第297回 その-2 茅ヶ崎市(柳島から南湖) 南湖下町住吉神社から同仲町八雲神社まで 2020年01月25日〈土〉

297回 その-1柳島から南湖編の続編です。

南湖

南湖は上町、仲町、下町、茶屋町、鳥井戸の5 集落(チョウナイという)からなり、一口に「南湖、カミ ナカ シモ チャ トリ」といいます。東海道沿いを茶屋町、それより南に下って西側を鳥井戸、東側を上町、この南隣に仲町があり、さらに南が下町で海に続いています。
現在の南湖1丁目から6丁目に当たります。
五チョウナイごとに氏神を祭っています。茶屋町は社殿はないが大神宮、鳥井戸は御霊神社、上町は金刀比羅神社、仲町は八雲神社、下町は住吉神社です。

⑤南湖下町 住吉神社

南湖5-5-1

大鳥居の向かって左にある石祠が八大龍王

『相模国風土記稿』の茅ヶ崎村の項に「十羅刹女堂」とあるのが住吉神社の前身と思われます。
同書に、先に紹介した柳島村は「十羅刹女社 鎮守なり」とあり、隣同士の村で記述が似ているのは不思議な感じがします。 この2社は、明治の神仏分離令を受けて、南湖は住吉神社に、柳島は八幡宮になりました。
資料館叢書11『南湖郷土誌』(1995年文化資料館刊)には「明治初期に下町の石黒政五郎などが大坂市住吉区の住吉大社から分霊をいただき祭った」とあります。
祭神は、住吉大社と同じで住吉大神(日本書紀の表記で底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。神功皇后が三韓を攻めるときに加護した神で、勧請元の住吉大社では、この三神と神功皇后を主祭神としています。
南湖住吉神社の例大祭は3月3日です。この日に大祭を行う神社は希で、どのような理由なのか知りたいところです。ちなみに住吉大社の例大祭は7月です。

住吉神社の説明は、「まるごと博物館の会」の石黒進さんにお願いしました。
石黒さんは、説明の中で「神仏分離に遇い、鬼子母神を祭る十羅刹女堂をやめて、大坂の住吉大社を勧請した石黒政五郎は自分の先祖だ」と言っておられました。漁師町南湖だから海に関係する住吉大社を勧請したのだそうです。

大坂市住吉区の住吉大社

住吉大社で撮影した写真。拝殿が並んでいるが、手前が神功皇后を祭る第四本宮、その向こうは表筒男命を祭る第三本宮。
住吉大社の祭神と御神徳が書いてある

社殿彫刻

神社拝殿の向拝(ごはい)にある彫刻は、祭神に関係する絵柄が多いものです。
ところが、住吉神社のそれは何を表しているのか分かりません。
向かって左側の龍にまたがる男神は竜宮の龍王でしょう。
右側に2体の女神が見えます。上側の女神は右手で顔を覆い、左手の先に何かを持っていてその先を龍がつかんでいます。
下側の女神は左手で何か丸いものが入った容器を持ち、右手でそれを男神に捧げようとしている風です。
住吉の三神は航海安全の神で、神功皇后が三韓を攻めるときに加護しますが、古事記・日本書紀では龍神や女神に関係する場面はありません。
「八幡愚童訓」(岩波思想体系20『寺社縁起』収録)という古い文献に、神功皇后が三韓を攻めるときに住吉大明神が現れて「南の海に住むシャガラ龍王から旱珠(かんじゅ)と満珠(まんじゅ)という珠(たま)を借りて敵を攻めよ。珠を借りるために、アズミノイソラ(女神)を道案内にして皇后の妹のトヨヒメを龍王のもとに差し向けると良い」と助言する場面があります。
彫刻の龍王はシャガラ龍王、二人の女神はトヨヒメとアズミノイソラではないかと考えたのですが、まだ、しっくりしません。(「郷土ちがさき」139号 アズミノイソラ―南湖下町住吉神社―
別の解釈をご存じの方は、是非ともご教示ください。

サイノカミ

数十年前、村々で昔のことを聞き書きするとき、「道祖神がありますか?」と聞くと「サイノカミ(セーノカミとも)のことかね?」といわれることがしばしばでした。
最近は「サイノカミは?」と聞くと、「道祖神のことか」といわれます。
住吉神社では、社殿の、向かって左奥に祭ってあります。
銘は 右側面に「下講中」、左側面に「嘉永六年正月吉日」とあります。嘉永6六年は1853年、「下講中」は下町のことです。

八大龍王の石祠と石碑

広い境内の南の端、大鳥居の脇に八大龍王がまつってあります。中央に石祠型、その脇に石柱型があります。 石祠型が元からあったところに、平成24年(2012)に、南湖四丁目の海岸にあった2基の内の1基を移したものです。
石祠型には銘はありません。 海岸から移された石柱型には右側面に「慶応□歳」(1865~68)、正面に「八大龍王」と刻されています。
茅ヶ崎市内の八大龍王は「竜宮様」と呼ばれ、豊漁の神として6カ所に7基祭られていますが、最も古いのは浜須賀海岸にある元治元年(1864)銘のもの、石柱型の慶応年間はそれに次いで2番目です。
『南湖郷土誌』132頁には「竜宮様の例祭は1月、9月の11日で、昔は神楽が奉納された。現在は(注 この本が出版された1995年ころ)1月は住吉神社で、9月は海岸の碑の前で漁業協同組合役員、漁民の代表者が参列して行われる」と書かれています。しかし、南湖四丁目の海岸にあった2基は今はありませんので、祭礼はここだけで催されているものと思われます。

⑥南湖仲町 八雲神社

南湖4-4-29

『新編相模国風土記稿』茅ヶ崎村の項に「天王社」とあるものが八雲神社と思われます。 江戸時代に「天王社」だったのが「八雲神社」に変わったのは、明治時代の神仏判然令で神仏が習合している社寺が禁止されたためです。牛頭天王を祭っていた天王社がスサノオノミコトを祭る八雲神社に変わりました。
この天王社は、元は、南湖茶屋町の脇本陣をつとめていた重田氏江戸屋の屋敷神を移して祭り始めたという話が伝わっています。
資料館叢書4山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』(1978年市文化資料館刊)119頁に次のように記してあります。
「八雲神社の元は茶屋町の江戸屋の屋敷神だった。昔、浜降祭には浜之郷の鶴嶺八幡社の神輿を、まず浜之郷で担ぎ出し、次に南湖で担ぎ、終わると浜之郷に戻して宮入していた。ある年、南湖からの返却が遅れて宮入できず浜之郷が怒った。江戸屋が中に入って詫びをいれ、自宅の屋敷神を仲町に移して祭り、仲町でも神輿を作った。その後、上町、下町でも神輿を造り、鶴嶺八幡の神輿を担ぐことはなくなった。これは江戸屋のおかげであるからと、浜降祭の翌日の朝に南湖の者たちは神輿を担いでお礼に行っていた。今では役員が揃って挨拶に行くだけになった。」
八雲神社と江戸屋との関係は、南湖だけの浜降祭といわれる「御幣祭り」でも見ることができます。 昭和の初期まで、早朝に行われる浜降祭に参加した南湖のチョウナイの神輿は、その日の午后、再び揃って海岸に出て、2回目の浜降りをしていました。その際、五町内を回って海に向かったのですが、まず茶屋町の重田家に寄って神事を行う決まりでした。しかし、あるとき神輿同士の争いがあって、再度の浜降りは仲町八雲神社のお御魂だけが巡幸するように変わりましたが、「御幣詣り」は今も続けられています。


社殿彫刻 スサノオのオロチ退治

『南湖郷土誌』129頁に
「関東大震災のときに本殿を除き倒壊し、昭和5年から3ヶ年計画で復興し、昭和8年(1933)3月に完成した」とあります。
拝殿向拝にある彫刻はこのとき作られたことになります。
社殿彫刻は祭神に関する絵柄が多いと先に書きましたように、スサノオノミコトのオロチ退治です。スサノオの後ろで「アレー」と叫んでいるのはクシナダヒメです。オロチに呑まれるところをスサノオに助けられました。

社殿には見事な鳥の彫刻もあります。(茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』15号2011年―オロチを退治する神と種類不明の鳥の彫刻―八雲神社 を参照して下さい。同館のHPで見ることができます。)

サイノカミと金神風神の碑

「〆金神 風神 両社 昭和九年四月祭ル」(1934年)と刻されています。
金神は陰陽道で、この神がいる方位に向かって行うとは凶事とされています。それに「〆」が付いていますからその凶をシャットアウトするという意味が込められているのかも知れません。
茅ヶ崎では作例が少なく、高田の熊野神社境内に年銘なしの「太白金星大金神」と彫った碑があるのみです。(資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏3松林地区』2020年2月市文化資料館刊 151頁)
もう一方の風神は陰陽道から来ているとは限らず、いろいろな意味を持つので、なぜこの両神が一緒に祭られているのかは分かりません。
『南湖郷土誌』131頁には「元は近くの伴田の坂を登った所(注 つまり高いところ)にあったものを移した。子供がはしかににかかると湯掛けという儀式をして、儀式に使ったサンダワラボッチをこの石仏に備えた」と書いてあります。

サイノカミ

嘉永4年銘の双体像
年銘不明の単身像

サイノカミ(道祖神)は境内に2基祭ってあります。
双体像には、右側面に「嘉永四辛亥 仲町氏子中」、左側面に「上町 正月吉日 再立氏子中」とあります。1851年に仲町と上町とで作り直して建てたものであることが分かります。
そのすぐ横に、ほとんど摩滅した単身像があり、銘は「二月十四日」とだけやっと読む事ができます。
茅ヶ崎では単身像が先に出現し、双体像はその後ですから単身像が傷んだので双体像を作ったと考えられます。
先に見た下町住吉神社のサイノカミに「嘉永六年(1853) 下講中」とありましたから、江戸時代末期には上・中・下のチョウナイが成立していたことになります。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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第297回 その-1 茅ヶ崎市( 柳島から南湖)柳島善福寺から南湖院第一病舎まで 2020.01.25(土)

柳島と南湖は隣接しています。
柳島には藤間家住宅、南湖には南湖院第一病舎があって、共に国指定の登録文化財になっている、会員も多く住んでいるので、地元の協力が得やすいだろうということから選んだコースでした。
市教育委員会の後援名義を申請し、「広報ちがさき」1月1日号でPRし、20人に限って会員外の参加者を募ったところ19人の応募(3人欠席)がありました。会員は15人の参加で合計31人、茅ヶ崎市の南西部を半日歩き、神社仏閣その他の史跡・文化財を見学しました。
集合場所は、一つは駅南口の目的地行きのバス乗り場、二つ目は現地柳島の善福寺として、解散は最後の見学地の南湖仲町の八雲神社で12時半近くでした。

柳島村

柳島は江戸時代は柳島村、南湖は茅ヶ崎村の一部でした。 柳島村について『風土記稿』(雄山閣版第3巻所収)には次のように記してあります。
「この地、相模川および諸流の落口に村落をなし、水田の用水も海潮を引て耕植を助け、水溢(すいいつ)の患ももとより多し、その地形、新古相模川の二流、村の西を流れ、その間すべて河原なり、また南方は海に面し、海岸は総て砂州にて、その地に地頭林一所あり。洲觜湊口に陟出(ちょくしゅつ)せし所、眺望佳景多し。富士箱根大山近く聳(そび)ゑ、南海は渺茫(びょうぼう)として天に連れり」
柳島村は茅ヶ崎市の南西端、その西を流れる相模川を挟んで平塚市の須賀と向かい合っています。 江戸時代には、相模川を使った物資輸送の拠点で、須賀湊に対抗する柳島湊が開かれていました。

①柳島山宝亀院善福寺 真言宗
柳島1-3-28

『風土記稿』に、
「本尊阿弥陀、また不動・愛染・弘法の像を置く〈弘法の像は豆州般若院御影堂の模刻にて自作の像を腹籠とす〉、開山快盛〈寛正二年四月五日寂すと云ふ。」とあります。
「寛正二年(1461)」がそのとおりであれば、当地の寺院ではとても古い成立です。

正面にはご本尊の阿弥陀如来、その向かって右脇に、伊豆の般若院御影堂の像を写したという弘法大師坐像が祭ってあります。
善福寺は、いままでに何回かの火災にあい、ご本尊は3代目だそうです。

弘法大師像は『茅ヶ崎市史』3考古・民俗編に写真が掲載されていて次のように説明してあります。
「像高60.7センチ、寄木造・玉眼嵌入・像底を張っているので木寄せは不明。全面を古色仕上げとする。一般に見られる弘法大師とはやや異なる顔立ちをみせるが、人形化していないので、像としてはすぐれていないけれど、江戸時代初期に遡るきかもしれない。」
江戸初期の作とすると、市内では数少ない例の一つです。

木像九頭龍像

今回、善福寺さんに特にお願いして九頭龍の木像を拝ませて頂きました。 これは、昭和52年(1977)に、我が茅ヶ崎郷土会の先輩方が出版した『ふるさとの寺と仏像』に「八大龍王」として画像ともども掲載してあるものです。
八大龍王は、この九頭龍を初め8体の龍族の代表からなり、仏教の守護神となっています。
源実朝の有名な歌「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」にもあり、茅ヶ崎では主に豊漁をもたらす神として、海岸に点々と6ヶ所に7基の石碑が祭られています。

九頭龍神は箱根神社にも祭られていて、芦ノ湖に住むと言われています。
善福寺に祭られるこの像は、上段に四頭、下段に五頭があり、下段の中央の竜頭は他より大きく作られています。
金泥が厚く塗られていて、実態が見えにくくなっていますが、江戸時代後期から明治時代の制作と思われます。

境内に「ある相模国準四国八十八ヶ所」の弘法大師像が二体並んで居ます。
 準四国札所38番善福寺のものと、廃寺の同39番札所地蔵院にあったものです。
前に、それぞれの説明石碑があり、①の裏に善福寺、②の裏に地蔵院と刻してあります。
どちらかの大師像と②は地蔵院から移されたものです。
大師像右が善福寺の、左が地蔵院のものと解釈されているようですが、実は、大師像と説明石碑の位置は対応しているかどうかは分からないのです。

②柳島八幡宮

柳島2-3-10

柳島の本村(ほんむら)の鎮守。
拝殿の脇に建つ説明板におおよそ次のように書いてあります。
・現在の祭神は誉田別尊(ホムタワケノミコト、応神天皇)。
・文政5年(1822) 関東大震災時に倒れた鳥居が造られた。(鳥居の年銘による)
・天保12年(1841) 『新編相模国風土記稿』に、「十羅刹女社 鎮守なり」とある。
・嘉永元年(1848) 柳島の鎮守として、鎌倉郡邨岡郷高谷村(現在藤沢市内)の大工文蔵が、総工費29両で社殿建立を受け、同年11月15日に竣工した。(藤間家資料による)
・大正12年(1923)9月1日 関東大震災のため全壊した。
・大正15年(1926) 当時の区長の片野荘太郎は、神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決めた。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡相川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿に竣工した。
・昭和20年(1945)7月16日 太平洋戦争の平塚空襲の際に火災にあって全焼した。
・昭和24年(1949) 千葉県市川市行徳関ヶ島の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調した。
・昭和32年(1957)11月23日 氏子をはじめ多くの寄付を得て、社殿を建立した。大工は石井幸三郎、府川篤、木彫師は江口裕康など。
・昭和50年(1975)5月4日 奥殿を再建した。大工は石井幸三郎、府川篤など、鳶職は山口道雄など。現在に至る。    (平成30年3月吉日 柳島自治会 柳島八幡宮)

拝殿の彫刻
茅ヶ崎あたりの神社では、多くの場合、向拝(こうはい=拝殿への入口)の上部に彫刻を施してあります。絵柄は、その神社の祭神に関係する場面が多いようです。八幡社(宮)の祭神は多くは誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)と神功皇后になっています。
柳島八幡宮の絵柄は、武装した神功皇后と、皇后から生まれたばかりで産着に包まれた誉田別命を抱く武内宿禰(たけしうちのすくね、神功皇后の功臣)です。皇后が武装しているのは新羅を攻めて帰着したときの姿だからです。
彫刻が作られたのは、空襲で焼けた社殿を再興した昭和32年(1957)、その作者名は、彫刻の裏に「江口裕泰」と彫ってありますが、どういう彫刻師かは分かりません。 (参考文献 茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』18号所載の平野文明「神功皇后の新羅侵攻」。同資料館のHPで見ることができる。)


万治三年(1660)銘の庚申塔
境内には見るべき石仏がたくさんありますが、標記の庚申塔を紹介します。
境内の裏手に石仏を一列に集めてあり、その向かって1番右手のものがそれです。
三つの種子とたくさんの漢字がありますが、彫りが浅くとても読みづらいです。判読は昭和50年(1975)ころ、郷土会会員だった故天ヶ瀬恭三さんが読んだ成果が今も踏襲されています。[資料館叢書3『茅ヶ崎の庚申塔』(茅ヶ崎市文化資料館1977刊)に発表、後にそれを補完して同叢書13『茅ヶ崎の石仏1 鶴嶺地区』(2015)に収録]
種子のほかに5行の銘があり、次のとおりです。
(種子) バン(大日を表す)・ア(不明)・ウン(青面金剛)
万治三年相州柳嶋村施主/啓白
厥庚申者半夜凌睡眠離生死當夜
如等所行是菩薩道漸々修覚悉/當成佛
□□善男善女集数年庚申奉/待
子二月吉日 本願善福寺隆真
(万治3年は1660年。銘文最後にある「隆真」は『柳島の移り変わり』(柳島自治会・五三会1990刊)のp20に善福寺2代とある)
この塔は市内では8番目に古い年銘を持ち、傷みはなく、銘文も研究の余地を残している重要なもので、文化財に指定される価値を十分に持っています。


③民俗資料館藤間家住宅

柳島2-6-30
柳島の本村(ほんむら)の一角に藤間家住宅はあります。 故藤間雄蔵さんは先に亡くなられた父善一郎さんともども、茅ヶ崎の郷土史に詳しく、旧家藤間家に伝わる数多くの文化財と歴史史料を管理されていましたが、晩年に屋敷地と住宅、文化財などを茅ヶ崎市に寄贈されました。 屋敷跡は茅ヶ崎市の史跡に、屋敷林は保存樹林に、住宅は国の登録有形文化財の指定を受け、今は市教育委員会が管理し、民俗資料館として公開されています。





東に向いた玄関とその付近
玄関の面の作図
南面の様子 画面右手の松の根元に井戸がある。
南面の作図(作図は敷地に立つ説明版から)

昭和7年(1932)藤間家住宅建設される
平成25年(2013)3月 屋敷跡が「藤間家(近世商家)屋敷跡」として市の史跡に
平成26年(2014) 屋敷林が市の保存樹林に
平成27年(2015)3月26日 住宅が国の登録有形文化財に
平成29年(2017)7月 敷地3,898平方㍍と住宅、文化財や歴史史料が茅ヶ崎市に寄贈される
平成30年(2018)4月13日 民俗資料館 旧藤間家住宅として一般に公開される

藤間柳庵
藤間家住宅でもう一つ特質すべきは、かつての藤間家の主、藤間柳庵のことです。
柳庵の本名は善五郎で、享和元年(1801)生まれ、明治16(1883)に没しました。
柳庵についてはいろんなところに解説されていますが、ここでは、柳島八幡境内にある「藤間柳庵之碑」の銘を掲げておきます。
「 藤間善五郎翁は享和元年(一八〇一)相模国高座郡柳島村に生まれ、青潭と号しまた柳庵と称した。翁は多年柳島村名主役を勤めて村政に尽力し村の繁栄をはかった。一方家業の農業と廻船業を隆盛にして物資流通の重要な中継地柳島湊を中心とする近郷の経済的発展に貢献した。また傍ら学問に志して多くの詩文句歌記録を留めとりわけ雨窓雑書十編 太平年表録七編 年中公触録七編等は翁の流麗な書風をもってその学芸の一端を示すとともに明治維新期の激動する世相を活写して後世に遺した。翁は郷土の卓越した指導者でありまた当時の地域文化の一高峰であった。明治十六年(一八八三)翁は八十一歳で柳島村に没した。昭和五十五年神奈川県は翁を歴史上の人物「神奈川の百人」のうちに選んだ。いま翁の没後百年にあたりその遺徳を敬慕する者、相はかりここに碑を建て翁の事蹟を顕彰して永く後世に伝えるものである。   昭和五十八年十一月 川城三千雄文 茅村水越咲七書 」(裏面に「昭和五十八年(一九八三)十一月建之  柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店」とある)

住宅南面の写真に見える井戸
庭に井戸の跡が残されています。
この井戸を掘った様子を、柳庵は『雨窓雑書』に詳しく書き残しています。活字化されて茅ヶ崎市から刊行(茅ヶ崎市史史料集7集-1『藤間柳庵「雨窓雑書」』上)されているので読むことができます。それには、
「万延元年(1860)5月25日、屋敷の申酉の方位(西より)に掘り抜き井戸掘り始めた。翌年の文久元年(辛酉)12月8日の酉の刻(17~19時ころ)水が吹き上がった。そこでこの井戸を三酉水と呼ぶ。」と記されています。
柳庵は掘り方も記録しています。江戸末期に上総地方で始められたという上総掘りを使っており、上総掘り初期の工法であることがわかります。
柳島ではこのあと何軒かが同じような井戸を掘り、湯屋を開いています。「三酉水」も隣の藤間姓の家が利用して「藤間温泉」を開きました。(『郷土ちがさき』147号の杉山全「柳島の湯屋四例」参照)

④旧南湖院第一病舎(竹子室)

南湖七丁目12869-201
明治時代の後半期から昭和20年の太平洋戦争終戦のころまで、南湖の一角に、広大な規模を構えた結核療養所の「南湖院(なんこいん)」がありました。
その第一病舎が今も残り、国の有形文化財に登録されています。第一病舎は「竹子室」とも呼びますが、竹子とは、南湖院の創設者の高田畊安の母の名前です。 この第一病舎は、茅ヶ崎市のHPに次のように記してあります。
「明治32年に建築された敷地北寄りに立つ、二階建ての木造の建物です。外壁は下見板張で上下窓を並べ、二階窓にはペディメントが設けられています。北面に切妻屋根の玄関部、西面に階段室が設けられています。開口が多く採光通風に配慮されている、療養地として著名な湘南に残る希少な明治期の結核病棟です。
南湖院は明治32年に医師高田畊安が開設し、大正期には第11病舎まで建築され、東洋一の結核療養施設とうたわれました。」

第一病舎竹子室 北側にある玄関部分
遠景 東側部分

高田畊安と南湖院については『ぶらり散歩郷土再発見』(塩原富男著2012年改訂版茅ヶ崎市教育委員会刊)に次のように記してあります。
「県立西浜高校、有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の郷の辺り一帯には、かつて東洋一の設備と規模とうたわれた結核療養所南湖院があった。現在は、第一病舎が国の登録有形文化財になっている。
南湖院は、医師高田畊安(1861~1945)が開設した。畊安は京都府加佐郡中筋村(現・舞鶴市)で生まれ明治29年(1896)東京の神田鈴木町に東洋内科医院を開業した。新島襄に師事してキリスト教の洗礼を受け、明治25年(1892)に勝海舟の孫娘にあたる疋田輝子と結婚した。結核で兄を失い、自分も同じ病気で転地療養をした体験から、結核の治療に生涯をかけた。
明治31年(1898)茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設した。開院以来、順次拡大整備され、最盛時は約4万坪とも5万坪とも言われる敷地に、多くの患者がいたと言われている。療養生活を送った人々の中に、国木田独歩など多くの著名人がいる。」

年表式にまとめると次のようになります。
明治31年(1898)高田畊安、茅ヶ崎駅が開業した時に南湖に土地を求め、翌年に南湖院を開設。
明治32年(1899)9月 第一病舎新築竣工
昭和20年(1945)高田畊安死去 海軍により南湖院を接収。
昭和21年~32年は米軍の接収(太陽の里のHPから)
昭和54年(1979)有料老人ホーム「太陽の郷」が開設される。(太陽の里のHP)
平成27年(2015)12月10日、第一病舎、市に寄贈される。
平成28年(2016)4月、茅ヶ崎市と太陽の郷は、第一病舎を核とする「南湖院記念 太陽の郷庭園」を般公開。(太陽の里のHP)
平成30年(2018)3月 南湖院第一病舎が国の登録有形文化財に登録された。

旧南湖院の一部が「有料老人ホーム茅ヶ崎太陽の里」になっていて、その庭園部分が公開されている。
私たちは、上の図に朱字で示したところを見学した。
昭和11年(1936)測量の南湖院平面図に、訪ねたところを落としてみた。
南湖院時代から残る「丸池」と藤棚。庭園内を太陽の里の理事、神奈川一郎さんに案内して頂いた。
北からの進入路にあった門柱の跡。
高田畊安の碑 昭和13年(1938)5月建
裏面 母竹子、妻輝子(勝海舟の家系を引く)などの名がある。

この続き、297回 その-2(南湖の住吉神社と八雲神社)はこちら

report 平野会員
photo 前田会員・平野会員

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テキスト 297回 茅ヶ崎市内の史跡・文化財めぐり(柳島から南湖)-2020年1月25日(土)実施

令和2年(2020)1月25日(土)、茅ヶ崎市柳島(江戸時代の柳島村)から南湖(同茅ヶ崎村の一部)までをめぐりました。
ここに掲載するテキストは、参加者に当日配布したものを、さらに修正したものです。
次の文献などから引用し、参照しています。

・大日本地誌大系21『新編相模国風土記稿』第3巻昭和47年(1972)雄山閣刊
・資料館叢書4山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』昭和53年(1978)茅ヶ崎市文化資料館刊
・資料館叢書10塩原富男『茅ヶ崎の記念碑』平成3年(1991)茅ヶ崎市文化資料館刊
・資料館叢書11『南湖郷土誌』平成7年(1995)茅ヶ崎市文化資料館刊
・茅ヶ崎市史史料集第3集『茅ヶ崎地誌集成』平成12年(2000)茅ヶ崎市刊
・『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』18号 茅ヶ崎市文化資料館平成26年(2014)9月刊(市文化資料館のHPに掲載)
・ちがさき丸ごとふるさと発見博物館ガイドブック(文化財編)塩原富男著『ぶらり散歩 郷土再発見』平成24年(2012)改訂版
・資料館叢書13『茅ヶ崎の石仏1―鶴嶺地区』平成27年(2015)茅ヶ崎市文化資料館刊
・『郷土ちがさき』139号平成29年(2017)5月茅ヶ崎郷土会刊(郷土会のHPに掲載)
・資料館叢書14『茅ヶ崎の石仏2―茅ヶ崎地区』平成30年(2018)茅ヶ崎市文化資料館刊

表紙に掲載のコース図は、国土地理院の電子地形図1/25000を使っています。

下段のテキスト表紙をクリックするとPDFファイルが開きます。

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2020年1月の理事会 記録

2020年1月27日(月)9時30分~11時30分
市民活動サポートセンターで、8人の参加を得て今年最初の理事会が開かれた。

議題1 1月25日(土)に実施した297回史跡・文化財めぐり(市内 柳島から南湖コース編)について
○教育委員会の後援名義を受けて「広報ちがさき」1月1日号にPR記事を掲載した。下見は1月20日(月)に行った。本番の25日当日は寒くもなく外出には適当は天候だった。会員外から19名の参加申込があり、事前の欠席連絡2人、無断欠席1人があった。会員から15人参加、総勢31人で実施した。この人数で移動時に列が伸びることもあったが、事故はなかった。

○会員外から小学生1人とその母親の参加があった。当会の事業に小学生の参加は殆どないので、土曜日に実施した結果だった。

○見学ヶ所は6ヶ所。①善福寺は会員S氏説明、②柳島八幡宮は会員S氏説明、③藤間家住宅は職員に説明依頼、④南湖院記念太陽の里庭園(南湖院第一病舎など)は職員のK氏に説明依頼、⑤南湖下町住吉神社は会員外のI氏に説明依頼、⑥南湖仲町八雲神社は会員H氏説明。会員外に依頼した説明は、各氏それぞれの担当ヶ所に詳しく、丁寧で分かりやすかった。

○見学について特記すべきは、①において本堂の中に木造九頭竜像を公開して頂いたこと、②において地元の協力で拝殿と神輿殿を開扉して頂いたこと、③~⑤は関係者の説明を得て丁寧で詳しかったこと(⑤を説明したI氏は明治初期に勧請した人の子孫だった)。

○会員外の参加者から4人の入会希望者があった。広報誌でPRしたためで、当初の目的が達せられた。

○反省すべき点は、①実施時間の割に見学ヶ所が多すぎたこと。移動時間は削ることができないので、説明を途中で切り上げざるを得ず、説明者に対して申し訳なかった。柳島か南湖か一方に絞るべきだった。②道幅の狭いところもあり、移動の仕方・歩き方を最初に注意しておくべきだった。

議題2 2020年度の史跡・文化財めぐり(市外)について
担当の山本会員提案の、「城跡めぐり」と「祭礼めぐり」各7コースを検討した。
○城跡めぐり 7コース
①小机城址と城跡まつり―横浜市、②茅ヶ崎城址と横浜市博など―横浜市、③丸山城址と高部屋神社―伊勢原市、④玉縄城址と周辺寺院―鎌倉市、⑤石垣山城址と石切場跡―小田原市、⑥早川城址―綾瀬市、⑦深見城址と深見神社―大和市

以上の中から、実施時期は次に検討するとして、次の3コースを市外めぐりに取り上げることになった。
①横浜市港北区(小机城跡、雲松院、茅ヶ崎城跡、横浜市歴史博物館、大塚・歳勝土遺跡)、
②伊勢原市(丸山城跡、高部屋神社、太田道灌ゆかりの地)、
③鎌倉市(玉縄城址、龍宝寺、久成寺)

○祭礼 7コース
①貴船神社船祭―真鶴町、②高来神社御船祭―大磯町、③皇大神宮いっとき祭―藤沢市、④御霊神社面掛行列―鎌倉市、⑤江ノ島天王祭―藤沢市・鎌倉市、⑥鶴岡八幡宮丸山稲荷火焚祭―鎌倉市、⑦鶴見神社鶴見の田祭り―横浜市鶴見区
祭礼コースは2020年度は取り上げないことになった。

○上記のほかに県内で行われる祭礼69例のリストが配布された。

議題3 2020年度の史跡・文化財めぐり(市内)について
○以前から意見として出ていた「鎌倉古道を歩く」を検討した。しかし、鎌倉古道に関するデータが少ないことから、さらに検討することになった。
「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館企画展」の中で、2月17日(月)15:30~16:30に「講座 茅ヶ崎の鎌倉古道について」が(於 市役所1階市民ふれあいプラザ)、同月18日(火)10:00~12:00「茅ヶ崎の鎌倉古道を歩く」が行われることになっているという情報がもたらされた。

○めぐり市内編は、年間に2回実施するとなったが、どこを取り上げるか決まらなかった。

次回理事会 2月17日(月)9:30~ 於 市民活動サポートセンター

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郷土会 Study Room  加藤幹雄さん「石上巡査と中島」2020.1.21(火)  

茅ヶ崎郷土会/ちがさき丸ごと博物館の会 共催

「石上巡査と中島」
―明治の巡査日記 石上憲定『自渉録』より―

お話し 加藤幹雄さん(ちがさき丸ごと博物館の会)
うみかぜテラス1F-1 10~12時

 加藤さんの話は、次のように進められた。
1 はじめに 2 『明治の巡査日記 石上憲定「自渉録」』 3 石上憲定と耕餘塾 4 神奈川県警察の年表から 5 石上巡査と中島 6 まとめ  

資料として配布されたプリント
『茅ヶ崎を彩った70人』中の石上定憲の頁コピー、『神奈川県警察史』上巻から、「明治の巡査日記―石上憲定「自渉録」をめぐって」(高村直助・東哲郎)から、パンフレット「ふるさとのほこり『耕餘塾』などで、
主資料は『「明治の巡査日記 石上憲定 自渉録」 中島関係一覧表』  

主資料の「中島関係一覧表」は特に加藤幹雄さんの労作である。約700頁ある「石上巡査日記」から茅ヶ崎市中島に関係する項目を年代順に、頁番号、項目、日記の内容、備考に分けて一覧表にしたものであった。  

茅ヶ崎郷土会では、現在、上記中島(江戸時代は中島村)の歴史をまとめている。加藤さんもこの作業に加わっていて、中島関係の史料を抽出するなかでこの一覧表を作ったと説明があった。一覧表には300~400件のリストが収録されているのである。  

加藤さんの一覧表に中島村記事が最初に出てくるのは明治26年9月5日の記事(巡査日記の216頁)である。ここに、参考のためにこの頁を掲げておこう。 9月15日に「中島八百仙方ニ至リ、…」とある。以後、八百仙は日記に連日のように出てくる。にも係わらず、今、中島で八百仙とはどのような店だったかを聞いても、知っている人がいないのである。  

『明治の巡査日記』は、解かれるべき不明な点も膨大な数を擁しているのである。茅ヶ崎郷土史上の格好のテキストと言うことができる。

茅ヶ崎市史史料集第一集 『明治の巡査日記』—石上憲定「自渉録」
平成9年3月31日 茅ヶ崎市発行 A4版 本文は709頁、解説は9頁からなる大冊である。

本書のまえがき、凡例、解説の中から引用して、『明治の巡査日記』を紹介しておこう。

発刊によせて 
茅ヶ崎市長 根本康明
石上憲定は、明治18年から44年まで、藤沢警察署の巡査として本市域の今宿・西久保・小和田駐在所をはじめ、近隣の藤沢・鎌倉など各地で勤務を続けるなかで、日々の仕事や近隣住民との交流ぶりを丹念に綴り、当時の地域住民の生活の側面を伝えています。私たちは、その行間から日本が急激な近代化を進めていた頃の茅ヶ崎をはじめ、湘南地方の社会の様子を窺うことができる、日本近代史上でも類をみない貴重な史料に恵まれたといえましょう。

凡例
本書には明治19年6月以降大正7年4月まで、石上憲定が書き残した日記『千瓢記』『日誌』『自渉録』のうち、神奈川県高座郡の警察官として勤務した明治19年6月から退職直後の明治45年3月までの記載を、原本のまま年次順に収録した。

解説(712頁)に次のように記されている。
石上家は、御子孫石上明生氏作成の「石上家々譜」によれば、慶長17(1612)年生まれの初代善太郎仁右衛門以来の幕臣であった。7代玄六義定(文政11年生 明治27年没)は御持小筒組にあったが、彰義隊、五稜郭の戦いに参加、東京で一時謹慎の後、明治2年(1869)年12月静岡藩浜松勤番組頭として和地山に移転、8年6月東京に移転し、18年8月には農商務省地質調査場雇となっている。
憲定(鐐太郎)は安政5(1858)年8月20日、義定・かつの長男として江戸本郷に生まれ、明治9年(1876)年3月から4年間、藤沢で小笠原東陽主宰の耕余塾で学んだ。母かつと東陽はともに姫路藩の出なので、何らかの縁故があったものかと考えられる。  
13年3月羽鳥小学校の五級訓導となり、16年12月藤沢の宝田常吉二女さだ(慶應2年6月4日生)と結婚した。18年(1885)年10月神奈川県巡査を拝命、以後44年11月依願退職まで、高座郡署・藤沢警察署管内の巡査を続けた。その間大部分の次期を茅ヶ崎市域の勤務で過ごしている。

report 平野会員


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