは正本のようです。

また、副本は寛政5年(1793)に作られたとありました。

そうするとこれらの「当麻曼荼羅縁起」は内藤家から光明寺にもたらされたものということになりますが、それがいつのことかは書いてありません。 想像をたくましくすると、父忠興が新しく光明寺を檀那寺とし、子義概が家宝の縁起を修復して寄進し、後に寛政5年に寺で副本を作ったということでしょうか。

当麻曼荼羅の寄進時期

【追記 2019.6.11】
上記の記事を書いたあと、光明寺のサイトに、国宝の当麻曼荼羅二巻が寄進された年に関する次のような記載を見つけました。

宝物について
国宝 『当麻曼荼羅縁起絵巻二巻・附松平定信添書一巻』 紙本著色/ 上巻 縦51.5×長796.7  下巻 縦51.5×長689.8
延宝三年(1675)、光明寺の大檀越であった内藤義概により寄進されたものです。

解説書の表紙

photo 前田会員・平野会員
report 平野会員

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