茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (042)  ヒクイナ

1月9日 芹沢で ヒクイナに出会いました。
時々、水がある場所で見かけますが なかなか近くでは撮らせてくれません。
今回は すぐ足元に出て来て、食事を楽しんでおりました。(朝戸夕子)

Wikipediaには次のように書いてあります。要点のみ転記します。
中華人民共和国東部、台湾、日本などで繁殖し、冬季になるとインドシナ半島、中華人民共和国南部、日本(本州中部以南)へ南下し越冬する。
上面の羽衣は褐色や暗緑褐色。喉の羽衣は白や汚白色(画像にはほんの少しみえている)。胸部や体側面の羽衣は赤褐色。
湿原、河川、水田などに生息する
食性は動物食傾向の強い雑食で、昆虫、軟体動物、カエル、種子などを食べる。
水辺の茂みや低木の樹上にヨシなどを組み合わせた皿状の巣を作り、日本では5-8月に4-9個の卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は20日。

ここで取り上げるのはヒクイナですが、別に似た名前のクイナやヤンバルクイナなどが日本には棲息しています。昔はヒクイナとクイナを区別していなかったとWikipediaに書いてあります。クイナは漢字では「水鶏」と書きます。
ヒクイナの独特の鳴き声は「ト ト ト ト ト ト ト ト」、あるいはは「タ タ タ タ タ タタ タ」のように聞こえます。戸を叩く音を連想させ、古典文学に「水鶏たたくと言いならわされてきた」として例を挙げてあります。

くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ。
   — 紫式部、『源氏物語・明石』

五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。
   —  兼好法師、『徒然草

此宿は水鶏も知らぬ扉かな
   — 松尾芭蕉

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎(編集子)

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第302回 鎌倉市に玉縄城址とその周辺を訪ねる 令和4年(2022)10月8日(土)

コース
①玉縄首塚跡―(バス)―②諏訪神社―③陽谷山龍宝寺―④七曲坂―⑤玉縄城大手口址―⑥玉縄城の碑―⑦ふわん坂―⑧鎌倉道の道標―⑨久城寺―(バス)―大船駅で解散

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鎌倉駅で下車し、柏尾川を渡って、まず①玉縄首塚に向かいます。

コロナウイルス感染予防のために、マスクをしています。

柏尾川 下流方向
大船観音寺の観音様を見上げながら

観音様は昭和35年(1960)に落慶式、同56年(1981)から曹洞宗大船観音寺が管理・運営している。

玉縄城址の北条氏と、小田原北条氏

相模国戦国時代の山城、玉縄城は小田原北条氏のわかれの北条氏が城主をつとめていました。
このめぐり記でも、代々の玉縄城主の名が出てきますので、両北条氏の略系図を掲げておきます。

① 玉縄首塚 

六地蔵や馬頭観音などの石仏の中に、一段と大きな、昭和43年建立の首塚由来の碑と、表面が剥離して年号不明の漢文の碑が立っています。玉縄城の北条軍として戦死した甘粕氏をたたえて、この塚を甘粕塚とも呼んだそうです。
時は戦国時代。小田原に城を構える北条氏は関東各地の豪族や戦国大名と争っていた。大永6年(1526)、安房の里見氏が鎌倉を攻めたとき、玉縄城初代城主の氏時はこの地で迎え撃ち、後に、ここで味方と敵の戦死者の霊をまつったと首塚の碑に彫ってあります。
なお、首塚由来碑「怨親平等」の碑文は「e‒ざ鎌倉・ITタウン」の「玉縄首塚由来」(https://www.kcn-net.org/index.html)に掲載されています。

大きな碑だが、剥落がひどく読めない
玉縄首塚の碑
地蔵の道しるべ。向かって左は「ふじさわ道」らしいが、右が読めなくて残念。

バス停に戻り、鎌倉市植木の諏訪神社と龍宝寺に向かいました。

②諏訪神社 (鎌倉市植木)

玉繩城3代城主 北条綱成(つなしげ)が信濃の諏訪大社を勧請し、城の守り神として玉繩城東側の最高部(海抜約80㍍)の土塁上に祭ったのだそうです。その場所は、現在の清泉女学院内にあり諏訪壇と呼ばれています。祭神は建御名方神。元和5年(1619)に玉繩城が廃城となり、村人が現在地に移す時、近くの御霊社も同時に合祀したと伝えられています。

③龍宝寺 鎌倉市植木128

山号は陽谷山。曹洞宗。諏訪神社のすぐ南側にあります。本尊は釈迦如来像、開基は北条綱成(つなしげ)、開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)と伝えられ、文亀3年(1503)、北条綱成が城の東北に香花院として開いたのが始まりとしています。綱成の戒名が「瑞光院殿実州宗心大居士」だったため、寺は「瑞光院」とも呼ばれました。6代城主氏勝(綱成の孫)の時、大応寺として現在地に移転し、その後江戸時代の住職によりいまの寺号になりました。(Wikipediaより)
この場所は鎌倉時代に2代将軍源頼家の子、公暁の7人の部下が源実朝の首を隠した場所とも言われています。

龍宝寺境内の玉縄歴史館

玉縄歴史館は「玉縄城址まちづくり会議」が運営する私設の博物館です。
中には2階に民俗資料などを展示する展示室があり、1階では玉縄城に関する展示が行われていました。
玉縄城の俯瞰図、歴代城主の紹介などは、今から城址に登ろうとしている私たちにはとても勉強になりました。
興味を引いた展示物に、昔、城攻めにあったとき、敵に投げたという石つぶてなどがありました。

展示室にあった玉縄城の地模型です。
この日の私たちのコースは龍宝寺を出た後、七曲坂の登って大手口の前を過ぎ、ふわん坂を下って久城寺に至り、そこからバスで大船駅に向かうというものでした。
本丸跡は、現在清泉女学院になっていて、城址に入ることができません。

玉縄城址の地模型を見ながら
いくさの時に敵に投げたつぶて石

国指定重要文化財の石井家住宅

説明板によると、江戸時代中期、17世紀後半に建てられた民家で、神奈川県の古民家に多い、「三間取り四方下屋造り」の構造と説明板にありました。石井家は後北条時代に遡る旧家で、江戸時代には植木村の名主だったともありました。
別の銘板に、昭和45年(1970)に解体移築され、工事監督者は「文部技官 伊原恵司」とありました。伊原さんは私たちにはなつかしいお方で、茅ヶ崎の香川にお住まいでした。

ぶっけり仏

本堂に向かって左側横に「玉縄北条氏供養塔」と標柱があり、奥の一段高いところに新しい五輪塔と、その横に、2基の卵塔、文字を刻んだ自然石の標石1基が並べてあります。
「ぶっけり仏」と呼ばれて、以前は寺の裏山にあって、直してもいつも転がっているところから名付けられたもので、玉縄北条氏、三代の城主の墓石と伝えられているそうです。
この3基の石塔について、ブログ(北条三代の墓(綱成・氏繁・氏勝)~鎌倉:龍宝寺~ )に、平成24年に行われた「玉縄城築城500年記念」時に裏山から移築されたとありました。北条三代は3代綱成・4代氏繁・6代氏勝で、ブログには裏山にあったころの画像が載っています。石塔の後に、施餓鬼に建てられた板塔婆が写っていて「大施餓鬼為龍寶寺殿大應栄公大居士菩提追善供養塔 當山」「…為當山開基瑞光院殿實州宗心大居士…」「…為上嶽寺殿角翁良牛大居士…」と書かれています。

ところが、3基の石塔を見ると卵塔2基には文字がなく、一番右にある自然石の標石には正面に「瑞光院殿/龍宝寺殿/廟跡」と、右側面に「田代良順立之」とあります。この標石の左側面は確認しなかったのですが、あるいは建立年があるのかもしれません。
先に記したブログには「良順和尚は龍宝寺4世で、この標石は元和年間~寛永5年ころの建立」とありました。

新井白石の碑

新井白石は植木村に領地を宛がわれていました。
境内に、白石の碑と言われる角柱の石像物がありますが碑の下半分は石が溶けていて表面が判然としません。文字は見えません。
『新編相模国風土記稿』に、この碑には「室鳩巣の撰文があり、享保11年(1726)に、白石の長男、明卿(あきのり)が建立した」と書かれて居ます。

山門前で記念撮影

今回参加の面々

④七曲坂


玉縄城の時代から今も使われている道です。七曲坂という急な坂道です。人がやっと通れる細道です。玉縄城址一帯は、開発されて往事の様子がほとんど残っていないので、昔を偲ぶ貴重な場所です。

坂の途中にある説明板
武者だまり跡から見下ろす風景
この谷戸に4代城主の氏繁の奥方「七曲り殿屋敷」があったそうだが、すっかり開発が進んでいる。

太鼓やぐら跡に立っている説明板の絵

「武者だまり」を過ぎて、七曲坂を登り切ったところには「太鼓櫓(やぐら)」があったそうです。そこに建ててあった説明図。現地に行った後に見ると、城の全体がよく分かる絵です。

⑤玉縄城大手口址

「太鼓櫓」を過ぎると平場になっていて住宅地です。
住宅地の中の道路を西に向かうと、清泉女学院の校内を区切るシャッターがありました。城の大手口はこの辺にあったのではないでしょうか。
シャッターの前にあったポスターには、城の概要がうまくまとめてありました。

大手口址
シャットアウトされていて、その向こうは清泉女学院の校内。中には入れないが、土手の上は校庭だと思われる。
シャッターの前に立っていた説明板。大手口の想像図で、門から駆け出している騎馬を描いてある。絵の下半分に書いてある「玉縄城址」の説明文は、城の概要をうまくまとめてある。

⑥玉縄城の碑

大手門前を過ぎると三叉路にでます。ここに「陣屋坂上」というバス停があり、三叉路から下の方に向かう道路の左手にある急な階段を上がったところに玉縄城址の碑があります。碑文は次のとおりです。句読点と西暦と読みを加えました。
玉縄城址
玉縄城ハ永正九年(1512)十月、北条早雲ノ築クトコロタリ。大永享禄ノ頃(1521~1532)ハ北條氏時、之ニ居り、天文初年(1532)ヨリ一族 北條綱成(つなしげ)居城ス。天正十八年(1590)、小田原北条滅亡ノ際、城主 氏勝降伏シ、後、城は徳川氏ノ有トナリ、程ナク廃城トナリシモノナリ。
昭和三十一年(1956)三月建 鎌倉友青会


この碑の側には3基の庚申塔があります。古いのは延宝3年(1675)銘、他の1基は二つに折れて上部を欠き、もう1基は比較的新しい角柱塔でした。


玉縄城址の碑
延宝3年(1675)銘庚申塔
破損している庚申塔 年銘不明

⑦ふわん坂

三叉路で、下に向かう道路ではなく、西に直進する方へ進み、しばらく行くと左に折れて、ふわん坂にさしかかります。「ふあん坂」ではなく「ふわん坂」だそうですがその名の由来は不明とのこと。自動車が通れる道幅ですが、昔からある道のようです。城への登り降りに使われたのかも知れません。

⑧鎌倉道の道標

ふわん坂を下りきると、東西に延びる大きな通りに出ます。西に向かえば藤沢方面、東は鎌倉方面で、この道路は鎌倉道と呼ばれています。
交差点に2基の道しるべがあります。向かって右には「帝釈天王」、左には「従是鎌倉道」と彫ってあります。帝釈天の道標の右側面に「かまくら道」、左側面に「ふじさわ道」、裏面に年銘がありますが読めませんでした。

⑨久成寺 日蓮宗 鎌倉市植木5

「くじょうじ」と読みます。山号は光円山。永正17年(1520)創建。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻めるとき、徳川家康がこの寺に立ち寄り、また後年、家康が鷹狩りに出たときも立ち寄ったと伝えられています。寺の引き戸に葵の紋が描かれています。

本堂の横に室町時代から戦国時代の石塔類が集めてあります。横浜市戸塚区の長尾台は長尾氏発祥の地で、そこから移されたものです。長尾氏は、石橋山では大庭景親に従い、真田与一の首を取った定景が有名で、その後一族から長尾景虎(上杉謙信)などが出ています。

大船観音のお慈悲と、参加者全員の人柄の良さで、この日の第302回史跡・文化財めぐりは久成寺で終了し、大船駅で解散しました。

久成寺で解散

photo 前田会員・平野会員
report 平野会員

今までの史跡・文化財めぐり一覧
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『郷土ちがさき』159号 2024(R6)年1月1日発行

◎表紙
 ・(画像)大山寺 向拝(こうはい)の彫刻 文覚(もんがく)荒行
 ・一年の区切り 平野文明
◎投稿
 ・大山寺向拝の彫刻「文覚荒行」 平野文明
 ・越前守忠相ノート3「越前守の業績」 石黒 進
 ・石狩市の鮫様(さめさま)二例を紹介 加藤幹雄
◎「風」自由投稿欄
 ・歌六首 今井文夫
 ・私の趣味 吉川弘子
 ・ロンドンのお寿司屋さん 川村美子
 ・小津安二郎流「カレー鶏すき」を研究 長谷川由美
◎茅ヶ崎郷土会の事業報告 事業予定
 ・第206回史跡文化財めぐり報告
  ―綾瀬市に早川城址などを訪ねる― 平野文明
 ・市民文化祭の写真展 ・第51回市郷土芸能大会 ・第307回史跡文化財めぐり 
 ・令和6年3月までの事業予定
 ・編集後記

(下の 表紙の画像をクリックするとPDFファイルが開きます。)

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (041) ミゾゴイ

2023年10月 茅ヶ崎市北部で撮影

10月下旬、5日間ほどいました。なかなか見ることの少ない野鳥です。
幼鳥のようでした。(朝戸夕子)

Wikipediaには次のように記してあります。要点を転記します。

ほぼ、日本(本州、四国、九州、伊豆諸島など)で繁殖する。
標高1,000メートル以下の平地から低山地にかけての森林に生息する。
単独もしくはペアで生活する。

危険を感じると頸部を伸ばして上を見上げて外敵に向かって下面を向け、木の枝に擬態する。

昆虫、サワガニなどの甲殻類、陸棲の貝類、ミミズなどを食べる。

ケヤキやコナラ・サクラなどの樹上に営巣することが多いが、地域によってはマツ類の樹上にも営巣する。太い樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り、5 – 7月に3 – 4個の卵を産む。

2020年の時点では生息数は減少傾向にあるものの、生息数の調査が進められたことで以前考えられていたよりは生息数は多いと考えられている。

減少の主因は越冬地や渡りの途中にあると考えられるようになった。都市部周辺ではオオタカやハシブトガラス、伊豆諸島では人為的に移入されたイタチ類による捕食による影響が懸念されている。
生息数は1,000羽とされることもあるが、科学的根拠はない。



photo & report 朝戸夕子

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (040)ジョウビタキ

メス
オス

2023 10/19
今朝、ジョウビタキが 去年より1日早く やってきました。メスと一緒に!
渡りのために、4月2日に私の庭から去って行った西側フェンスから やって来ました。
今まで来ていたのと同じ鳥なのか、人懐っこく、庭中、私について周ります。(朝戸夕子)


Wikipediaには
平地からの低山の明るく開けた林の中に生息する。冬、人里や都市部の公園などでもよく見られ、身近な冬鳥の一つである。

非繁殖期はオスメスともに単独生活を行い、縄張りを作って同種を排斥する習性があり、異性個体や鏡に映った自分の姿にも攻撃を加えるほどである。

尾羽を小刻みに上下に振り、おじぎのような姿勢で鳴き声をあげて縄張り争いをする。

人間に対する警戒心はわりと薄く、3-4 mくらいの所に降り立つこともある。

昆虫類やクモ類などを捕食するが、冬にはピラカンサなどの木の実もよく食べ、ヒサカキなど実をつけた木によく止まっている。
と書いてあります。

「南部の海辺編」のジョウビタキはこちら

photo & report 朝戸夕子

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