1974年(昭和49年)11月撮影
茅ヶ崎市役所前交差点
・2020.07.25 写真一点追加
地下道工事はじまる
2020年の風景
約半世紀経った今の様子
photo & report 平野会員
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1974年(昭和49年)11月撮影
茅ヶ崎市役所前交差点
・2020.07.25 写真一点追加
約半世紀経った今の様子
photo & report 平野会員
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茅ヶ崎郷土会の「史跡・文化財めぐり」は令和元年度で297回を数えているが、今年度は新型コロナウィルスのために行っていない。
古い写真を整理していたら、「1972年(昭和47年)5月撮影」と注記したフィルムが出てきた。撮影したのはこのHPの編集者、つまり私。
訪ねた先は伊勢原市の高部屋地区で、上粕屋の比比多神社と洞昌院の太田道灌の墓所などが写っていた。会員外だったが、同行させて貰ったかすかな記憶が残っている。
郷土会が史跡・文化財めぐりで何時、どこを訪ねたかは『創立五十周年記念 郷土ちがさき百号の歩み』(2004年発行)に、1回目は昭和46年(1971)と記されている。(昭和28年に産声を上げた郷土会が、それまでめぐりをまったくやらなかったということは考えられない。おそらく記録がないのだろう。)
同書の昭和47年を見ると、6月25日に「大山に行こう(一泊)」とあった。これがここに紹介する伊勢原めぐりだったのなら、「5月撮影」とある編集者のメモは日付が違っていることになる。私も同行しているのは間違いないが、大山に泊まった記憶はまったくない。
そのときの画像を紹介しよう。
上の写真(左)は訪れたときの様子。右の写真は現在の様子。
1988年(昭和63年)に屋根が改造されて、見違えるように変わっている。
相模国三之宮で延喜式内社の比々多神社と社名は似ているが、別の神社である。
昔から子易明神(こやすみょうじん)といわれ、安産、子授けの神様として知られている。
向拝の柱が、2本とも細くなっているのは、削って持ち帰ると安産の願いが叶うということで削られた結果である。
奉納された底抜けの柄杓(ひしゃく)
底のない柄杓は、くんだ水がドッと抜けるので、安産祈願の人たちが願を掛けるときに奉納したもの。
郷土会で訪れたときはたくさんあったが、最近行ったときは見られなかった。
photo & report 平野会員
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1974年5月2日撮影
茅ヶ崎市南湖の海岸
茅ヶ崎では江戸時代から地引き網漁が盛んでした。
主に捕れていたのはイワシの類で、太陽に干して干鰯(ほしか)に仕上げていました。
干鰯は食べものではなくて、田や畑にいれて肥料にするものでした。相模国の中央部に広がる農村部で消費されていました。
昭和の時代になるとその干鰯の生産はしだいになくなりました。
そして地引き網は、お客さんを呼んで行う観光漁業の中で続けられていました。
photo & report 平野会員
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昭和19年(1944)7月16日の新聞に載った浜降祭
芹沢のI会員が、「こんな新聞記事がみつかった」と届けてくださいました。
昭和19年7月16日(日)に発行された新聞に掲載された、その月14日の浜降祭の記事でした。
写真が鮮明ではなく、記事各行の最後の一文字が切り取られていて、かつ新聞の名前がないところが残念ですが、太平洋戦争末期、日々の生活に必要な物資が枯渇していた中の新聞記事は貴重です。
コロナウィルスのために、今年(2020年)の浜降祭は中止になりました。
毎年の浜降祭で聞く「ドッコイ ドッコイ」のかけ声が、記事のなかでは「ワッショイ ワッショイ」となっています。「昔はこのように叫びなら神輿を渡御させていたのなら、大きな変化だね」と、Iさんは言っておられました。
記事を活字化しておきます。
・活字がつぶれていて読めない文字と、各行最後の欠けている一文字は□にしました。
・想定して復元した文字もあります。
・( )で囲った文字は旧漢字が見つからなかった文字です。
・/は、記事では改行されているところです。
昭和十九年七月十六日 日曜日
神輿に(祈)る敵擊滅
暁の壯觀・寒川神社濱降祭
ワッショイ ワッショイ まだ□は□/やらぬ田□道に十数基の神輿がもみ合い/ながら濱辺をさして一散走り、見るから/威勢のよい昔ながらの日本の祭だ、十四/日高座郡寒川町國幣中社寒川神社名代の/濱降祭は「怨敵退散」/「米英撃滅」の意気を/高らかに執り行はれた。日頃食糧增産に/敢闘する近郷近在の/農、漁村の若衆たち/は午前二時といふ□/それぞれ神輿をかつ/いで神社を出発、□/万の群衆が神輿の前/後を取り囲んでな/かなかの壯觀、南湖/濱祭場まで二里半の/道を若衆たちはへたばりもせず元気に渡/御を終り、さあ明日からまた增産だと海/潮をどる太平洋を睨んで折柄の日の出に/シャンシャンと拍手をしめた
寫眞は寒川神社の濱降祭
report 平野会員
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