第301回 その-2 茅ヶ崎市(市内の大山道を歩く 室田の永昌寺からさぎ茶屋まで)2022.7.9

室田の永昌寺からサギ茶屋跡まで

令和4年7月9日(土)晴
暑い中でしたが、茅ヶ崎市室田から円蔵まで歩きました。
市内を横断する田村通り大山道の一部分です。
令和3年12月11日に行った第299回 史跡・文化財巡り「市内の大山道を歩く-その1」に引き続きその2回目でした。

(1) 曹洞宗 龍澤山永昌寺 室田一丁目15-44

向かって左にある高木はモッコクで、樹齢200年と言われている。

茅ヶ崎駅前北口の神奈中バスの北口4番乗場から茅ヶ崎市立病院経由藤沢駅北口行に乗り、バス停の室田一丁目で降りるとすぐのところにある。

お寺では文禄元年(1592)の創建と伝えている。
室田三郎景正の邸址と言われていて、明治12年『皇国地誌村誌』室田村の項には,
慶長年間(1596~1615)、僧長厳これを開基創建す。この境地(境内地のこと)は、在昔、室田三郎景正の邸地なりしという。景正は大庭三郎景親の臣なり
とある。しかし、室田三郎景正なる人については資料が少ない。

所蔵されている五輪塔と蔵骨器

永昌寺には室田三郎景正の墓と伝える五輪塔が、墓地の一角にまつられている。
かつては本堂の脇にあって、工事で掘ったところ、五輪塔の下から骨壺が出土したそうである。
その後、墓地に移された。五輪塔は地輪を欠き、宝篋印塔の基礎を代わりにしているが鎌倉~南北朝期の様式で、りっぱな形を保っている。
骨壺も鎌倉期の常滑の壺で、決まり通りに口縁部を欠いていて、中に詰まっていたという骨片も保存されている。破損した壺の陶片がもう一個体分と、櫛目のある陶片一片もある。
室田三郎景正の名、および「大場三郎景親の臣」とあるのには疑念を感じるが、「皇国地誌村誌」の記事は空論ではないのかも知れない。

山門前の石仏

門前に2基の庚申塔と地蔵菩薩1基がある。村内の別の場所から移されたものと思われる。
2基の庚申塔は造立年に40年の差があるが、造立者名が違っているので、室田村には二組の庚申講中があったのであろう。
弘化5年銘塔の青面金剛像は邪鬼を踏んでおり、市内で邪鬼を踏む塔はこの塔のみである。また、2像ともショケラ(青面金剛に髪をつかまれている女性)が刻まれている。

 

(2) 八王子神社

八王子神社では、立派な社殿と幕末明治期の偉人、山岡鉄舟の書を彫りつけた手水石が見所である。

三重になっている垂木で支えられた屋根は、翼を開いた鳳(おおとり)を思わせる。
元は、寒川町一之宮の日野屋(入沢家)の屋敷神の社殿であって、昭和36年の屋根替えの時、棟札が発見されたと地元に伝わっていたと『茅ヶ崎 歴史見てある記』(17頁)に載っている。

彫刻も見事である。しかし作者は分からない。

向かって左側脇障子の下り龍
向拝の唐破風の龍
向かって右側脇障子の登り龍

山岡鉄舟の書を彫った手水石

向かって右端に大きく彫られた「龍」、その横に「日献四/海水」、左端に「正四位山岡鐵舟書」と落款があり、
右側面に「當邨/氏子中」
左側面に「明治十九年(1886)/戌十一月吉辰/喜捨主/浦賀/鈴木彌曽八」
背面に「片瀬邨/石工/秋元為義」とある。

日に四海の水を献ず」と読む。龍に向かって献じるという意味だろう。火防の呪いである。

『茅ヶ崎歴史見てある記』(17頁)に
この「龍」の字の原書は、当村山本忠義氏宅にある。喜捨主として名を出している浦賀 鈴木氏は、山岡家出入りの魚屋だった。当村の山本家はその鈴木家の妻の実家である。
と記されている。

(3) 妙行寺 松林三丁目5-5

次の見学は、近くの日蓮宗妙行寺を計画したが、本堂が建て替え工事中だったために割愛した。
妙行寺には、徳川家康の孫娘で、鳥取藩主池田光仲の夫人だった芳心院が看経仏(かんきんぶつ)としていた御祖師像があると『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』と略記)室田村の項に記されている。

(4) 松林村役場跡と松林村由石碑

今回見学しているあたりは明治時代には松林村だった。妙行寺にその役場が置かれていた。
妙行寺の前を南北に通る道路は、南に行けば東海道、北に進めば大山道の二つの主要道路を結んでいた。この道路が大山道に接する所(妙行寺のすぐ北側)に松林村に関する二つの石碑がある。

黒い碑は「松林村の由来」(平成19年4月建立)
グレーの碑は「松林村役場跡」の碑
現在の大山道
向こうが東で藤沢方面

「松林村の由来」碑には次のように書いてあった。「/」は改行。
松林村の由来/この前をとおる大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの/近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。/赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であっ/た。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたこ/とでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合/併を重ねていった。/明治二十二年(一八八九)赤羽根を始め、室田・菱沼・小和田・高田・/甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が/建築され、村長に水越良介氏(後に茅ヶ崎町長・神奈川県会議員を歴/任)が就任した。/明治四十一年、松林村・鶴峰村・茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町が出来る/までの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。/昭和二十二年市制が施行された当時の茅ケ崎市の五万余の人口も、市制/六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中/核的都市となりました。/大山街道に沿って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふる/さと的農村風景も次第に失われつつあります。

(5) 神明大神の大ケヤキ

神明大神の参道は大山道から北に延びて、新湘南バイパスを歩道橋で越え、その先に社殿が南向きにある。
参道の入り口に、樹齢四百年と伝えられる大ケヤキがある。

(6) 赤羽根の鎮守 神明大神(しんめいおおかみ) 赤羽根468

大山道が村境となっていて、その北側が赤羽根、南側は菱沼、室田、高田である。
『風土記稿』赤羽根村の項には次のように記されている。

神明宮
鎮守なり、陸奥守義家(源義家)の建立と伝う。
慶安二年(1649)、社領六石の御朱印を賜う。
元和中の棟札あり<元和七年(1621)辛酉九月十七日相州田倉郡大庭庄赤羽根郷本願満蔵寺と記す>。別当 満蔵寺。

『風土記稿』の文中にある棟札は、元和7年(1621)のものをはじめとして、ネズミに食われて年銘不明が1点、一番新しい昭和35年までのものが21点で、全部で23点残っている。(『文化資料館調査研究報告』11に掲載の川代三千雄「赤羽根神明大神所蔵の棟札調査報告」参照)

 

コロナウイルスが収まらない中、狛犬もマスクをしていた。

(7) 水道みち

『地名が語る赤羽根のむかし』(32頁)に次のように書いてある。

この道は昭和10年(1935)に水道管を通し、さらに昭和37年(1962)には県企業庁が湘南東配水本管(1800㎜)を増設した。その際、相模川左岸用水路(左岸用水)に橋を架けて通行できるようになった道である。この水道管は寒川浄水場から鎌倉・逗子まで送水しており、松林公民館近くで再び大山道に入る。

(8) 長屋門のある水越家

大ケヤキのそばの長屋門のある家が水越家。この辺りから西は昔の大山道の面影が残っている。
この水越家について、茅ヶ崎郷土会が刊行した塩原富男著『ふるさとの歴史散歩』(52頁)に次のように書いてある。要点を転記しておく。

水越家は代々高田村の名主であった。明治中期から昭和初期にかけて、地方自治に貢献し、地道な地方政治家として知られる水越良介(文久元1861~昭和10年1934)の生家である。
良介は耕余塾(こうよじゅく)に学んだ後、地元の小学校の教師になった。明治15年(1882)、21歳で赤羽根村他三か村の組合村の戸長に押されてから地方自治に携わり、のち、松林村々長、高座郡会議員、神奈川県会議員をつとめ、大正9年(1922)に茅ヶ崎町長に就任した。当時、学校改革に端を発し、町政が紛乱していたが、この解決に努力、町政を安定させた。また俳人としても知られた。

(9) 真言宗 赤羽根山安楽院満蔵寺跡

赤羽根の神明大神の別当寺だった満蔵寺は神仏分離の時に廃寺になって今は無い。
明治12年『興国地誌村誌』(『地誌集成』67頁)赤羽根村の鎮守の項には、このときのことを次のように書いてある。( )は注記。

明治4年辛未、神仏混淆の禁止の命を遵奉し、別当満蔵寺復飾(還俗)して祠司(神主)となり、その寺を廃し<満蔵寺の境内は神明大神の社地の東にあり、畑地とす、その本尊および法器(仏具)は本山たる円蔵寺へ移転す。

神明大神の参道の西側に、満蔵寺住職から還俗し神官になった杉崎家の墓地と、古い墓石が並ぶ一角がある。古墓石は満蔵寺の墓地だったのかも知れない。



そこに杉崎鳥花添田啞蝉坊(あぜんぼう)の句碑がある。『地名が語る赤羽根のむかし』(54頁)に、

杉崎鳥花(鍋之進)はかつて、現在の神明大神の神職であり、花降庵善明(中赤羽根の竹花永蔵)に師事した俳人で、啞蝉坊とは特に親しかった。唖蝉坊(本名、添田平吉)は明治中期の思想家で、我が国演歌師の祖といわれる。大磯町小磯の出身で母と妻は菱沼の人である。鳥居脇の大きな自然石には二人の句が刻まれている。
 鳥花の句
春風やいそがぬ人のそでを吹く 茅村かく


 風人唖蝉坊の句
密会のかなしみを泣く蛍かな   吐蒙書


茅村は書家。高田出身で町長水越良介の孫。本名を水越咲七といい、高橋竹村に師事した。竹村門下の三羽烏と称され、照心書道会会長を務め、市内をはじめ各地の碑文などを揮毫した。また、前衛書道の第一人者であり、上田桑鳩にも師事し、小学校校長も勤めた。
吐蒙は、唖蝉坊の長男で本名添田知道のことである。父の唖蝉坊とともに〈さつき生〉の筆名で演歌の作詞作曲演奏を経て昭和二年(1927)より文筆生活を送る。俳人でもあり、雅号の一つに〈吐蒙〉を用いた(塩原富男著「茅ヶ崎の記念碑 補遺(その一)」『文化資料館調査研究報告』(2)1994年より一部抜粋)

とある。

⑩ タヌキ塚

新湘南バイパスの側道に沿って、茅ヶ崎市消防署松林出張所(赤羽根338-1)がある。
その近所にお住まいの城田さんの屋敷の中に、タヌキを祭る祠(ほこら)がありタヌキ塚と呼ばれている。

祠の横に、「狸塚」と彫った石碑もあった。
祠にはお札が納めてあり、のぞいてみるとお札の全体は見えないが、
[ ]照覧 / [ ]宮狸大明神堂一宇 / [ ]上證明 (/は改行、[ ]は読めない文字)
の文字があった。
石碑と祠の間には板塔婆が建っていて、種子で「キャ カ ラ バ ア [  ]アーンク(胎蔵界大日如来種子)」と、その下に
為坂田家御狸大明神威光倍増也 施主 城田立範[ ]
と墨書してあった。

茅ヶ崎この狸塚にまつわる伝説があり、いくつかの冊子で紹介されているが、比較的古い記録は茅ヶ崎郷土会が昭和32年12月15日に発行した『郷土茅ヶ崎 研究資料第』4集 に庄司隆玄氏が投稿した「山僧のコレクション」という文章の中に掲載されている。転記すると…

狸塚の伝説については今まで度々聞いていたが、果たしてどこにあるのか判らぬまゝであった。
たまたま祠を新造し狸大明神幟一対新調して、御豊楽をたのまれたのが今年一月、下赤羽根 城田辰五郎氏の屋敷の東北に「無明塚」大正二年建立の碑があった。
ある日主人がこの塚を掃除しながら周囲を掘り返した。すると間もなく病みつき、はかばかしくゆかぬまゝに易者に見てもらうと「正しく狸塚のたゝり、これを祀らば御家繁昌疑いなし」のおもむき、そこで御豊楽となった次第。
そもそも狸塚の由来は、今は昔、赤羽根満蔵寺という真言宗の寺があった。付近一帯では深いヤブで、こゝに歳経た雄狸が住みついていた。たまたま住職が尼さんであったところから、狸公、毎晩美人に化けトントンと庫裏の戸をたゝく。
どうもあやしいと考えた尼さん一策を思いつき、いろりの中に石をいけて待つことしばし、例の如くトントンと戸をたたくので招じ入れ、「お前が真実の狸なればその金玉を八畳敷きに広げてみよ」と云えば、負けぬ気の狸公ついうかうかと広げ始めた。
尼さんここぞとばかりに、手早くいろりの中から焼石を拾い上げ衣の袖にて投げつければ、狸は熱い熱いと悲鳴をあげつつ退散した。
夜が明けて尼さん竹ヤブをたずねれば、さすがの古狸も穴の近くに焼け死んでいた。そこで畜生ながらあわれと思い、「如是畜生発菩提心」と、おもむろにとむらい、埋めたのがこのタヌキ塚である。(菱沼 庄司隆玄)

また『地名が語る赤羽根のむかし』46頁に次の様にある。

この狸塚は北側の大藪(赤羽根213)というところにあったが、新湘南バイパス(昭和63年〈1988〉開通)造成の時に現在地に移された。
今は年に一回、長福寺(菱沼)の住職を招いて手厚く供養されている。なお、20年くらい前に、長福寺住職・庄司隆玄氏より木造の狸像が贈られ、以来城田家では本尊としている。

ご当主の城田さんにお聞きしたところ、「毎年1月に長福寺さんに来てもらい身内だけで法要をしているが令和4年は10月に行う予定」との事だった。

⑪ 日蓮宗 村沢山本在寺 高田一丁目7-38

 水越家から西へ約300㍍先の左手に本在寺がある。

『風土記稿』高田村に次のようにある。
本在寺 村澤山と號す。日蓮宗〈鎌倉比企谷妙本寺末〉、本尊釋迦を置く。慶長5(1600)年12 月、僧 日覺造立すと云ふ<按ずるに、鎌倉郡渡内村に當寺の舊地なりとて寺蹟あり。本在寺と字す。今此地に移りし年代時歴を傳へず>

また、明治時代の記録は、「明治十年編纂 興国地誌」高田村(『茅ヶ崎地誌集成』27頁)に次のように記されている。
本在寺 村内大山往還南の方にあり。日蓮宗一致派。相州鎌倉郡大町村字比企谷妙本寺末。 創立は慶長5年(1600)2月2 日。開基 村上彦兵衛。僧 日尊請じて開山とし、其の身は日尊の従弟と成りて 日覚と称し 二祖を続ぐ。
寛永10年(1633)、領主大岡兵蔵 当村に3ヶ年居住のおり、家光将軍より、以来の軍功に依って当 村高156石を拝領して領主と成る。今 明治10年(1877)迄およそ278年、本村北の方にあり。歴世の僧25代、現今に存せる。

また、「明治12年皇国地誌村誌」高田村(『茅ヶ崎市史集成』61頁)に次のようにある。 
本在寺 本村の北 字六斗蒔にあり。北条相模守の臣 村上彦兵衛、小田原没落の後、本村に帰農し深く仏に帰依し僧 日尊の徒弟となり、薙(剃)髪して遂に日覚と号し、一宇を創立し、その師僧 日尊を開基とす。これ慶長5年〈甲子〉2月なり。然而し(しかりしこうし)自からその二世を続く。

これらの説を総合すると次のようになる。
小田原北条氏の臣、村上彦兵衛は小田原城落城ののち帰農し一宇を立てて、日尊を招いて開山とし、自らは日覚と称し二世を次いだ。慶長5年のことである。本在寺は鎌倉の妙本寺の末寺である。
藤沢市柄沢に本在寺の旧地がある。しかし高田に移った時は伝わっていない。
時代は移って、旗本の大岡兵蔵は高田村に3ヶ年在村するとき、寛永10年に高156石をあてがわれた。


文中の「大岡兵蔵」は高田村領主の大岡家初代 大岡忠(ただよし)である。
 
なお、本在寺が開創400年を記念して本堂を改築したとき発行した『報恩 本堂落慶記念』誌には次のように記されている。
慶長5年、鎌倉郡柄澤(現 藤沢市)に住していた足利氏の重臣、村上彦尉源親房が本宗に帰依し、出家得度し、日覺と名のり、邸宅を改築して堂宇とし、池上本門寺、鎌倉妙本寺両山13世貫首、蓮乗院日尊上人を開基上人に請い開創した。
その後、延宝7年(1679)、当山5世 日定上人のとき現在地に移転し再興した

『風土記稿』と『興国地誌』は本在寺が唐沢村から高田村に移った年を伝えていないが、『本堂落慶記念』にはそれを延宝7年としている。そうだとすると、村上彦兵衛(彦之尉)が最初に建てた一宇は唐沢村であったことになる。
また、開基 日尊上人が筆にし署名している慶長5年銘の大曼荼羅が寺宝として保存されており、『本堂落慶記念』に掲載されている。

本在寺は大山道に沿っている。大山道から境内への入り口に大きな石灯籠が立っている。
弘化2年(1845)の造立で、寄進者と思われる江戸の石工28人の名が刻まれている。
田村通り大山道の入り口の大山の一の鳥居にも江戸の石工たちの名があり、灯籠の28人中18名は両方にある。この事から、この石灯籠は大山灯籠として建てられたことが分かる。

大岡家 歴代の供養塔
江戸時代、高田村の領主は長田氏と大岡氏だった。
村高は182石と『茅ヶ崎市史』5巻583頁にある。

 


本堂の裏、墓地の入口に大岡家ゆかりの供養塔が二基ある。
向かって左の塔は、寛文9年(1669)に大岡家2 代忠章(ただあき)の妻 浄泉院日常が夫の十三回忌に菩提をとむらって建てたもの。
右塔は、4代忠品の妻、輪光院妙安日照が享保4年(1719)に、夫など大岡家歴代を供養するために建てたもの。
堤村を領知する大岡家とは一族で、越前守忠相の生まれはこちらの大岡家だった。忠相が堤の浄見寺に墓参りする際は、必ずここに休んだという話が伝わっている。

⑫ 熊野神社 高田一丁目10-44

高田の鎮守。
『明治10年皇国地誌』(『地誌集成』27頁)及び『明治12年興国地誌村誌』(同書61頁)に次のようにある。
万治元年(1658)12月 領主大岡隼人、紀州の熊野本宮より遷祀し〈同村日蓮宗本在寺住僧代々社務ス〉 明治6年仏を除して〈赤羽根村神職杉崎正雄兼務〉…。祭日年々8月4日。

大岡隼人は3代忠高で、明暦3年(1657)に家督を継ぎ、元禄14年(1701)に死去している。堤村領主の大岡家に養子となった忠相の父でもある。

社前に置かれている手水石に領主の名が刻されている

表側
大岡吉次郎忠移(ただより)は大岡家7代。
元文元年(1736)家督を継ぎ、明和元年(1764)卒去。
裏側
本願主の森氏は、高田の旧家で小田原北条氏に仕えていた。
中央に刻されている「惣産子」は「総氏子」の意味である。
石工は信州高遠の守屋喜八とある。

日枝神社
また、境内に日枝神社がある。かつて、近くの三王山から移したと伝えられている。『明治10年興国地誌』(『地誌集成』27頁)に、
熊野神社境内西の方に鎮座す。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。創立、享保5年(1720)年4月、領主大岡氏、近江の国比叡山東坂本より遷祀す
とある。
勧請した人物を領主に結びつけた記事のようにも思えるが、享保5年に領主だった人物を調べると、宝永7年(1710)に家督を継ぎ、享保13年(1728)に卒去した5代忠陣(ただのぶ)となる。

社殿の裏に集められた石仏
柵があって近くからは拝見できなかったが、4基の石仏が集めてあった。

見事な社殿の彫刻

向拝(こうはい)にある龍の彫刻
彫刻師の名があるが、詳細は分からない。

⑬ さぎ茶屋跡 この日 最後の見学ヶ所

大山道と小出県道の交差点を西に過ぎると円蔵の飛地で、かつてさぎ茶屋という茶屋があったといわれている。そこから南側は低く開けて、鶴が台中学校と鶴が台団地が広がっている。
さぎ茶屋の名前の由来は、団地ができる前、辺りが沼地でサギがいたとか、大山道の北側は高くなっていて鷺山と呼ばれていたとか、焼き物のサギが茶屋の湯沸かし場に置いてあったからだとかと言われているが、はっきりしない。
町田会員が以前にこの辺を写したカラー写真を持っておられ、画面にある墓の辺りが鷺茶屋だったとのことだった。

大山道をさらに西に進むと富士塚の跡があるが、私たちはそこを割愛して、さぎ茶屋跡を見学し、この日の史跡・文化財巡りを終えた。

〈引用文献〉
①『茅ヶ崎地誌集成』(茅ヶ崎市史史料集3集)茅ヶ崎市 平成12年刊
 (『新編相模国風土記稿』・『明治10年・明治12年皇国地誌』はこの史料集に拠っている)
②資料館叢書4 山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』茅ヶ崎市教育委員会 昭和53年刊
③川代三千雄「赤羽根神明大神所蔵の棟札 調査報告」文化資料館調査研究報告11所収 茅ヶ崎市教育委員会 平成15年刊
④資料館叢書12『地名が語る赤羽根のむかし』茅ヶ崎市文化資料館 茅ヶ崎市教育委員会 平成26年刊
⑤塩原富男『ふるさとの歴史散歩』 茅ヶ崎郷土会 昭和58年刊
⑥塩原富男「茅ヶ崎の記念碑 補遺(その1)文化資料館調査研究報告2所収 茅ヶ崎市教育委員会1994年刊
⑦庄司隆玄「山僧ののコレクション」中「狸塚出土の白珊瑚化石並に石鏃一個」『郷土茅ヶ崎研究資料4』所収 茅ヶ崎郷土会 昭和32年刊
⑧『茅ヶ崎市史』5 概説編 茅ヶ崎市 昭和57年刊

photo & report 平野会員

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (030) クロジ

(029)で紹介したアオジと同じように体の羽の色から名前が付いている。
Wikipediaには「雄は全体に灰黒色。雌は灰褐色。」と記してあった。

夏は亜高山帯にいて産卵・子育てし、冬になると低地に降りてくるというから、アオジと同じような生態である。
茅ヶ崎には冬にならないと来ないが、目立たないために見つけるのは難しいらしい。
写真に捉えにくい鳥なので、よくぞ写したという貴重な画像だ。


メジロ、ジョウビタキと一緒にいるが、体が黒いので目立たない。

「繁殖期には樹上で昆虫類やクモ類を捕食し、それ以外の時期は地上で植物の種子を食べる」とWikipediaに記してあった。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (029)アオジ

おなかが黄色いですが、アオジです。

Wikipediaに「下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い」と書いてありました。

背中の方はどうかというと
「上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る」(Wikipedia)とありました。
目のまわりなどが暗い緑色に見えるところから、アオジという名が付いたのでしょう。

寒そうにしています。
夏は高い山中や北海道で産卵・子育てをして、冬になると茅ヶ崎あたりの平地に降りてきて過ごすそうです。
茅ヶ崎は暖かいと思って来たのでしょう。
「北海道の冬に比べれば暖かいかも知れないが、寒い日もあるのだよ」と言ってやりたいです。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (028)ルリビタキとタイワンリス

冬の使者、ルリビタキが帰って来ておりました。
という投稿が、この北部丘陵編に小出地区で見た野鳥を送ってくれる朝戸夕子さんから届いた。
なんと良いチャンスと絵柄でしょう。なかなか撮れない写真です。

夏には高地の山林で繁殖し、冬になると茅ヶ崎あたりの平地にも降りてくる。
ジョウビタキと同じ仲間だが、ジョウビタキの方がよく見かける。

ブルーがとてもきれい。
オスは成長するとこの色になり、メスと若いオスはしっぽの先だけがブルー。

2021年12月15日にも北部丘陵編に010の番号で掲載している。
こちらにはメスも紹介してあります。


タイワンリス

朝戸さんは、ルリビタキと一緒にタイワンリスの写真も送ってくれた。

かつて鎌倉市や江ノ島で悪名を売って、今は茅ヶ崎にも住み着いている。
農作物を荒らすのはいつものことだが、ネット情報では野鳥の巣なども襲うとあった。
ニホンリスの生息にも影響を及ぼしているとも書いてあった。
在来の自然に悪さをする外来の動物、植物は困ったものだが、彼らを日本に持ち込んだのは結局私たち人間なのだ。
知らぬうちに連れてこられたうえに「困ったもんだ」と言われて、「自分の方こそ困ったもんだ」と言いたいのかもしれない。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎

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第300回 その-2 横浜市都筑区(茅ヶ崎城址、大塚・歳勝土遺跡区)2022.3.12 

令和4年3月12日(土)実施
横浜市港北区に①雲龍院 ②小机城址、都築区に③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡を訪ねました。
ここに、その-2として 同市都筑区の③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡探訪を報告します。

この報告は現地に立ててある説明板の文章と画像に基づいています。掲載にあたって文章は簡略化し、画像は加工してあります。

その-1 ①雲龍院、②小机城址はこちらから

【今回の史跡・文化財探訪の趣旨】
1.県内の城跡の探訪
2.横浜市都筑区に、私たちが住む茅ヶ崎市と同じ地名があるので、そこがどのような様子か確認すること。
海辺の茅ヶ崎市の地名の由来は、「茅(チガヤ)の生える土地が海に面していること」と言われるが、都築区の「茅ヶ崎」は海から離れており、地名の由来を考えるなら、両所に適応する説でなければならないだろうと考えたからである。

③茅ヶ崎城址(横浜市都筑区茅ヶ崎東二丁目)

城址から北西方向の歴博通りから撮影。城址の北面である。

茅ヶ崎城址は茅ヶ崎城址公園(横浜市)として保存・公開されている。
センター北駅から徒歩8分。
公園に入るには北側に入り口がある。
入り口にある説明板に次のように説明してある。
(以下、ゴシック体の太字は現地にある説明板から抽出した文章である。)

茅ヶ崎城址
空堀(からぼり)、郭(くるわ 曲輪とも書く)、土塁(どるい)などが残る貴重な中世城郭遺跡。早渕川を北に望む丘を利用して築城されている。
14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろに二重土塁とその間に空堀が設けられた。これは後北条氏独特のものとされる。築城には、相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されている
16世紀末までに城としての役割は終わる。江戸時代には徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、城山という地名で保存されてきた。

茅ヶ崎城と古道の関係を示す図。現地の説明板から転載。

城の立地と歴史的環境
茅ヶ崎城、早渕川右岸の丘陵の先端部に築かれた丘城(おかじろ)。最高所は中郭(なかぐるわ)南西隅の土塁上で、標高はおよそ40㍍。
茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)がある。
早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜市神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつだった。交通の要衝の地に自然の地形を利用して築かれていた。

茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景
1338年、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関の鎌倉府がおかれ、「鎌倉公方」足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持つようになる。
15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏が対立し、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中止に大規模な戦乱が起こる。1476年の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされる。
15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、1495年に小田原城を奪取し、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていった。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられている。
1590年には、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せ、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布された。その後、江戸幕府の開府を経て、1615年に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となった。

茅ヶ崎城の移り変わり
茅ヶ崎城の規模は、東西330㍍、南北200㍍、総面積はおよそ55.000㎡。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀(からぼり)、郭の外縁部に築かれる土塁(どるい)などで構成されている。天守閣のような大きな建物や石垣はなかった。

発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められた。
築城当初は、東西2つの郭のみで、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭(にしくるわ)・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられる。中郭(当初の西側郭)の南東部から、倉庫と考えられ建物などが見つかっている。この時期に相模、武蔵両国を支配していたのは関東管領上杉氏で、城の改築にも影響を与えていたと推定されている。
16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされた。中郭の東寄りに新たに「中堀」も掘られている。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであった可能性もある。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説がある。
茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、14、15世紀のものと考えられ常滑産の蔵骨器板碑が発見されている。これらの出土品は根小屋(ねごや)とよばれる生活拠点エリアが形成されていた可能性を物語っている。

4ヶ所の郭(くるわ)

説明板にある図。北・中・西・東の4ヶ所の郭とそれらを結ぶ散策路が示されている。説明板から転載。
発掘調査時の測量図に郭を落とした図。説明板から転載。
赤い円は蔵骨器と板碑の出土地点。

郭(くるわ)
堀や土塁、石垣などで囲まれた区画を郭といい、「曲輪」とも表記される。江戸時代には「丸」とも呼ばれた。城は、郭をいくつも作り出すことで成り立っている。それらの中心となる郭は「主郭」・「本曲輪」と呼ばれ、江戸時代には「本丸」と呼ばれた。
戦国時代の丘城(おかじろ)は自然の地形を利用して築かれていて、主要な郭では、その外側や丘陵の中腹にも種々の区画が見られる。郭をめぐる堀の外側を取り囲む「帯郭」、郭の外側の一部に作られる「腰郭」などがその代表といえる。

茅ヶ崎城址の郭
茅ヶ崎城では石垣は見られず、堀と土塁によって区画された「東郭」「中郭」「西郭」「北郭」の4つが主要な郭で、東郭が主郭に相当すると考えられる。東郭は東西50㍍、南北20㍍の不整長方形をしており中郭より3㍍ほど高い位置にある。建物などの痕跡はまだ確認されていないが、戦闘時の最後の拠点となる場所でもあったと推定される。
「東郭」北東部に接する一段低い位置に「腰郭(こしぐるわ)」が見られる。その北西には東北郭があるが、この郭の詳細は明らかではない。また、それぞれの役割は不明だが、丘陵の中腹に「平場」と呼ばれるテラス状の平坦部が複数見られる。

根小屋(ねごや)

中世の城では、人々の生活する集落の根小屋と呼ばれる一角があった。

お城の部分(郭)と生活空間の根小屋の位置関係を示した図。説明板から転載。
北を向いて撮影された航空写真である。

根小屋
城下町がまだない時代の、城主や重臣達の居住地区だった。城主は本丸や主郭に居住せず、郭の麓につくられた根小屋で生活し、戦となったとき城に籠もった。
茅ヶ崎城の根小屋は、城の南・東の崖面裾に幅10~20㍍、東西百㍍に及ぶ平場が展開しており、14~15世紀に蔵骨器や板碑などから成る墓地を伴う屋敷があったと考えられている。

北郭(きたぐるわ)

城址公園の入り口から、私たちはまず 北郭(きたくるわ) に進んだ。
着いてみたらそこは、現代流にいえば、「広場」だった。
この広場、つまり「郭」には建物があったのだろうか。
「井戸」と「土橋(どばし)」の説明板が立っていた。

遠方にある建物は来場者用のトイレ。その右側の階段を上ると中郭(なかくるわ)に至る。
お城の時代の井戸はこのトイレのそばにあったらしい。

井戸
戦のときは立てこもることもあった城では、水が湧く場所が欠かせなかった。城内に複数つくられ厳重に警護されていた。茅ヶ崎城址では、北郭に、上端の直径が約4㍍、深さ5㍍ほどの井戸が見つかっている。この井戸の湧水量は極めて多く、遺構確認面から井戸底までにすべてに水がたまっていたと仮定すると20㍑ポリタンク約千本分になる。

土橋

土橋の位置を示した図。郭はそれぞれ空堀で囲まれているので、入るには、堀をまたぐ橋状の施設が必要になる。橋に代わるものとしてその部分の堀を埋めて土橋としてあった。説明板から転載。

北郭土橋
北堀(北郭の北の辺にあった空堀)の中央西部を掘り残したもので、上幅は2.9㍍、下幅は4.5㍍以上ある。横断面は幅広の台形で東壁は60度・西壁は70度となっていた。
土橋に続いて、幅二㍍弱の土を固めた道路が郭内にのびている。この道が始まる両側には対になる柱穴があり、木戸の痕跡と考えられている。


土橋
土橋は虎口(こぐち=城の出入り口)に設けられる施設。郭(くるわ)周辺の空堀(からぼり)の一部を掘り残してつくられる。
茅ヶ崎城址では、北郭土橋と西郭土橋のように空堀を掘り残してつくられたものと、中郭土橋のように東郭と結ぶために空堀の一部を埋めてつくられたものがある。北郭土橋と西郭土橋は、早渕川沿いの道に向かって設けられている。

空堀(からぼり)
堀は水堀と空堀に分けられる。水堀は主に低地の城につくられ、堆積物で埋まりやすい難点がある。
水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多く作られた。空堀は底が土で、その形状は横断面が逆台形の「箱堀」が多く見られる。
茅ヶ崎城址の堀は両側の壁が70度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていた。

土塁とともに堀は中世の城の主要な防御施設だった。
北~東郭を囲む空堀をピンク色で示した図。説明板から転載した。
北郭に設けられていた空堀を発掘調査したとき撮影した図。説明板から転載。

中郭(なかぐるわ)

北郭の次に、階段を上って中郭を見学した。

画像奥の土塁が切れている所は、その向こうが坂になっていて、北郭から登る中郭への入り口。
北を向いて撮影した。手前の並んだ石は倉庫群の礎石を表している。
突然ですが、私たち一行はこの遺構見学の途中で空腹を覚え、一斉にお弁当を開いたのでした。
センター南駅そばのコンビニで求めた食料をガサゴソ開いたのです。

土塁
堀を掘った土を盛りあげて築いた堤(土塁)のことで、敵を阻止し、反撃するためのしつらえ。
堀と土塁は一体となっている。土盛りする部分は、斜面を平らに削って帯状のテラスとし、黒土を叩きしめ、盛土が崩れないよう基礎を作った。このテラスからやや下がった場所を、等高線沿いに堀切り、排土を斜面下方に水平に積んで土塁とした。茅ヶ崎城の主な土塁は、堀底から7~8㍍、郭内から高さ2.5㍍以上、基底部の幅は7~8㍍あったと推定される。
土塁の側面には「武者走り」とか「犬走り」とよばれる、連絡用の通路、あるいは土塁を越えようとする敵を上方から攻撃するための足場が作られた。

倉庫の遺構
遺構とは、土地(地中)に残された基壇や柱穴、墓などのこと。このような構造物の様式や配置などを知ることができる。


倉庫の発見
中郭の住居域と見られる部分を明らかにするために、南東部の発掘調査を行った。その結果、多数の柱穴や土坑があり、掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切ってあることが明らかになった。
建物1~3内の土坑は陶器の埋納坑と推定され、建物は倉庫だったと考えられる。建物5からは炭化材と焼けた壁土のかけらが多数見つかり、焼失した土倉と判明した。
このことから中郭南東部は倉庫地区だったことが明確になった。また、遺構はその重なりや位置関係から4~5期の変遷があることもわかった。
居住施設としての建物あとは、これまでのところ確認されていない。

現地の説明板から転載

土器
中世に作られた土器が、国産陶器や中国磁器とともに出土した。土器はすべてロクロ造りで体部が外反する坏形(武蔵型)のものがほとんどだった。土器の内底には渦巻状の文様が記されている。この土器は茅ヶ崎城址を特徴づけると共に、武蔵、伊豆の15世紀のいくつかの城から出土している。
その他の出土品は石臼・硯・銭・鉄釘などだった。また、中世以外の縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器などが出土しており、この丘陵地に大昔から集落が営まれていたことがうかがえる。

東郭(ひがしくるわ)

次に私たちは東郭に進んだ。
4つの郭の中で、最も高いところに作られている。

東郭、中郭、両者をつなぐ土橋、腰郭の位置を示した図。写真を撮影した方向と土橋の位置を推定して加えた。
元図は説明板の図を使った。

東郭
城の中でも最も高い位置にあり、中原街道や矢倉沢街道を見渡せたので物見台の役割を持っていた。最高所にあるため、戦の際には最後に逃げ込んで籠城する場所だったと推定さる。


腰郭(こしくるわ)
東西60㍍の帯状をなし、東北部は約200平方㍍の平場となっている。東側は急な崖で、北側には幅10㍍ほどの北堀があり、東北郭との間を遮断している。この北堀の内側には土塁が延びている。
この郭は、武者溜(むしゃだまり)としての役割があったと推定される。

中郭と中郭をつなぐ土橋
中郭と東郭は上幅14㍍・深さ7㍍の空堀によって隔てられているが、その中央部は土橋によって連結されている。土橋は上幅約2㍍、下幅約15㍍で、上面は中郭より約2㍍、東郭より4メート低くなっている。このため中郭への上り下りは容易だが、東郭方面は何かにつかまらないと登れないほどの急傾斜だった。
調査の結果、この土橋は地山を掘り残したのではなく、盛り土によって形成されていたことがわかった。土橋の下には空堀があり、中郭東側と東郭の土塁は失われていることから、城の後半または廃絶後に通路としてつくられたようだ。

説明板の図を転載。

虎口(こぐち)

城の出入り口を虎口(小口)という。敵が攻めてきたときすぐに封鎖するため幅を狭くしてある。城の防御と攻撃に重要な場所で、様々な工夫が加えられている。横矢という敵に横から矢を射掛けるための構造、屈曲した堀(折邪 おりひずみ)の構造が見受けられる。
茅ヶ崎城址では北側に推定する説があるが、発掘調査による確認はされていない。東郭南側にも虎口が推定される場所がある

茅ヶ崎城址の見学をここで終了

雲松院、小机城址、茅ヶ崎城址と電車を乗り継ぎながら探訪してきましたが、この日、もう1ヶ所、大塚・歳勝土遺跡も計画に入れていたので、茅ヶ崎城址の西郭は通り過ぎただけで城址を下山しました。
歴博通りに出て、両遺跡のある北の方を目指し歩き始めました。
途中、歴博通りは早渕川を渡ります。
このあたりが江戸時代の茅ヶ崎村だったのだと意識しながら見渡しましたが、すっかり開発されていて、大都会のど真ん中を見るようでした。


早渕川の陸橋の上から上流を見る
横浜市歴史博物館と大塚・歳勝土遺跡を結ぶ陸橋の上から、歴博通りの南方面をみる
「都築まもる君」と書かれたこんなものがありましたが、交通安全とゴリラとの関係が分かりませんでした。

茅ヶ崎市の「茅ヶ崎」と横浜市都築区の「茅ヶ崎」の共通点をつかむことは全くできませんでした。

④国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡 (横浜市都筑区大棚西)

大塚・歳勝土遺跡公園の案内図。公園の入り口に設置されている説明板から転載した。
北を上にして加工した。

大塚遺跡は、歴博通りから西側が開発されて規模が小さくなっている。
遺跡公園について次のように説明してあった。

国指定史跡(昭和61年:1986指定) 大塚・歳勝土遺跡
大塚・歳勝土遺跡は、今から2,000年前(弥生時代中期)にこの地方で稲作を始めた人々のムラ(大塚遺跡)とその墓地(歳勝土遺跡)を中心とした遺跡。


大塚遺跡
大塚遺跡では、まわりに大きな溝(みぞ)をめぐらせた外周600㍍におよぶ大規模のムラ(環濠集落 かんごうしゅうらく)の全体が発掘され、85軒の竪穴(たてあな)住居跡と10棟の高床(たかゆか)倉庫跡などが発見された。縦穴住居跡の重なり合いや分布の様子から、ムラは10軒前後の竪穴住居に1~2棟の高床倉庫をそなえた人々の集団が、3つ集まって暮らしていたと考えられる。ムラのまわりには幅4㍍、深さ2㍍ほどの溝(みぞ)をめぐらし、外側に土を盛った土塁をもうけて守りを固めていた。


歳勝土遺跡
歳勝土遺跡では25基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されたが、西側にまだ調査されていない部分があり、総数は30基前後と推定される。

大塚・歳勝土遺跡はムラと墓が一体としてわかる貴重な遺跡として昭和61年(1986)に国の史跡に指定された。

環濠集落
周りに溝をめぐらして守りを固めたムラで、弥生時代に九州から関東、北陸の各地で造られこの時代に大きな争いのあったことを物語っている。

竪穴住居
地表を1㍍ほど掘り下げ、その排土をまわりに積み、その上に屋根をかけた半地下式の家屋で、出入りにはハシゴを使っていたことが大塚遺跡の調査で分かった。

方形周溝墓
周りを4本の溝で囲み、低く土を盛った墓で、身分の差が生まれ拡大していく弥生時代から古墳時代前期に、ムラの中の限られた人々が葬られた。

大塚遺跡の発掘調査のときに撮影された図。
住居跡とそれらを囲む環濠の様子が良く分かる。
早渕川の流れが見える。南方向を向いて撮影されている。
消失した部分は、現在歴博通りとなっている。現地の説明板にある図を加工して転載した。

左は大塚遺跡の図。
色濃く表されている部分が、現在保存されている部分で、竪穴式住居跡が復元されている。
現地の説明板の図を加工して転載。

復元された弥生時代の竪穴住居跡
これも復元された弥生時代のムラを囲む環濠の様子

同じ所に3度立てられた住居を復元して保存

竪穴住居跡(Y17号住居跡)の発掘調査時の姿
発掘調査を行うとこのような住居跡が表れる。
屋根をかけないで住居の床面を見せてある。
左の写真の住居(Y17号住居跡)は、同じ位置に3回立てられた跡が残っていると説明してある。
茶色の線が立て直し1回目の住居で、それを壊して立て直し2回目の住居を青い線で表してある。緑色は最初の建設を示す。
図を左に90度回転させると方向が写真と一致する。現地の説明板から転載。

上に紹介した竪穴住居跡の建て替えられた事例のそばに、次のような説明がしてあった。

竪穴住居跡は、発掘調査時の住居跡の構造や空間を体験できるように再生した。
竪穴住居跡は、大塚遺跡のほぼ中央部で発見されたYー17号住居跡で、2回の建て替えが行われている。壁の一方には通路と考えられている溝がつくられている。
再生は、造形保存という方法で、発掘調査時に発見された住居跡の形や質、色合いを正確に保存する。
その方法は、次の順序で行った。
①関東ローム層を掘りこんで作られている住居跡に、合成ゴムと石膏を使用して、表面の型を取る。
②型や発掘調査データを利用して、特殊加工したガラス繊維強化樹脂セメント(GRC)で住居跡の遺構面を再生する。
③再生した表面には色の調整モルタル、保護樹脂の塗布を行い完成させる。

方形周溝墓群 歳勝土遺跡

発掘調査中の歳勝土遺跡
現在「大塚遺跡」と呼ばれる環濠に囲まれた弥生時代後期のムラは、そこから約80㍍離れて墓地をしつらえていた。
その墓地が今は「歳勝土遺跡」と呼ばれている。

密集する方形周溝墓。現地の説明板から転載。

歳勝土遺跡の保存整備
歳勝土遺跡からは、昭和47年度発掘調査によって多数の方形周溝墓が発見され、出土した土器などから大塚遺跡で生活していた人々の共同墓地であることが明らかになった。保存整備は、遺跡の全体を大塚遺跡と同じように約1.5㍍の厚さの盛土によって保護している。

現地の説明板から転載。

おわりに

歳勝土遺跡の方形周溝墓を見学して、茅ヶ崎郷土会のこの日の第300回史跡・文化財探訪は終了しました。
一寺院、二つの城址、大塚・歳勝土遺跡の見学といささか内容過多ではありましたが、楽しい探訪の旅でした。

photo 前田会員・平野会員
report 平野会員

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