相模のもののふたち (8)土屋宗遠(平塚市)


土屋三郎宗遠は、相模のもののふの中では比較的に地味な存在のように思われます。
頼朝の旗挙げは、治承4年(1180)8月17日に伊豆国の目代、山木兼隆を襲撃することで幕を開けました。そして20日、頼朝は伊豆と相模国の御家人を率いて、伊豆を出て相模国の土肥の郷を目指します。『吾妻鏡』はこのときの一行46人の名前を列挙していますが、その中に土屋三郎宗遠の名前があります。
また、石橋山の合戦で破れた頼朝が房州に落ちる物語の、謡曲「七騎落」の中にもその名がありますが、謡曲の中では目立った働きはしていません。
平塚市土屋は緑の濃い丘陵の中に位置し、ここに土屋一族の墓所と、屋敷跡と伝える一角があります。また、この地にある真言宗芳盛寺と天台宗大乗院は、宗遠との関わりを伝えています。
土屋に住む方々は、宗遠をしのび、毎年墓前祭を続けています。私たち、茅ヶ崎郷土会の有志数人でこの墓前祭を訪れたところ、鎌倉時代のもののふ同士の付き合いを再現したかのように、墓前祭に、岡崎や真田をはじめ、各地から大勢の人たちが集まっておられ、私たちは驚いたものでした。
このコーナーでは土屋に残る宗遠の遺跡を紹介します。
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8-01
土屋宗遠(むねとお)の木像(平塚市土屋)
今年、平成29年5月8日、平塚市土屋で相模のもののふの一人、土屋一族の墓前祭が行われると聞いて、茅ヶ崎郷土会の有志数人と出かけた。
場所は神奈川大学の近くだった。まず土屋一族のものと伝えられる墓所で墓前祭が行われ、次に天台宗大乗院に移って供養の法要が行われた。
本堂には写真の土屋三郎宗遠の木像が祭ってあった。いつもは、土屋にある天台宗正蔵院に蔵しているそうである。
一族の墓地に立つ平塚市教育委員会の説明板「土屋の舘跡と土屋一族の墓」に、土屋宗遠について記してあった。
「平安時代後期、中村荘司宗平(なかむらのしょうじむねひら)の三男宗遠は相州土屋の地の領主として舘(やかた)を構えた。土屋宗遠は治承四年(1180)源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府成立に貢献し、その子義清も「随兵役」を勤めるなど、頼朝の厚い信頼を受けた。以来、土屋氏は室町時代の応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで土屋の地を支配した。」
なお、宗平の嫡男は重平(しげひら)、次男は土肥実平(さねひら)、三男が土屋三郎宗遠、四男は二宮友平(ともひら)である。

8-02
土屋の郷を望む
土屋は平塚市の中で最も西に位置し、南は大磯町と二宮町、西は中井町に接している。全体が丘陵地で緑が豊かである。
北側に金目川が流れている。写真は、金目川のほとりから土屋を眺めたものである。
中村宗平が率いた中村荘(なかむらのしょう)は、現在の、中井町中村から小田原市中村原にかけて展開していたと考えられているので、土屋は近いのである。

8-03
土屋一族の墓所(平塚市土屋1167ー44)
二宮町、中井町から続く丘陵が、半島のように北東方向に伸びる先端近くの東側傾斜地の一角に、一族の墓所と伝える所がある。傾斜はかなり急で、下りきった低地を、金目川の支流の座禅川が北に向かって流れている。
墓所は、斜面を段々畑状に、横に長く切り開いて設けられている。鎌倉時代と思われるものもあるが、室町時代の五輪塔や宝篋印塔の残欠が崖にそって並んでいる。
墓地に、「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板があって、
「三郎宗遠は中村宗平の三男として大治三年(1128)、相模国大住郡中村に生まれた。(略)鎌倉幕府樹立に貢献した。幾多の功績を残し、阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建し、又大乗院を再建するなど善行に励み、建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。

8-04
土屋いろはかるた 「土屋一族の墓」
墓地にある平塚市教育委員会の説明板に、「ふるさと土屋いろはかるた」の、五輪塔と墓前祭と土屋氏の舘跡(やかたあと)の三枚の読み札と絵札が印刷してあった。
絵はどれも、子どもたちが描いたものと思われる。
まず、五輪塔かるた。
読み札は「つ」で始まる。 土屋氏の 一族ねむる 五輪塔
絵札の絵は、たくさん並んでいる石塔の中央の比較的大型の五輪塔を描いてある。

8-05
土屋一族の墓前祭
墓前祭を指導されるのは大乗院のご住職。地元で宗遠公を顕彰している会の方々と岡崎、真田、中井など、鎌倉時代の中村党に関係する各地の方々が参加されていた。
中村宗平の子どもたちは各地に散って土着した。また三浦一族から出て岡崎に定着した義実(よしざね)は中村の娘を妻としている。このような関係が、今の時代まで引き継がれているのである。驚いた。

8-06
土屋いろはかるた 「墓前祭」

「く」 供養する 五月八日の墓前祭

8-07
熱心に祈る 茅ヶ崎郷土会の会員
おそらく、土屋三郎宗遠公をしのび、土屋の発展と、我が茅ヶ崎市の進展と、茅ヶ崎郷土会の邁進と、世界の平和と、自らとご一族の安泰と健康を祈っておられたものと思う。

8-08
土屋いろはかるた 「土屋宗遠の館跡」

「も」 武士(もののふ)が 住みし土屋の 館跡(やかたあと)
『新編相模国風土記稿』大住郡糟屋庄土屋村(雄山閣版3巻70頁から)の項に「土屋三郎宗遠居跡 宗憲寺境内なりという、その辺(あたり)の字(あざ)に、下屋敷、屋敷内などの唱えあるのみ、遺形と覚(おぼ)しき所なし」とある。宗憲寺は神仏分離の折に廃寺になっている。
風土記稿にいう宗憲寺はその位置が分からないが、現在は一族の墓所のすぐ下を屋敷跡と伝えている。『平塚と相模の城館』(29頁 平塚市博物館刊)をみても、発掘調査は行われていないようである。
墓所があり、館跡(やかたあと)といわれる一角は、小字(こあざ)を「大庭」と書く。『平塚市郷土誌事典』(91頁)はこれを「おおにわ」と読んでおり、「宗憲寺という寺院があったともいわれている」とする。館(やかた)の庭が地名となって残ったということも考えられるが、発掘調査が待たれるところである。

8-09
土屋いろはかるた 「高神山」

「お」 丘の上 土屋城址の 高神山(こうじんやま)
小字(こあざ)の「大庭」に隣接して「高神山」という小字がある。大庭より一段高くなった平場である。「高神山」は「高陣山とも書くようである。「ふるさと土屋いろはかるた実行委員会」が立てた「土屋城址と高神山(高陣山)」の説明板には
「土屋一族は、鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館(やかた)の裏山一帯を要害として、土屋城(陣地)を築いていたということから、この一帯を高陣山といいます。」とある。
昔は尾根状の地形だったらしいが『平塚と相模の城館』(平塚市博物館)に「尾根は土取り工事によって消滅しており、かつての景観を知る由もない」(29頁)とある。

8-10
天台宗 大乗院 (平塚市土屋200)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項(雄山閣版3巻72頁)には「星光山弘宣寺と号す。天台宗。古碑一基、土屋彌三郎宗遠(ママ)が墓碑と言い伝う」とある。
環境庁と神奈川県連名の説明板には次のように記してあった。
「天台宗延暦寺派の名刹。土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝える。往時は多くの末寺をもつ大寺だったが、建物は第二次大戦(昭和20年)のとき焼失した。再建後の本堂には、瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れて安置されている。相模新西国二十九番観音霊場。」

8-11 土屋いろはかるた
「大乗院」

「れ」 歴史ある 土屋の古刹 大乗院

8-12
大乗院の本堂で土屋一族の供養
墓前祭が終わると、本堂に場所を移して供養の法事が行われた。
法事が終わると懇親会となった。茅ヶ崎から参加した私たち一行も末席に連なった。土屋で宗遠公を顕彰しておられる方々や、各地で、その地のもののふをそれぞれ顕彰しておられる方と話をすることができた。土屋一族の墓前祭は、以前は8月5日に行っていたとのことだった。そう言えば、墓地にあった「宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板には、「建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。かつてタバコの収穫で忙しい時に、5月8日に変えたのだそうだ。5と8を入れ替えて日を定めたのだろうか。
またこの席上で、平塚市真田の「与一顕彰会」の方から、与一公墓前祭が8月23日にあることを聞いたことが、真田にも足を伸ばすきっかけとなったのである。

8-13
宗遠詠む歌と言われているが、実は源実朝の歌

道とほし 腰はふたへにかがまりて 杖にすがりてここまでも来る
歌人であった実朝の歌を集めた『金槐和歌集』にある歌。
「相州の土屋という所に九十歳になるくち法師(朽ち法師)があり、自ら鎌倉まで来て自分と昔語りなどする中に、もう身の立ち居も思うようにならなくなったといい、泣く泣く帰ったときに詠んだ歌」
という前書きのもとに並ぶ五首の歌の中の一首である。
この歌碑が一族の墓所にある。
土屋宗遠が亡くなったという建保6年8月5日の記事は『吾妻鏡』にはない。しかし、90歳まで生きていたというのは本当のことだったようだ。
宗遠に関係する寺社としては、現在も土屋にある芳盛寺を挙げない訳にはいかない。風土記稿は芳盛寺について「土屋山無量寿院と号す、古義真言宗…(略)開基 土屋彌三郎宗遠(ママ) 建保元年(1213)八月五日卒、年九十、法名 阿弥陀寺殿空阿」と記している。宗遠の卒年月日の出典はこれだろうか。
また、『平塚市郷土誌事典』に「宗遠の法名により阿弥陀寺と称したが、大森芳盛の庇護を受け芳盛寺と改めた」とある。

8-14
一族の墓地で、調査と記録に励む茅ヶ崎郷土会の会員
写真は実朝の歌碑の裏面である。歌が作られたいきさつが彫ってある。その内容は前記した。
下調べすること、現地を訪ねること、歩き回ること、汗水を垂らすこと、写すこと、撮すこと、そして書くこと、残すこと。
これは茅ヶ崎郷土会の鉄則である。

8-15
土屋の鎮守 熊野神社 (平塚市土屋227)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項に「村の鎮守なり、神体木像、例祭九月二十九日、神木の杉、回り一丈二尺(3㍍60㌢)、別当持宝院…」とあるが、土屋一族との関係はなにも書かれていない。
この熊野神社は、社殿を飾る彫刻がすばらしい。向拝(ごはい)の水引虹梁(みずひきこうりょう)の上には龍が乗り、菟毛通(うのけとおし)は翼を広げた飛龍、向拝柱(ごはいばしら)などの木鼻(きばな)も龍である。また、屋根の四隅は二重の扇垂木(おうぎたるき)で、これも珍しい。向拝の龍の裏側を子細に眺めたが作者銘は見つけられなかった。一見の価値は十分にある建物である。

8-16
土屋いろはかるた 「熊野神社」

「な」 名高きは 小熊(こおま)に鎮座の お熊さん
「小熊」は「こおま」と読み、熊野神社や大乗院のある地の小字(こあざ)の名である。
このかるたをもって、土屋三郎宗遠ゆかりの土屋の紹介を終わろう。

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (7)岡崎義実・真田与一義忠(平塚市)

横浜市栄区上郷町にある高野山真言宗 證菩提寺(しょうぼだいじ)は、石橋山の戦いの折に戦死した佐奈田 義忠(佐那田・真田とも)の霊を供養するために頼朝が創建したと伝えられています。このことから、この記事の最後に證菩提寺を追加しました。(平成30年7月6日 編集子)


茅ヶ崎郷土会は、平塚市岡崎に岡崎義実の遺跡を訪ね、同真田に真田与一義忠の面影を捜しました。真田義忠は岡崎義実の長男です。岡崎と真田間の距離は近く、義実は実子義忠にすぐ隣の地を支配させたことになります。
もともとこの辺りは相模国の穀倉地帯だったと考えられています。義実が三浦を出て、岡崎の地に居館を構えたのは、この豊穣の地を手中に納めるためだったようです。
しかし岡崎と真田は、その南側にある金目川を挟んで土屋の丘陵地と向かい合っています。その土屋の西側一帯は中村一族が拠点としており、中村宗家の当主、中村宗平(むねひら)は子どもの宗遠(むねとお)を土屋に配置しています。つまり、中村一党が力を及ぼしている地に、三浦から別の勢力が伸びてきたという構図になり、普通には、ここに争いが起こると考えられるところでしょう。しかし、義実、義忠と中村一党との間は穏やかな関係をなし、お互いに姻戚関係も生じています。
真田与一義忠は、石橋山の合戦で初陣を務め、若くして命を落とした話がよく知られています。石橋山古戦場は今は小田原市内ですが、その墓と言われる塚があり、またその霊が祀られています。
一方、平塚市真田にも与一義忠の霊を祀る真誠殿与一堂があり、毎年、与一の慰霊祭が行われています。両方とも、与一は声を発することが出来ずに命を落としたという話を伝え、また平塚真田には、与一の郎党(=家来)で、やはり石橋山で討ち死にした文三家安の子孫と称する家も続いています。
小田原では「佐奈田」と書き、平塚では「真田」と書くようです。このコーナーでは、義実、与一義忠の事跡を、石橋山の合戦も含めて紹介します。
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7-01
岡崎義実の像 (岡崎公民館 平塚市岡崎3634)
平安時代末、相模国には各地に武士団が割拠していた。その中で、岡崎義実を語るに際し触れなければならないのは中村党と三浦一族である。中村党は、相模国西部に勢力を張り、中村宗平(むねひら)の家系を宗家とした。三浦一族は、衣笠城に拠って三浦半島に勢力を張り三浦為継(ためつぐ)の家系を宗家とした。
三浦の家系は為継、義継、義明と続き、義明は頼朝の旗挙げのときに城と共に討ち死にしたことはよく知られている。その義明の弟に四郎義実があった。義実は大住郡岡崎(現平塚市・伊勢原市)に移り岡崎氏の祖となった。中村宗平の女を妻として、中村党各氏とも親密な関係を保ち、頼朝挙兵に参加し、御家人として鎌倉幕府を支えた人物である。真田与一義忠(平塚にくると「真田」と書く)と中村党の土屋氏の婿となった土屋次郎義清はその子どもたちである。
義実の岡崎城跡の一角にある市立岡崎公民館の玄関前に、その像が立っている。公民館の北側の小高い丘陵には平安時代末期(12世紀)の城跡遺跡があり、岡崎義実の居館であったろうとされている。(平塚市博物館平成24年刊 図録『平塚と相模の城館』24頁)

7-02
岡崎神社 (平塚市岡崎3650)
岡崎公民館の北側の丘陵上に岡崎神社がある。神奈川県神社庁のホームページで見ると、岡崎神社は、主祭神を大山咋命(おおやまくいのみこと)としている。
『新編相模国風土記稿』(雄山閣版3巻28頁から)には上・下入山瀬村(いりやませむら)の項に「往古はこの辺を岡崎郷ととなえ、岡崎義実この地に住し…」とある。そして、岡崎郷とは先の2村と馬渡(まわたり)、大句(おおく)、西海地(さいかち)、矢崎(やさき)、大畑(おおはた)の7ヶ村をいうとある。現在の岡崎神社はこれら江戸時代の村のどこにあったものかを考えてみた。
風土記稿、西海地村の山王社の説明に「岡崎郷七村の総鎮守なり」とある。山王社は大山咋神を祭神とするから、現在の岡崎神社と同じである。岡崎神社は、江戸時代の西海地村にあった岡崎郷の総鎮守の山王社ではなかったろうか。さらに風土記稿はこの山王社について、「岡崎四郎義実当社を尊信して霊験を得たり、明応三年(1494)三浦義同(よしあつ)(道寸)造営を加えし由、縁起に見えたり」とも記している。

7-03
岡崎神社から見た富士
岡崎地区の文化財めぐりの下見で岡崎城跡を訪ねたのは今年の1月だった。よく晴れた日だったが、終日冷たい北風が吹いていた。おかげで西の方角には雪を被った富士山がきれいだった。
岡崎城に住んだ岡崎四郎義実も同じ富士を眺めたことだろう。約800年昔のことだが。
このとき私は、四郎義実になったような気がした。

 

7-04
岡崎義実の墓 (平塚市岡崎)
平塚市と伊勢原市が接する地の平塚市分にある。平塚市観光協会の説明板には「天永三年(1112)、三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。正治二年(1200)六月二十一日、八十九歳で鎌倉の由比ヶ浜の自宅で亡くなった。ここにある墓は、長男義忠(真田〈佐奈田〉与一)の乳母吾嬬(あずま)を埋葬した場所へ後から葬ったと伝えられている」とあった。
義実の事跡で触れておきたいのは『吾妻鏡』、1181年(養和元)7月5日の記事。知られているように、石橋山の合戦の折、義実の子、与一義忠の首を取ったのは俣野景久の郎党、長尾新五為宗と新六定景である。合戦が終わって捕らえられた新六定景は義実に預けられていた。この間、定景は熱心な法華経の信者となっていた。その読誦の声を聞いて義実の定景に対する怨念はなくなり、もし定景を誅すれば冥土の義忠に障るといい、頼朝にその許しを請うたところ定景は自由の身になったというものである。

7-05
後期岡崎城 ―三浦道寸義同(よしあつ)の城跡 無量寺―
平塚市と伊勢原市が隣接し、北は小田急小田原線、東は小田原厚木道路、南は鈴川で囲まれた台地上には、平安時代末~鎌倉期と、室町時代末期~戦国時代初期(15~16世紀)にそれぞれ城があった。両方とも地名は岡崎といい、両方の城跡とも岡崎城跡といわれていてまぎらわしいが、二つの城跡の時代はまったく違うのである。
平安・鎌倉時代の城跡は平塚市分に入り、地名はふじみ野、赤坂、宮東で、その間に市立岡崎小学校がある辺りと推定されている。
15~16世紀の城は、平塚市岡崎と伊勢原市岡崎にまたがっており、平安・鎌倉時代の城跡の北側に広がっている。
先に紹介したように前者は岡崎四郎義実の居館跡とされ、時代がそれより下った15~16世紀の後者は、宝治合戦(1247年)で北条氏に滅ぼされた三浦氏の系統を引く三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の居館だったとされている。
平塚市と伊勢原市の境目の伊勢原市分にある浄土宗帰命山無量寺には「岡崎城跡」と掲げてある。これは道寸義同の城を指すものである。

7-06
帰命山無量寺 (伊勢原市岡崎5410)
帰命山無量寺は浄土宗の寺院である。
境内の伊勢原市教育委員会が立てた説明板に次のように記してあった。
「後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城は、明応3年(1494)に三浦道寸〈義同(よしあつ)〉が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意(よしおき)を三浦の新井城へおき、自らは相模岡崎の城に手を加え居城としたものです。
そのころ、関東進出をはかっていた伊勢宗瑞(北条早雲)は、小田原城を奪い相模平定を狙いましたが、堅固な岡崎城にはばまれ、実に17年間にわたりにらみ合いが続きました。(略)しかし、永正9年(1512)8月、伊勢宗瑞の猛攻により、岡崎城はついに攻め落とされました。」

7-07
三浦道寸義同が毎日眺めた大山の山容
三浦道寸義同の城跡からは北西の方向に大山がよく見える。
岡崎城が落ちた後、義同は本拠地の三浦の住吉城に移ってなおも抵抗するが、最後は子、義意(よしおき)の新井城に落ち、籠城3年ののち、1516(永正13)年の落城と共に自刃したと伝えられている。
道寸義同が大山を眺めるとき、その胸あったのは、戦国期の野望だったろうか、転変する世の不安だったろうか。

 

7-08
真田与一義忠の木像
平塚市岡崎の西南の方向に真田という地名がある。『新編相模国風土記稿』糟谷庄真田村(雄山閣版3巻86頁から)には「往昔、岡崎四郎義實の嫡子、与一義忠、この地に居城し、この地の名をもって氏とす」とある。相模の穀倉地帯である当地を、新たに開発しようという三浦一族の計画をもって移り住んだのが岡崎義実である。義実は隣接する真田の地を与一忠義にまかせる一方、地元の武士団である中村党との間に融和的な関係を結んでいった。
前記したように風土記稿は、真田の地を与一義忠の居城としているが、平塚市博物館の『平塚と相模の城館』(平成23年刊)は「今のところ真田義忠に関係する時期の遺構は確認されていない。」(49頁)としている。
写真の与一義忠の木像は、真田の曹洞宗天徳寺に祭られている。

7-09
天徳寺 (平塚市真田一丁目14-1)
『新編相模国風土記稿』真田村の項(雄山閣版3巻86頁)に次の様にある。
「萬種山と号す、曹洞宗、本尊は如意輪観音。義忠の霊を真田明神と祀り、義忠の木像を置く(甲冑像、長さ二尺)。位牌などに義忠が郎党二人の法名を記す。一つは智勝院保得鉄心、治承四庚子八月二十三日、陶山文三事、今に子孫あり。一つは義勝院一夢是迄、治承四八月二十三日、腰巻文六とあり」
「真田与一義忠墓碑、高さ二尺(略)真田與一義忠之墓と彫れり」
先に見た与一の木像は甲冑を着していたので、風土記稿にある與一義忠の像のことと思われる。
この寺の周囲は与一義忠の城跡といわれているが、『平塚と相模の城館』には、天徳寺の周囲にある明確な堀跡は15~16世紀の遺構で伊勢宗瑞(=早雲)のころのものとある。(48頁から)

7-10
真誠殿で与一公大祭
『新編相模国風土記稿』真田村の天徳寺の項に「義忠の霊を真田明神としてまつる」とあった。今、天徳寺の境内には真誠殿(あるいは与一堂)という建物があって与一の霊を祭っている。真田明神は真誠殿の前身と思われる。「与一の郷づくり協議会(与一の会)」が出しているパンフレット『真田の郷』には「真誠殿には墓石と位牌と甲冑姿の義忠の木像が安置され、毎年1月23日と8月23日が大祭である」と書いてある。今年の8月23日に、茅ヶ崎郷土会会員有志はこの祭礼を訪ねた。
祭礼は、夕方から始められた。まず平塚謡曲連合会によって謡曲「真田」が奏され、法要(墓前祭)、「竹灯籠」まつり、「与一神輿」の渡御と行われた。

7-11
与一大祭の与一義忠と文三家安と文六
謡が奏されている間、義忠、文三、文六の三人が甲冑姿で控えていた。
風土記稿には、天徳寺に真田明神があって、与一義忠の像と陶山文三、腰巻文六の位牌があると書いてあった。その位牌には郎党二人の命日があって、8月23日になっていた。『源平盛衰記』『吾妻鏡』などでは文三家安はこの日、石橋山で与一と運命を共にしているが、腰巻文六の名はない。文六の登場は何に基づくものだろうか。

7-12
与一神輿
大祭の場に夕闇が迫ってから与一神輿が登場した。提灯をふんだんに飾った新形式の神輿だった。
パンフレット『真田の郷』には「与一の800年祭を記念して作られた。宵闇の雨の中で死んでいった与一、せめて神輿は明るく照らしてやろうと、提灯を取り付けた万灯神輿。関東一を誇る〈与一甚句〉を歌いながら担ぐ」とある。
神輿の四面には真田与一公、陶山文三公、腰巻文六公の三人の肖像と、与一 俣野五郎景久組み合いの図があった。

7-13
神輿にある与一義忠公の図
与一は石橋山で命を落としたとき25歳だった。
『源平盛衰記』には、戦いを始める前、頼朝が「武蔵、相模に聞ゆる者どもは皆在(あ)りと覚ゆ、中にも大場(ママ)、俣野兄弟、先陣と見えたり。これ等(ら)に誰をか組すべき」といったとある。敵の大将、大庭景親と俣野景久兄弟に先陣切って組み付くものはいないかと聞いたのである。すると岡崎四郎義実が、我が子与一義忠の名をだしたと記してある。
神輿にある絵は、若々しい与一義忠の様子を表している。

7-14
神輿にある陶山文三公の図
文三家安は、真田では「陶山文三家安」といわれている。風土記稿の天徳寺の項の陶山文三を紹介した中に「今に子孫あり」とあった。これは江戸時代のことだが、今も真田には陶山姓を名のる家があって、文三家安の子孫と伝えている。

 

7-15
神輿にある腰巻文六公の図
腰巻文六の名には「六」がつき、文三家安の名には「三」がつく。二人は兄弟とされているのではないだろうか。相模風土記稿の天徳寺の項に「城跡の北に腰巻という字(あざ)(地名)あり」ともある。しかし、腰巻文六は架空の人物のように思えるのである。

 

7-16
神輿にある与一・景久組み討ちの図
組んずほぐれつして、ついに上になった与一が、景久の首を掻かんと刀を取って鞘から抜こうとするが、血糊のために抜けない。このために若い命を落とすことになってしまった。

 

7-17
真田神社 (平塚市真田一丁目4-36)
境内に立つ説明板に、「主祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)、別名 牛頭天王宮(ごずてんのうぐう) 八坂神社、創建年代は不明」とあり、さらに次のような説明が続いている。
「真田与一義忠の郎党 陶山(すやま)文三の子孫が京都の八坂社を勧請したという。この陶山家は代々牛頭天王社の神主を天保十三年まで勤めており これらの所蔵文書を今も保存されております。神仏習合により天徳寺が神社を管理しておりましたが明治元年の神仏分離令により明治五年より 三宮比々多神社が神主を務めております。」
また説明板には、最後の時に声が出なかった与一は、ホオズキの根を煎じて喘息(ぜんそく)を治そうとしていたので、神社の祭礼にはホオヅキ市が立ったとか、高さ5㍍の花崗岩製の鳥居は、「文久癸亥(3年=1863)六月」の年銘と、「石工 大阪炭屋町見かげや(ママ)新三郎」の刻字があり、大阪から船で浦賀、須賀と運び、村送りで届いたものだとも書いてあった。

8-證菩提寺 (横浜市栄区上郷町1864)

2018年7月6日追記
鈴木克洋さんから、コメント欄(下記)にご意見を頂きました。
編集子も2013年8月に證菩提寺を訪ねており、数枚の写真も撮影しておりました。
岡崎義実・真田与一義忠の記事をこのホームページ中に作っているときは、そのことをまったく忘失しておりました。鈴木さんからのコメントをいただき、ハッと気がつきましたので、ここに画像を加えて證菩提寺について追記しておきます。なお、真田与一義忠の表記は、それぞれ参考にした文献の書き方に依りました。

證菩提寺でいただいたパンフレットには、寺の創建について二説が紹介されています。
その一つは、文治5年(1189)という説。
この説は、今は無くなっているが文保2年(1318)に作られたという梵鐘の銘によるというもので、『新編相模風土記稿』(巻之百 鎌倉郡之三十二 證菩提寺の項 雄山閣版は5巻96頁)にその鐘銘が引用してあります。
「文治五年剞劂終功、素律八月供養整儀…」

もう一つは、寺に残る古文書、天文11年(1542)の勧進状によるもので、文治5年に開基し、建物は建久8年(1197)にできたという説です。
この勧進状の文面も『風土記稿』(鐘銘と同頁)に載っています。
「寺則文治五年之開基也、当初右大将頼朝治承四年楯籠于石橋山(佐那田与一義忠の戦死の記述―省略―)…、君感其忠功為被菩提、造阿弥陀三尊建此伽藍、號証菩提寺、建久八年遂供養…」
石橋山の戦いで戦死した与一の忠功に感じてその菩提を弔うために、源頼朝は阿弥陀三尊の伽藍を建て、證菩提寺と号した。それは文治5年に開基し、8年後の建久8年に建物が完成したと読めます。

この二番目の説は、『吾妻鏡』の次の条と共通しています。

建長2年(1250)4月16日の条 證菩提寺の住持が訴えている同寺の修理について、速やかに進めるようにとなった。この寺は右大将家(頼朝)の時に、佐那田余一義忠の菩提を弔うため、建久8年に建立した後、雨露のために損傷していたが、まだ修理ができていなかったという。(『現代語訳吾妻鏡』13巻30頁)

證菩提寺では後者を重要視しておられます。

『吾妻鏡』に證菩提寺が出ている所を調べてみましたところ次のようにありました。
建保3年(1215)5月12日の条 将軍家(源実朝)が證菩提寺に参られた。これは内々のことという。 『現代語訳吾妻鏡』8巻 17頁 吉川弘文館
建保4年(1216)8月24日の条 相州(北條義時)が(実朝の)命により證菩提寺で故佐奈田余一義忠の追善を行われたという。(同書34頁)

岡崎義実の墓と称する五輪塔。最近の作。

 

 

 

 

 

 

 

 

覆い屋に入った五輪塔のそばに室町期の五輪塔・宝篋印塔が散在する。

 

 

 

 

 

 

 

横浜市教育委員会の説明板に、『風土記稿』所載の図がある。

 

 

 

 

 

 

 

また、『風土記稿』には次のようなことも書いてあります。
「寺の後ろの山の上に、大日堂があって岡崎堂とも呼び、弘法大師の作という大師像を祭っている。与一の父、岡崎四郎義実は正治2年(1200)6月21日が命日で、法名を證菩提寺という。命日には法華経の転読が行われている。この大日堂(岡崎堂)は四郎義実の造建であろう。
境内に義実の墳墓があるが詳しいことは分からない。その辺りに五輪塔などが散在している。」

そして、『風土記稿』には義実の墓と伝える図が掲げられており、その図が説明板に転載されているのです。

与一やその父四郎義実の霊を弔うためにこの寺を建てたのなら、平塚市の真田や岡崎に建てるのが筋だと思うのですが、なぜこの地だったのかということについて、パンフレットには次のように書いてありました。
ここが鎌倉の東北―鬼門にあたるからであって、頼朝は当寺を鎌倉の守りとしたのだった

このパンフレットは、重要文化財指定の阿弥陀三尊坐像、寺の本尊で県指定重文指定の阿弥陀如来坐像などのことや、源平盛衰記にある余一義忠戦死の場面、寺の歴史も書いてあって大変参考になるものです。
左の画像は、證菩提寺で発行しているパンフレットです。

 

 

 

 

                                                                               

 

 

〈report & report 平野会員〉
           
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相模のもののふたち (6)土肥実平と石橋山の合戦(湯河原町・小田原市)

相模国の各地に勢力を張っている豪族たちは、平安時代末からさらなる勢力拡大を図って、息子たちを本拠地以外の地におもむかせます。三浦義明は本貫の地を義澄に継がせ、四郎義実を岡崎におきます。また、相模西部に勢力を張っていた豪族の中村宗平(むねひら)は次郎実平を土肥郷に、三郎宗遠を土屋におき、中村党をなしました。このような豪族たちは、頼朝の旗挙げに参加し、御家人となって鎌倉幕府を支えました。
土肥実平は、頼朝の旗挙げのとき、景親に破れて敗走する頼朝のそばを離れず、勝手知ったる土肥郷の山中を案内し逃げ回りました。
『吾妻鏡』、治承4年(1180)8月24日の条は、頼朝が石橋山の合戦で破れ、山中を逃げる様子を詳細に記しています。景親が三千騎を率いて襲いかかる中、付き従う者たちは次第に数を減らし、北条親子をはじめ一党はちりじりになります。そこに突然6人の味方の武士があらわれ、頼朝の元に駆けつけたいと言ったところ、北条時政は「早くそうしろ」と命じます。そして彼らが嶮岨(けんそ)をよじ登って頼朝のそばに着いたとき頼朝は喜びますが、土肥実平が言ったことは「おのおの無事で参上したことは喜ぶべしといえども、これだけの人数を頼朝が率い給わば、この山にお隠しすることは出来ないだろう」と。しかし、それでも同行したいと6人は主張し、頼朝も許しそうだったため、実平はさらに言葉を継ぎます。「今、分かれて逃げることは後のためには大きな幸いとなろう。生き延びて、さらに考えをめぐらせば、ここで破れたことの恥をいずれ晴らすこともできよう」と。
このコーナーでは、土肥実平ゆかりの湯河原町の史跡などや、石橋山合戦の場を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

6-01
実平夫婦の銅像(湯河原町 湯河原駅前)
湯河原駅前に立つ土肥次郎実平夫婦の銅像。像の由来書きには「頼朝旗挙げ800年と土肥会創設50周年を記念して、実平公とその夫人の遺徳を伝えんがため建立した」とある。
甲冑に身を固めた実平の横に控えるのは実平夫人だが、夫人が両手で持つ包みは何か分かりますか?
その答えは弁当。大庭景親に破れた頼朝は、この地を知り尽くした実平の手引きで杉山の山中を逃げ惑う。『源平盛衰記』には、もはや最後と覚悟した頼朝主従が、山中で「小道の地蔵堂」にたどり着き、そこの上人法師に助けられる場面がある。地蔵堂に潜む彼らに実平の女房が、花かごに見せて食い物を運ぶ。「心さかしき土肥次郎が女房は、あじか(容器のこと)に御料(食糧)をかまえ入れ、上にシキミ(植物)を覆い、桶に水を入れて、上人法師の花摘む由にもてなして、忍々に(ひそかに)送りけり」
それにしても銅像ではあるが土肥次郎の女房の、なんと美人であることか。

 

6-02
城願寺とビャクシン (湯河原町城堀252)
曹洞宗、萬年山城願寺は湯河原駅の近くにある。寺のホームページの文章を、途中を省略しながら引用すると、
「約八百数十年前、この地(相模土肥郷)の豪族土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように“萬年山”と号して持仏堂を整えたことからその歴史は始まる。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏の末裔の土肥兵衛入道が再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改めた。やがて土肥氏が失脚し、小田原大森氏の時代になると再び衰退するが、戦国時代に大州梵守〈1525:大永5年卒〉が再興、曹洞宗に改宗し現在に至る。」
参道の石段を登り切ったところにビャクシンが聳えている。国の天然記念物であり、神奈川の名木100選に選ばれている。説明板には「樹高20㍍、胸高周囲6㍍、土肥実平手植えと伝え樹齢推定800年」とある。

6-03
城願寺の土肥一族の墓所 (神奈川県指定史跡)
檀家墓地の奥に土肥一族の墓所と伝えられ、五輪塔、宝篋印塔、層塔などを集めた一角がある。湯河原町と「土肥会」が連名で立てた説明板に次のように記してある。
「五輪塔はどれも銘がなく建立年や施主など不明。中央が実平、向かって左は実平の妻、同右は遠平(長男)、そのさらに右は遠平の妻と伝える。
幕府成立後、実平は広島県三原市の沼田荘に遠平と移住し亡くなった。三原市米山寺にも墓があるが、山形県鶴岡市井岡、静岡県静岡市安養寺、小田原市谷津鳳巣院などにもある。」
また、町教育委員会の説明板には、これらの石塔の中に「嘉元二年(1304)七月銘の五層の層塔、永和元年(1375)六月銘の宝篋印塔がある」と書いてあった。

6-04
土肥祭 武者パレード①
湯河原町では毎年4月第一日曜日に「土肥祭」が行われている。祭りの中心は武者行列で、土肥実平などの武者が所々で名乗りを上げる。今年、土肥祭を訪れ、その様子を撮影してきた。
土肥氏は、相模国西部で平安時代末期から勢力を張った中村党に属した。淘綾郡(ゆるぎぐん)中村荘(現小田原市・中井町)に拠った武士に中村宗平(むねひら)がおり、その子実平(さねひら)は土肥郷で土肥氏を、宗遠(むねとお)は土屋郷(平塚市)で土屋氏を、友平(ともひら)は二宮氏をなした。宗平の女は、三浦一族で岡崎(平塚市)に勢力を張った岡崎義実の妻となった。
また、湯河原町には「土肥会」という団体があって、土肥実平公の事跡を顕彰し後世に伝えるとともに土肥祭の武者行列を全面的に支えている。(土肥会のホームページから)
写真は甲冑武者たちが名乗りを上げているところである。

6-05
土肥祭 武者パレード②
パレードの中で、騎馬武者が二人いた。どちらかが実平で、もう一方は頼朝だろうか。あるいは、実平、遠平の親子だろうか。扮しているのは町長さんと町議会の議長さんではなかろうか。

 

6-06
石橋山古戦場 (小田原市)
1180年(治承4)6月、平清盛は幼い安徳天皇を伴い福原に遷都した。その福原へ9月2日、相模国の大庭三郎景親から早馬をもって報告が届いた。『平家物語』(巻5早馬)に、
「去ぬる八月十七日、伊豆の流人頼朝、舅(しゅうと)北条四郎時政を使わして伊豆の目代兼隆を山木の館(たち)に夜討ちす。その後土肥(次郎実平)、土屋(三郎宗遠)、岡崎(義実)をはじめ伊豆、相模のつわもの三百余騎、頼朝にかたらわて相模国石橋山にたて籠もって候ところに、景親三千余騎を引率(いんぞつ)して押し寄せ攻め候うほどに、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=頼朝)七、八騎に討ちなされ、土肥の杉山に逃げこもり候いぬ。」
写真の向かって右側の斜面の奥が石橋山の古戦場。今はみかん畑が点々とする。

「遠くからみかん畑にときのこえ」 “フーテンの熊”詠む

 

 

6-07
古戦場の碑
みかん畑の一角に「石橋山古戦場」の碑があって「源頼朝挙兵之地」と彫ってあった。『吾妻鏡』8月23日の条に、前日は「夜にいりて甚雨(じんう)いるがごとし」とある。
「今日寅の刻(午前4時ころ)、武衞(頼朝)、北条殿父子、盛長、茂光、実平(土肥)以下三百騎を相率して石橋山に陣したまう。この間、件(くだん)の令旨(りょうじ)(以仁王の令旨)をもって御旗の横上に付けらる。
ここに同国の住人大庭三郎景親、俣野五郎景久…平家被官の輩(やから)三千余騎、精兵を率して同じく石橋山の辺にあり。両陣の間、一谷(ひとたに)を隔つるなり。また伊東祐親(すけちか)法師、三百余騎を率して、武衞の陣の後の山に宿してこれを襲いたてまつらんと欲す。」
頼朝の元に駆けつけた三浦の衆は増水した酒匂川に阻まれた。それを見た景親は、
「すでに黄昏(たそがれ)に臨むといえども合戦を遂ぐべし。明日を期(ご)せば三浦の衆馳せ加わりて定めて喪敗しがたからんか。群議終わりて数千の強兵武衞の陣を襲い攻む。」

6-08
城願寺の七騎堂 (湯河原町)
城願寺の境内に「七騎堂」と呼ぶ六角形の建物がある。説明板には、
「謡曲“七騎落(しちきおち)”は鎌倉武士の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。石橋山で破れ逃げる頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。頼朝は、八騎は不吉として、七騎にせよと土肥実平に命じた。我が子遠平を犠牲にして下船させたが、遠平は和田義盛に救われ、歓喜のあまり宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。七騎堂には七騎の木像が納められている。」
ちなみに七騎とは、謡曲の中では田代信綱、新開荒次郎、土屋三郎宗遠、土佐坊昌俊、土肥次郎実平、岡崎四郎義実と頼朝である。

6-09
佐奈田与一と俣野五郎の一騎打ち (小田原市石橋山)
石橋山合戦の山場は、頼朝の敗走と佐奈田与一義忠の最後を語る場面である。『源平盛衰記』は与一落命時を「弓手(ゆんで)は海 妻手(めて)は山、暗さは暗し雨はいにいで降る、道は狭し」と書く。景親の平家軍と対峙した頼朝から「今日の軍(いくさ)、先陣つかまつれ」といわれて、与一義忠は、景親かその弟俣野五郎景久を倒そうと思って捜す折、暗い中で組みついてきた岡部弥次郎を討つ。その後、狙うところの五郎景久と出会う。両者馬から落ち、組み合ったまま上になり下になり転び回る。ようやく景久を組み伏せて、その首を掻かんと郎党の文三家安を呼ぶが、文三は遠くにいて声が届かない。そこに景久の家来長尾新五が来て「どちらが敵か味方か」と問う。ばれるのを恐れた与一は信吾を蹴飛ばし、その隙に景久を突こうとするが、岡部を討ったときの血糊が災いして刀が鞘から抜けない。そして長尾新五と新六兄弟のために首をとられる。文三家安も敵方の稲毛三郎の郎党に倒される。
写真の浮世絵は平塚市真田の天徳寺境内に立つ説明板の複写。鞘から抜けない刀を持つ与一を描いている。

6-10
ねじり畑 (小田原市石橋山)
みかん畑に立つ標柱に「佐奈田与一義忠 討死(うちじに)の地」とある。この畑はどういう訳か「ねじり畑」と呼ばれている。何でもない、横に細長い段々畑で、みかんが植えてあって、訪れたときはまだ若い実がたくさんついていた。
与一を祭神とする佐奈田霊社の説明板に「ねじり畑は与一が組み討ちしたところと伝えられ、この畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる」とある。上になり下になって組み討ちしたことの連想から「ねじり畑」といわれるようになったのだろうか。『新編相模国風土記稿』早川庄石橋村の項(雄山閣版2巻143頁)には「ねじが畑 義忠、景久を組み伏せしところという」とある。

6-11
佐奈田霊社の与一塚 (小田原市石橋420)
石橋山古戦場はかなり広い範囲を指すものと思われる。古戦場の碑の近くに佐奈田霊社があり、境内に「与一塚」がある。「石橋山古戦場と佐奈田霊社」という説明板には「与一討ち死にの地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた」とある。
『吾妻鏡』によると、1190年(建久元)1月15日、頼朝は伊豆山權現(現熱海市の伊豆山神社)と箱根權現(箱根神社)を参拝する二所詣(にしょもうで)に出立した。そして鎌倉に帰着した20日の記事の中に次のようにある。
「路次石橋山において、佐奈田與一、豊三(ママ)らが墳墓を見、御落涙数行に及ぶ。件(くだん)の両人、治承合戦(石橋山の合戦)の時御敵のために命を奪われおわんぬ。今、さらにその哀傷を思(おぼ)しめし出さるるが故なり。」
今の与一塚が、頼朝が詣った与一の墓だったのだろうか。

6-12
佐奈田霊社の全景
写真の佐奈田霊社の建物はどう見ても寺院の作りである。小田原版タウンニュースのホームページに「佐奈田霊社は寶壽寺が管理している」とあった。宝寿寺は石橋の集落の中にあり、佐奈田霊社は古戦場の近くにある。宝寿寺は『新編相模国風土記稿』足柄下郡石橋村の項(雄山閣版2巻142頁)に「石王山地蔵院、古義真言宗、天正15年建、本尊不動、寺宝に與一義忠の肖像一軸あり」とあった。そして、風土記稿には宝寿寺の記事の次に
「佐奈田與一義忠墳」の記事が「熱海道の側より石段四十二段を登り、丘上に老椙樹あり。丘は圍(まわり)一丈八尺、高さ六丈。是を與一塚と呼ぶ。樹前に碑あり。長さ六尺、幅二尺。佐奈田與一義忠墓 治承四庚子八月二十三夜、と題す。こは稲葉美濃守正則の臣、田辺権大夫信吉建つるところ也。碑上に覆屋を設く」
とある。要するに、江戸時代には宝寿寺が石橋山山中の与一塚を管理していて、塚の上の覆い屋がその後、佐奈田霊社になったのだろう。

6-13
佐奈田霊社の効能書き
『源平盛衰記』に、与一は組み討ちの時、大声で文三家安を呼んだのだが、郎党たちは遠くにいて来ることができなかったとある。しかし、今に伝わる話では、のどに痰がからんで呼ぶことが出来ずに敵に命を奪われたという。
痰がからんで不幸がもたらされたというのに、お詣りすれば「ぜんそく・せき・のど」の病気に効くというのは逆なことのようにも思えるが、社前にはその効能が書いてあった。

6-14
江戸消防の奉納額
境内には江戸消防が奉納した石碑がたくさん立っており、また社殿には奉納額が掛かっていた。江戸消防組は鳶職の人たちから構成されていて、催し事のときに木遣りを歌うので、いい声がでるようにと願をかけるのだといわれている。

 

6-15
文三堂入口
主人の与一が討たれたところに、敵方稲毛三郎重成が文三家安の前に出て言うようには「己(おのれ)が主の与一は討たれぬ、今は誰がおまえを使おうぞ、逃げよ、助けん」と。しかし文三家安は「幼少より組んで戦うことは習えども、逃げ隠れすることは知らず。逃げよと宣(の)たまわらんより、組んで戦え」と叫んで敵方に突入し、8人を討ち取ったのちに討ち死にした。『源平盛衰記』の一節である。
その文三家安を祭る文三堂も石橋山古戦場の中にある。

6-16
文三堂
文三堂はささやかな建物だった。820年前、頼朝が詣でて涙を流したというのはここのことだろうか。

 

 

6-17
目印を刻んだ石
小田原から真鶴にかけて良質の石材が取れる。箱根火山の溶岩が固まった安山岩だそうである。最上のものを小松石といい、江戸城を建設するときも大量に運ばれた。
石橋山の古戦場を歩いているとき、道ばたに転がる大きな石に模様のようなものが刻んであった。所有者を表す印だと思う。運ぼうとしたが何らかの理由で置いておかれたものではなかろうか。

 

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (5)梶原景時(寒川町)

源氏と平家の争いが一ノ谷、壇ノ浦と所を移し、次第に平家方が退却していく中、義経と梶原景時の確執も激烈さを増していきました。この二人の確執は次第に頼朝と義経の対決に発展します。
平家が壇ノ浦で壊滅したあとの文治元年(1185)4月21日、九州から、源平合戦の次第を報告する景時の書状が鎌倉に到着したと『吾妻鏡』は記しています。その中に「御家人たちはともに頼朝を仰いで戦ったのに、判官殿は自分のための戦いと思っている。それを諫めた自分は罰を受けかねない有様だった」と訴えました。この頼朝への報告が、後に景時の讒言(ざんげん)の一つと数えられるのです。
正治元年(1199)1月、頼朝が亡くなり、新将軍に頼家が任じられました。その年の十月、結城朝光が「忠臣は二君につかえず」といったことを景時が頼家に伝えたことが、景時の讒訴(ざんそ)だと解され、景時排斥の動きが始まりました。12月18日、ついに鎌倉を追い出され一宮(ママ)(寒川町)に退きました。そして鎌倉の屋敷は破却されました。その後景時は一宮で急遽、防戦体制を整えましたが、年が改まり正治2年1月19日の夜、子息などを伴い、「ひそかに逃れ出ず」と20日の条にあります。「これ謀反を企て上洛するの聞こえあり」と。そして駿河国清見関(現静岡県静岡市)で待ち構えていた者たちによって、景時は子どもたちとともに命を落としました。
梶原景時に関する『吾妻鏡』の記事は、景時を策謀に長けた人物として、特に強調して描いているように思えます。作為を感じるのです。寒川町の隣の茅ヶ崎に住む者としては、実に残念です。そのような悲劇のもののふ、梶原景時の遺跡を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

5-01
景時舘跡(寒川町一之宮八丁目6-6)

梶原景時の一之宮の舘は、『吾妻鏡』に、景時の悲劇の始まりの場面で出てくる。正治元年(1199)年1月13日、頼朝が亡くなる。結城朝光が口をすべらせたことを、景時が将軍頼家に密告したので朝光は誅されるという話が御家人間に広まった。同年10月のことである。朝光に同情する御家人たちは「また景時の讒言(ざんげん)か」と、舌打ちしながら景時糾弾の連判状を将軍に差し出した。連判状に目を通した頼家は、これを景時に渡し、「申し開きがあったら述べよ」という。そしてその翌日11月13日の条を『吾妻鏡』は次のように記している。
「梶原平三景時、かの訴状を下し給わるといえども陳謝に能わず(申し開きをしなかった)。子息親類などを相率して相模国一宮(ママ)に下向す。」
また、『新編相模国風土記稿』高座郡一之宮村(雄山閣版3巻296頁)の項には「梶原景時城跡 村の西方大山道のかたわらにあり、陸田二段八畝あまり、(景時の)屋敷内ととなう。その他の所を城の下ととなう。」とある。

5-02
舘跡の天満宮
館の跡といっても土地の高さは大山道とあまり変わらない。入口から入って奥の方に小さなお社の天満宮が祭ってある。舘跡にある、寒川町教育委員会が立てた説明板には次のように記してあった。
「天満宮の位置は梶原景時舘跡の一角で、当時(景時の時代)は物見(ものみ)の場所として一段高く構築したとも伝えられています。(略)物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。」

5-03
昭和3年撮影の天満宮の辺り
昭和3年に撮影したという天満宮辺りの風景写真が、現地の説明板に掲げてあった。現在の地形とどのように重なるのか、またその方角なども分からないが、小高くなっていたことは分かる。

5-04
景時舘跡の発掘調査
居館跡の遺跡名称は「梶原氏館址遺跡」となっている。寒川町のホームページには、この遺跡の説明が次のように掲載されている。
「梶原氏館址(かじわらしやかたあと)遺跡は、相模川左岸から1kmほど離れた氾濫平野から、自然堤防にあたる低地に立地していて、標高は7~8メートルほどです。平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した武将梶原景時の館があったと伝承されています。
平成13年に数カ所学術調査が実施され、中近世の溝や堀などは確認されたものの、直接梶原景時につながる遺構は確認されませんでした。」
平成13年に行われた発掘調査の結果を表す図が舘跡に示してあった。写真はその写しである。説明板にあるように、この発掘図から屋敷跡を読み取るのは困難である。

5-05
梶原景時木像
舘跡にある「梶原景時と一之宮舘跡」という説明板に景時の木像が掲げてある。写真はその複写画像である。烏帽子を被り、右手に笏を持つ写実的な像だが、制作されたのは古いことではないように見える。
「東京・馬込 萬福寺蔵」とあるので萬福寺をネットで調べてみた。東京都大田区南馬込一丁目49-1がその住所だった。
寺のホームページの「寺の概要」に次のようにあった。
「曹洞宗寺院である萬福寺は慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応二年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。天文三年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いています。本尊は阿弥陀三尊を祀っております。」
景時を開基としているからその像を祭っていても不思議はないが、像の説明はない。なお、本尊は善光寺式阿弥陀三尊だそうである。

5-06
梶原景季(かじわらかげすえ)と箙(えびら)の梅
舘跡に、板状の石に「箙(えびら)の梅」と題し、甲冑姿の武人と横を向く女性を描いた不思議な絵がある。
絵の下にある説明文を読むと、武人は梶原源太景季(かげすえ)とあるが、女性については何も記していない。景季は、ここにあった舘の主、景時の長男である。景季は源氏軍が平家群を追い詰めた一ノ谷の合戦の折、花を付けた梅の枝を自分の箙(えびら)(矢を入れて背負う道具)に差して戦った。この事が以後、物語となり、演劇となり、画題となった。舘跡の近くにある一之宮八幡大神の屋台の彫刻の絵柄ともなっており、この不思議な絵は、その屋台の彫刻を写したものと、説明文に書いてある。

5-07
伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
御影石の築石壇(つきいしだん)の上に並んでいる石塔は、江戸時代のものもあるが、室町時代末期(16世紀後半)の五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の各部である。地元ではこれらを「梶原一族の郎党(七士)の墓」と称している。そばに立ててある説明板に次のように記してあった。
「次のような言い伝えがある。正治二年(1200)、景時一族と郎党が一宮(ママ)の舘を出発し上洛の途中、清見関(きよみがせき)(静岡市清水区)で討ち死にしてしまったので、舘の留守居役だった家族、家臣等が弔(とむら)った。また、景時親子が討ち死にしてから景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七士が、鎌倉に来て主人の復権と所領安堵を願ったが許されず、その場で自害したのでそれを祭ったもの。」

5-08
建長寺三門(山門)で行われる施餓鬼会 (鎌倉市山ノ内8)
毎年7月15日に行われるという建長寺の施餓鬼会の折に梶原景時の霊の供養も一緒に催されると聞いて、撮影するために出かけた。
施餓鬼会に、なぜ景時の霊の供養が加わったのかが知りたくて、建長寺の公式ホームページを見てみたが触れられていない。
施餓鬼会は朝8時から三門(山門)で始められた。

5-09
施餓鬼会の読経
机に位牌を3基据えて、生花、果物を供え、香を焚いて読経が始まった。僧侶は30人ほどおられただろうか。
卓上に据えてある3基の位牌を望遠レンズで覗いてみたが、江戸時代の年号があり、どこかの僧侶の位牌のようだった。景時の位牌が出ているのか期待したが、はずれた。
施餓鬼会とは、餓鬼となって六道輪廻で苦しんでいる霊を供養する儀式である。

5-10
施餓鬼会の精霊棚(しょうりょうだな)
お盆には、家庭で、帰ってこられるご先祖の霊(オショロさん=お精霊さん)を祭る。このとき、先祖の霊は屋内の盆棚で祭り、祭り手がない餓鬼は、盆棚の下や、屋外で祭る。神奈川県では、屋敷の入口に砂や土を小さく盛って、その上にキュウリやナスで作った馬を置き、少しばかりの供え物をして、これを「砂盛り」とか「塚」といっている。これは餓鬼を供養する屋外の盆棚と解される。
建長寺では三門から10メートルほど離れたところに棚を組んで、そこに大きな位牌のようなもの1基を据え、供え物がしてあった。施餓鬼供養はこの棚に向かって行われていた。

5-11
精霊棚の位牌
施餓鬼棚にある位牌のようなものの近接画像である。表側に「六道四生三界萬霊有縁無縁」と書いてあった。
「六道四生」とは餓鬼道・地獄道・畜生道・修羅道・人間道・天道にある、時間を越えた全ての生き物という意味、「三界萬霊」とは、これも仏教で説く時間を越えた全ての世界にある霊という意味、「有縁無縁」も仏教に縁あって救われている人、縁なくて救われていない人、つまり時間を越えた全ての人という意味で、煎じ詰めれば、無機質のものを除く全てのものという意味だろう。
この位牌状のものに向かって、全ての霊的存在を仏教の救いにすくい取るというのが建長寺の施餓鬼供養であるらしい。

5-12
梶原施餓鬼と瀬名の梶原会
『新編鎌倉志』建長寺山門の項に梶原施餓鬼のことが出ている(雄山閣版6巻48頁)。開山在世の時、一人の武者が来て、すでに施餓鬼会が終わったのを見て落胆する。僧が理由を聞くと「自分は梶原景時の霊だが、施餓鬼会に間に合わなくて残念」というので、もう一度景時のために施餓鬼会を行ったという話である。般若心経を梵音(梵字の発音で)で称しながら行道すると書いてある。この日も参加の大勢の僧侶によってこの行道が行われた。今も梶原施餓鬼は行われているのである。
瀬名梶原会の方々が大勢見えていた。静岡市に梶原山という丘陵があり、梶原一族終焉の地といわれている。梶原会は、景時の顕彰と梶原山の清掃などを行っているそうである。

5-13
施餓鬼会に響く国宝の梵鐘の音
建長寺の梵鐘は国宝に指定されている。説明板によると、1255年(建長7)に鋳造されたとある。建長寺は1253年(建長5)創建で、開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。この梵鐘は、寺の開設とほぼ同時に作られたものである。
鎌倉時代の梵鐘が、施餓鬼供養の始まる前に、鎌倉時代の音色を重低音で響かせた。私は生まれて始めて、鎌倉時代の音を直(じか)に聞いたのである。760年間ほどの間に、数え切れない人たちが、この鎌倉時代の鐘の音を聞いている。私もその数え切れない人たちの一人に加わったのだ。

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相模のもののふたち (4)和田義盛(三浦市・横須賀市)


頼朝存命のころから、粛清されて命を失うもののふは多かったのですが、頼朝が建久10年(=正治元年 1199)1月に亡くなってからも止むことはありませんでした。頼朝没後すぐに梶原景時が滅せられました。
同年10月27日、鎌倉幕府の有力な御家人の一人、結城朝光は、景時の讒訴(ざんそ)によって窮地に立たされたと、朋友の三浦義村に訴えました。この訴えを聞いた義村は、「およそ文治(1185年から)このかた、景時の讒訴によって命を失い、職を失った輩はあげて数うべからず。世のため君のため、景時を退治せずんばあるべからず」と、和田義盛と安達盛長を呼んで相談をかけました。呼ばれた両人は、「それなら連署状を草して訴えるべし」と、時をおかず書状をつくって、66人の同意を得、大江広元を介して将軍頼家に提出の手はずをとりました。しかし逡巡した広元がすぐに渡さなかったため、義盛は御所で広元と同席した折に、「かの状をきっと頼家に披露するのか、ご気色いかん」と詰め寄ります。「義盛、眼を怒(いか)らして…」と『吾妻鏡』にあります。
この一件の結果、梶原一族は命を落とすのですが、三浦義村と和田義盛は同族です。また、この二人に同意して、鶴岡の廻廊に群集し連署状に署名した66人の中には、北条一族の時政と義時の名はありません。筋書きを作り、朝光、義村、義盛を動かして景時を亡き者にした誰かが事件の裏にいたのではないかという説があるのもおかしくはないと思われます。
人の話に乗り、武力一辺倒で押し進む義盛の性格が見えるようです。しかし、このような人物であったからか、今も人気は高いようです。三浦半島には義盛に関する伝説が多く伝わっています。このコーナーでは、そのようなことも含めて義盛の遺跡を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

4-01 和田義盛旧里碑(三浦市初声(はっせ)町和田)
人によって違うだろうが、三浦一族の中ですぐに思い浮かぶのは三浦宗家の義明とその孫、和田義盛である。義明の長男で鎌倉の杉本に居館を構えた義宗の子が義盛、義宗の弟義澄の子が義村、いとこ同士の義盛と義村は後に悲劇の対決をなす。
義盛は現在の初声(はっせ)町和田を領し和田姓を名のった。武勇に優れていたが直情径行の性ありと言われている。頼朝のもとで侍所(さむらいどころ)別当(=長官)に任ぜられ、頼朝亡き後は頼家、実朝に仕えた。次第に北条氏と対立し1213年(建保元)に一族は滅ぼされた。この戦の折、義村は義盛を無視したのである。
和田の八雲神社の境内に「和田義盛旧里碑」が立っており、三浦市が建てた説明板に次のようにあった。
「一族が滅んだとき義盛67歳、この碑は義盛の在所と思われるこの地にその武勇をたたえて大正10年に建立された。」

4-02 和田の郷 八雲神社(三浦市初声町和田)
三浦一族の旧跡を回る下見の日は終日雨が降っていた。神社の説明板「天王様(八雲神社)由来の記」には次のように記してあった。
「祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)(行疫開運の神)
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)といい和田の郷の鎮守。本宮は貞享四年(1687)、藤原朝臣 大井甚五左衛門の勧請と伝えられる。」

4-03 神明白旗神社(三浦市初声町和田1746)
急な石段を登った小高いところにあって、和田の郷を広く見下ろすことができる。境内の説明板に次のようにあった。
「祭神 天照大神 和田義盛
神明社が白旗神社に合祀され、「神明白旗神社」と呼ぶ。和田義盛一族が鎌倉の和田塚に自刃した後、弘長三(1263)年、和田の郷民が社殿を設け白旗神社として祭ってきた。白旗の名は平家討伐に大勝した義盛が、紅白の幟を立て八幡社に報告したことによる。また戦勝の舞「初声」を舞ったことから初声町の名が付いた。『新編相模風土記稿』に、ご神体は義盛の銅像、本地仏は和田党九十三騎の守護仏だが、八体しかないとある。」

4-04 神明白旗神社の庚申塔群
先に横須賀市衣笠町の大善寺と上矢部の満昌寺の山門前にある庚申塔群を見てきたが、ここ神明白旗神社にもたくさんの庚申塔があった。
神社に登る石段の下にあり、ここを訪ねた日は春の陽がさんさんと降り注ぐ気持ちのいい日だった。庚申塔群の前の若草に腰を下ろし、食べた弁当はほんとうに美味しかった。こういうとき、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりに参加して良かったなぁーと思う。

4-05 浄楽寺入口(横須賀市芦名二丁目30-5)
金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺が正式名称。浄土宗、鎌倉光明寺末。
今まで見てきた和田の郷は三浦市の北端に位置するが、市境を北に越えると横須賀市長井になる。国道134号に沿ってさらに北に進み太田和を過ぎると芦名で浄楽寺がある。この辺りは電車が無くて、私たちは逗子駅前から延々とバスに乗った。
参道の奥に見える瓦屋根が浄楽寺の本堂。浄楽寺発行のパンフレットに次のように記してあった。
「『新編相模国風土記稿』にこの寺はもともと和田義盛が建立した阿弥陀堂であったが、その後、光明寺の二世寂恵が寺に入り中興したとある。寂恵は鎌倉後期の僧侶で、芦名に浄楽寺を開いたことは光明寺資料でもあきらか。」
見学の申込みをせずに訪問したのだが、来意を告げたところ、「本堂に上がってお詣りしても良いですよ」とありがたいお言葉をいただいた。そこで一同は、ご本尊様に世界の平和と自らの往生を祈った。

4-06 浄楽寺の扁額 「勝長寿院」
浄楽寺の本堂の扁額は「勝長寿院」と書いてあって、また浄楽寺の院号は「勝長寿院」である。扁額は古くはなさそうだから、院号を文字にしたのかも知れないが、勝長寿院と言えば、源頼朝が父 義朝の菩提を弔うために鎌倉の大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)(現・神奈川県鎌倉市雪ノ下)に建てた寺院の名として有名である。頼朝建立の寺と、浄楽寺の院号が同じなのは偶然なのだろうか。
境内に立つ「横須賀風物百選」の「浄楽寺阿弥陀三尊像」の説明板に、
「寺伝によれば、文治元年(1185)に源頼朝が、父義朝の霊を弔うため、鎌倉の大御堂ヶ谷に勝長寿院を建てたが、建永元年(1206)にその寺が大風で破損したため、北条政子と和田義盛が、そこの本尊をここに移したと伝えています。」
とある。
しかし、この寺伝は伝説であるらしい。それにしても規模の大きな伝説であることか。なぜこのような話が伝わっているのか、たいへん興味を覚えるのである。

4-07 薬師如来と不動尊のお開帳の案内札
浄楽寺には、運慶の作と断定されている木造薬師三尊像と木造不動明王立像、木造毘沙門天立像の五体の仏像がある。三浦薬師如来第十五番の薬師と、三浦不動尊第二十番の不動尊も一緒に、本堂裏手の小高いところにある収蔵庫に祭られていて、毎年4月から5月にかけて御開帳が行われている。
写真の立て札はその期間中に境内に立てられていた案内板である。三浦薬師と三浦不動尊のお開帳に併せて収蔵庫が公開されるが、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりとは日取りが合わなかった。運慶作の五体の仏像を是非とも拝観したいと、後日独自に訪れた。

4-08 運慶作の仏像を納める収蔵庫
運慶作の阿弥陀三尊像と不動明王像、毘沙門天像はもちろん国指定の重要文化財である。国指定の文化財は、どこでも木造の本堂などから移されて、不燃構造の特別収蔵庫内に納められている。収蔵庫内は撮影が禁じられていた。その画像は「おおくすエコミュージアムの会」が発行している『三浦一族と和田義盛』という印刷物に掲載されている。
今年9月26日から東京国立博物館で、運慶が手がけた作品を一同に集めた特別展が開かれる。その記事が9月19日の朝日新聞に大きく取り上げられていて、浄楽寺の五体の像もカラーで印刷してあった。
運慶仏については、浄楽寺のパンフレットに次のようにあった。
「昭和三十四年に毘沙門天の胎内から「文治五年(1189)己酉三月廿日庚戌/大願主平義盛芳緑小野氏/大仏師興福寺相応院勾当運慶小仏師十人」(「芳緑小野氏」は義盛の妻)とある銘札が見つかり、造立は義盛の発願と判明した。静岡県伊豆の国市の北条時政ゆかりの願成就院にも運慶作の阿弥陀如来、不動・二童子、毘沙門天像があるが、浄楽寺の運慶仏は義盛の、時政への対抗心からの発願とも解される。」

4-09 浄楽寺境内にある無縁塔
お寺を回っていると、絶家などで祀り手を失った墓塔や供養塔を集めた無縁塚にしばしば出会う。
浄楽寺にもそれがあって、てっぺんに江戸時代の宝篋印塔、その下にぐるりと地蔵や観音菩薩、如来の像塔、その下に江戸初期の供養塔、最下段に江戸後半期以降の比較的新しい墓石がピラミッドのように積んであった。
祀り手を失ったとは言え無縁塚は宝の山である。墓塔、供養塔の形態変化は死者供養信仰の時代変化を表すものであり、また江戸初期の年銘を持つそれらは村の開発者を知る手がかりになるからである。この無縁塚の中にも寛文年銘の古い供養塔がいくつかあった。

4-10 浄楽寺と前島密(まえじまひそか)
国道に面した参道入口に、青銅製で変わった形でありながら実用されている郵便ポストがあり、その上に前島密の胸像が設置されていた。また、本堂裏手の小高い所にある寺の墓地には前島の墓がある。
4-06で紹介した「横須賀風物百選」の説明板に「収蔵庫前を進んだところに、わが国近代郵便制度の創始者前島密翁の墓があります。翁は、晩年をこの浄楽寺境内で送りましたが、大正八年四月二十七日、八十五歳でその生涯を閉じました。」と記してあった。浄楽寺のホームページに「明治四十四年、密は浄楽寺の境内の一部を借り受け別邸を設け隠居した。」とあるが、どういう理由で浄楽寺境内に住むようになったのかについては触れられていない。

4-11 浄楽寺前の朝市
茅ヶ崎郷土会が浄楽寺を訪れたのは平成29年3月25日の土曜日だった。浄楽寺の参道入口の脇に広場があって朝市が開かれていた。浄楽寺の拝観のあと、次の見学地に向かうバスを待つ間、朝市をのぞいた。地元産の野菜や、産地は不明だが丸ごと姿のままの魚類が並んでいた。自家製たくあん漬けや野菜を買う会員があったが、たくさん入った夏みかんを一袋購入して、一日重い思いをした人もあった。
茅ヶ崎郷土会の史跡文化財巡りは実に楽しい。

4-12 薬王寺跡(横須賀市指定史跡) (横須賀市大矢部1-13)
衣笠城に近い横須賀市大矢部にも和田義盛の遺跡がある。薬王寺跡は通りから細道をしばらく入ったところで見つけにくい。細道の突き当たりに義盛の叔父の三浦義澄の墓といわれる石塔があり、横須賀市教育委員会の説明板があった。
「薬王寺は仏頂山と号し、建暦二年(1212)、和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うために創建したものと伝えられるが、明治九年頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。」
この説明板の文章は理解しにくい。薬王寺は義盛の創建になるが、「もとの本堂跡」から、何時の頃かここに移ってきて、明治9年に廃寺となったと読むのだろうか。義盛創建という説が何に基づくのかの説明はないが、各地にある義盛伝説の一つではなかろうか。各地に伝説を生むほど義盛は人気者なのだ。特に三浦半島では。

4-13 伝 三浦義澄供養塔(薬王寺跡) (横須賀市指定史跡)
瓦塀に囲まれた一角の中央に大ぶりの凝灰岩製の方形石が積んである。三浦荒次郎義澄の墓と伝えられている。説明板に「最下石の四方には胎蔵界(たいぞうかい)の種子(しゅじ)が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿(うが)たれている」とある。
一番下の石は独立しているが、その上にある二重に重なった石は一石のように見える。その上に置かれているのは混入した宝篋印塔である。三段に積まれた石は、三浦半島に多い凝灰岩製の五輪塔の一部のようにも見えるが、元の形を推測しがたい不思議な石塔である。
なお、この一角を瓦塀で囲んだしつらえは、満昌寺境内の、伝 三浦義明廟所のしつらえと同じである。ここ薬王寺跡も満昌寺の管理下にあるのだろう。

4-14 薬王寺跡にある小型の五輪塔・宝篋印塔
三浦義澄の墓と伝えられる石塔の両脇にたくさん置かれている。このような石塔は茅ヶ崎市内にも各所にある。室町時代の後半期のものと考えられるので、もとより和田義盛、三浦義澄の時代のものではない。
説明板には「これらの石塔群は当地出土の元応二年(1320)年銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である」とあった。
先に紹介した満昌寺の宝物館(御霊神社社殿を兼ねる)に、2基の板碑が展示されている。満昌寺の説明板には「石造双式板碑 元応二年庚申二月日在銘 一方は弥陀三尊種子、他方は釈迦三尊種子、形も年銘も同じで、薬王寺旧跡のやぐらにあったもの」と記されていた。

4-15 天養院 (初声町和田1669)
三浦市が寺の境内に建てた説明板に次のようにあった。
「本尊の薬師像は義盛の身代わり薬師といわれていて、和田合戦の折、総身に負傷した義盛が痛さを思わず、一同は不思議な思いをした。そのとき、この薬師像が顔から胸に傷を負い、血潮が流れたという。寺には建暦三年(1213)銘の義盛の位牌と言われるものがあって「筌竜院殿前左衛門尉義盛安楽大居士」の銘がある。
平安時代中期、11世紀ころの作と推定。『風土記稿』には、義盛が舘の鬼門守護に建てたと伝える安楽寺の本尊とある。安楽寺が廃寺になって天養院に移された。」
この薬師三尊は神奈川県指定重要文化財になっている。


4-16 新井城址から望む油壺の入り江 (三浦市三崎町小網代)
新井城があった地は、江戸時代の地名を荒井といい、相模湾に突き出た小さな半島である。北は網代湾、南は油壺の入り江で、三方を海で囲まれており、城を築くには最適の地だったといわれている。
この半島の中の、南寄りの所に新井城はあった。今はやぶの中である。城跡の近くから見下ろすとすぐ下に油壺の入り江が見える。たくさんのボートなどが係留してあった。この地に建ててある説明板には次のように書かれていた。
「新井城を最後の居城として立てこもった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦したがついに永正13年(1516)に破れた。一族の将三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、将兵も討ち死にまたは油壺湾に投身した。そのために湾内が血汐で染まり、油を流したようになったことから油壺の名が付けられた。」

4-17 三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の供養塔へ (同所)
三浦義同は出家して道寸と名のった戦国時代の武将である。茅ヶ崎郷土会の平成28年度史跡めぐりは鎌倉時代のもののふをテーマにしたから、義同(よしあつ)は時代が違うが、三浦半島を根城にした鎌倉時代の名族、三浦一族の最後の当主ゆかりの地を訪ねることにした。
宝治合戦(1247年)に敗れた三浦氏のあとは同族の佐原氏が継ぐ。それから250年ほどたって世は戦国時代の初期。義同は扇谷上杉氏から新井城主の三浦時高の養子に入るが、養父たちとの間に問題を生み、結局三浦氏を乗っ取り、自らは岡崎城(平塚市)に拠り、新井城には子の義意(よしおき)を置いて小田原の北条早雲と敵対した。1512(永正9)年、早雲に追われ岡崎城を捨てて新井城に入る。籠城の末、1516(永正13)年に滅亡した。
写真の細道の突き当たりの石塔が道寸義同の墓といわれ、
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ
は辞世の句とされている。

photo & report 平野会員


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