茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (030) クロジ

(029)で紹介したアオジと同じように体の羽の色から名前が付いている。
Wikipediaには「雄は全体に灰黒色。雌は灰褐色。」と記してあった。

夏は亜高山帯にいて産卵・子育てし、冬になると低地に降りてくるというから、アオジと同じような生態である。
茅ヶ崎には冬にならないと来ないが、目立たないために見つけるのは難しいらしい。
写真に捉えにくい鳥なので、よくぞ写したという貴重な画像だ。


メジロ、ジョウビタキと一緒にいるが、体が黒いので目立たない。

「繁殖期には樹上で昆虫類やクモ類を捕食し、それ以外の時期は地上で植物の種子を食べる」とWikipediaに記してあった。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (029)アオジ

おなかが黄色いですが、アオジです。

Wikipediaに「下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い」と書いてありました。

背中の方はどうかというと
「上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る」(Wikipedia)とありました。
目のまわりなどが暗い緑色に見えるところから、アオジという名が付いたのでしょう。

寒そうにしています。
夏は高い山中や北海道で産卵・子育てをして、冬になると茅ヶ崎あたりの平地に降りてきて過ごすそうです。
茅ヶ崎は暖かいと思って来たのでしょう。
「北海道の冬に比べれば暖かいかも知れないが、寒い日もあるのだよ」と言ってやりたいです。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (028)ルリビタキとタイワンリス

冬の使者、ルリビタキが帰って来ておりました。
という投稿が、この北部丘陵編に小出地区で見た野鳥を送ってくれる朝戸夕子さんから届いた。
なんと良いチャンスと絵柄でしょう。なかなか撮れない写真です。

夏には高地の山林で繁殖し、冬になると茅ヶ崎あたりの平地にも降りてくる。
ジョウビタキと同じ仲間だが、ジョウビタキの方がよく見かける。

ブルーがとてもきれい。
オスは成長するとこの色になり、メスと若いオスはしっぽの先だけがブルー。

2021年12月15日にも北部丘陵編に010の番号で掲載している。
こちらにはメスも紹介してあります。


タイワンリス

朝戸さんは、ルリビタキと一緒にタイワンリスの写真も送ってくれた。

かつて鎌倉市や江ノ島で悪名を売って、今は茅ヶ崎にも住み着いている。
農作物を荒らすのはいつものことだが、ネット情報では野鳥の巣なども襲うとあった。
ニホンリスの生息にも影響を及ぼしているとも書いてあった。
在来の自然に悪さをする外来の動物、植物は困ったものだが、彼らを日本に持ち込んだのは結局私たち人間なのだ。
知らぬうちに連れてこられたうえに「困ったもんだ」と言われて、「自分の方こそ困ったもんだ」と言いたいのかもしれない。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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第300回 その-2 横浜市都筑区(茅ヶ崎城址、大塚・歳勝土遺跡区)2022.3.12 

令和4年3月12日(土)実施
横浜市港北区に①雲龍院 ②小机城址、都築区に③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡を訪ねました。
ここに、その-2として 同市都筑区の③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡探訪を報告します。

この報告は現地に立ててある説明板の文章と画像に基づいています。掲載にあたって文章は簡略化し、画像は加工してあります。

その-1 ①雲龍院、②小机城址はこちらから

【今回の史跡・文化財探訪の趣旨】
1.県内の城跡の探訪
2.横浜市都筑区に、私たちが住む茅ヶ崎市と同じ地名があるので、そこがどのような様子か確認すること。
海辺の茅ヶ崎市の地名の由来は、「茅(チガヤ)の生える土地が海に面していること」と言われるが、都築区の「茅ヶ崎」は海から離れており、地名の由来を考えるなら、両所に適応する説でなければならないだろうと考えたからである。

③茅ヶ崎城址(横浜市都筑区茅ヶ崎東二丁目)

城址から北西方向の歴博通りから撮影。城址の北面である。

茅ヶ崎城址は茅ヶ崎城址公園(横浜市)として保存・公開されている。
センター北駅から徒歩8分。
公園に入るには北側に入り口がある。
入り口にある説明板に次のように説明してある。
(以下、ゴシック体の太字は現地にある説明板から抽出した文章である。)

茅ヶ崎城址
空堀(からぼり)、郭(くるわ 曲輪とも書く)、土塁(どるい)などが残る貴重な中世城郭遺跡。早渕川を北に望む丘を利用して築城されている。
14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろに二重土塁とその間に空堀が設けられた。これは後北条氏独特のものとされる。築城には、相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されている
16世紀末までに城としての役割は終わる。江戸時代には徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、城山という地名で保存されてきた。

茅ヶ崎城と古道の関係を示す図。現地の説明板から転載。

城の立地と歴史的環境
茅ヶ崎城、早渕川右岸の丘陵の先端部に築かれた丘城(おかじろ)。最高所は中郭(なかぐるわ)南西隅の土塁上で、標高はおよそ40㍍。
茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)がある。
早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜市神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつだった。交通の要衝の地に自然の地形を利用して築かれていた。

茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景
1338年、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関の鎌倉府がおかれ、「鎌倉公方」足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持つようになる。
15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏が対立し、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中止に大規模な戦乱が起こる。1476年の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされる。
15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、1495年に小田原城を奪取し、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていった。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられている。
1590年には、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せ、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布された。その後、江戸幕府の開府を経て、1615年に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となった。

茅ヶ崎城の移り変わり
茅ヶ崎城の規模は、東西330㍍、南北200㍍、総面積はおよそ55.000㎡。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀(からぼり)、郭の外縁部に築かれる土塁(どるい)などで構成されている。天守閣のような大きな建物や石垣はなかった。

発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められた。
築城当初は、東西2つの郭のみで、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭(にしくるわ)・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられる。中郭(当初の西側郭)の南東部から、倉庫と考えられ建物などが見つかっている。この時期に相模、武蔵両国を支配していたのは関東管領上杉氏で、城の改築にも影響を与えていたと推定されている。
16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされた。中郭の東寄りに新たに「中堀」も掘られている。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであった可能性もある。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説がある。
茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、14、15世紀のものと考えられ常滑産の蔵骨器板碑が発見されている。これらの出土品は根小屋(ねごや)とよばれる生活拠点エリアが形成されていた可能性を物語っている。

4ヶ所の郭(くるわ)

説明板にある図。北・中・西・東の4ヶ所の郭とそれらを結ぶ散策路が示されている。説明板から転載。
発掘調査時の測量図に郭を落とした図。説明板から転載。
赤い円は蔵骨器と板碑の出土地点。

郭(くるわ)
堀や土塁、石垣などで囲まれた区画を郭といい、「曲輪」とも表記される。江戸時代には「丸」とも呼ばれた。城は、郭をいくつも作り出すことで成り立っている。それらの中心となる郭は「主郭」・「本曲輪」と呼ばれ、江戸時代には「本丸」と呼ばれた。
戦国時代の丘城(おかじろ)は自然の地形を利用して築かれていて、主要な郭では、その外側や丘陵の中腹にも種々の区画が見られる。郭をめぐる堀の外側を取り囲む「帯郭」、郭の外側の一部に作られる「腰郭」などがその代表といえる。

茅ヶ崎城址の郭
茅ヶ崎城では石垣は見られず、堀と土塁によって区画された「東郭」「中郭」「西郭」「北郭」の4つが主要な郭で、東郭が主郭に相当すると考えられる。東郭は東西50㍍、南北20㍍の不整長方形をしており中郭より3㍍ほど高い位置にある。建物などの痕跡はまだ確認されていないが、戦闘時の最後の拠点となる場所でもあったと推定される。
「東郭」北東部に接する一段低い位置に「腰郭(こしぐるわ)」が見られる。その北西には東北郭があるが、この郭の詳細は明らかではない。また、それぞれの役割は不明だが、丘陵の中腹に「平場」と呼ばれるテラス状の平坦部が複数見られる。

根小屋(ねごや)

中世の城では、人々の生活する集落の根小屋と呼ばれる一角があった。

お城の部分(郭)と生活空間の根小屋の位置関係を示した図。説明板から転載。
北を向いて撮影された航空写真である。

根小屋
城下町がまだない時代の、城主や重臣達の居住地区だった。城主は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、戦となったとき城に籠もった。
茅ヶ崎城の根小屋は、城の南・東の崖面裾に幅10~20㍍、東西百㍍に及ぶ平場が展開しており、14~15世紀に蔵骨器や板碑などから成る墓地を伴う屋敷があったと考えられている。

北郭(きたぐるわ)

城址公園の入り口から、私たちはまず 北郭(きたくるわ) に進んだ。
着いてみたらそこは、現代流にいえば、「広場」だった。
この広場、つまり「郭」には建物があったのだろうか。
「井戸」と「土橋(どばし)」の説明板が立っていた。

遠方にある建物は来場者用のトイレ。その右側の階段を上ると中郭(なかくるわ)に至る。
お城の時代の井戸はこのトイレのそばにあったらしい。

井戸
戦のときは立てこもることもあった城では、水が湧く場所が欠かせなかった。城内に複数つくられ厳重に警護されていた。茅ヶ崎城址では、北郭に、上端の直径が約4㍍、深さ5㍍ほどの井戸が見つかっている。この井戸の湧水量は極めて多く、遺構確認面から井戸底までにすべてに水がたまっていたと仮定すると20㍑ポリタンク約千本分になる。

土橋

土橋の位置を示した図。郭はそれぞれ空堀で囲まれているので、入るには、堀をまたぐ橋状の施設が必要になる。橋に代わるものとしてその部分の堀を埋めて土橋としてあった。説明板から転載。

北郭土橋
北堀(北郭の北の辺にあった空堀)の中央西部を掘り残したもので、上幅は2.9㍍、下幅は4.5㍍以上ある。横断面は幅広の台形で東壁は60度・西壁は70度となっていた。
土橋に続いて、幅二㍍弱の土を固めた道路が郭内にのびている。この道が始まる両側には対になる柱穴があり、木戸の痕跡と考えられている。


土橋
土橋は虎口(こぐち=城の出入り口)に設けられる施設。郭(くるわ)周辺の空堀(からぼり)の一部を掘り残してつくられる。
茅ヶ崎城址では、北郭土橋と西郭土橋のように空堀を掘り残してつくられたものと、中郭土橋のように東郭と結ぶために空堀の一部を埋めてつくられたものがある。北郭土橋と西郭土橋は、早渕川沿いの道に向かって設けられている。

空堀(からぼり)
堀は水堀と空堀に分けられる。水堀は主に低地の城につくられ、堆積物で埋まりやすい難点がある。
水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多く作られた。空堀は底が土で、その形状は横断面が逆台形の「箱堀」が多く見られる。
茅ヶ崎城址の堀は両側の壁が70度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていた。

土塁とともに堀は中世の城の主要な防御施設だった。
北~東郭を囲む空堀をピンク色で示した図。説明板から転載した。
北郭に設けられていた空堀を発掘調査したとき撮影した図。説明板から転載。

中郭(なかぐるわ)

北郭の次に、階段を上って中郭を見学した。

画像奥の土塁が切れている所は、その向こうが坂になっていて、北郭から登る中郭への入り口。
北を向いて撮影した。手前の並んだ石は倉庫群の礎石を表している。
突然ですが、私たち一行はこの遺構見学の途中で空腹を覚え、一斉にお弁当を開いたのでした。
センター南駅そばのコンビニで求めた食料をガサゴソ開いたのです。

土塁
堀を掘った土を盛りあげて築いた堤(土塁)のことで、敵を阻止し、反撃するためのしつらえ。
堀と土塁は一体となっている。土盛りする部分は、斜面を平らに削って帯状のテラスとし、黒土を叩きしめ、盛土が崩れないよう基礎を作った。このテラスからやや下がった場所を、等高線沿いに堀切り、排土を斜面下方に水平に積んで土塁とした。茅ヶ崎城の主な土塁は、堀底から7~8㍍、郭内から高さ2.5㍍以上、基底部の幅は7~8㍍あったと推定される。
土塁の側面には「武者走り」とか「犬走り」とよばれる、連絡用の通路、あるいは土塁を越えようとする敵を上方から攻撃するための足場が作られた。

倉庫の遺構
遺構とは、土地(地中)に残された基壇や柱穴、墓などのこと。このような構造物の様式や配置などを知ることができる。


倉庫の発見
中郭の住居域と見られる部分を明らかにするために、南東部の発掘調査を行った。その結果、多数の柱穴や土坑があり、掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切ってあることが明らかになった。
建物1~3内の土坑は陶器の埋納坑と推定され、建物は倉庫だったと考えられる。建物5からは炭化材と焼けた壁土のかけらが多数見つかり、焼失した土倉と判明した。
このことから中郭南東部は倉庫地区だったことが明確になった。また、遺構はその重なりや位置関係から4~5期の変遷があることもわかった。
居住施設としての建物あとは、これまでのところ確認されていない。

現地の説明板から転載

土器
中世に作られた土器が、国産陶器や中国磁器とともに出土した。土器はすべてロクロ造りで体部が外反する坏形(武蔵型)のものがほとんどだった。土器の内底には渦巻状の文様が記されている。この土器は茅ヶ崎城址を特徴づけると共に、武蔵、伊豆の15世紀のいくつかの城から出土している。
その他の出土品は石臼・硯・銭・鉄釘などだった。また、中世以外の縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器などが出土しており、この丘陵地に大昔から集落が営まれていたことがうかがえる。

東郭(ひがしくるわ)

次に私たちは東郭に進んだ。
4つの郭の中で、最も高いところに作られている。

東郭、中郭、両者をつなぐ土橋、腰郭の位置を示した図。写真を撮影した方向と土橋の位置を推定して加えた。
元図は説明板の図を使った。

東郭
城の中でも最も高い位置にあり、中原街道や矢倉沢街道を見渡せたので物見台の役割を持っていた。最高所にあるため、戦の際には最後に逃げ込んで籠城する場所だったと推定さる。


腰郭(こしくるわ)
東西60㍍の帯状をなし、東北部は約200平方㍍の平場となっている。東側は急な崖で、北側には幅10㍍ほどの北堀があり、東北郭との間を遮断している。この北堀の内側には土塁が延びている。
この郭は、武者溜(むしゃだまり)としての役割があったと推定される。

中郭と中郭をつなぐ土橋
中郭と東郭は上幅14㍍・深さ7㍍の空堀によって隔てられているが、その中央部は土橋によって連結されている。土橋は上幅約2㍍、下幅約15㍍で、上面は中郭より約2㍍、東郭より4メート低くなっている。このため中郭への上り下りは容易だが、東郭方面は何かにつかまらないと登れないほどの急傾斜だった。
調査の結果、この土橋は地山を掘り残したのではなく、盛り土によって形成されていたことがわかった。土橋の下には空堀があり、中郭東側と東郭の土塁は失われていることから、城の後半または廃絶後に通路としてつくられたようだ。

説明板の図を転載。

虎口(こぐち)

城の出入り口を虎口(小口)という。敵が攻めてきたときすぐに封鎖するため幅を狭くしてある。城の防御と攻撃に重要な場所で、様々な工夫が加えられている。横矢という敵に横から矢を射掛けるための構造、屈曲した堀(折邪 おりひずみ)の構造が見受けられる。
茅ヶ崎城址では北側に推定する説があるが、発掘調査による確認はされていない。東郭南側にも虎口が推定される場所がある

茅ヶ崎城址の見学をここで終了

雲松院、小机城址、茅ヶ崎城址と電車を乗り継ぎながら探訪してきましたが、この日、もう1ヶ所、大塚・歳勝土遺跡も計画に入れていたので、茅ヶ崎城址の西郭は通り過ぎただけで城址を下山しました。
歴博通りに出て、両遺跡のある北の方を目指し歩き始めました。
途中、歴博通りは早渕川を渡ります。
このあたりが江戸時代の茅ヶ崎村だったのだと意識しながら見渡しましたが、すっかり開発されていて、大都会のど真ん中を見るようでした。


早渕川の陸橋の上から上流を見る
横浜市歴史博物館と大塚・歳勝土遺跡を結ぶ陸橋の上から、歴博通りの南方面をみる
「都築まもる君」と書かれたこんなものがありましたが、交通安全とゴリラとの関係が分かりませんでした。

茅ヶ崎市の「茅ヶ崎」と横浜市都築区の「茅ヶ崎」の共通点をつかむことは全くできませんでした。

④国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡 (横浜市都筑区大棚西)

大塚・歳勝土遺跡公園の案内図。公園の入り口に設置されている説明板から転載した。
北を上にして加工した。

大塚遺跡は、歴博通りから西側が開発されて規模が小さくなっている。
遺跡公園について次のように説明してあった。

国指定史跡(昭和61年:1986指定) 大塚・歳勝土遺跡
大塚・歳勝土遺跡は、今から2,000年前(弥生時代中期)にこの地方で稲作を始めた人々のムラ(大塚遺跡)とその墓地(歳勝土遺跡)を中心とした遺跡。


大塚遺跡
大塚遺跡では、まわりに大きな溝(みぞ)をめぐらせた外周600㍍におよぶ大規模のムラ(環濠集落 かんごうしゅうらく)の全体が発掘され、85軒の竪穴(たてあな)住居跡と10棟の高床(たかゆか)倉庫跡などが発見された。縦穴住居跡の重なり合いや分布の様子から、ムラは10軒前後の竪穴住居に1~2棟の高床倉庫をそなえた人々の集団が、3つ集まって暮らしていたと考えられる。ムラのまわりには幅4㍍、深さ2㍍ほどの溝(みぞ)をめぐらし、外側に土を盛った土塁をもうけて守りを固めていた。


歳勝土遺跡
歳勝土遺跡では25基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されたが、西側にまだ調査されていない部分があり、総数は30基前後と推定される。

大塚・歳勝土遺跡はムラと墓が一体としてわかる貴重な遺跡として昭和61年(1986)に国の史跡に指定された。

環濠集落
周りに溝をめぐらして守りを固めたムラで、弥生時代に九州から関東、北陸の各地で造られこの時代に大きな争いのあったことを物語っている。

竪穴住居
地表を1㍍ほど掘り下げ、その排土をまわりに積み、その上に屋根をかけた半地下式の家屋で、出入りにはハシゴを使っていたことが大塚遺跡の調査で分かった。

方形周溝墓
周りを4本の溝で囲み、低く土を盛った墓で、身分の差が生まれ拡大していく弥生時代から古墳時代前期に、ムラの中の限られた人々が葬られた。

大塚遺跡の発掘調査のときに撮影された図。
住居跡とそれらを囲む環濠の様子が良く分かる。
早渕川の流れが見える。南方向を向いて撮影されている。
消失した部分は、現在歴博通りとなっている。現地の説明板にある図を加工して転載した。

左は大塚遺跡の図。
色濃く表されている部分が、現在保存されている部分で、竪穴式住居跡が復元されている。
現地の説明板の図を加工して転載。

復元された弥生時代の竪穴住居跡
これも復元された弥生時代のムラを囲む環濠の様子

同じ所に3度立てられた住居を復元して保存

竪穴住居跡(Y17号住居跡)の発掘調査時の姿
発掘調査を行うとこのような住居跡が表れる。
屋根をかけないで住居の床面を見せてある。
左の写真の住居(Y17号住居跡)は、同じ位置に3回立てられた跡が残っていると説明してある。
茶色の線が立て直し1回目の住居で、それを壊して立て直し2回目の住居を青い線で表してある。緑色は最初の建設を示す。
図を左に90度回転させると方向が写真と一致する。現地の説明板から転載。

上に紹介した竪穴住居跡の建て替えられた事例のそばに、次のような説明がしてあった。

竪穴住居跡は、発掘調査時の住居跡の構造や空間を体験できるように再生した。
竪穴住居跡は、大塚遺跡のほぼ中央部で発見されたYー17号住居跡で、2回の建て替えが行われている。壁の一方には通路と考えられている溝がつくられている。
再生は、造形保存という方法で、発掘調査時に発見された住居跡の形や質、色合いを正確に保存する。
その方法は、次の順序で行った。
①関東ローム層を掘りこんで作られている住居跡に、合成ゴムと石膏を使用して、表面の型を取る。
②型や発掘調査データを利用して、特殊加工したガラス繊維強化樹脂セメント(GRC)で住居跡の遺構面を再生する。
③再生した表面には色の調整モルタル、保護樹脂の塗布を行い完成させる。

方形周溝墓群 歳勝土遺跡

発掘調査中の歳勝土遺跡
現在「大塚遺跡」と呼ばれる環濠に囲まれた弥生時代後期のムラは、そこから約80㍍離れて墓地をしつらえていた。
その墓地が今は「歳勝土遺跡」と呼ばれている。

密集する方形周溝墓。現地の説明板から転載。

歳勝土遺跡の保存整備
歳勝土遺跡からは、昭和47年度発掘調査によって多数の方形周溝墓が発見され、出土した土器などから大塚遺跡で生活していた人々の共同墓地であることが明らかになった。保存整備は、遺跡の全体を大塚遺跡と同じように約1.5㍍の厚さの盛土によって保護している。

現地の説明板から転載。

おわりに

歳勝土遺跡の方形周溝墓を見学して、茅ヶ崎郷土会のこの日の第300回史跡・文化財探訪は終了しました。
一寺院、二つの城址、大塚・歳勝土遺跡の見学といささか内容過多ではありましたが、楽しい探訪の旅でした。

photo 前田会員・平野会員
report 平野会員

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第300回 その-1 横浜市港北区(雲松院・小机城址)2022.3.12

令和4年3月12日(土)
横浜市港北区に①雲龍院 ②小机城址、都築区に③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡を訪ねました。
ここに、その-1として①雲龍院と②小机城址を報告します。


その-2 ③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡はこちらから

この報告は現地に立ててある説明板の文章と画像に基づいています。掲載にあたって文章は簡略化し、画像は加工してあります。

茅ヶ崎城址で

【今回の史跡・文化財探訪の趣旨】
1.県内の城跡の探訪
2.横浜市都筑区に、私たちが住む茅ヶ崎市と同じ地名があるので、そこがどのような様子か確認すること。
海辺の茅ヶ崎市の地名の由来は、「茅(チガヤ)の生える土地が海に面していること」と言われるが、都築区の「茅ヶ崎」は海から離れており、地名の由来を考えるなら、両所に適応する説でなければならないだろうと考えたからである。

①臥龍山雲松院(曹洞宗) 横浜市港北区小机町1451


横浜駅で横浜線に乗り換え、小机駅で下車し、小机城址を訪ねる前に探訪した。
山門前の説明板(平成2年 横浜市教育委員会)に次のように記されていた。

 小机城は、文明10年(1478)に扇谷上杉家の家宰太田道灌に破られてから廃城となっていたが、大永4年(1524)頃、小田原北条氏の勢力圏に入り、南武蔵の軍事上や、経済上の重要地点として修築され、北条氏の重臣笠原越前守信為(のぶため)を城代とした。
 信為は、父能登守信隆(のぶたか)の追善のために、季雲を招いて開山とし、自らが開基となり曹洞宗の寺院、臥龍山雲松院を建立した。
 山門横の通用門には、月舟宗故筆の「臥龍山」、本堂正面には、東皐心越の「雲松院」の額があり、共に名僧の誉れ高い禪師の筆になるものでる。
 墓地には、笠原家代々の墓所、ならびに池辺村の地頭門奈氏墓所がある。

月舟書「臥龍山」の額が掛かる通用門

横浜市指定の文化財 本堂・山門および転籍についての説明板(平成26年 横浜市教育委員会)が立てられていた。

横浜市指定有形文化財(建造物)運松院本堂及び山門
指定年月日  平成7年11月1日
時 代    本堂 宝暦3年(1753)〈棟札〉
       山門 安政5年(1858)〈棟札〉
構造及び形式 本堂 桁行9間、梁間7間、一重、入母屋造、銅板葺
       山門 四脚門、本瓦葺
 雲松院は小机城主であった笠原越前守信為が亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したと伝えられ、寺名は開基信為の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」に由来するとされている。
 本堂は、正面9間、側面7間、方丈形式の堂々たる堂で、内部は八室からなり、来迎柱二本と、仏間と室中境の柱二本を除くすべての柱は角柱で、住居風のしつらえとなっている。
 山門は本瓦葺の四脚門で、昭和30年代に茅葺から改められたが、屋根以外はほとんど改変が認められない。本堂は、関東大震災で大きな被害を受け、改造された部分はあるが、旧状をよく留めており、建造年代も明確で、緑に囲まれた優れた環境と相まった、市内有数の貴重な遺構である。

横浜市指定有形文化財(典籍)
『天童小参抄』(下巻)一冊 (てんどうしょうさんしょう)
指定年月日  平成元年12月25日
時 代    室町時代
構造及び形式 袋綴装32.2×25.4センチメートル
本紙     50枚
 『天童小参抄』は、中国の禅僧 宏智正覚(1091~1157)(わんししょうがく)が行った36の説法を集めた『天童小参録』を批評・解釈したもの。本来は上下二冊からなるが、上巻はなくなっている。著者は明らかではないが、応永28年(1421)頃の写本と考えられ、本書は最も古い写本となる。また、曹洞宗宏智派の宗風を探る『天童小参録』研究のうえで重要な資料である。

 境内墓地の再奥部に 横浜市地域史跡に指定されている笠原家の墓所の前に立てられている説明板(平成26年 横浜市教育委員会)に次のように説明されていた。元は境内の別の所にあったが、平成25年に現在地に移設されたと書かれていた。
旗本笠原家の墓所
 笠原家は、初め小田原北条家に仕えたが、北条家滅亡後は徳川家に仕え、信為の孫の照重の子、重政が天正19年(1591)に武蔵国都築郡台村(現、緑区台村町)に200石を賜った。
 現在、墓所には、元和9年(1623)在銘の宝篋印塔一基をはじめ、笠付角柱塔、石仏など合計17七基の墓を数えることができて、それらは重政、信重、為次ら笠原一族のものである。 登録日  平成6年11月1日

②小机城址(港北区小机町)

小机駅から徒歩20分ほどの丘陵が城址になっている。

正面の丘陵全体が小机城址

小机城址は第三京浜によって東西に分断されている。
現地に立っている説明板の案内図を掲げておく。
「本丸広場」に本丸が、「二の丸広場」に二の丸があったと想定されているが、発掘調査は行われていないようである。

城址の略図(1)
城址の略図(2)

小机城について、説明板に次のように書いてあった。

 築城の年代は明らかではないが、このあたりが開かれた12世紀以降ではないかと思われる。その頃このあたりは上杉氏の勢力下にあった。
 その後、山内上杉家の家臣 長尾景春が、家督争いから反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが小机城にたてこもり、北方にある亀之甲山(現在の新羽根町亀ノ甲橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦った。
 城は文明10年(1478)落城し、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城になっていた。
 大永4年(1524)、小田原北条の一族の北条氏堯(うじたか)の領地となり、笠原越前守信為を城代として再興した。小机は江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになる。
 豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次兵衛重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城した。

また、別の説明板に次のようにあった。

小机城の縄張
 半島形の突出した丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に3つ程度の曲輪(くるわ 郭 城を構成する区画、すなわち削平された地で、防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいう)を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築く。
 また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張で、後北条氏特有の築城法と言える。
 後北条の後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で、近くにある茅ヶ崎城も典型といえる。


縄張とは
 目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し、曲輪の配地、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めること。
 この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士が行った。

本丸広場

先に掲げた「城址の略図(1)」の下方にある「根古谷(ねこや)」の近くから城址に入り、「本丸広場」を目指した。

「城址の略図(1)」には「本丸広場」、「二の丸広場」と、「同略図(2)」には「本丸」、「二の丸」とあるが、「小机城のあるまちを愛する会」が2019年10月に作成した『小机城案内図』では「西曲輪」「東曲輪」となっている。本丸、二の丸の建物が確認できていないためであろう。

本丸広場への入り口
「本丸広場」

説明板にあった本丸の解説

本丸(ほんまる)
 本丸は城の中心、主将のいる所で、合戦中には戦闘の指揮が行われる。
 縄張りを行う時、本丸の防備に最も配慮が注がれる。
 調査等の実績の少ない小机城は、「本丸広場」が本丸跡とは断定できていない。

空堀(からぼり)

城址には巨大な空堀と土塁(どるい)が築かれていた。
「二の丸広場」を目指し、空堀の中を歩く茅ヶ崎郷土会の一行。

空堀について次のように説明してあった。
 堀と土塁(どるい)は城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用したものがある。
 水をはらない堀は空堀と呼ばれ、水をはるために堀勾配のゆるい水堀よりも堅固である。

二の丸広場

本丸広場よりも狭い

二の丸について、次のように解説してあった。
二の丸(にのまる)
 現在地は二の丸と呼ばれているが、資料不足のために断言できない。
 二の丸は、本丸を直接守備する役割がある。

土塁(どるい)

室町~戦国時代の山城の防備には、堀(空堀)と土塁が設けられていた。
小机城にもこの二つは良く残っている。

白い点線のところまで土が積まれている。

土塁の説明板に次のように記されていた。

土塁(どるい)
 土塁は堀と共に城の防備や攻撃に重要な施設で、堀を掘った土で築き上げた防備壁を言う。 土塁の基底幅は5メートル、上底幅は2.5メートル、高さは2メートル。
 一般に中世初期の城の土塁は、塁線に屈曲がなく、塁の上もしくは外のりに、必要に応じて棚・塀・逆茂木(さかもぎ)を設けている。

土塁の頂部。このような土塁で、防御のために郭(くるわ)は囲われている。

櫓(やぐら)

土塁の上には櫓が設けられた。

この一段高く土を盛ったところに「櫓台(やぐらだい)」の説明板が立てられていた。

櫓台(やぐらだい)
 櫓は、矢蔵すなわち兵庫や、高櫓(こうろう)・井櫓(せいろう)と呼ばれる見張台を言う。
 近世初期(15~16世紀)の成郭の天守閣の一源流と考えられる。天守のない時代に展望を目的とした櫓台があったと思われる。

このように小机城址を一巡して、私たちは次の見学地の横浜市都筑区にある③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡へ向かった。この2ヶ所の報告は別に行うことにする。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員


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