2020年から48年前の風景 国道一号市役所前交差点の地下道工事

1974年(昭和49年)11月撮影
茅ヶ崎市役所前交差点
・2020.07.25 写真一点追加

地下道工事はじまる

手前が北、向こうが南です
自動車が走っている所は国道一号
その向こうに茅ヶ崎駅があります この写真には写っていませんが

それまで国道は横断歩道で渡っていました
矢板を打って土を取り去る工事が始まりました

2020年の風景

約半世紀経った今の様子

昔の写真と同じ位置から撮影
正面に見える屋根は地下道への入口
国道一号の南側から市役所方面(北)を見た様子です
写っている白い建物は茅ヶ崎市役所です
平成19年に取り壊されて、今は新しい建物になっています
最初の写真と少し角度を違えて、北側から見た様子です
市役所は画面の右側にあります
図書館に勤めていたSさん
撮影中にたまたま通りかかりました
乗っている自転車は、図書館と市役所の連絡用公用車です
後ろの建物は市役所
工事現場の一部が写っています

photo & report 平野会員

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2020年から48年前の風景 昭和47年の郷土会史跡・文化財めぐり(伊勢原市)

茅ヶ崎郷土会の「史跡・文化財めぐり」は令和元年度で297回を数えているが、今年度は新型コロナウィルスのために行っていない。

古い写真を整理していたら、「1972年(昭和47年)5月撮影」と注記したフィルムが出てきた。撮影したのはこのHPの編集者、つまり私。
訪ねた先は伊勢原市の高部屋地区で、上粕屋の比比多神社と洞昌院の太田道灌の墓所などが写っていた。会員外だったが、同行させて貰ったかすかな記憶が残っている。

郷土会が史跡・文化財めぐりで何時、どこを訪ねたかは『創立五十周年記念 郷土ちがさき百号の歩み』(2004年発行)に、1回目は昭和46年(1971)と記されている。(昭和28年に産声を上げた郷土会が、それまでめぐりをまったくやらなかったということは考えられない。おそらく記録がないのだろう。)
同書の昭和47年を見ると、6月25日に「大山に行こう(一泊)」とあった。これがここに紹介する伊勢原めぐりだったのなら、「5月撮影」とある編集者のメモは日付が違っていることになる。私も同行しているのは間違いないが、大山に泊まった記憶はまったくない。
そのときの画像を紹介しよう。

高部屋地区の上粕屋1160(伊勢原市を過ぎて大山に向かう途中)にある子易明神比比多神社でお話ししている野崎薫会員。当時、副会長ではなかったろうか。
1972年当時の比比多神社

上の写真(左)は訪れたときの様子。右の写真は現在の様子。
1988年(昭和63年)に屋根が改造されて、見違えるように変わっている。
相模国三之宮で延喜式内社の比々多神社と社名は似ているが、別の神社である。
昔から子易明神(こやすみょうじん)といわれ、安産、子授けの神様として知られている。
向拝の柱が、2本とも細くなっているのは、削って持ち帰ると安産の願いが叶うということで削られた結果である。

   

奉納された底抜けの柄杓(ひしゃく)
底のない柄杓は、くんだ水がドッと抜けるので、安産祈願の人たちが願を掛けるときに奉納したもの。
郷土会で訪れたときはたくさんあったが、最近行ったときは見られなかった。

1972年当時の郷土会々長 塩川健寿さん
向かって右は山口金次会員
左は鏡勝吉会員
山口さんは茅ヶ崎の郷土史の研究に邁進された。
鏡さんは彫刻家で、茅ヶ崎市堤の大岡家の墓所がある浄見寺の巾着の形の賽銭入れなどを作られている。また市文化資料館が開館するとき、河童徳利と縄文土器を彫刻して貼り付けた小型絵馬形の記念品も作られた。
比比多神社と同じく上粕屋にある洞昌院(曹洞宗)の太田道灌の墓も見学した。
道灌はこの寺の開基だそうである。
この日、コースを説明してくださったのは地元の郷土史研究者だったように覚えている。

photo & report 平野会員

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2020年から46年前の風景 南湖の地引き網

1974年5月2日撮影
茅ヶ崎市南湖の海岸

地引き舟

茅ヶ崎では江戸時代から地引き網漁が盛んでした。
主に捕れていたのはイワシの類で、太陽に干して干鰯(ほしか)に仕上げていました。
干鰯は食べものではなくて、田や畑にいれて肥料にするものでした。相模国の中央部に広がる農村部で消費されていました。
昭和の時代になるとその干鰯の生産はしだいになくなりました。
そして地引き網は、お客さんを呼んで行う観光漁業の中で続けられていました。

漁に出る前に、網(地引き網)を整えて船に積み込みます
出漁です
浜から海へ舟を押し出します
今日はどんな魚がとれるかな
沖に出るとグルリと回りながら網をおろしていきます
網を張り終わると舟を戻します
舟はバックしながら砂浜に乗り上げます
舟が着くと網から延びている綱を引きます
この日のお客さんはどこかの子ども会のようでした

photo & report 平野会員

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2020年から76年前の風景 昭和19年の浜降祭記事

昭和19年(1944)7月16日の新聞に載った浜降祭

芹沢のI会員が、「こんな新聞記事がみつかった」と届けてくださいました。
昭和19年7月16日(日)に発行された新聞に掲載された、その月14日の浜降祭の記事でした。
写真が鮮明ではなく、記事各行の最後の一文字が切り取られていて、かつ新聞の名前がないところが残念ですが、太平洋戦争末期、日々の生活に必要な物資が枯渇していた中の新聞記事は貴重です。
コロナウィルスのために、今年(2020年)の浜降祭は中止になりました。
毎年の浜降祭で聞く「ドッコイ ドッコイ」のかけ声が、記事のなかでは「ワッショイ ワッショイ」となっています。「昔はこのように叫びなら神輿を渡御させていたのなら、大きな変化だね」と、Iさんは言っておられました。

記事を活字化しておきます。
・活字がつぶれていて読めない文字と、各行最後の欠けている一文字は□にしました。
・想定して復元した文字もあります。
・( )で囲った文字は旧漢字が見つからなかった文字です。
・/は、記事では改行されているところです。

昭和十九年七月十六日 日曜日

神輿に(祈)る敵擊滅
暁の壯觀・寒川神社濱降祭

ワッショイ ワッショイ まだ□は□/やらぬ田□道に十数基の神輿がもみ合い/ながら濱辺をさして一散走り、見るから/威勢のよい昔ながらの日本の祭だ、十四/日高座郡寒川町國幣中社寒川神社名代の/濱降祭は「怨敵退散」/「米英撃滅」の意気を/高らかに執り行はれた。日頃食糧增産に/敢闘する近郷近在の/農、漁村の若衆たち/は午前二時といふ□/それぞれ神輿をかつ/いで神社を出発、□/万の群衆が神輿の前/後を取り囲んでな/かなかの壯觀、南湖/濱祭場まで二里半の/道を若衆たちはへたばりもせず元気に渡/御を終り、さあ明日からまた增産だと海/潮をどる太平洋を睨んで折柄の日の出に/シャンシャンと拍手をしめた
寫眞は寒川神社の濱降祭

平成30年(2018)の浜降祭へ

report 平野会員

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