思い出の茅ヶ崎 森上義孝の世界

森上義孝さん
昭和17年(1942)生まれ。少年時代から茅ヶ崎市で過ごし、生物好きになる。
1965年、多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。在日米医療本部生物研究所で標本画のイラストレーションを描く。1969年からフリー。動物図鑑や出版・広告のイラストレーションを手がける。
月刊『BE―PAL』誌で人気連載だった「ウイークエンド・ナチュラリスト」の図版を10年にわたり描く。毎年出るカレンダーは今も人気アイテム。イラスト作品に『絵本版ファーブルこんちゅう記』『ヤイロチョウ』『微生物が森を育てる』などがある。
朝日広告賞、全国カレンダー展通産大臣賞ほかを受賞。
茅ヶ崎の自然環境を守る保護活動に貢献。「茅ヶ崎野外自然史博物館」の代表(初代館長)を務めたこともある。

ここに紹介する絵は、ネイチャー・アーティストの森上義孝さんが、昭和20年代から30年代の茅ヶ崎を描いた水彩画で、自身の目を通して写された風景です。その頃は自然があふれていた茅ヶ崎を想像しながらご鑑賞ください。今後も順次このサイトで掲載していきます。
                   2023年1月 茅ヶ崎郷土会

(01) 松尾川

画像をクリックすると大きな画面に変わります。

昭和20年代後半~30年代中期(1950~1961)の風景。
現在の浜見平の住宅街の建設前の松尾川の様子。
住宅建設と同時に三面コンクリート製の雑排水路となった。以前はJR東海道本線に架かる小さなガード(鉄橋)の下を通り、水田地帯の中を流れ、水田をうるおしつつ、やがて小出川に合流していた。
川筋の両側に広がる豊かな水田や流れに、フナや小型のコイ、クチボソ(モツゴ)、ドジョウ、ウナギ、ナマズなどの魚たちの良き棲息場所でもあり、水生生物の宝庫であった。
水生昆虫も豊富であった。ゲンゴロウ、タガメ、ミズカマキリが、すくうタモによく入った。夏の夜、夜釣りに行くとヘイケボタルもあちこちに飛んでいた。

絵 森上義孝
文 森上義孝

関東大震災前には、北方向から流れ下る小出川と東方向から来る千ノ川が下町屋で合流し、東海道本線の鉄橋下を流れ下って、名を「松尾川」と変え、南湖と松尾・柳島の間を南流して、最後は相模川河口に落ちていた。
掲げた地図は、古い流れがわかるものを用いたので、森上さんの絵の時代とは違っている。
関東大震災で相模川河口付近の土地が隆起したため、松尾川は出口を失った。松尾川を相模川に落とすために、小出川・千ノ川の川の合流点あたりから、南西方向に流れを変える工事が行われた。そのために松尾川は流れを失っていく。今は細い流れとなって、その大部分は暗渠になっている。
流路を変える工事は徐々に進められたようで、昭和30年代はじめの地図では、流れが細くなった松尾川が描かれている。
森上さんの絵には柳島の水田が広がり、その向こうに松尾の集落がが描かれている。この水田は現在は浜見平団地になった。
水量を保った松尾川の終わりの頃の様子と思われる。
(平野文明会員)

現在の松尾川の残存部分
暗渠になっている松尾川

(写真 名取龍彦会員)

思い出の茅ヶ崎 森上義孝の世界 目次へ 
茅ヶ崎いろいろ 目次へ 
フロントページへ 

第301回 その-2 茅ヶ崎市(市内の大山道を歩く 室田の永昌寺からさぎ茶屋まで)2022.7.9

室田の永昌寺からサギ茶屋跡まで

令和4年7月9日(土)晴
暑い中でしたが、茅ヶ崎市室田から円蔵まで歩きました。
市内を横断する田村通り大山道の一部分です。
令和3年12月11日に行った第299回 史跡・文化財巡り「市内の大山道を歩く-その1」に引き続きその2回目でした。

(1) 曹洞宗 龍澤山永昌寺 室田一丁目15-44

向かって左にある高木はモッコクで、樹齢200年と言われている。

茅ヶ崎駅前北口の神奈中バスの北口4番乗場から茅ヶ崎市立病院経由藤沢駅北口行に乗り、バス停の室田一丁目で降りるとすぐのところにある。

お寺では文禄元年(1592)の創建と伝えている。
室田三郎景正の邸址と言われていて、明治12年『皇国地誌村誌』室田村の項には,
慶長年間(1596~1615)、僧長厳これを開基創建す。この境地(境内地のこと)は、在昔、室田三郎景正の邸地なりしという。景正は大庭三郎景親の臣なり
とある。しかし、室田三郎景正なる人については資料が少ない。

所蔵されている五輪塔と蔵骨器

永昌寺には室田三郎景正の墓と伝える五輪塔が、墓地の一角にまつられている。
かつては本堂の脇にあって、工事で掘ったところ、五輪塔の下から骨壺が出土したそうである。
その後、墓地に移された。五輪塔は地輪を欠き、宝篋印塔の基礎を代わりにしているが鎌倉~南北朝期の様式で、りっぱな形を保っている。
骨壺も鎌倉期の常滑の壺で、決まり通りに口縁部を欠いていて、中に詰まっていたという骨片も保存されている。破損した壺の陶片がもう一個体分と、櫛目のある陶片一片もある。
室田三郎景正の名、および「大場三郎景親の臣」とあるのには疑念を感じるが、「皇国地誌村誌」の記事は空論ではないのかも知れない。

山門前の石仏

門前に2基の庚申塔と地蔵菩薩1基がある。村内の別の場所から移されたものと思われる。
2基の庚申塔は造立年に40年の差があるが、造立者名が違っているので、室田村には二組の庚申講中があったのであろう。
弘化5年銘塔の青面金剛像は邪鬼を踏んでおり、市内で邪鬼を踏む塔はこの塔のみである。また、2像ともショケラ(青面金剛に髪をつかまれている女性)が刻まれている。

 

(2) 八王子神社

八王子神社では、立派な社殿と幕末明治期の偉人、山岡鉄舟の書を彫りつけた手水石が見所である。

三重になっている垂木で支えられた屋根は、翼を開いた鳳(おおとり)を思わせる。
元は、寒川町一之宮の日野屋(入沢家)の屋敷神の社殿であって、昭和36年の屋根替えの時、棟札が発見されたと地元に伝わっていたと『茅ヶ崎 歴史見てある記』(17頁)に載っている。

彫刻も見事である。しかし作者は分からない。

向かって左側脇障子の下り龍
向拝の唐破風の龍
向かって右側脇障子の登り龍

山岡鉄舟の書を彫った手水石

向かって右端に大きく彫られた「龍」、その横に「日献四/海水」、左端に「正四位山岡鐵舟書」と落款があり、
右側面に「當邨/氏子中」
左側面に「明治十九年(1886)/戌十一月吉辰/喜捨主/浦賀/鈴木彌曽八」
背面に「片瀬邨/石工/秋元為義」とある。

日に四海の水を献ず」と読む。龍に向かって献じるという意味だろう。火防の呪いである。

『茅ヶ崎歴史見てある記』(17頁)に
この「龍」の字の原書は、当村山本忠義氏宅にある。喜捨主として名を出している浦賀 鈴木氏は、山岡家出入りの魚屋だった。当村の山本家はその鈴木家の妻の実家である。
と記されている。

(3) 妙行寺 松林三丁目5-5

次の見学は、近くの日蓮宗妙行寺を計画したが、本堂が建て替え工事中だったために割愛した。
妙行寺には、徳川家康の孫娘で、鳥取藩主池田光仲の夫人だった芳心院が看経仏(かんきんぶつ)としていた御祖師像があると『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』と略記)室田村の項に記されている。

(4) 松林村役場跡と松林村由石碑

今回見学しているあたりは明治時代には松林村だった。妙行寺にその役場が置かれていた。
妙行寺の前を南北に通る道路は、南に行けば東海道、北に進めば大山道の二つの主要道路を結んでいた。この道路が大山道に接する所(妙行寺のすぐ北側)に松林村に関する二つの石碑がある。

黒い碑は「松林村の由来」(平成19年4月建立)
グレーの碑は「松林村役場跡」の碑
現在の大山道
向こうが東で藤沢方面

「松林村の由来」碑には次のように書いてあった。「/」は改行。
松林村の由来/この前をとおる大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの/近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。/赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であっ/た。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたこ/とでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合/併を重ねていった。/明治二十二年(一八八九)赤羽根を始め、室田・菱沼・小和田・高田・/甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が/建築され、村長に水越良介氏(後に茅ヶ崎町長・神奈川県会議員を歴/任)が就任した。/明治四十一年、松林村・鶴峰村・茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町が出来る/までの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。/昭和二十二年市制が施行された当時の茅ケ崎市の五万余の人口も、市制/六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中/核的都市となりました。/大山街道に沿って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふる/さと的農村風景も次第に失われつつあります。

(5) 神明大神の大ケヤキ

神明大神の参道は大山道から北に延びて、新湘南バイパスを歩道橋で越え、その先に社殿が南向きにある。
参道の入り口に、樹齢四百年と伝えられる大ケヤキがある。

(6) 赤羽根の鎮守 神明大神(しんめいおおかみ) 赤羽根468

大山道が村境となっていて、その北側が赤羽根、南側は菱沼、室田、高田である。
『風土記稿』赤羽根村の項には次のように記されている。

神明宮
鎮守なり、陸奥守義家(源義家)の建立と伝う。
慶安二年(1649)、社領六石の御朱印を賜う。
元和中の棟札あり<元和七年(1621)辛酉九月十七日相州田倉郡大庭庄赤羽根郷本願満蔵寺と記す>。別当 満蔵寺。

『風土記稿』の文中にある棟札は、元和7年(1621)のものをはじめとして、ネズミに食われて年銘不明が1点、一番新しい昭和35年までのものが21点で、全部で23点残っている。(『文化資料館調査研究報告』11に掲載の川代三千雄「赤羽根神明大神所蔵の棟札調査報告」参照)

 

コロナウイルスが収まらない中、狛犬もマスクをしていた。

(7) 水道みち

『地名が語る赤羽根のむかし』(32頁)に次のように書いてある。

この道は昭和10年(1935)に水道管を通し、さらに昭和37年(1962)には県企業庁が湘南東配水本管(1800㎜)を増設した。その際、相模川左岸用水路(左岸用水)に橋を架けて通行できるようになった道である。この水道管は寒川浄水場から鎌倉・逗子まで送水しており、松林公民館近くで再び大山道に入る。

(8) 長屋門のある水越家

大ケヤキのそばの長屋門のある家が水越家。この辺りから西は昔の大山道の面影が残っている。
この水越家について、茅ヶ崎郷土会が刊行した塩原富男著『ふるさとの歴史散歩』(52頁)に次のように書いてある。要点を転記しておく。

水越家は代々高田村の名主であった。明治中期から昭和初期にかけて、地方自治に貢献し、地道な地方政治家として知られる水越良介(文久元1861~昭和10年1934)の生家である。
良介は耕余塾(こうよじゅく)に学んだ後、地元の小学校の教師になった。明治15年(1882)、21歳で赤羽根村他三か村の組合村の戸長に押されてから地方自治に携わり、のち、松林村々長、高座郡会議員、神奈川県会議員をつとめ、大正9年(1922)に茅ヶ崎町長に就任した。当時、学校改革に端を発し、町政が紛乱していたが、この解決に努力、町政を安定させた。また俳人としても知られた。

(9) 真言宗 赤羽根山安楽院満蔵寺跡

赤羽根の神明大神の別当寺だった満蔵寺は神仏分離の時に廃寺になって今は無い。
明治12年『興国地誌村誌』(『地誌集成』67頁)赤羽根村の鎮守の項には、このときのことを次のように書いてある。( )は注記。

明治4年辛未、神仏混淆の禁止の命を遵奉し、別当満蔵寺復飾(還俗)して祠司(神主)となり、その寺を廃し<満蔵寺の境内は神明大神の社地の東にあり、畑地とす、その本尊および法器(仏具)は本山たる円蔵寺へ移転す。

神明大神の参道の西側に、満蔵寺住職から還俗し神官になった杉崎家の墓地と、古い墓石が並ぶ一角がある。古墓石は満蔵寺の墓地だったのかも知れない。



そこに杉崎鳥花添田啞蝉坊(あぜんぼう)の句碑がある。『地名が語る赤羽根のむかし』(54頁)に、

杉崎鳥花(鍋之進)はかつて、現在の神明大神の神職であり、花降庵善明(中赤羽根の竹花永蔵)に師事した俳人で、啞蝉坊とは特に親しかった。唖蝉坊(本名、添田平吉)は明治中期の思想家で、我が国演歌師の祖といわれる。大磯町小磯の出身で母と妻は菱沼の人である。鳥居脇の大きな自然石には二人の句が刻まれている。
 鳥花の句
春風やいそがぬ人のそでを吹く 茅村かく


 風人唖蝉坊の句
密会のかなしみを泣く蛍かな   吐蒙書


茅村は書家。高田出身で町長水越良介の孫。本名を水越咲七といい、高橋竹村に師事した。竹村門下の三羽烏と称され、照心書道会会長を務め、市内をはじめ各地の碑文などを揮毫した。また、前衛書道の第一人者であり、上田桑鳩にも師事し、小学校校長も勤めた。
吐蒙は、唖蝉坊の長男で本名添田知道のことである。父の唖蝉坊とともに〈さつき生〉の筆名で演歌の作詞作曲演奏を経て昭和二年(1927)より文筆生活を送る。俳人でもあり、雅号の一つに〈吐蒙〉を用いた(塩原富男著「茅ヶ崎の記念碑 補遺(その一)」『文化資料館調査研究報告』(2)1994年より一部抜粋)

とある。

⑩ タヌキ塚

新湘南バイパスの側道に沿って、茅ヶ崎市消防署松林出張所(赤羽根338-1)がある。
その近所にお住まいの城田さんの屋敷の中に、タヌキを祭る祠(ほこら)がありタヌキ塚と呼ばれている。

祠の横に、「狸塚」と彫った石碑もあった。
祠にはお札が納めてあり、のぞいてみるとお札の全体は見えないが、
[ ]照覧 / [ ]宮狸大明神堂一宇 / [ ]上證明 (/は改行、[ ]は読めない文字)
の文字があった。
石碑と祠の間には板塔婆が建っていて、種子で「キャ カ ラ バ ア [  ]アーンク(胎蔵界大日如来種子)」と、その下に
為坂田家御狸大明神威光倍増也 施主 城田立範[ ]
と墨書してあった。

茅ヶ崎この狸塚にまつわる伝説があり、いくつかの冊子で紹介されているが、比較的古い記録は茅ヶ崎郷土会が昭和32年12月15日に発行した『郷土茅ヶ崎 研究資料第』4集 に庄司隆玄氏が投稿した「山僧のコレクション」という文章の中に掲載されている。転記すると…

狸塚の伝説については今まで度々聞いていたが、果たしてどこにあるのか判らぬまゝであった。
たまたま祠を新造し狸大明神幟一対新調して、御豊楽をたのまれたのが今年一月、下赤羽根 城田辰五郎氏の屋敷の東北に「無明塚」大正二年建立の碑があった。
ある日主人がこの塚を掃除しながら周囲を掘り返した。すると間もなく病みつき、はかばかしくゆかぬまゝに易者に見てもらうと「正しく狸塚のたゝり、これを祀らば御家繁昌疑いなし」のおもむき、そこで御豊楽となった次第。
そもそも狸塚の由来は、今は昔、赤羽根満蔵寺という真言宗の寺があった。付近一帯では深いヤブで、こゝに歳経た雄狸が住みついていた。たまたま住職が尼さんであったところから、狸公、毎晩美人に化けトントンと庫裏の戸をたゝく。
どうもあやしいと考えた尼さん一策を思いつき、いろりの中に石をいけて待つことしばし、例の如くトントンと戸をたたくので招じ入れ、「お前が真実の狸なればその金玉を八畳敷きに広げてみよ」と云えば、負けぬ気の狸公ついうかうかと広げ始めた。
尼さんここぞとばかりに、手早くいろりの中から焼石を拾い上げ衣の袖にて投げつければ、狸は熱い熱いと悲鳴をあげつつ退散した。
夜が明けて尼さん竹ヤブをたずねれば、さすがの古狸も穴の近くに焼け死んでいた。そこで畜生ながらあわれと思い、「如是畜生発菩提心」と、おもむろにとむらい、埋めたのがこのタヌキ塚である。(菱沼 庄司隆玄)

また『地名が語る赤羽根のむかし』46頁に次の様にある。

この狸塚は北側の大藪(赤羽根213)というところにあったが、新湘南バイパス(昭和63年〈1988〉開通)造成の時に現在地に移された。
今は年に一回、長福寺(菱沼)の住職を招いて手厚く供養されている。なお、20年くらい前に、長福寺住職・庄司隆玄氏より木造の狸像が贈られ、以来城田家では本尊としている。

ご当主の城田さんにお聞きしたところ、「毎年1月に長福寺さんに来てもらい身内だけで法要をしているが令和4年は10月に行う予定」との事だった。

⑪ 日蓮宗 村沢山本在寺 高田一丁目7-38

 水越家から西へ約300㍍先の左手に本在寺がある。

『風土記稿』高田村に次のようにある。
本在寺 村澤山と號す。日蓮宗〈鎌倉比企谷妙本寺末〉、本尊釋迦を置く。慶長5(1600)年12 月、僧 日覺造立すと云ふ<按ずるに、鎌倉郡渡内村に當寺の舊地なりとて寺蹟あり。本在寺と字す。今此地に移りし年代時歴を傳へず>

また、明治時代の記録は、「明治十年編纂 興国地誌」高田村(『茅ヶ崎地誌集成』27頁)に次のように記されている。
本在寺 村内大山往還南の方にあり。日蓮宗一致派。相州鎌倉郡大町村字比企谷妙本寺末。 創立は慶長5年(1600)2月2 日。開基 村上彦兵衛。僧 日尊請じて開山とし、其の身は日尊の従弟と成りて 日覚と称し 二祖を続ぐ。
寛永10年(1633)、領主大岡兵蔵 当村に3ヶ年居住のおり、家光将軍より、以来の軍功に依って当 村高156石を拝領して領主と成る。今 明治10年(1877)迄およそ278年、本村北の方にあり。歴世の僧25代、現今に存せる。

また、「明治12年皇国地誌村誌」高田村(『茅ヶ崎市史集成』61頁)に次のようにある。 
本在寺 本村の北 字六斗蒔にあり。北条相模守の臣 村上彦兵衛、小田原没落の後、本村に帰農し深く仏に帰依し僧 日尊の徒弟となり、薙(剃)髪して遂に日覚と号し、一宇を創立し、その師僧 日尊を開基とす。これ慶長5年〈甲子〉2月なり。然而し(しかりしこうし)自からその二世を続く。

これらの説を総合すると次のようになる。
小田原北条氏の臣、村上彦兵衛は小田原城落城ののち帰農し一宇を立てて、日尊を招いて開山とし、自らは日覚と称し二世を次いだ。慶長5年のことである。本在寺は鎌倉の妙本寺の末寺である。
藤沢市柄沢に本在寺の旧地がある。しかし高田に移った時は伝わっていない。
時代は移って、旗本の大岡兵蔵は高田村に3ヶ年在村するとき、寛永10年に高156石をあてがわれた。


文中の「大岡兵蔵」は高田村領主の大岡家初代 大岡忠(ただよし)である。
 
なお、本在寺が開創400年を記念して本堂を改築したとき発行した『報恩 本堂落慶記念』誌には次のように記されている。
慶長5年、鎌倉郡柄澤(現 藤沢市)に住していた足利氏の重臣、村上彦尉源親房が本宗に帰依し、出家得度し、日覺と名のり、邸宅を改築して堂宇とし、池上本門寺、鎌倉妙本寺両山13世貫首、蓮乗院日尊上人を開基上人に請い開創した。
その後、延宝7年(1679)、当山5世 日定上人のとき現在地に移転し再興した

『風土記稿』と『興国地誌』は本在寺が唐沢村から高田村に移った年を伝えていないが、『本堂落慶記念』にはそれを延宝7年としている。そうだとすると、村上彦兵衛(彦之尉)が最初に建てた一宇は唐沢村であったことになる。
また、開基 日尊上人が筆にし署名している慶長5年銘の大曼荼羅が寺宝として保存されており、『本堂落慶記念』に掲載されている。

本在寺は大山道に沿っている。大山道から境内への入り口に大きな石灯籠が立っている。
弘化2年(1845)の造立で、寄進者と思われる江戸の石工28人の名が刻まれている。
田村通り大山道の入り口の大山の一の鳥居にも江戸の石工たちの名があり、灯籠の28人中18名は両方にある。この事から、この石灯籠は大山灯籠として建てられたことが分かる。

大岡家 歴代の供養塔
江戸時代、高田村の領主は長田氏と大岡氏だった。
村高は182石と『茅ヶ崎市史』5巻583頁にある。

 


本堂の裏、墓地の入口に大岡家ゆかりの供養塔が二基ある。
向かって左の塔は、寛文9年(1669)に大岡家2 代忠章(ただあき)の妻 浄泉院日常が夫の十三回忌に菩提をとむらって建てたもの。
右塔は、4代忠品の妻、輪光院妙安日照が享保4年(1719)に、夫など大岡家歴代を供養するために建てたもの。
堤村を領知する大岡家とは一族で、越前守忠相の生まれはこちらの大岡家だった。忠相が堤の浄見寺に墓参りする際は、必ずここに休んだという話が伝わっている。

⑫ 熊野神社 高田一丁目10-44

高田の鎮守。
『明治10年皇国地誌』(『地誌集成』27頁)及び『明治12年興国地誌村誌』(同書61頁)に次のようにある。
万治元年(1658)12月 領主大岡隼人、紀州の熊野本宮より遷祀し〈同村日蓮宗本在寺住僧代々社務ス〉 明治6年仏を除して〈赤羽根村神職杉崎正雄兼務〉…。祭日年々8月4日。

大岡隼人は3代忠高で、明暦3年(1657)に家督を継ぎ、元禄14年(1701)に死去している。堤村領主の大岡家に養子となった忠相の父でもある。

社前に置かれている手水石に領主の名が刻されている

表側
大岡吉次郎忠移(ただより)は大岡家7代。
元文元年(1736)家督を継ぎ、明和元年(1764)卒去。
裏側
本願主の森氏は、高田の旧家で小田原北条氏に仕えていた。
中央に刻されている「惣産子」は「総氏子」の意味である。
石工は信州高遠の守屋喜八とある。

日枝神社
また、境内に日枝神社がある。かつて、近くの三王山から移したと伝えられている。『明治10年興国地誌』(『地誌集成』27頁)に、
熊野神社境内西の方に鎮座す。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。創立、享保5年(1720)年4月、領主大岡氏、近江の国比叡山東坂本より遷祀す
とある。
勧請した人物を領主に結びつけた記事のようにも思えるが、享保5年に領主だった人物を調べると、宝永7年(1710)に家督を継ぎ、享保13年(1728)に卒去した5代忠陣(ただのぶ)となる。

社殿の裏に集められた石仏
柵があって近くからは拝見できなかったが、4基の石仏が集めてあった。

見事な社殿の彫刻

向拝(こうはい)にある龍の彫刻
彫刻師の名があるが、詳細は分からない。

⑬ さぎ茶屋跡 この日 最後の見学ヶ所

大山道と小出県道の交差点を西に過ぎると円蔵の飛地で、かつてさぎ茶屋という茶屋があったといわれている。そこから南側は低く開けて、鶴が台中学校と鶴が台団地が広がっている。
さぎ茶屋の名前の由来は、団地ができる前、辺りが沼地でサギがいたとか、大山道の北側は高くなっていて鷺山と呼ばれていたとか、焼き物のサギが茶屋の湯沸かし場に置いてあったからだとかと言われているが、はっきりしない。
町田会員が以前にこの辺を写したカラー写真を持っておられ、画面にある墓の辺りが鷺茶屋だったとのことだった。

大山道をさらに西に進むと富士塚の跡があるが、私たちはそこを割愛して、さぎ茶屋跡を見学し、この日の史跡・文化財巡りを終えた。

〈引用文献〉
①『茅ヶ崎地誌集成』(茅ヶ崎市史史料集3集)茅ヶ崎市 平成12年刊
 (『新編相模国風土記稿』・『明治10年・明治12年皇国地誌』はこの史料集に拠っている)
②資料館叢書4 山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』茅ヶ崎市教育委員会 昭和53年刊
③川代三千雄「赤羽根神明大神所蔵の棟札 調査報告」文化資料館調査研究報告11所収 茅ヶ崎市教育委員会 平成15年刊
④資料館叢書12『地名が語る赤羽根のむかし』茅ヶ崎市文化資料館 茅ヶ崎市教育委員会 平成26年刊
⑤塩原富男『ふるさとの歴史散歩』 茅ヶ崎郷土会 昭和58年刊
⑥塩原富男「茅ヶ崎の記念碑 補遺(その1)文化資料館調査研究報告2所収 茅ヶ崎市教育委員会1994年刊
⑦庄司隆玄「山僧ののコレクション」中「狸塚出土の白珊瑚化石並に石鏃一個」『郷土茅ヶ崎研究資料4』所収 茅ヶ崎郷土会 昭和32年刊
⑧『茅ヶ崎市史』5 概説編 茅ヶ崎市 昭和57年刊

photo & report 平野会員

今までおこなった史跡・文化財めぐり一覧へ
フロントページへ

茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (030) クロジ

(029)で紹介したアオジと同じように体の羽の色から名前が付いている。
Wikipediaには「雄は全体に灰黒色。雌は灰褐色。」と記してあった。

夏は亜高山帯にいて産卵・子育てし、冬になると低地に降りてくるというから、アオジと同じような生態である。
茅ヶ崎には冬にならないと来ないが、目立たないために見つけるのは難しいらしい。
写真に捉えにくい鳥なので、よくぞ写したという貴重な画像だ。


メジロ、ジョウビタキと一緒にいるが、体が黒いので目立たない。

「繁殖期には樹上で昆虫類やクモ類を捕食し、それ以外の時期は地上で植物の種子を食べる」とWikipediaに記してあった。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

茅ヶ崎いろいろ―目次―へ
茅ヶ崎の野鳥たち―北部の丘陵編― 目次へ
茅ヶ崎の野鳥たち―南部の海辺編― 目次へ
フロントページへ

茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (029)アオジ

おなかが黄色いですが、アオジです。

Wikipediaに「下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い」と書いてありました。

背中の方はどうかというと
「上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る」(Wikipedia)とありました。
目のまわりなどが暗い緑色に見えるところから、アオジという名が付いたのでしょう。

寒そうにしています。
夏は高い山中や北海道で産卵・子育てをして、冬になると茅ヶ崎あたりの平地に降りてきて過ごすそうです。
茅ヶ崎は暖かいと思って来たのでしょう。
「北海道の冬に比べれば暖かいかも知れないが、寒い日もあるのだよ」と言ってやりたいです。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

茅ヶ崎いろいろ―目次―へ
茅ヶ崎の野鳥たち―北部の丘陵編― 目次へ
茅ヶ崎の野鳥たち―南部の海辺編― 目次へ
フロントページへ

茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (028)ルリビタキとタイワンリス

冬の使者、ルリビタキが帰って来ておりました。
という投稿が、この北部丘陵編に小出地区で見た野鳥を送ってくれる朝戸夕子さんから届いた。
なんと良いチャンスと絵柄でしょう。なかなか撮れない写真です。

夏には高地の山林で繁殖し、冬になると茅ヶ崎あたりの平地にも降りてくる。
ジョウビタキと同じ仲間だが、ジョウビタキの方がよく見かける。

ブルーがとてもきれい。
オスは成長するとこの色になり、メスと若いオスはしっぽの先だけがブルー。

2021年12月15日にも北部丘陵編に010の番号で掲載している。
こちらにはメスも紹介してあります。


タイワンリス

朝戸さんは、ルリビタキと一緒にタイワンリスの写真も送ってくれた。

かつて鎌倉市や江ノ島で悪名を売って、今は茅ヶ崎にも住み着いている。
農作物を荒らすのはいつものことだが、ネット情報では野鳥の巣なども襲うとあった。
ニホンリスの生息にも影響を及ぼしているとも書いてあった。
在来の自然に悪さをする外来の動物、植物は困ったものだが、彼らを日本に持ち込んだのは結局私たち人間なのだ。
知らぬうちに連れてこられたうえに「困ったもんだ」と言われて、「自分の方こそ困ったもんだ」と言いたいのかもしれない。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

茅ヶ崎いろいろ―目次―へ
茅ヶ崎の野鳥たち―北部の丘陵編― 目次へ
茅ヶ崎の野鳥たち―南部の海辺編― 目次へ
フロントページへ