茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (039)オオヨシキリ

夏になると ギョギョシ ギョギョシ と騒がしく鳴く鳥の声が聞こえてきたものです。
休耕田か、あるいは放置された田だったのか、ヨシが密生していました。
オオヨシキリの鳴き声でした。
今は埋め立てられて畑になっています。
そこを通るたびに、あの鳴き声をなつかしく思い出すのです。(編集子 芹沢七十郎)

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎(編集子)

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大岡越前守忠相公 遺跡写真展を開催

2024年4月20日と21日の土・日曜日、茅ヶ崎市民文化会館で大岡忠相公にまつわる写真展を開きました。
69回目になる「大岡越前祭」に参加しておこなったものです。

 テレビドラマで南町奉行の越前守忠相を見ることができたころは、その名前を多くの人が知っていましたが、最近は忠相公がどのような人かを知らない人が増えました。
子ども達に聞くと知らない子が多くなりました。

展示場の様子

大岡家の祖 大岡忠政は、天正18年(1590)に徳川家康の一家臣として三河国(愛知県)から家康とともに関東に移りました。

その翌年、高座郡の堤村(現在 茅ヶ崎市堤)と大曲村(寒川町大曲)を領地として家康からあてがわれました。

忠政は、堤村にあった浄見寺を菩提寺とし、出身地の岡崎に眠っていた、父忠勝の墓石を浄見寺に移しました。

今に続く浄見寺の墓地には大岡家一族の墓石が約60基並んでいます。

この中には、大岡越前守忠相の墓石もあります。

忠政の子 忠行は堤村を、忠行の弟の忠世は大曲村を、同じく弟の忠吉は高田村(茅ヶ崎市)をあてがわれ、それぞれ一家を構えました。

掛け軸は「宝とするところ、惟(これ)賢なり」と読む。忠相公の直筆を複製したもの。

忠相は忠世の孫にあたります。
8代将軍の徳川吉宗に見いだされ、江戸町奉行や寺社奉行となり、晩年には所領を増やし、一万石の石高を得て大名になりました。江戸時代きっての出世頭と言われています。
小石川養生所の開設、町火消し制度の整備、救荒食物としてサツマイモの普及、酒匂川の治水対策などに功績を残しています。

時は流れて、忠相は生前の功績を再認され、大正元年(1912)に「従四位」の位を追贈されました。その翌年の3月9日、当時は小出村の一部だった堤の浄見寺で「贈位報告祭」が盛大に行われました。これが今に続く大岡越前祭の第一回に数えられています。

写真展に展示した写真は、茅ヶ崎郷土会の先輩諸氏が撮影した貴重な資料です。忠相公の遺品や出身地の岡崎の各地などが写されています。

文化会館の横の中央公園では産業フェアーが行なわれてました。

photo&report 平野

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茅ヶ崎の野鳥たち  (044) ツミ

2月14日に野鳥のツミのメスに会いました。
バレンタインだからか、胸の模様がハートでした。(笑)
場所は、堤と芹沢のあたりです。
   (朝戸夕子)

というメールに、ツミの画像が添付されて編集子に送られてきました。

ツミのメス

野鳥のことは何も知らない編集子は、ツミという名も、いわんやその姿など見たこともなかったのですが、胸から腹に掛けての羽毛の様子をハート型といい、虎の皮のような横線の模様がメス鳥の特徴なのだそうです。

Wikipediaには次のように書かれていました。抜粋して転記します。
ツミを漢字で書くと「雀鷹」で、「雀」は小さい鳥という意味で、「タカ目タカ科ハイタカ属に分類される猛禽類」なのだそうです。他のネット情報には「最も小型の猛禽類」とも書かれています。
昔は鷹狩りで使われたようです。

〇平地から山地の森林に生息する。単独もしくはペアで生活する。

〇食性は動物食で、主に小型鳥類を食べるが、爬虫類、小形哺乳類、昆虫なども食べる。

〇針葉樹の樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り、4-6月に1回に2-5個の卵を産む。抱卵期間は約30日。雛は孵化から約30日で巣立つ。

〇都市部では緑化に伴い、繁殖例も増加している。しかし開発による生息地の破壊により生息数は減少している。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎(編集子)

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