6 大山阿夫利神社と修験道 (伊勢原市)

大山の僧兵は後北条氏に味方したため、後北条氏滅亡後、家康の粛清を受けた。慶長14年(1609)、徳川幕府は寺院法度を発布。不動堂より上は清僧だけとし、修験者などは移されて、今の坂本の門前町辺りで御師となった。
江戸時代を通じ、御師は積極的な布教活動を行い、各地に大山講を作っていった。年に数回講中を訪ね、御札を配り、初穂料を集めた。また、お盆の季節に山頂までの登拝ができたので、その間、講中の大山参詣を促し、宿泊の業をした。明治初期には1万5千の講社、70万の檀家を数えたという。
江戸中期から国学が広まるにつれ、大山にも神道思想の宗教者が現れてきた。明治元年(1868)の神仏分離令、同5年(1872)の修験道廃止によって阿夫利神社が出来、御師も先導師と名を変えた。
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大山歴史地図(作成中)
長い歴史をもつ大山には数多くの史跡がある。それらを地図に落として「大山歴史地図」を作ろうとしているが、なかなか作業が進みません。
まだ作成途中のものですが、大山の修験道を紹介するに当たって公開してみます。間違いやさらに含める事項などをお気づきの方は、お知らせ頂ければ幸いです。

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開山堂

『大山寺縁起』に大山を開いたのは良弁僧正(ろうべんそうじょう)と書かれている。
大山の開山町に開山堂とか良弁堂と言われる建物があり、良弁僧正の坐像などが祭ってある。この開山堂の脇に良弁の滝がある。北斎の浮世絵に、納め太刀を担いでこの滝でみそぎをする導者たちが描かれている。


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良弁僧正の坐像

良弁僧正は東大寺初代別当として有名である。宝亀4年(773)閏11月16日に遷化された。(東大寺のホームページから)
この像について『新編相模国風土記稿』坂本村の項には「四十二歳の像(自作、長二尺五寸)、藤之坊持」とある。さらに、藤之坊は「本山修験(京師六角、住心院觸下)本尊不動」ともある。なお、この坐像は江戸時代の作と思われる。
東大寺にも開山堂があり、国宝の良弁僧正の坐像が祭られている。

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金鷲童子(こんじゅどうじ)

開山堂の猿と金鷲童子の像
風土記稿掲載の金鷲童子の絵

良弁僧正は相模国に生まれたことになっている。赤子のときに鷲がさらって東大寺まで運び、境内の大木の梢の先に置いた。それを一匹の猿が地上に降ろしてくれたという話がある。開山町の開山堂には、僧正の坐像の向かって右側に乳児を抱いた猿の像が祭ってある。乳児は鷲にさらわれたことから金鷲童子といわれている。
『新編相模国風土記稿』に、「良辨小児の時の像にて自作という」とありこの像の図が載せてある。


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阿夫利神社社殿

阿夫利神社の社殿は、江戸時代には不動堂があったところに建てられている。これを今は下社といい、山頂の建物を上社という。
急坂の男坂か、ややゆるい坂道の女坂を登ると、江戸時代には山門があった。山門を経た境内には不動堂があり、また多くの神霊が祭られていた。大山にお参りすると言えばこの不動明王にお参りすることであった。
不動堂から山頂までは禁足で、夏山期間中だけ開かれたが、それでも女性は登ることが出来なかった。夏山以外のときは、女性は前不動から先は禁則となっていた。

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阿夫利神社の御朱印写し
会員が受けてきた御朱印

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大山寺の不動明王

大山寺のご本尊で、鉄で出来ていて「鉄不動」といわれている。
鎌倉時代に大山を再興した願行上人(がんぎょうしょうにん)によって作られたと伝える。上人は江の島の龍穴にこもって再興を祈り、浜の砂鉄を集めてまず試みの不動を作った。今、鎌倉覚園寺に残る不動像がそれといわれる。その後、本作したものがこの制吨迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の2童子を脇侍とするこの不動明王である。国の重要文化財に指定されている。
江戸時代には、不動堂で祭られていたが、神仏分離によって現在地に移された。

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大山寺の護摩供養

真言宗、雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)は、江戸時代にあった来迎院の跡地にある。ご本尊の不動三像は、本堂裏手の文化財収蔵庫に収められて祭られているので、本堂に祭られているのは代わりのご本尊である。護摩供養が盛大に行われる。

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先導師の宿

後北条の時代に大山の修験者は、秀吉軍に抵抗するだけの武力を持っていた。この事が災いして、家康の時代になると槍・刀を取り上げられ、山を追われて、御師と呼ばれて主に関東各地を霞場(かすみば)とする民間宗教家に変身した。
御師たちは各地に大山講を組織して檀家を囲い、御札などを届けてお初穂を集め、夏山の期間中は講中を大山に招いて宿を提供した。修験道が廃止された明治時代には先導師と名を変えざるを得なくなったが、各地の大山講との繋がりは絶えることなく、今も旅館業務に携わっている。大山にはこのような先導師の宿をいくつも見ることができる。

6-10
田村通り大山道入り口に立つ大山一の鳥居

田村通り大山道は藤沢の四谷で東海道(現国道一号)から分かれて西に進む。
この分かれ道に大山を指す道しるべと一の鳥居がある。歩いて大山に登っていたころ、東の方から来た大山導者(参詣者はお導者と呼ばれた)は、この下をくぐって大山を目指した。
鳥居は、万治4年(1661)年に木製のものが立てられ、それが延宝4年(1676)に地震で倒れ、長年再建を目指し、天保11年(1840)に願いがかなったがこれも関東大震災で倒れ、昭和34年に今の姿に完成したという。

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鼻の欠けた天狗面

山伏は天狗のイメージで記憶されている。大山―御師―山伏(修験者)―天狗という連想だろう。一の鳥居には天狗の顔を表した額が掛かっている。残念ながら、天狗自慢の高い鼻が折れているが。昭和34年の鳥居再建時に掛けられたといわれている。

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山開きの護摩供養

大山道の入り口である四谷の大山道標の前で、7月1日に大山開きとして、四谷町内主催の護摩供養が行われる。導師をつとめるのは辻堂元町の宝珠寺の住職である。

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2 日向山 宝城坊 ―伊勢原市

伊勢原市にある日向薬師宝城坊は鉈彫の薬師三尊のほか、多くの文化財を所蔵し有名である。かってここに、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)という大きな寺があって、その周辺には修験者が住まっていた。霊山寺は、僧行基の開創といわれており、霊験あらたかな薬師三尊を祭り、鎌倉武将たちの祈願参拝の記録が残る。明治の神仏分離、修験道廃止により、霊山寺も修験もなくなったが、寺の跡は今の宝城坊が継いでいる。
本尊の薬師三尊像は鉈彫りと称される技法を用いた、わが国の彫像 の中でも白眉といわれる傑作。国指定の重要文化財。また、梵鐘も国の重要文化財に指定されている。
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宝城坊の薬師三尊像
宝城坊の本尊。「日向山霊山寺縁起」に霊亀2年(716)、行基菩薩が刻んだとあり、「行者本紀」に、持統天皇13年(699)、役行者が百体の薬師などを虚空に投げたときに日向に落ちた像とあるとのこと。しかし、平安時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。鑿(のみ)あとを残す像としても有名で、脇侍の菩薩立像に顕著に見ることができる。
薬師に眼病治癒を願った相模守大江公資(きみすけ)の室、相模が平安時代に詠んだ「さして来し日向の山を頼む身は 目もあきらかに見えざらめやは」の碑を捜したが、境内の工事のために見つけられなかった。

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宝城坊の山門
参道途中の、頼朝が参詣のとき衣裳を着替えたという「いしば」を過ぎ、急坂に掛かると仁王のある山門を過ぎる。ネット情報には「当初の像は天保元年に火災で焼失したが、現存する像は天保4年(1833年)に後藤慶明により復元され、明治20年代には子の後藤慶広とその長男・運久により彩色された。伊勢原市指定文化財。【Wikipedia】」とある。

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本堂(薬師堂)
霊山寺薬師堂が修験だったのではなく、承仕として霊山寺に仕えていた理圓坊が本山派修験の小田原玉瀧坊の配下であると『新編相模国風土記稿』にある。同書には、このほかに12坊の名が記されている。
展示した写真は改修工事の前の撮影。平成28年10月に、展示写真撮影のため参詣したときにはまだ工事が続いていた。本堂の改修工事は平成22年11月に始められ、今年の9月末完成の予定だと宝城坊のサイトに載っている。また、同サイトに、本堂は江戸初期の建築とある。
今行われている工事は、本堂前の庭だったから予定通りに進んでいる模様。本堂の改修は終了していて、屋根は元のように草葺きだった。

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本堂に掛かる「霊山寺」の額
日向薬師と呼ばれる日向山宝城坊は、今は真言宗寺院であるが、江戸時代は日向山霊山寺(りょうぜんじ)と称する大寺院だった。霊亀2年(716)行基菩薩の開創と伝えられている。
ネット情報には、「子院13坊を擁したが廃仏毀釈で多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいて、寺号は廃仏毀釈以前は霊山寺、以後は宝城坊と称するが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから、日向薬師の名で親しまれている」【Wikipedia】とある。
「霊山寺」の文字を残す額の絵は、『新編相模国風土記稿』に掲載されている。

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本堂前の赤いのぼり旗
宝城坊日向薬師は昔から万病の治しで信仰を集めていた。このことは今も本堂前ののぼり旗が現している。展示した写真は改修工事前の撮影。
時は鎌倉時代、建久5年(1194)8月8日、「将軍家(頼朝)、相模国日向山(ひなたさん)に参りたまう。これ行基菩薩の建立、薬師如来の霊場なり」先陣を勤めるもの畠山重忠他13騎、中陣は梶原景時など22騎、後陣は14騎。「この御参の事、内々姫君の御祈と云々」【吾妻鏡】。なお「姫君」とは頼朝の長女、大姫のことである。

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鐘堂と梵鐘
梵鐘を吊るこの建物を、鐘楼ではなく「鐘堂」と称している。そばにある説明板には「伊勢原市指定重要文化財 宝城坊の鐘堂 一宇」と銘打ってある。
その説明版に「梵鐘は暦応3年(1340)の年銘があり国指定の重要文化財」とある。さらに「最初の鐘堂(楼)は銅鐘の銘文から平安時代、天暦六年(九五二)に建造されたと考えられる。現在の鐘堂は江戸時代初期の建築とされるが、昭和五十四年度の改修にあたり宝暦十三年(1763)銘の棟札が発見された」とある。また、柱が12本あって、それは薬師を守る十二神将をあらわすとも書いてある。

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