2020年から48年前の風景 昭和47年の郷土会史跡・文化財めぐり(伊勢原市)

茅ヶ崎郷土会の「史跡・文化財めぐり」は令和元年度で297回を数えているが、今年度は新型コロナウィルスのために行っていない。

古い写真を整理していたら、「1972年(昭和47年)5月撮影」と注記したフィルムが出てきた。撮影したのはこのHPの編集者、つまり私。
訪ねた先は伊勢原市の高部屋地区で、上粕屋の比比多神社と洞昌院の太田道灌の墓所などが写っていた。会員外だったが、同行させて貰ったかすかな記憶が残っている。

郷土会が史跡・文化財めぐりで何時、どこを訪ねたかは『創立五十周年記念 郷土ちがさき百号の歩み』(2004年発行)に、1回目は昭和46年(1971)と記されている。(昭和28年に産声を上げた郷土会が、それまでめぐりをまったくやらなかったということは考えられない。おそらく記録がないのだろう。)
同書の昭和47年を見ると、6月25日に「大山に行こう(一泊)」とあった。これがここに紹介する伊勢原めぐりだったのなら、「5月撮影」とある編集者のメモは日付が違っていることになる。私も同行しているのは間違いないが、大山に泊まった記憶はまったくない。
そのときの画像を紹介しよう。

高部屋地区の上粕屋1160(伊勢原市を過ぎて大山に向かう途中)にある子易明神比比多神社でお話ししている野崎薫会員。当時、副会長ではなかったろうか。
1972年当時の比比多神社

上の写真(左)は訪れたときの様子。右の写真は現在の様子。
1988年(昭和63年)に屋根が改造されて、見違えるように変わっている。
相模国三之宮で延喜式内社の比々多神社と社名は似ているが、別の神社である。
昔から子易明神(こやすみょうじん)といわれ、安産、子授けの神様として知られている。
向拝の柱が、2本とも細くなっているのは、削って持ち帰ると安産の願いが叶うということで削られた結果である。

   

奉納された底抜けの柄杓(ひしゃく)
底のない柄杓は、くんだ水がドッと抜けるので、安産祈願の人たちが願を掛けるときに奉納したもの。
郷土会で訪れたときはたくさんあったが、最近行ったときは見られなかった。

1972年当時の郷土会々長 塩川健寿さん
向かって右は山口金次会員
左は鏡勝吉会員
山口さんは茅ヶ崎の郷土史の研究に邁進された。
鏡さんは彫刻家で、茅ヶ崎市堤の大岡家の墓所がある浄見寺の巾着の形の賽銭入れなどを作られている。また市文化資料館が開館するとき、河童徳利と縄文土器を彫刻して貼り付けた小型絵馬形の記念品も作られた。
比比多神社と同じく上粕屋にある洞昌院(曹洞宗)の太田道灌の墓も見学した。
道灌はこの寺の開基だそうである。
この日、コースを説明してくださったのは地元の郷土史研究者だったように覚えている。

photo & report 平野会員

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茅ヶ崎の野鳥たち 南部の海辺編 (52)タゲリ 

茅ヶ崎の南西部(主に柳島の海岸)で見かけた野鳥たちをアイウエオ順に紹介しています。生態の説明文の一部は『ぱっと見分け観察を楽しむ 野鳥図鑑』(ナツメ社刊)から引用しました。  【杉山 全】

何時のころからでしょうか。
茅ヶ崎市西久保の、冬の田んぼにタゲリが来ていました。
もう20年近く以前になりますが、その様子を撮影していましたので紹介します。
最近はその姿を見たという話は聞きません。

タゲリ

茅ヶ崎では、西久保の「タゲリ米」で有名になった鳥。タゲリの来る田で収穫した米をタゲリ米と呼んでいました。
歌舞伎役者のくま取りのような顔と、まげのように長い冠羽が特徴のチドリ類。
農耕地、水田、草地などの見通しのよい開けた場所に群れていることが多く、比較的乾いた環境を好むと言われています。
数歩歩いてはすっと立ち止り、足で池面を細かくたたくような動作をしながら昆虫を捕食します。

 

田んぼで捕食するタゲリたち
夏にユーラシア大陸の中部で繁殖し、冬には越冬のために南の国に渡りますが、関東地方も越冬地の一つになっています。

「北部の丘陵編」に収めた平塚市内で撮影のタゲリはこちらをクリック

photo & report 杉山会員

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2020年から46年前の風景 南湖の地引き網

1974年5月2日撮影
茅ヶ崎市南湖の海岸

地引き舟

茅ヶ崎では江戸時代から地引き網漁が盛んでした。
主に捕れていたのはイワシの類で、太陽に干して干鰯(ほしか)に仕上げていました。
干鰯は食べものではなくて、田や畑にいれて肥料にするものでした。相模国の中央部に広がる農村部で消費されていました。
昭和の時代になるとその干鰯の生産はしだいになくなりました。
そして地引き網は、お客さんを呼んで行う観光漁業の中で続けられていました。

漁に出る前に、網(地引き網)を整えて船に積み込みます
出漁です
浜から海へ舟を押し出します
今日はどんな魚がとれるかな
沖に出るとグルリと回りながら網をおろしていきます
網を張り終わると舟を戻します
舟はバックしながら砂浜に乗り上げます
舟が着くと網から延びている綱を引きます
この日のお客さんはどこかの子ども会のようでした

photo & report 平野会員

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こんにちは!花たち フウラン・コロナ雑記

茅ヶ崎市芹沢から、近所や庭に咲く花たちを紹介します。

2020年7月6日(月) 朝から終日雨。
九州はまた水害で大変なことになってしまった。特に熊本県の被害が大きい。
私の故郷も熊本県です。町の中央を川が流れているが、今のところ決壊したという話はありません。
人吉などでは今後の復旧作業も大変です。皆さんたちの苦労に、何と申し上げていいのか分かりません。

フウランの白い花
熊本の実家の庭から移したものです

コロナ雑記
6月27日(月)の朝日新聞に、佐伯啓思(けいし)さんが「死生観への郷愁」というコラムを書いています。
コロナ関係の記事で、宗教に触れた文章はあまり眼にしませんでした。そのことを正面からあつかった文章ではありませんが、私には興味深かったので、いつものように抜粋します。

 昔の日本人にとっては、疫病にせよ災害にせよ悪霊の祟りであった。その時、人は神を祀り、鎮魂の祭りを執り行い、大仏や薬師如来を造り、また弥陀の本願にあずかるべく一心に念仏を唱えた。それでも災害や疫病が無慈悲に人の命を奪う時、人は、この不条理を「世の定め」として受け入れるほかなかった。人知は限られており人力も限界がある。人は自然や天の前に頭(こうべ)を垂れ、神や仏にすがるほかなかった。そしてこの世の不条理な定めを、昔の人は「無常」といった。
 (昔の日本人は)とうてい受け入れがたい不条理な死をも受け止め、死という必然の方から逆に生を映し出そうとした。死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。
 そのかわりに、今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのである。17世紀イギリスの哲学者トマス・ホッブズが、その国家論において、国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。われわれは自らの生と死を、自らの意思で国家に委ねたことになる。
 かくて、コロナのような感染症のパンデミックにおいては、国家が全面に登場することになる。
 ドイツの法学者カール・シュミットのいう例外状態、つまり国民の生命が危険にさらされる事態にあっては、私権を制限し、民主的意思決定を停止できるような強力な権力を、一時的に、政府が持ちうるのである。これが、ホッブスから始まる近代国家の理論である。
 そして、いささか興味深いことに、今回、世論もメディアも、政府に対して、はやく「緊急事態宣言」を出すように要求したのである。ついでにいえば、普段あれほど「人権」や「私権」を唱える野党でさえも、国家権力の発動を訴えていたのである。強権発動をためらっていたのは自民党と政府の方であった。
 (今回の緊急時代宣言は一時的なものでかつ「自粛要請」だったが)真に深刻な緊急事態(自然災害、感染症、戦争など)の可能性はないわけではない。その時に、憲法との整合性を一体どうつけるのか、憲法を超える主権の発動を必要とするような緊急事態(例外状況)を憲法にどのように書き込むのか、といったそれこそ緊急を要するテーマに、野党もまたほとんどのメディアもいっさい触れようとしないからである。
 国家はわれわれの命を守る義務があり、われわれは国家に命を守ってもらう権利がある、といっているように私には思える。ここには自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。もしこれが国家と国民の間の契約だとすれば、国民は国家に対して何をなすべきなのかが同時に問われるべきであろう。


要旨は以上のようでした。そして最後に次のようにまとめてありました。

 少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する恐れも畏(おそ)れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。われわれも、こころのどこかに、多少は古人の死生観を受け継ぐ場所をもっておいてもよいのではなかろうか。

福岡伸一さんのコラムで、ウイルスをこの世からなくすことは不可能だと知りました。その上に、人は死から逃れることができないこともあきらかです。いくら科学が発達しても、人知には限界があることを、私は今回のコロナウイルス騒ぎで教えられました。

photo & report 石野文蔵

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2020年から76年前の風景 昭和19年の浜降祭記事

昭和19年(1944)7月16日の新聞に載った浜降祭

芹沢のI会員が、「こんな新聞記事がみつかった」と届けてくださいました。
昭和19年7月16日(日)に発行された新聞に掲載された、その月14日の浜降祭の記事でした。
写真が鮮明ではなく、記事各行の最後の一文字が切り取られていて、かつ新聞の名前がないところが残念ですが、太平洋戦争末期、日々の生活に必要な物資が枯渇していた中の新聞記事は貴重です。
コロナウィルスのために、今年(2020年)の浜降祭は中止になりました。
毎年の浜降祭で聞く「ドッコイ ドッコイ」のかけ声が、記事のなかでは「ワッショイ ワッショイ」となっています。「昔はこのように叫びなら神輿を渡御させていたのなら、大きな変化だね」と、Iさんは言っておられました。

記事を活字化しておきます。
・活字がつぶれていて読めない文字と、各行最後の欠けている一文字は□にしました。
・想定して復元した文字もあります。
・( )で囲った文字は旧漢字が見つからなかった文字です。
・/は、記事では改行されているところです。

昭和十九年七月十六日 日曜日

神輿に(祈)る敵擊滅
暁の壯觀・寒川神社濱降祭

ワッショイ ワッショイ まだ□は□/やらぬ田□道に十数基の神輿がもみ合い/ながら濱辺をさして一散走り、見るから/威勢のよい昔ながらの日本の祭だ、十四/日高座郡寒川町國幣中社寒川神社名代の/濱降祭は「怨敵退散」/「米英撃滅」の意気を/高らかに執り行はれた。日頃食糧增産に/敢闘する近郷近在の/農、漁村の若衆たち/は午前二時といふ□/それぞれ神輿をかつ/いで神社を出発、□/万の群衆が神輿の前/後を取り囲んでな/かなかの壯觀、南湖/濱祭場まで二里半の/道を若衆たちはへたばりもせず元気に渡/御を終り、さあ明日からまた增産だと海/潮をどる太平洋を睨んで折柄の日の出に/シャンシャンと拍手をしめた
寫眞は寒川神社の濱降祭

平成30年(2018)の浜降祭へ

report 平野会員

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