こんにちは! 花たち 2020.03.20 花たちの発芽

茅ヶ崎市芹沢から、近所や庭先に現れる草花を紹介します。

2020年3月20日(金)晴  
オドリコソウ・クサボケ・クマガイソウ・トリカブト・ムサシアブミ・ヤブカンゾウ・ノカンゾウ・ハッカクレン

ここ数日、陽ざしたっぷりの日が続いています。
いろいろの植物たちが芽を出し始めました。
中には、数日前から花を付けているものもありますが。

オドリコソウ
クサボケ
野にあるものは刈り払われて、根本にしか花を見ませんが、ほっぽっておかれると叢生します  
素朴な形と色の花は、園芸種にない良さを持っています    
クマガイソウ発芽 
トリカブトの発芽
猛毒を持つと言われています。
トリカブトの花はこちら
ムサシアブミ
ノカンゾウとヤブカンゾウの若芽
画面左側の細い葉がノカンゾウ
右側のずんぐりむっくりがヤブカンゾウ
花が咲けば、そこにも違いがあります 
ヤブカンゾウの花〉〈ノカンゾウの花
芽を出したばかりのハッカクレン
数えてみれば七つですが、名は八角蓮 

photo & report 石乃治蔵

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南湖の恵比寿湯、閉店 2020.03.09

南湖の公衆浴場「恵比寿湯」が令和2年3月5日をもって閉店した。

『南湖郷土誌』(資料館叢書11 1995年3月 茅ヶ崎市文化資料館編集)の101頁に次のように掲載されている。

「 恵比寿湯 南湖仲町 創業者は鈴木熊次郎 明治後期創業 」

この記事を元に計算すると百年以上続いたお風呂屋ということになる。

私が記事と写真を送ると、掲載担当のこのHPの管理者も、若い頃に南湖に住んで、恵比寿湯に通っていたと言っていた。
数え切れないほどの人が、ここの湯を浴みたことだろう。

入口のシャッターが閉じられて、閉店を告げる表示がしてあった。

photo&report 尾高会員 

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南湖と浜見平から富士山 2020.03.06

世界的な新型コロナウィルスの感染者蔓延のために、茅ヶ崎市民も蟄居を余儀なくされている。
私たちの茅ヶ崎郷土会も3月中の事業をすべて中止。
換気の悪い密室空間で人と近接するのはあぶない、とのメッセージを受けて、それなら広いおもてなら良かろうと、天気も良いし、散歩に出かけた。
見上げると、富士山が、そんな私たちを見下ろしていた。

南湖院跡地の「南湖院太陽の里庭園」から眺めた富士山
手前の黒いフェンスで覆われている建物は国の有形文化財に登録されている「第一病舎-竹子室」
今年の1月25日に、郷土会の史跡・文化財めぐりで訪れたとき、外壁の塗装がいたんでいると感じたので、その修復工事が行われているのだろう
浜見平団地の一角からながめた富士山
この団地も建て替え工事が進んで、この写真には写っていないが、見違えるようになった
久しぶりに訪れた人はびっくりすることだろう

「今年の1月25日に南湖院太陽の里庭園を訪れたのは…」はこちらをクリックすると見ることができます。

photo&eport 尾高会員 


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茅ケ崎の野鳥たち 南部の海辺編 (41)コサギ

茅ヶ崎の南西部(主に柳島の海岸)で見かけた野鳥たちをアイウエオ順に紹介しています。 生態の説明文の一部は『ぱっと見分け観察を楽しむ 野鳥図鑑』(ナツメ社刊)から引用しました。    【杉山 全】

頭から後ろに延びている長い冠羽(かんう)は繁殖期にあらわれる。

一般にはシラサギと呼ばれ、水辺でよく見かける。
真っ白な姿はたいへん目立ち、きれいだ。
水田から海岸までさまざまな環境に生息する。
同じサギ科のほかの種とともに「サギ山」と呼ばれる集団繁殖地をつくる。
水辺で、静止して足を震わせるように細かく動かし、物かげから獲物を追いだして捕食する。
また、それとは対照的にひたすら走り回りながら、機敏に動いて獲物を捕食する狩も見られる。
チュウサギ
ダイサギ

くちばしは黒く、足の指が黄色い
じっとたたずんで餌をさがす
飲み込んでいるのはコノシロらしい
小出川で仲間と一緒に餌をさがす

photo&report 杉山会員
撮影場所 柳島の海岸 および 小出川

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茅ヶ崎の野鳥たち―南部の海辺編― 目次へ
茅ヶ崎の野鳥たち―北部の丘陵編― 目次へ
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第297回 その-2 茅ヶ崎市(柳島から南湖) 南湖下町住吉神社から同仲町八雲神社まで 2020年01月25日〈土〉

297回 その-1柳島から南湖編の続編です。

南湖

南湖は上町、仲町、下町、茶屋町、鳥井戸の5 集落(チョウナイという)からなり、一口に「南湖、カミ ナカ シモ チャ トリ」といいます。東海道沿いを茶屋町、それより南に下って西側を鳥井戸、東側を上町、この南隣に仲町があり、さらに南が下町で海に続いています。
現在の南湖1丁目から6丁目に当たります。
五チョウナイごとに氏神を祭っています。茶屋町は社殿はないが大神宮、鳥井戸は御霊神社、上町は金刀比羅神社、仲町は八雲神社、下町は住吉神社です。

⑤南湖下町 住吉神社

南湖5-5-1

大鳥居の向かって左にある石祠が八大龍王

『相模国風土記稿』の茅ヶ崎村の項に「十羅刹女堂」とあるのが住吉神社の前身と思われます。
同書に、先に紹介した柳島村は「十羅刹女社 鎮守なり」とあり、隣同士の村で記述が似ているのは不思議な感じがします。 この2社は、明治の神仏分離令を受けて、南湖は住吉神社に、柳島は八幡宮になりました。
資料館叢書11『南湖郷土誌』(1995年文化資料館刊)には「明治初期に下町の石黒政五郎などが大坂市住吉区の住吉大社から分霊をいただき祭った」とあります。
祭神は、住吉大社と同じで住吉大神(日本書紀の表記で底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。神功皇后が三韓を攻めるときに加護した神で、勧請元の住吉大社では、この三神と神功皇后を主祭神としています。
南湖住吉神社の例大祭は3月3日です。この日に大祭を行う神社は希で、どのような理由なのか知りたいところです。ちなみに住吉大社の例大祭は7月です。

住吉神社の説明は、「まるごと博物館の会」の石黒進さんにお願いしました。
石黒さんは、説明の中で「神仏分離に遇い、鬼子母神を祭る十羅刹女堂をやめて、大坂の住吉大社を勧請した石黒政五郎は自分の先祖だ」と言っておられました。漁師町南湖だから海に関係する住吉大社を勧請したのだそうです。

大坂市住吉区の住吉大社

住吉大社で撮影した写真。拝殿が並んでいるが、手前が神功皇后を祭る第四本宮、その向こうは表筒男命を祭る第三本宮。
住吉大社の祭神と御神徳が書いてある

社殿彫刻

神社拝殿の向拝(ごはい)にある彫刻は、祭神に関係する絵柄が多いものです。
ところが、住吉神社のそれは何を表しているのか分かりません。
向かって左側の龍にまたがる男神は竜宮の龍王でしょう。
右側に2体の女神が見えます。上側の女神は右手で顔を覆い、左手の先に何かを持っていてその先を龍がつかんでいます。
下側の女神は左手で何か丸いものが入った容器を持ち、右手でそれを男神に捧げようとしている風です。
住吉の三神は航海安全の神で、神功皇后が三韓を攻めるときに加護しますが、古事記・日本書紀では龍神や女神に関係する場面はありません。
「八幡愚童訓」(岩波思想体系20『寺社縁起』収録)という古い文献に、神功皇后が三韓を攻めるときに住吉大明神が現れて「南の海に住むシャガラ龍王から旱珠(かんじゅ)と満珠(まんじゅ)という珠(たま)を借りて敵を攻めよ。珠を借りるために、アズミノイソラ(女神)を道案内にして皇后の妹のトヨヒメを龍王のもとに差し向けると良い」と助言する場面があります。
彫刻の龍王はシャガラ龍王、二人の女神はトヨヒメとアズミノイソラではないかと考えたのですが、まだ、しっくりしません。(「郷土ちがさき」139号 アズミノイソラ―南湖下町住吉神社―
別の解釈をご存じの方は、是非ともご教示ください。

サイノカミ

数十年前、村々で昔のことを聞き書きするとき、「道祖神がありますか?」と聞くと「サイノカミ(セーノカミとも)のことかね?」といわれることがしばしばでした。
最近は「サイノカミは?」と聞くと、「道祖神のことか」といわれます。
住吉神社では、社殿の、向かって左奥に祭ってあります。
銘は 右側面に「下講中」、左側面に「嘉永六年正月吉日」とあります。嘉永6六年は1853年、「下講中」は下町のことです。

八大龍王の石祠と石碑

広い境内の南の端、大鳥居の脇に八大龍王がまつってあります。中央に石祠型、その脇に石柱型があります。 石祠型が元からあったところに、平成24年(2012)に、南湖四丁目の海岸にあった2基の内の1基を移したものです。
石祠型には銘はありません。 海岸から移された石柱型には右側面に「慶応□歳」(1865~68)、正面に「八大龍王」と刻されています。
茅ヶ崎市内の八大龍王は「竜宮様」と呼ばれ、豊漁の神として6カ所に7基祭られていますが、最も古いのは浜須賀海岸にある元治元年(1864)銘のもの、石柱型の慶応年間はそれに次いで2番目です。
『南湖郷土誌』132頁には「竜宮様の例祭は1月、9月の11日で、昔は神楽が奉納された。現在は(注 この本が出版された1995年ころ)1月は住吉神社で、9月は海岸の碑の前で漁業協同組合役員、漁民の代表者が参列して行われる」と書かれています。しかし、南湖四丁目の海岸にあった2基は今はありませんので、祭礼はここだけで催されているものと思われます。

⑥南湖仲町 八雲神社

南湖4-4-29

『新編相模国風土記稿』茅ヶ崎村の項に「天王社」とあるものが八雲神社と思われます。 江戸時代に「天王社」だったのが「八雲神社」に変わったのは、明治時代の神仏判然令で神仏が習合している社寺が禁止されたためです。牛頭天王を祭っていた天王社がスサノオノミコトを祭る八雲神社に変わりました。
この天王社は、元は、南湖茶屋町の脇本陣をつとめていた重田氏江戸屋の屋敷神を移して祭り始めたという話が伝わっています。
資料館叢書4山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』(1978年市文化資料館刊)119頁に次のように記してあります。
「八雲神社の元は茶屋町の江戸屋の屋敷神だった。昔、浜降祭には浜之郷の鶴嶺八幡社の神輿を、まず浜之郷で担ぎ出し、次に南湖で担ぎ、終わると浜之郷に戻して宮入していた。ある年、南湖からの返却が遅れて宮入できず浜之郷が怒った。江戸屋が中に入って詫びをいれ、自宅の屋敷神を仲町に移して祭り、仲町でも神輿を作った。その後、上町、下町でも神輿を造り、鶴嶺八幡の神輿を担ぐことはなくなった。これは江戸屋のおかげであるからと、浜降祭の翌日の朝に南湖の者たちは神輿を担いでお礼に行っていた。今では役員が揃って挨拶に行くだけになった。」
八雲神社と江戸屋との関係は、南湖だけの浜降祭といわれる「御幣祭り」でも見ることができます。 昭和の初期まで、早朝に行われる浜降祭に参加した南湖のチョウナイの神輿は、その日の午后、再び揃って海岸に出て、2回目の浜降りをしていました。その際、五町内を回って海に向かったのですが、まず茶屋町の重田家に寄って神事を行う決まりでした。しかし、あるとき神輿同士の争いがあって、再度の浜降りは仲町八雲神社のお御魂だけが巡幸するように変わりましたが、「御幣詣り」は今も続けられています。


社殿彫刻 スサノオのオロチ退治

『南湖郷土誌』129頁に
「関東大震災のときに本殿を除き倒壊し、昭和5年から3ヶ年計画で復興し、昭和8年(1933)3月に完成した」とあります。
拝殿向拝にある彫刻はこのとき作られたことになります。
社殿彫刻は祭神に関する絵柄が多いと先に書きましたように、スサノオノミコトのオロチ退治です。スサノオの後ろで「アレー」と叫んでいるのはクシナダヒメです。オロチに呑まれるところをスサノオに助けられました。

社殿には見事な鳥の彫刻もあります。(茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』15号2011年―オロチを退治する神と種類不明の鳥の彫刻―八雲神社 を参照して下さい。同館のHPで見ることができます。)

サイノカミと金神風神の碑

「〆金神 風神 両社 昭和九年四月祭ル」(1934年)と刻されています。
金神は陰陽道で、この神がいる方位に向かって行うとは凶事とされています。それに「〆」が付いていますからその凶をシャットアウトするという意味が込められているのかも知れません。
茅ヶ崎では作例が少なく、高田の熊野神社境内に年銘なしの「太白金星大金神」と彫った碑があるのみです。(資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏3松林地区』2020年2月市文化資料館刊 151頁)
もう一方の風神は陰陽道から来ているとは限らず、いろいろな意味を持つので、なぜこの両神が一緒に祭られているのかは分かりません。
『南湖郷土誌』131頁には「元は近くの伴田の坂を登った所(注 つまり高いところ)にあったものを移した。子供がはしかににかかると湯掛けという儀式をして、儀式に使ったサンダワラボッチをこの石仏に備えた」と書いてあります。

サイノカミ

嘉永4年銘の双体像
年銘不明の単身像

サイノカミ(道祖神)は境内に2基祭ってあります。
双体像には、右側面に「嘉永四辛亥 仲町氏子中」、左側面に「上町 正月吉日 再立氏子中」とあります。1851年に仲町と上町とで作り直して建てたものであることが分かります。
そのすぐ横に、ほとんど摩滅した単身像があり、銘は「二月十四日」とだけやっと読む事ができます。
茅ヶ崎では単身像が先に出現し、双体像はその後ですから単身像が傷んだので双体像を作ったと考えられます。
先に見た下町住吉神社のサイノカミに「嘉永六年(1853) 下講中」とありましたから、江戸時代末期には上・中・下のチョウナイが成立していたことになります。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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