9 石仏3種 9-1 カラス天狗像のサイノカミ 

 

町田市の南成瀬にカラス天狗像を彫ったサイノカミ(塞の神)が3基ある。背中に羽根をつけているのでカラス天狗と分かる。
内の享保14年と元文2年の2基には「祭神」の文字がある。「祭神」は「サイノカミ」と読ませるものである。
残る1基は「道祖神」と刻まれていて、年号銘はない。「祭神(サイノカミ)」という神がいつの間にか「道祖神」と表記されるようになった例であり、この塔も、この神の歴史を調べる上で重要な位置にある。
神奈川県を含む南関東は全国的に見ても石造道祖神が多く分布する地域だが、今判明している限り、カラス天狗像のサイノカミはこの3例だけである

9-1-1 享保14年(1729)在銘塔 (東京都町田市南成瀬四丁目)

正面
スケッチ
【法量】幅47㎝ × 高97㎝ × 厚27㎝
【向かって左側】年銘
【中央】塔の神名
【向かって右側】村名

【銘】
向かって右側 武州多摩郡
         成瀬村

上部の銘
 (右側) 造立
 (中央) 奉
 (左側) 祭神
向かって左側 享保十四年(一七二九年)
        正月吉日
造立者銘
   木目田治右衛門
   同苗七良左衛門
   同苗仁兵衛
   同苗市良右衛門
   同苗武左衛門
   中里仁左衛門
   同苗三右衛門

公園の中にある。移設されたものだろう。
塔の裏側は粗彫りだから光背型といえるようだ。二つに折れ、顔や手先が傷んでいるが磐座に立つ堂々としたカラス天狗である。
足下に「氏子」として木目田姓5人、中里姓2人の名がある。同姓を続けるとき「同苗◯◯」とするのも茅ヶ崎辺りでは見かけない書き方である。
カラス天狗像を彫るところも珍しいが、塔の中央上部に「祭神」とあり「サイノカミ」と読ませている。この塔が道祖神ではなくサイノカミ(塞の神)であることを示す貴重な一例でもある。

【所在】東京都町田市南成瀬四丁目19番19号 西山児童公園内

9-1-2 元文2年(1737)在銘塔 (町田市南成瀬五丁目 山之根稲荷社境内)

証明
向かって右側面
スケッチ

町田市立第二小学校のそばの山の斜面の稲荷社境内にあって見つけにくい所にある。
この塔のカラス天狗は、先の享保14年塔にあった堂々とした雰囲気はないが、若々しさを感じさせる。

正面、向かって左側 年銘
正面、向かって右側 村の名
造立者銘
【銘】
正面、向かって像の右側に
奉/造立/祭神/ 武刕多摩郡成瀬山之根村
像の左側に
元文二丁巳七月吉祥日 氏子惣施主(一七三七年)

【造立者銘】
足下に八人の名前があるが、石材が傷んでいて読めない文字が多い。[ ]は文字数もわからない部分。
柳田[  ]
武藤加[ ]兵
武藤文[  ]
落合左郎[  ]
落合[  ]
落合[  ]
落合佐[  ]
[    ]

南町田に3基ある烏天狗サイノカミの2例目。
「祭神」の「祭」は「登」のように見えるが、サイノカミと読ませるため「祭」である。
「山之根村」は江戸時代の成瀬村内の集落の一つで『新編武蔵風土記稿』成瀬村の項に、「山根」という小名がある。
西山児童公園内の享保14年銘の烏天狗塞の神から8年後の建立だが、享保のものを手本にして作ったと考えられる。

<所在> 町田市南成瀬五丁目9番43号 山ノ根稲荷社境内
町田市立第二小学校の校舎の前から北東に伸びる登り坂をたどり、国道140号を渡り、そのまま20~30メートル坂に沿って登ると、右手先に稲荷社の赤い鳥居が見える。

9-1-3 年銘なしのカラス天狗像サイノカミ (町田市南成瀬七丁目路傍)

正面
スケッチ
【法量】幅最大値32㎝ × 高さ45㎝ × 厚最大値15㎝

【銘】
正面、像の向かって右側に
奉建立 道祖神
左側に
武刕/成瀬 東光寺村/惣氏子

町田市クリーンセンター正門前の路傍にある。光背型で傷みは少なく天狗の表情がよくわかる。羽うちわを持ち、天狗であることを強調している。
南成瀬地区に3基あるカラス天狗サイノカミの一つで、これは年銘を欠いている。
享保14年(1729)と元文2年(1737)をモデルとしてその後に作られたものと考えられる。像が様式化してまるで子どもの姿となっているが、その分可愛い。
また、前2例は「祭神」と刻字して「サイノカミ」と読ませているが、これは「道祖神」と刻字してある。
江戸時代中期に出現する初期の道祖神は双体像を刻み、時代が下ると「道祖神」と文字で表すように変化する。しかし、人々はそれをセーノカミ、サイノカミと呼んだ。「道祖神」と書きながらサイノカミと読むのはなぜだろうか。また、「サイノカミ」に「道祖神」の文字をあてたのはどういう理由によるものなのか。
「東光寺村」とあるが『新編武蔵風土記稿』成瀬村に成瀬村内の小名の一つとして出てくるので「村」ではない。元文2年銘の事例でも「山之根村」と、小名に「村」を付けている。

現地に建っている説明板

説明板左側の道祖神の説明に「享保8年霜月吉日」とあるが、この年銘は確認できなかった。塔の形と技法から見て享保の建立とはとても思えない。
文中の「薬師堂」は『新編武蔵風土記稿』成瀬村に、
「薬師堂〈除地、五百坪、字上合にあり、三間四方にして巽向きなり、薬師は木の坐像なり、長九寸、弘法大師のの作なりと言い伝う、堂の傍らに本山修験五大院といえるもの居住して、堂を護る、五大院は圖師村大蔵院の配下也〉」とある。
この『風土記稿』の記事をもって修験道とカラス天狗サイノカミを結びつけるのは無理なように思える。

所在】町田市南成瀬七丁目20番のセンチュリーハイツの近く

photo 故坂井源一会員 平野会員 ー平成26年(2014)10月31日現地調査ー
report 平野会員


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相模 修験道の聖地を訪ねて 9-石仏3種- (目次)

9-1 烏天狗像のサイノカミ(塞の神)
9-2 湘南七庚申 日本最初の青面金剛塔(庚申塔) (掲載途中)
9-3 龍前院型三猿塔(庚申塔) (現在未掲載) 

ここでは修験道から離れて、県内外・市内外の特徴ある石仏を3種類紹介しよう。

まず、カラス天狗像のサイノカミ(塞の神)。
町田市成瀬にだけに3基が見つかっている。像はどれも背に羽根を持ち一目でそれと分かる。「祭神」の刻銘は「さいのかみ」と読む。なぜこのような形のサイノカミが出来たのか、謎の石仏である。

二つ目は平塚・茅ヶ崎・藤沢・寒川に7基ある4本腕の青面金剛塔(しょうめんこんごうとう)。7基は平成18年2月に県有形民俗文化財に指定された。庚申塔に青面金剛が現れる初期のもので、これも謎の石仏である。

三つ目。市内浜之郷の龍前院に、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を彫刻する明暦3年(1657)銘の塔があり、茅ヶ崎市重要文化財に指定されている。この塔はいくつかの特徴があり、「龍前院型三猿塔」と呼ばれている。この型の三猿塔は路傍の石仏の中では比較的早い時期に現れ、茅ヶ崎市の近辺に十数基見つかっている。


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第296回 海老名市(相模国分寺跡と海老名氏の遺跡)2019.11.16(土)

2019年9月28日に訪ねた戸田の渡し跡に続いて、海老名市内のもう一つの渡し場、厚木の渡し跡と相模国分寺跡・海老名氏の遺跡を歩きました。コースは次のとおりです。

茅ヶ崎駅―(相模線)―海老名駅下車―①中央公園の七重塔ー②大けやきー③国分寺―④海老名市温故館―⑤相模国分寺跡―⑥逆川と船付場跡―⑦相模国分尼寺跡―⑧大山道青山通り―(昼食)―⑨海老名氏記念碑―⑩水道道ー⑪有鹿神社―⑫信州高遠石工の石仏ー⑬海老名氏霊堂―⑭厚木の渡し場跡―相模線厚木駅から茅ヶ崎駅へ

海老名駅にて

① 海老名市中央公園の七重塔

建物に挟まれた中央公園に朱塗りの塔が建っている。説明板に次のように記されている。
「故大岡實氏の復元図を基に相模国分寺の塔を、実物大の約3分の1のスケールで建設した。
2回行われた発掘調査により、塔の基壇(土壇)は一辺20.4㍍、高さは1.3㍍、現存する礎石から塔の初重の広さは10.8平方㍍、塔の高さは65㍍と推定されている。
発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは立て替えが行われたことが分かっている。」

② 県天然記念物指定の大けやき

現地の現地の説明板に次のように記されている。
「船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなったと伝えられている。根回り15.3㍍、樹高20㍍。昭和29年3月29日指定」
今は傷んでいて、樹高も説明板の数値とは違っている。
『ウォーキングガイドブック海老名文化財散歩―自然と歴史のさんぽみち』(海老名市教育委員会平成18年刊ー以後『海老名文化財散歩』と略記)には「杭が根付いたので 逆さケヤキ ともよばれる」とも書いてある。

③ 高野山真言宗 東光山医王院国分寺(相模国分寺)
  ー海老名市国分南一丁目-25-38ー

画面左側の鐘楼に国指定重要文化財の鐘楼がある

『海老名文化財散歩』に次のように記されている。

「本尊は薬師三尊像で、中尊の木造薬師如来立像は、作風から室町時代南北朝期(14世紀後半)造立と考えられている。脇侍の日光菩薩立像は室町時代中期(15世紀頃)、月光菩薩立像は室町時代後期(16世紀頃)の作風と考えられている。本尊の眷属として木造十二神将立像があり、貞享4年(1687)に色彩された記録があることや作風から江戸時代前期に室町時代の作風に習ってつくられたとされている。
また平安時代から鎌倉時代の作風を模して江戸時代前期に造立されたと考えられる木造不動明王坐像、享保20年(1735)造立の木造大黒天立像が安置されている。
天平13年(741)のいわゆる「国分寺建立の詔」により創建された相模国分寺の法灯を継ぐ市内屈指の古刹。平安時代中期頃に史跡相模国分寺跡の場所から上の台に移り、江戸時代頃までに現在の位置に移ったと考えられている。」

尼の泣き水

境内の一角に、庚申塔・如意輪観音坐像・新しい石造の如来坐像と「天明五年(1785)乙巳六月吉日」の銘を持つ手水鉢が置いてあり、「尼のなき水」と表示してある。
海老名市温故館で配布しているカード版の「えびなむかしばなし」に尼の泣き水の伝説が次の様に記載されている。

いまから千二百年もの遠い昔のお話しです。天平13年、聖武天皇は、人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう命じました。相模の国では、海老名がよい土地であったのでここに建てられることになりました。やがて、天をつくような七重塔を始めとした国分寺ができ、そこから北500メートルほど離れた場所に国分尼寺が出来ました。
そのころ、国分寺の下を流れる相模川で、魚を取って暮らしていた若い漁師がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼さんと知り合い、たがいに愛し合うようになりました。
尼さんは結婚が禁じられていましたので、二人はみんなに見つからないようにひっそりと会っていました。ある日のこと、若者がだまりこくって困った顔をしているので、尼さんは「どうしたのですか。何か心配ごとでもあるのですか」とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し「じつは、国分寺があまりにまぶしく輝くので魚が遠くへ逃げてしまい、漁をしても魚がとれないのです。それで困っているのです。あの国分寺さえなければ…」と訳を話しました。尼さんもどうすることもできないので、だまってしまい、二人はさびしそうにその場は分かれていきました。 その夜のことです。「火事だー 火事だー 国分寺が燃えて居るぞー」
漁師のことを思うあまりに尼さんが国分寺に火をつけたのです。一度燃え始めた国分寺は、消すこともできず、一晩のうちに焼けてなくなりました。
尼さんはとらえられ岡の上に生き埋めにされ、のこぎり引きの刑になってしまいました。
その後、不思議なことに、その場所から一滴、二滴とわき水が流れ出てきました。村人は尼さんが罪をわびて流している涙だといって、そのわき水を「尼のなき水」と呼びました。
尼さんがおしおきされた丘は、現在海老名小学校の上の台地です。尼のなき水は、昭和40年ころまで流れ出ていましたが、まわりに家ができたりしたので、いつとなく枯れてしまいました。(こどもえびなむかしばなし第1集より)

この話は『新編相模国風土記稿』(以後『風土記稿』と略記)の国分村にも次のように掲載されている。
「今、少しばかりの水澤なり。国分寺の東南三町を隔つかたわらに、三杉樹立てり。あい伝う、古昔、尼ありて業の妨げとなるを以て、尼寺伽藍に放火す。よってこの所にて死に処せらる。故にこの名ありという。あるいは言う、尼寺の尼、恨みごと有って放火すともいう。この所除地にて国分寺に属す」

国指定重要文化財 銅鐘

『海老名文化財散歩』に
「海老名氏の一族、国分季頼(源季頼)が承応5年(1292)に国分尼寺に寄進したもの。作者は、銘文から鎌倉円覚寺や金沢の称名寺などの梵鐘を手がけた名工、物部国光とされている。」と記されている。

寶篋塔

大変変わった形の宝篋印塔である。
3㍍を越す高さがある。文政七年(1824)の年銘をもち、正面に「寶篋塔」と彫ってあるので、宝篋印塔として作られたことが分かる。基壇に宝篋院陀羅尼経の一部が彫ってある。
この塔の特徴は、彫刻が細かいことと宝篋印塔としては全体の形が特異であることである。
基礎には、正面に岩場で身を横たえる男性像と、その右側面には竹林の虎の絵柄がある。しかし、この絵が何を表しているかは分からない。
裏面には、今は東京都新宿区内にあたる「市谷田町講中」と、その近辺の町内で組織していた町火消し「六番組」の名がある。また、発願主と世話人は地元の人たちの名前である。
江戸の講中と町火消しの名があるのは大山詣りが関係しているのだろう。
茅ヶ崎郷土会の会報『郷土ちがさき』147号(令和2年1月1日発行)にこの塔の報告があるので参照して貰いたい。

④ 海老名市温故館
  ー海老名市国分南一丁目6-36ー

温故館は国分寺跡に面してある。その遺跡から望んだ望んだ図。
国分寺跡の出土品。
2階には民俗資料が展示されている。

『海老名文化財散歩』にある温故館の説明。
「相模国分寺跡が国指定史跡となった大正10年(1982)に、海老名小学校の校庭に建てられた遺跡陳列館が始まり。昭和57年(1982)に海老名市立郷土資料館として開設され、考古・歴史・民俗資料を収蔵、展示している。
温故館の建物は、大正7年(1918)に海老名村役場として建築されたもので、当時よく採用された郡役所様式により作られている。平成元年度(1988)に『かながわ建築物100選』に選ばれた。」

⑤ 相模国分寺跡 (国指定史跡)
 ー海老名市国分南一丁目-19ー

手前に塔跡。基壇が復元されている。
その向こうに金堂跡。

史跡として整備されている。
上に掲げた配置図はともに現地に設置されている説明板の絵を加工したものである。

『海老名文化財散歩』に次のように説明されている。
「相模国分寺は天平13年(741)の国分寺建立の詔によって建立された。例の少ない法隆寺式伽藍配置で、南北300㍍、東西240㍍の寺域があったことが発掘調査で分かった。」

「塔・金堂・講堂跡には礎石と基壇が残り、北・南回廊、僧坊、鐘楼、経蔵などの跡や大型建物跡などが確認された。塔跡(推定高さ65㍍)や金堂・講堂跡(東西40㍍、南北31㍍)の基壇規模は諸国の国分寺の中で最大級である創建年代は、出土した瓦の分析や発掘で得られた資料から8世紀中頃に完成されたと考えられている。
『新編相模国風土記稿』にも記載されるほど古くから知られている。大正10年(1921)に国指定史跡になった。現在は塔基壇などが復元整備されている。」

⑥ 逆川(さかさがわ)跡と船着き場跡

奈良時代の構築と考えられている逆川跡を歩く茅ヶ崎郷土会の一行
今は道路になっている。
温故館のボランティア解説員、三沢さんに、館内の説明と、館外に出て逆川までの案内をしていただいた。事前予約もなく訪ねたのだが応じて下さった。
逆川に設けられていたという船着き場跡での説明の様子。かつて、國學院大學の考古学の樋口清之教授が学生と発掘調査を行ったとのこと。

『海老名文化財散歩』の説明。
「逆川(さかさがわ)は人工の水路といわれ、市立杉本小学校の辺りから、目久尻川の水を取り入れ、伊勢山の南側を回って国分の台地を経て、国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていた。後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、新堀と呼ばれるようになった。
発掘調査により、平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから運河跡ではないかといわれている。国分付近では南から北へ、目久尻川流域の低地から台地上へ流れていることから逆川と呼ばれるようになったとされている。
昭和40年代までは流れていたが、次第に埋め立てられ、ごく一部の地形にその面影を見ることできる。川が北へ曲がっている地点に由来と地図を刻んだ記念碑がある。」

⑦ 相模国分尼寺跡 (国指定史跡)
  ー海老名市国分北二丁目6-27ー

尼寺の寺域が全てが保存されていないだろうが、国分寺に比べると規模は小さいようだ。
遺跡の一部が少し高くなっていて庚申堂があった。中には寛文6年銘(1666)の立派な庚申塔が祭ってあった。

『海老名文化財散歩』の解説。
「天平13年(741)の国分寺建立の詔によって建立された寺院。発掘調査によって金堂跡、経蔵跡、回廊跡などが見つかっている。出土した瓦などから8世紀後半に完成したと考えられている。『新編相模国風土記稿』にも記載されている。金堂跡などの保存状態が良好であったため、平成9年(1997)に国指定史跡になった。」

また、現地に建つ説明板には次のように書いてあった。
相模国分尼寺跡(金堂跡)
この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600㍍に位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鐘楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・梁行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。
平成3年3月31日 海老名市教育委員会

寛文6年銘の庚申塔

お堂の中にはこの一基だけだが、堂の外にも時代の下る3基の庚申塔と何基かの供養塔(墓石)が残っている。その中で、庚申塔2基の年銘が読める。延宝8年(1680)と宝暦10年(1760)で、共に庚申の年だった。

お堂の中に祭られている庚申塔。
板碑型のりっぱな塔で石質も良く、傷みは少ないようだ。
この時代の特徴で、文字の彫りが浅く、離れた位置から読む事は難しい。
篠崎信『海老名の庚申塔』(平成8年市教育委員会刊)に拠る銘を下に転記しておく。
なお、寛文6年は1660年で干支は丙午。「箴」はシンでいましめの意。銘の中にある「視箴聴箴言箴」は「見ること・聴くこと・言うこと」を「いましめる」と解釈できて、「見るな・聴くな・言うな」という意味になる。庚申塔に付きものの三猿を「見ざる・聴かざる・言わざる」と言ってしまうと、何に対して言われた言葉なのかがあいまいだが、この塔の文字のように解釈すると結衆(人間)に対してのタブーとなって、意味が明確になる。銘文の中にこのタブーを記す他の事例を報告者は知らない。貴重な塔だと思われる。

銘文
種子ウーン(青面金剛)
寛文六季
夫神霊必有感[   ]同心
一揆之善男庚申観□結願造視箴
聴箴言箴者発願益欲衛二世之希
望而己
丙午三月十六日
(改行は報告書のままにした)




⑧ 大山道青山通り

海老名市国分から門沢橋までの青山通りは、市街地を横断しているので拡幅されて大きな道路になっている。
この写真は、小田急線をまたぐための跨線橋となっている部分で、西を向いて撮影した。
天気が良ければ、正面に大山が見えるのではなかろうか。

『海老名文化財散歩』の説明は次のとおり。
「江戸時代は大山詣りが盛んで市内に大山道が多く通っていた。
江戸の赤坂御門から青山、多摩川、長津田、鶴間を通り、市内の柏ヶ谷、国分、河原口を通って相模川を越え厚木市に渡り、伊勢原市の大山までの道が大山道青山通りと呼ばれていた。
この道はさらに西に延びて、善波峠(伊勢原市と秦野市の境)を越えて、秦野市、松田町、矢倉沢の関所、足柄峠を通過し御殿場から沼津に続き東海道につながる。古代から使われた道で、矢倉沢往還とも呼ばれる。」

⑨ 海老名氏記念碑(上郷遺跡)

住宅の一角が囲ってあり、海老名氏記念碑、新しい五輪塔、板碑、寄進者の名前を記した碑が植木の中に立っている。
『海老名文化財散歩』に次のように記してある。
「上郷遺跡は畑の耕作中に偶然発見された。発掘調査により五輪塔や板碑、集石遺構が確認された。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、宝樹寺跡の存在から、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられている。また、道を挟んだ南側には海老名氏の記念碑がある。」

写真に写っている新しい五輪塔の、向かって右側の碑が「海老名氏記念碑」である。
銘文は次のとおり。
改行は「/」で示した。なお、碑文に句読点はない。後ろから3行目の碑文の選者名の「てつ」はフォントがなく、平かなで示し、後ろから2行目の建立日の月は樹木の陰で読めなかった。

河原口 上郷/あたり一体の有賀郷は/古くから有鹿神社を中心に/一大集落を営んでいたと思われます/約八百年以前 相模守として当地にまいり/ました源四郎親季を祖とする海老名氏の一族には 孫の源八季定をはじめ武勇をもって聞こえた人びとが/数多く輩出したと言われます/今日残っているお屋/敷 道場前等の名称は 海老名氏往時の盛況を物語/るものでしょう 時流茫々 かかる幾多武勇の士の/拠ったゆかりの地も 今や世人の記憶からその言い/伝えさえ忘れられようとしているとき これらの諸/霊を慰め その由来を永く後世に伝えるため 海老/名市が記念碑を建てるにあたり これを記します/海老名市文化財保護委員 児島てつ造 撰/昭和四十六年□月二十六日 建之/海老名市/

⑩ 水道みち(横須賀水道)

この道路の突き当たりの森は有鹿神社。
この道路の脇に、点々と小さい標柱が立ててあって、「水道部」とか「海[ ]」と書かれている。
この道路の下に水道管が埋けてあるのだろう。
次の⑪有鹿神社に、相模川を渡る、この水道管の橋の写真を掲載した。

カード版「えびなむかしばなし」に次のように記されている。

「横須賀水道 愛川町と横須賀市を結ぶ全長53キロメートルの上水道。大正10年(1921)に全面が完成した。市内は、上郷から海老名耕地を横切り、大谷の大地を上り綾瀬市へと抜けている。
当時の日本海軍は、世界列強との軍艦の建艦競争に躍起となっていた。この軍艦を造っている横須賀海軍工廠では、スクリュー軸の冷却水や焼き入れに必要な良質の水が不足し、また艦艇出航の際に積載する飲料水も、横須賀市民との配分に苦慮していた。」

「そこで海軍省は、良質の水を大量に供給できる水源地を愛川町の半原に求め、半原と横須賀を結ぶ直線を県央に一本、「グイ!」と引いた。それが横須賀海軍水道で、現在の横須賀水道。「水道みち」とも呼ばれている。
時を移さず測量が始まり、あとは山も川も野も池もおかまいなしで、お宮もお寺もそこのけそこのけで、墓地も史跡も踏みつぶしての突貫工事だった。相模川を渡る水道橋も、有鹿神社裏の水の勢いの激しい場所で、しかも川幅の特に広い場所を避けもせずに無理やり押し切った。(こどもえびなむかしばなし第3集より)」

⑪ 有鹿神社(あるかじんじゃ)
  ー海老名市上郷一丁目4-41ー

神社の住所は前記したように上郷一丁目(旧上郷村)だが、『風土記稿』には河原口村の項に「有鹿神社〈阿利加神社〉」と記載されている。住居表示が変わったのだろうか。地元では「ありか」ではなく「あるか神社」と呼んでいる。江戸時代の別当寺は、神社の近くにる総持院(真言宗海老山満蔵寺総持院)だったと同書にある。

『海老名文化財散歩』にある説明は次のとおり。

祭神は大日霊貴命=天照大神
鳩川が相模川に流れ込む地点に鎮座する。平安時代中期の「延喜式」神名帳に記載されている相模十三社の一つ。江戸時代には海老名五ヶ村(河原口村・上郷村・中野村・中新田村・社家村)の総鎮守だった。創建時期は不明だが、永和3年(1377)の作成とされる「有鹿明神縁起」では、神亀3年(726)に存在し、天平宝字元年(757)に海老名郷司藤原広政が中心となって再建、鎌倉幕府滅亡時に兵火にかかり本殿以外の建物が失われたとしている。
本殿と拝殿の天井画は海老名市指定重要文化財となっている。
有鹿神社本殿
大型の一間社流造で、内部は前後二室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面に一本引きの建具を入れることや、特徴ある向拝の造りなど珍しい造りである。肘木は鋭い鎬(しのぎ)を持つ絵様肘木。建築年代は、虹梁の絵様などの意匠から18世紀中頃と考えられている。
有鹿神社拝殿天井の龍の絵図(海老名市指定重要文化財) 
大住郡坪の内村の絵師、近藤如水(藤原隆秀)が画いた。諸国遍歴から帰郷した後の嘉永2年(1849)頃の作とされている。

カード版「えびなむかしばなし」には次の二つの伝説が記されている。

有鹿谷の霊石 
有鹿郷五ヶ村といわれた上郷(かみごう)、河原口、中新田、社家、中野の農業用水は、その水源が相模原市勝坂にあります。この勝坂の水源にはこんな話があります。
今から約四百年前、総持院に慶雄(けいゆう)というお坊さんがいました。ある晩、神霊が慶雄の夢の中に現れて、「よい水源を教えるから、明日の朝、境内から飛び立つ白鳥(しらとり)の後を追え」と言いました。この鳥は白い鳥であったとも、金色の鳥であったともいわれていますが、翌朝、この鳥は慶雄を北へ北へと導いて、磯部村勝坂の集落で姿を消しました。
そこには洞窟があり、清水がこんこんと湧き出ていたので、此処を有鹿谷(あるかたに)と名づけ、有鹿郷五ヶ村の水源としました。それからは毎年四月八日の祭礼には、有鹿神社のみこしがこの有鹿谷まで行き、六月十四日まで、ご神体を洞窟においておくことがしきたりとなりました。このしきたりは「有鹿様の水もらい」と言われました。
勝坂のお年寄りの話では、ご神体はきれいな玉石ですが、不思議なことに、子どもたちがいたずらをしてそれを動かすと、いつの間にか必ず元の位置に戻っていたということです。(こどもえびなむかしばなし第2集より)」

有鹿姫(あるかひめ) 
今から約五百年前、愛川の小沢(こさわ)というところに金子掃部助(かもんのすけ)という武将がいました。金子掃部助は、関東管領 山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走しました。
この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。
しかし、時すでに遅く、父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に、天に向かって手を合わせると、ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。
するとどうでしょう、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。途中、六倉(むつくら)という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。 さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近づくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社裏の河原に打ち上げられました。
神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、そのなきがらを葬りました。現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。(こどもえびなむかしばなし第4集より)

⑫ 信州高遠の石工が作った庚申塔

高遠の石工 秋山甚四郎の名がある「庚申墳」

有鹿神社から総持院の前を通り南方向に向かうと、すぐに右に向かう道路が分かれる三叉路に出る。この三叉路に次の様な石仏があり、その一つに信州高遠の石工の名前がある。
『風土記稿』河原口村の項に「往還、村の東西に貫くもの矢倉澤道なり、西北に係れるもの八王子道なり〈幅各三間〉」とあり、有鹿神社と総持院の前を南北に通る道は八王子道で、この三叉路を西に向かうと渡船場に通じ、厚木に渡るものと思われる。

石仏は向かって左からの次の4基が元の姿を留め、他に部材の石材の破片らしいものもある。

① 角柱道標
向かって右側面 右隣の②とくっついていて読めない。
正面      此方 厚□(下部が埋まっているか折れていて読めない)
向かって左側面 此方 座□(同じ)
背面      此方 厚□(同じ)

②角柱庚申塔
向かって右側面 松尾大明神
正面      庚申墳
向かって左側面 相州高座郡河原口邑
          催主 中野源六
              邑講中
    寛政六年歳次甲寅秋八月日(一七九四)
         石工信州高遠産秋山甚四郎

③角柱庚申塔(笠らしきものが載る)
向かって右側面 剥落
正面      庚申塔
向かって左側面 剥落

④角柱道祖神(四角の石の後ろにある)
向かって右側面 河原口村□中
        女念仏講中
        [    ]
正面      寛政四年[  ](一七九二)
       (双体道祖神)
        正月[  ]日


②の庚申塔にある「庚申憤」は珍しい書き方である。当地方では見かけないが「庚申塚」という言い方があることを知って「憤」の文字を使ったのだろう。この塔の石工が信州高遠の産であることが関係しているのではなかろうか。

⑬ 海老名氏霊堂
  ー海老名市河原口三町目8付近ー

渋谷氏霊堂
霊堂の中にある宝篋印塔
『風土記稿』河原口村に「丘の上に古碑が2基あり、その一つは源八兵衞(海老名源八=季貞④)が墳墓」とあるのが、この宝篋印塔なのだろうか。

平安時代から室町時代に掛けて、海老名氏がこの地にあったと言われている。
この海老名氏は、平安時代に相模国国司として赴任した源有兼②が、横山党①の女との間にもうけた子が海老名の地に居付き、海老名氏を名乗ったのに始まるとある(『海老名市史』-通史編)。海老名季貞=源八④は保元の乱に後白河天皇方の源義朝の家来として出てくる(同書p415)。この季貞の子どもたち⑤が今の海老名市・厚木市などに分かれて住んだ。その一人季久⑥は播磨国矢野荘に分かれた。また、荻野季重⑦は石橋山の戦いに大庭景親方の武将として出てきて、後に頼朝に誅せられる(同書p432)。海老名季景⑨は子息季直に門沢橋村内の土地を譲っている。
国分季頼⑧は今、国分寺にある国重要文化財指定の梵鐘の寄進者である。

『海老名文化財散歩』の説明。
「海老名氏は、源有兼②が永久元年(1113)から4年間、相模守として在任したとき、武蔵国と相模国にまたがる武士団の横山氏①(横山党)の女性と婚姻関係を結び、そこに生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったのに始まるとされている。海老名氏は吾妻鏡や曽我物語、保元物語に登場する。のちに本間氏、国分氏、下海老名氏、荻野氏などの分家を出す。和田義盛の乱(建暦3年:1213)に和田方について敗北し、勢力をそがれ、また永享の乱(永享10年:1438)で足利持氏方についたために本家は滅んだとされている。」

現地に立つ説明板には次のように記されている。
「海老名氏の菩提寺は、現在は廃寺の宝樹寺と伝えられ、その跡地が霊堂のあるこの辺一帯と考えられる。霊堂の堂内には海老名氏ゆかりの物と伝わる宝篋印塔や五輪塔が安置されている。霊堂周辺の河原口坊中(ぼうじゅう)遺跡からは12~14世紀の建物跡やかわらけなどが多く出土し、宝樹寺の存在と合わせて、この辺一帯が海老名氏の本拠地だったと考えられる。」

⑭ 厚木の渡し場跡

海老名市河原口から相模川を越して対岸の厚木市を望む。
画面の左に見える橋は「あゆみ橋」

『風土記稿』の河原口村に次の様に記されている。
「相模川 西界を流る〈幅一町ばかり、河原を合わせては三町ばかりあり〉、堤あり〈高さ六尺〉。」
「渡船場 相模川にあり、矢倉沢往還の係る所、対岸は厚木村なり、当村及び厚木・中新田三村の持ち船五艘を置いて往来に便す。」

2019年9月に戸田の渡しを訪ねたときもそうだったが、江戸時代の渡し場跡の多くは、川の流れが変わった今ではその場所が分からないようだ。
今回の厚木の渡し場も同じだった。
『海老名の地名』P82に掲載されている略地図を参考に訪ねてみたが、地点を落とす決め手は無かった。

厚木は江戸時代、相模川を使う物資輸送の中継点として繁栄していた。その厚木と、矢倉沢往還(青山通り)がつなぐこの渡し場は、東海道の馬入の渡しとともに大変賑わったことだろう。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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第295回 海老名市 (戸田の渡し -門沢橋・厚木市戸田)2019.09.28

2019年9月28日(土) 
相模川にかかっていた戸田の渡し場跡と、その渡し場の両岸、海老名市門沢橋(東岸)及び厚木市戸田(西岸)にある神社仏閣などを訪ねました。
茅ヶ崎から相模線に乗り門沢橋駅で下車し、午前中に門沢橋の各地をめぐり、昼食のあと戸沢橋を渡って戸田に至り、散策見学してバスで平塚駅に出て解散しました。
下見の日は雨の後でしたが、当日は初秋の好天に恵まれ、みのりの多い一日でした。
ここに載せた写真は下見、当日の両日に撮影したものです。
渡し場跡を訪ねることと、寺々に残る古い仏像を拝むことが目的でした。

江戸時代は門沢橋村

海老名市門沢橋
海老名市門沢橋は、市域の南部に位置する。
相模川がすぐ西側を流れていて、JR相模線と県道22号横浜伊勢原線が交差する所に門沢橋駅がある。
県道に沿って南側に大山道がある。江戸時代には大山詣りの導者たちで賑わっていた。
大山道が相模川に差し掛かるところに石造不動像の道標⑤がある。
社寺では、浄久寺②と正覚寺③と鎮守の渋谷神社④がある。

『新編相模国風土記稿』高座郡門沢橋村の項(以下『風土記稿』と略記。雄山閣版3巻335頁)に「海老名郷の下方に在るをもって海老名下郷と号す、民戸96、東西11町半(約1200m)、南北9町半(1036m)、東は本郷村(海老名市)、南は倉見村(寒川町)、北は中野村(海老名市)・本郷村、西は相模川を隔てて大住郡戸田村(厚木市戸田)に接する」とある。
また「街道は2、東西に貫くものが大山道(幅2間〈3.6m〉当村継場から東の方用田村〈藤沢市〉へ30町〈3.3km〉、西の方戸田村へ18町〈約2km〉)、南北に通ずるのは八王子道、幅9尺〈2.7m〉」とあり、「柏尾通り大山道」と呼ばれる大山道はメインストリートだった。
相模川についても「幅百間余〈約180m〉、平常の水幅は80間〈144m〉ばかり、高さ3尺〈1m〉の堤が設けられ、渡船場があり、戸田渡しと言われ、船2艘を置き、対岸の戸田村との共同の持ち(管理)で、大山道にかかっている」とある。ちなみに、対岸の戸田村の項には「河原とも幅六、七町〈700m〉、渡幅一町(108㍍)ばかり」とある。

明治以後の来歴は、
 明治22年(1889)町村制施行により、高座郡有馬村大字門沢橋となる。
 昭和30年(1955)有馬村が海老名町と合併し、海老名町大字門沢橋となる。
 昭和46年(1971)海老名町が市制施行した。

相模線門沢橋駅は無人駅です
小田急線の厚木駅とくっついています
トイレは両駅共用でした
駅前で打合せ
この日、参加者は多くありませんでした

① 門沢橋を探す

『角川日本地名大辞典』14神奈川県の249頁にある門沢橋の解説の
「(門沢橋という)地名は永池川が相模川に合流する河口に位置することに由来し、この河口に橋が架けられて門川橋と称し、転じて美唱の門沢橋になった」という説は何に由来するか書かれていないこともあるが、理解しがたい。

駅前に立ててある地図に永池川に架かる「門沢橋」の表示があった。
今も、このように呼ばれる橋があれば、地名に関係するのではないかとその橋を探した。しかし、探し方が悪かったのか、橋は見つかられなかった。
捜索の途中で親切な土地の人に出会い、「それならこっちだ!」と案内して貰った。
原川(永池川に落ちる)に架かる小さな橋で、駅前の地図にある橋とは別物だった。
両方の橋は数百㍍しか離れていない。実際に同じ名の橋が二つあるものか、あるいは地図板の図が間違っているか。
原川に架かる門沢橋が昔からあるものならば、村名・地名に関係する橋なのかも知れない。

駅前にあった説明用地図
①に「門沢橋」と書いてある。しかしこの橋にはたどり着けずに、②の位置にある「門沢橋」を見つけました。右の写真がそうです
やっと見つけた門沢橋
原川に架かっていました

② 浄久寺(浄土宗) 海老名市門沢橋4-11-1

浄久寺本堂 
浄久寺は、江戸時代に門沢橋村の領主、長谷川家の菩提寺としてできました
開基は『風土記稿』に、長谷川政氏とありますが、いささか疑念があります
寺の名は、政氏の戒名「長清院空譽浄久」から付けられました

長谷川山隆崇院浄久寺
『風土記稿』に次のように記されている。
長谷川山隆崇院と号す。浄土宗〈増上寺末〉、本尊阿弥陀仏〈座像長一尺七寸(約51cm)春日作〉、開山然譽知全〈元和三年(1617)二月十九日卒〉、開基長谷川筑後守政氏〈法諡、長清院空譽浄久、寛永十五年(1638)九月二日卒〉
しかし、上記中の「政氏」は「正成」の間違いではなかろうか。後に記すが、「空譽浄久」は、境内にある長谷川家の供養塔中の、2代正成のものに刻まれている戒名なのである。

ご本尊は平安時代の阿弥陀如来坐像
海老名市指定の重要文化財の平安仏。
境内に立つ説明板に次のように紹介してある(現物は縦書き)。

平成十七年五月十八日指定 海老名市指定重要文化財
浄久寺 木造阿弥陀如来坐像
この木造阿弥陀如来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したと伝わる仏像です。
平成七年(一九九五)の海老名市史編纂仏像調査により平安時代後期(十二世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。
像高は五十二・一センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く調えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確実に確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。
 平成十七年十二月 海老名市教育委員会

平安時代、定朝様式と判定されているご本尊の木造阿弥陀如来坐像
残念ながら我が茅ヶ崎市には平安仏はありません。鎌倉時代の作とされる銅造善光寺式阿弥陀三像像(宝生寺蔵)が最古のものです
浄久寺さんにお願いして近くで拝ませていただきました
写真撮影も許可していただきました
本堂内におまつりされている

善導大師のお像
善導大師は中国浄土教を大成した僧で、日本で浄土教を開いた法然上人はその他力念仏の教えを引き付いだ。
多く浄土宗の寺院でまつられている。
2019年度第1回の郷土会史跡めぐりで訪れた鎌倉材木座にある光明寺には善導塚がある。

浄久寺の開基正成を含む長谷川家歴代の供養塔
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川平蔵は、浄久寺にある長谷川家がモデルになっていると言われている。
門沢橋村の領主だった長谷川家のことを『風土記稿』は次のように記す。
「今、長谷川太郎兵衞正岱知行所なり。〈寛永二年(1625)十二月、先祖筑後守正成賜る〉」
「今、」とは、風土記稿ができた天保時代を指す。その頃は正岱が門沢橋村の領主で、村を賜ったのは寛永2年、正成だったという。

本堂の向かい側に宝篋印塔が15基並んでいる。
その中に正成の名も、正岱の名も刻まれている。

宝篋印塔の脇に立つ説明版には次のように書かれている。

平成十七年五月十八日  指定
海老名市指定重要文化財 浄久寺 長谷川家石造宝篋印塔群
寛永二年(一六二五)に幕府旗本の長谷川正成(まさなり)が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、幕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。
台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成以降、正岳(まさたけ)まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。
別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。
宝篋印塔は、江戸時代に幕府旗本の墓塔としてよく用いられ、江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。
また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。
 平成十七年十二月  海老名市教育委員会

長谷川家一族の供養塔
そばに立ててある説明板と合わせるために番号を振りました

宝篋印塔にある銘
15基の宝篋印塔の銘は教育委員会が立てた説明板に掲載されている。
その説明板を写真に撮って、文字に起こしたものが次のとおりである。
写真では潰れて読めない文字があり、傍線や□にしたが、現物の説明板にはちゃんと書かれている。
正成はNO.9、正岱は№11。

№1
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面  于時正保四天(1647)
      為桂誉円大姉
      亥七月廿日
№2
塔身正面  于時明暦元(1655)
          □入
     為泉誉智春信女
          菩提
     五月廿二日
№3
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面  于時寛永九年(2632)
      為光窓恕閑居士
      酉九月十一日
№4
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面   于時慶長十三天(1608)
       為薫誉花慶大姉
             施
       六月九日
№5
基礎右側面  寛文七丁未暦(1667)
基礎正面   清隆院殿
       (阿弥陀種子)畠誉
       永譛信女
基礎左側面  十二月六日
№6 三代 正登
塔身正面  胎蔵界大日種子
基礎右側面 寛文四甲辰年(1664)
基礎正面  隆崇院殿
      善誉源春
        居士
基礎左側面 二月四日
№7 八代 正鳳
塔身正面  (胎蔵界大日種子)
基礎右正面 寛政六寅年(1794)
      閏十一月廿二日
基礎正面  徳巌院殿
      仁誉智浄
      義山大居士
基礎左側面 長谷川主膳
      藤原正鳳
№8 四代 正忠
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎右側面 浄泰院殿
      慶安五年(1652)
基礎正面  為幼夢梅春居士
基礎左側面 壬辰二月二日
      文善院殿
№9 二代 正成
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎右側面 于時寛永十五天(1638)
基礎正面  頓證仏果
      為前筑州太守空誉浄久居士
      菩提円満也
基礎左側面 寅九月二日

 

№10 六代正冬・七代 正直
塔身右側面 四月十六日
      宝暦二壬申(1752)
塔身正面  松寿院殿宗誉
      法山仁性大居士
塔身左側面 長谷川監物
      藤原正冬
基礎右側面 八月初七日
      寛政四壬子(1792)
基礎正面  演徳院殿
      神誉廣山
      寿翁大居士
基礎左側面 長谷川
      太郎兵衞
      藤原正直
№11 十一代 正岱
塔身正面  (阿弥陀種子)
基礎右側面 文久三亥年(1863)
      八月初七日
基礎正面  崇徳院殿
      興誉豊寿
      腥翁大居士
基礎左側面 長谷川氏
      太良兵衞
      藤原正岱

№12
基礎正面  延宝二甲寅年(1674)
      住誉□貞信女
      二月十九日
№13
塔身正面  五庄院殿
№14 九代 正運
塔身正面  (阿弥陀種子)
基礎右側面 天保十三(1842)
      壬寅年
      九月初八日
基礎正面  功徳院殿
      令誉宝利
      能山大居士
基礎左側面 長谷川氏
      太郎兵衞
      藤原正運
      隠居名能山
№15
基礎右側面 春光院殿
      寿光院殿
      清浄院殿
基礎正面  寛政五丑五月二十三日(1793)
      真正院殿
      真浄院殿
      安永午七月十七日(1774)
基礎左側面 春 安永二巳正月六日(1773)
      寿 安永九子七月七日(1780)
      清 寛政八辰五月廿四日(1796)
基礎裏面  安永四未十一月九日(1775)
      光輪院殿
      心光院殿
      明和四亥八月八日(1767)
平成十七年十二月 海老名市教育委員会
銘文は篠崎 信氏の調査による。

宝篋印塔にある阿弥陀三尊種子
本堂の横の、歴代住職の墓域にある筆子塔
文字をちゃんと読んでこなかったのが残念です
かつて浄久寺で寺子屋を開いていた住職のものです

③ 正覚寺(真言宗) 海老名市門沢橋4-13-13

境内に大きな宝篋印塔(江戸時代)があります
明和4年(1767)建立 天保9年(1838)再建と刻銘がありました
興味深かったのですが、詳しく見ている余裕がありませんでした

橋沢山延命院正覚院 
『風土記稿』門沢橋村の項に「橋沢山延命院と号す、古義真言宗」あとある。

『海老名市史7』682頁は『鷹倉社寺考』を引いて次のように延べている。
開山開基不詳。寺伝に曰く。明和年中(1764~71)正覚寺光雅当寺創建と伝う。按ずるに前稿加牟之由明神がことと不合せざること多し。光雅は中興の僧なるべし。万治二年(1659)の稿本に橋沢山延命院正覚寺と記し開基不詳と記す」と、万治期に開基不詳の記録があることを根拠に、明和期は創建ではなく、再興であるとしている。

ご本尊は海老名市指定重要文化財の十一面観音坐像

このお像もこの日の目的の一つだった。
ご住職にお願いすると、本堂内で身近に拝むことができて写真撮影もご了承いただいた。

境内にある説明板に次のように書いてある。

海老名市指定重要文化財
正覚寺本尊 木造十一面観音菩薩坐像 昭和四十九年四月二十三日指定
本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五㌢の寄せ木造り、玉眼嵌入です。肉身部は金泥、条帛・衣文などは黒漆塗りです。頭上には仏面、化仏の十一面を据え、左手に蓮華のつぼみの入った水瓶を持ち、右手は、願をかなえる与願印で垂下しています。
江戸時代に編纂された『風土記稿』には、鎌倉時代の運慶作と記されていますが、実際の制作は江戸時代前期ころと考えられています。ただし、作風は、中世の仏像を手本としており、まとまりの良いものとなっています。
昭和五十四年に解体修理を行い、残された特徴をもとに、ほぼ創建当時の姿に復元されました。この復元の際に、像内から(木造十一面観音坐像・一木造)が発見されました。平成七年に実施された海老名市仏像悉皆調査によれば、その作風は、本尊よりも遡る室町時代後期ころの作とされています。             平成拾六年九月 海老名市教育委員会

胎内に本像と同じ十一面観音坐像が納められているそうです。
昭和54年に解体修理され、とても見事な像容です。

 そのほか、本堂内にはいろんな仏像などがおまつりしてあった。

木造青面金剛立像
庚申信仰の主尊仏です。路傍には石造の庚申塔がたくさんありますが、木造はそれに比べると数が少ないです。左腕にショケラという裸の女性をぶら下げています。
善光寺式阿弥陀三像像
中央の阿弥陀様も両脇の観音(向かって右)・勢至菩薩も儀軌どおりのスタイルです
青く彩色された不動明王
どういう訳か、火炎に包まれているかのように撮れていました
あらゆる願い事をかなえることができるという宝珠
手にして押し頂くと、その効果がたちどころに現れると、ご住職の説明でした

④ 渋谷神社 海老名市門沢橋4-11-14

江戸時代は神寿〈かんじゅ〉稲荷と呼ばれていた。

『海老名市史7』(通史編・近世・2001年海老名市刊)645頁に次のようにある。
「鎮座地は門沢橋字稲荷町。村のメインストリートである柏尾通り大山道に面しており、当社の社前には高札場があった。祭神は「寒川名神ノ御支枝」の加牟之由之命〈かむのいわれのみこと〉加牟之由比古命(かむのいわれひこのみこと)とも、倉荷魂命〈うかのみたまのみこと〉ともいう。当社は下海老名郷(現在の社家・中野・門沢橋のあたりか)の総社であり、門沢橋村の鎮守であった(『鷹倉社寺考』)。平安時代末期の寿永年間(1182~83)に渋谷庄司重国が当社を造営し、嘉禎3年(1237)に渋谷又太郎が鎌倉郷の稲荷を合祀したと言われるが(『社寺考』)、史実かどうかははっきりしない。かつて下海老名郷は海老名氏の支配地であったが、下海老名郷の史料上の初見は文永元年(1264)とされるので、それ以前に神寿稲荷に渋谷氏が関係していても矛盾はしない。近世でも門沢橋村は、名前だけ残っていた渋谷庄の一部であった。
近世の棟札二枚が現存する。寛保元年(1741)十二月のものには「新造立」、天保九年(1838)二月のものには「再建」とある。当社の別当寺は寛永五年(1628)創建の長谷川氏の菩提寺の浄久寺ではなく、より古い正覚寺であることや、供鐘が延宝七年(1679)の鋳造であることなどから、寛保元年の「新造立」は創建ではなく、全面的再建を意味すると思われる。(以下略)

拝殿の向拝の梁に龍の彫刻がありました
裏を見たのですが、作者銘はありませんでした
拝殿は戦後の建築のようでした
渋谷神社本殿
拝殿(覆殿)に入れないので実物を見ることはできませんが、説明板にその写真が掲げられていました
その複写です

境内にある海老名市教育委員会設置の説明板

海老名市指定重要文化財
渋谷神社本殿  平成十五年四月三十日指定
渋谷神社は江戸時代に神寿(かんじゅ)稲荷(稲荷社)と称し、旧門沢橋村の鎮守であった。現在の渋谷神社に名称を改めたのは、明治七年である。江戸時代の延宝七年(一六七九)鋳造の鐘を鐘楼にかけていたので、その成立は同時代初期に遡ると思われる。勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。
本殿は、間口四尺の一間社流造り(いっけんやしろながれづくり)の建物で、覆殿内部に安置されている。建築年代は、本殿内にある棟札から、寛保元年(一七四一)と推定される。また同じ棟札から、作者が地元の工匠であることが判明している。
母屋は、正面両脇の小壁に上り龍や下り龍の彫物をはめ、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)は、正面を獅子と獏(ばく)の彫物、背面は象鼻と絵様木鼻である。また中備(なかぞなえ)には、草花を彫ったかえる股を置くなど、小規模な建物ながら、彫物装飾を効果的に用いた造りになっている。
当本殿は、斗供(ときょう)の形式、虹梁(こうりょう)の絵様や、木部と彫物すべてに当初から彩色が施されている点など、十八世紀の中ごろの特徴をよく示しているうえ、保存状態も良い。また、当時としては彫刻を多く用いるのは珍しい。
以上のように、本物件は十八世紀前期の標準的な遺構として貴重であり、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。
 平成十六年九月 海老名市教育委員会

⑤ 柏尾通り大山道と石造不動坐像の道しるべ

大山道が西に向かって相模川に突き当たる所に大山のお不動様の石造があります
「オレの後ろに大山があるぞ まっすく進め」という雰囲気で、大山導者を昔からにらみ付けていました

柏尾通り大山道
江戸時代は、江戸をはじめ、上州・房州などから大勢の人たちが大山参拝をしていた。
東海道を下ってくる導者は、柏尾村(かしおむら 現在の戸塚区内)から分かれて西に向かい、用田(藤沢市)、門沢橋村とたどって、相模川を渡った。
門沢橋村はこの柏尾通り大山道が相模川を越す戸田の渡の東岸にあって、導者相手の村として栄えていた。

中央の道路が、昔の大山道
『風土記稿』には道幅2間(3.6㍍)と書いてあります
門沢橋では、「昔は導者相手の商売をしていた」と伝える家が今も何軒かあります
道路の突き当たりの、赤い柵で囲まれているのが、大山不動の石像です
正面
不動像の下の竿石に「大山」とあり、柏尾村から点々とあるお不動様をたどると大山まで導かれるようになっています
側面
「安政二卯五月廿八(日)/門澤橋」とあります
安政2年は西暦1855年です
凝灰岩(七沢石)の柔らかい石で作ったために傷んでいます
角塔婆の左側面は「是大明王無其所居但徃(住)衆生想之中」(大明王〈不動〉はほかの所におられるのではなく、人々の信仰の中にいつもおられる)という意味でしょうか。ネットで調べると「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」の一説だとありました
角塔婆の右側面にある、不動行者加護の「不動心呪」
その上9文字です
不動尊の脇に立つ角塔婆(かくとうば)の正面
「カーンマーン(不動種子)寳塔者為大山柏尾道不動尊門澤橋安穏万民豊楽也」
訳すると
「宝塔(角塔婆)は大山道柏尾道にある不動尊のおかげで門沢橋の人たちが平和で豊かに暮らせるように立てた」ということでしょう
右側面
基礎にはこの不動尊を奉納した村人の名が彫ってあります
左画像の下、「セン」をダブらせて15文字です
角塔婆裏面には「令和元年(2019)年8月吉日 門澤橋不動講々中一同」とあり、講中が健在のようです
戸田の渡の説明板
石造不動尊の脇に立ててあります

⑥ 戸田の渡し 渡し場跡

県道22号に架かる戸沢橋から見た相模川下流です
この流れの先は相模湾
左側が海老名市門沢橋、右側は厚木市戸田

「戸田の渡し」について、『海老名市史7』(569頁以降)に書いてある。
要点を書き抜くと次のとおりである。

『風土記稿』に、船2艘を置き、当村と対岸戸田村の両村持ちとある。
江戸時代の門沢橋村は二つの街道(編者注 大山道・八王子道)に沿って多くの家が立ち並び、屋号に人馬の継場を思わせる「立場」や「木村屋」「富田屋」「桐屋」「柏屋」等があり宿場を思わせる街であった。
毎年6月末に始まる大山の夏の例大祭(6月27日~7月17日)時に渡船場は賑わった。
渡船賃は寛保元年(1742)、宝暦11年(1761)の資料で、旅人から定額一人12文、武士は無料であった。
船は、戸田村との組合持ちで馬船(まぶね)1艘・歩船(ほぶね)1艘で渡河していた。
渡し場は、当初戸田村一村の業務だったが、寛永18年(1641)頃に門沢橋村が助郷を始めてから両村で行った。毎年2月下旬に、会所や渡し場の崩れている所を修理し、渡船場を開く準備をする。冬の間は、恐らく他の渡船場同様に土橋などを用いていた。
渡船場の監督は戸田村の船守大支配人が行い、中戸田村(戸田村中分武田領)の名主級の有力農民から出すことになっていた。その下に下戸田村(戸田村下分岡部領)から船渡下支配と呼ばれる副役が出た。
中戸田村と下戸田村の関係は、税負担や収益、船の修理でも中戸田村は2/3で下戸田村が1/3の負担という定めであった。戸田村と門沢橋村の関係では五分五分の定めだった。
宝暦11年(1761)の文書によると、門沢橋村には水斗(かこ)仲間が26人いた。水斗とは、船頭ではなく渡船場株(職業上の特権)の所有者であり、また水斗仲間を束ねる水斗仲間世話人という役職があった。渡船場株は相当の収益があったようで、質草にもなった。
幕末の攘夷運動の高揚の中で外国人襲撃事件が起きると、幕府は、近隣の村々に対して横浜表別段取締という警戒体制を取ることを命じた。多摩川・相模川・その外の見張小屋を関東取締出役の手で強化した(『神奈川県史』通史編3)。安政7年(1860)の「相模川筋渡船場往還道見張番屋御請書帳」(相模原市・鈴木家文書)によると、戸田・門沢橋両村渡船場、厚木・川原口・中新田三か村渡船場を含めた相模川の7カ所の渡船場に対して「川西岸へ繋ぎ置き、東岸へ見張り番屋補理(しつらい)、最寄り番非人へ申し付け交代番致させ、平日きっと相守らせ、村役人ならびに組合大小惣代のもの時々見回り、且横浜表急変の節は通達これあり次第、右詰場村々え触れ知らしめ急速人数差し出し村役人付き添い厳重に取り締まり仕り候」とあり、寄場組合単位で見張番屋を作っていたことが解る。

門沢橋の大山道が相模川に下りる所にあった石造不動道標の先が渡船場跡かと思い、そのまま川の方に進むと、このような設えがあり、その先はヤブで、道らしいものは消えてしまいます
相模川の川べり、門沢橋側 
戸沢橋の上から下流を向いて撮影
何もないはず、こんなヤブだったのです
徒労に終わった渡し場跡探しののち、戸沢橋を歩いて戸田に向かいました
それでもがむしゃらに進むと、川のふちにでました
向こう岸は厚木市戸田、左手に見える白い橋は戸沢橋です
結局渡船場跡らしきものは何も見つけられませんでした
戸田側の川べり 同じく下流を向いて撮影
スポーツ公園ができています
戸沢橋の両側のモニュメントにあった渡しの説明です
文中に「渡し巾百十メートル」とあるのは、『風土記稿』戸田村の記載にある「渡幅一町ばかり」に依ったものです
ちなみに同書、門沢橋村の記載では「幅百間(180㍍)あまり」とあります

渡し場跡見つからず
渡船が終息してから長い年月が経っている。
渡船場には恒久的な構築物はなかっただろうし、相模川は何回も氾濫し、川岸の様子は大きく変わっていることだろう。
今の時代なら、渡し場閉鎖のときに記念碑でも作るだろうが、明治のころは無用になった渡船場跡を保存しようという考えなどなかったに違いない。
ヤブの中で大汗かいて、私たちはそう思った。

戸沢橋
『角川日本地名大辞典』14神奈川県 625頁には次のように説明されている。
相模川に架かる橋。主要地方道路横浜伊勢原線が通過。厚木市戸田と海老名市門沢橋を結ぶ。昭和42年竣工。横長526m・幅員8m。九径間連続鋼鈑桁橋で、耐震性を重視した構造を持ち、橋内部に下水管を通している。
古くから戸塚から用田を経て戸田の渡しを渡る大山道が通じていた。
昭和5年、横長445m・幅員4.5mで架橋されたが、増水のため流失し、再び渡船となっていた。
昭和28年頃、平常流水の幅に長さ140m・幅2mの鉄筋コンクリート橋が架設されたが、出水時には水面下に没し、交通不能たびたびであった。現在の橋は、国道129号および主要地方道藤沢厚木線から新道を開き架橋したもので、6年の歳月で完成したが、のち両側に歩道をつけた。

⑦ 戸田の渡し場跡など

戸田側に着いて、渡し場跡かと思われる川際から上がってくると、その先は大山道になって西に向かいます
大山道の北側には県道22号が平行しています
画像の左方向に進むと、相模川の堤防の上を走る道路が南に延びています。この少し先に、戸田の渡し場跡の記念碑が2ヶ所にあります
⑦-1
一つ目は厚木市設置の記念碑
「安藤広重はここで相州大山道中戸田之渡を書いている。昭和59年2月 厚木市」と彫ってあります
冒頭に掲げたコース地図の⑦-1です
⑦-2にある歌川広重の相州大山道中戸田川之渡をモデルにしたプレート
⑦-2
二つ目は、堤防上の道路をさらに南に行ったところにあります
大きな御影石で作ってあり、渡し場の解説と、広重の浮世絵が銅板に刻まれて貼り付けてあります
コース地図の⑦-2です

⑦-2の記念碑に彫ってある説明文は次のとおりです。
戸田の渡し
相模国風土記稿に源頼朝の妻政子が、大山の不動尊や日向薬師に安産の祈願をしたという記述があることから、この戸田の渡しは、鎌倉時代にはすでに武家の大山詣りや米の運び道として利用されていたと推察される。この渡しは、用田・長後方面から下津古久・落合を通り大山へ通ずる大山詣柏尾道の要衝であり、江戸時代の有名な浮世絵師の歌川(安藤)広重によって画かれた「相州大山道中戸田川之渡」には、多くの人々がこの渡しを利用している当時の様子が窺える。戸田村と門沢橋村の両村が船二艘で経営した戸田の渡しは、川が氾濫する度に渡船場の位置が変わったが明治の末まで盛んに利用された。


⑦-3 戸田の大山不動尊(石仏)

大山道を少し進むと、民家の脇に石造の大山不動がありました
不動様の台石に「小柳講中」とあります。戸田村の中の小柳という集落で大山講を組織していて、この石像を作ったということです
そのとなりにはブロックの覆い屋で囲まれた道祖神もありました
石造不動坐像の後ろにある石柱(竿石)です
昔はこの上にお不動様が乗っていたのでしょう
宝暦8年(1758)に立てた不動像を昭和13年(1938)に再建したとあります
そのお不動様が、左の写真の不動像なのでしょう
とすると、再建したのは竿石だけだったのでしょうか。

⑦-4 大山灯籠があったところ

先の不動坐像の近くの道の脇に、切石などが寄せ集められている一角があります
わずかでも元の形を留めていると思われる石材に①から⑦の番号を振りました

その中のNO.③です
大山灯籠はこれだったと思われます

今回参加している会員から「昔ここには大山灯籠が立っていた」と教えて貰った。
集めてある石材には元の姿をそのまま留めているものはなかったが、大山灯籠があったのなら、その残骸がまだ残っているかも知れないと思った。しかし、めぐりの途中で、詳しく見ている余裕はなかった。
撮影しておいた画像に依って分かったことを記して置く。
①に「講中」とあった。「大山講中」とあったものだろう。②「○○信士・○○信女」とあり墓石。③竿石・中台・壊れた火袋が揃っている。向かって左側面に「明和□歳」(1764~71)の年銘。大山灯籠はこれであろう。④地蔵立像。⑤竿石に「施主…」の銘。⑥観音らしいが兜を被っているようで特異な形の石仏。⑦⑥の観音像に似ている。

⑧ 八幡神社 厚木市戸田1057

境内のサイノカミ(道祖神)を見る

大住郡戸田村の鎮守。
『風土記稿』戸田村の項に次のように記されている。

八幡宮 鎮守なり。
例祭八月十五日。
社地、相模川の辺にありしが、大水のとき度々崩れしにより、文政十一年(1828)十一月、別当寺(注 延命寺)境内に移す。
社領八石の御朱印は慶安二年(1649)八月賜うところなり。

広い境内に遊具や村内から集めたサイノカミ(道祖神)の覆い屋、庚申塔群、関東大震災の記念碑などがあり、ことに石仏が興味深かった。
当日撮影した画像から、いくつかの石仏情報を復元してみたが、撮影しなかった部分もあり、ここに記した説明は不十分であるであることをおことわりしておく。 

神社は相模川の方向(東)を向いています
石仏の類は、写真の向かって右側に、2ヶ所にまとめておいてありました

地主神

従四位侍従源信之謹書
と揮毫者の署名がありますが、誰だか分かりません

関東大震災の碑

地神塔の得意な形かと思いましたが、裏面に
明治六年 當社再建時境内敷地寄附
  祭 石川宗八霊
  明治三十八年八月建之
と彫ってありました
明治6年(1872)に社殿を再建する際、地所を寄附した石川宗八氏の霊を、明治38年(1905)に「地主神」としてここに建立したということです
単なる記念碑ではなく、ご神体ということになります
関東大震災の碑です 銘は次のとおり 「/」は碑文の改行か所です
大正十二年九月一日正午前二分俄然/響アリテ大地震撼シ山河崩レ屋宇仆/レ死傷算ナシ特ニ此地ハ震源ニ近シ/ト云フ惨烈想フベシ今茲恰モ七周年/ニ當ル相州村字戸田中分ノ人相謀リ/禮位ヲ設ケテ死者ノ魂ヲ祭リ併セテ/文ヲ石ニ勒シ以テ不慮ノ天災ニ備フ/ルノ用意ヲ来者ニ促ス/昭和四年九月一日

覆い屋に祭ってあるサイノカミ(道祖神)

一方向から撮影した写真しかありませんでしたので、刻まれている総ての銘を写した訳ではありませんが、次のとおりです
双体道祖神  銘の有無は不明
角柱文字道祖神  (正面)道祖神 (右側面)嘉永五年(1852)正月十四日 (左側面不明) 
疱瘡神 (正面)奉請 疱瘡神 (右側面)維(時)文化九(1812)壬申年/十月吉祥日 

疱瘡神はサイノカミの兄弟です
昔、子どもが疱瘡にかからないように、サンダワラの上に座らせてお湯を少し振りかけ、そのサンダワラに赤い紙の御幣の立ててサイノカミに供えるまじないがありました
サイノカミは疱瘡除けの神様でもあったのですが、次第に疱瘡専門の疱瘡神が独立していきました

庚申塔群
境内の奥、拝殿の横に、庚申塔などを集めた一角がある

①については前記した。
②、③、④、⑤、⑦は記録してこなかったので、ここでは割愛。
⑦はどのような石質なのかは分からないが、大きな石にたくさんの穴がある。この穴に入っている小さな石ころでなでるとイボがとれる俗信があるとネット情報に出ている。

⑥笠付角柱型庚申塔
⑥の形の庚申塔は、相模川の西側ではよく見かけるが、その東側に住む私たちにとっては珍しいものである。
この日のめぐりが終わって、戸田からバスで平塚駅に向かう途中に、平塚市大神の寄木神社境内に同じ形のものがあるのをバスの窓から見かけた。

崩れた形の反花座の上に角柱を立て、笠を被せて擬宝珠を置く。
この塔を記すに当たって、仮に、拝殿を向く面を1面とし、右回りにその向かって左側面を2面、1面の向こう側を3面、向かって右側面を4面とする。
3面(現状では背面)には全面に次の銘がある。
 于時寛文四丁辰年六月吉日
奉造立為庚申供養石塔二世安楽也
 相刕大住群戸田村

寛文4年は西暦1664年。庚申塔の古塔である。
この3面が本来の正面である。現状を90度回転させると元の姿に戻る。

1,2,4面は上下2段に区画し、上段を花頭窓に掘りくぼめて三猿を刻む。
1,2面の猿像は破損して元の姿が明確でないが、1面は聞かざるのようである。4面は見猿であることがはっきりしている。3面(本来の正面)から右回りに見ざる・聞かざる・言わざるの順となる。
下段は、1面(本来の背面)は花頭窓に掘りくぼめ、中央上部にアクを置き、その下は二行にして左右三文字の梵字を刻む。
2面も同様の構成で、上部はウーン、その下の梵字は石面が荒れていて読めない。
4面も同様の構成で、梵字も配置も同じようだが、石面の荒れが甚だしい。
もしも、1、2、4面の梵字が、それぞれに7文字ずつあるとすると、光明真言の可能性があるが、今のところ、何とも判断できない。
また、石質も私には分からない。茅ヶ崎あたりでは見かけないようだ。
ただ、寛文の年銘を持つ貴重な塔であることは確かである。

 ⑨ 延命寺(真言宗) 厚木市戸田1099

9月28日、私たちが訪れた日、延命寺ではお葬式の準備が進められていた。私たちのおまいりと重なってしまったので、ご遠慮致しましょうかと申し上げたら、「夕方からだから」と、この日の目的の一つである、平安仏の木造菩薩立像を間近に拝むことを許していただいた。
誠にありがたいことと、一同感激した次第である。

『風土記稿』戸田村の項に次のようにある。

延命寺 戸田山普賢院と号す〈万治三年(1660)院号を免さる〉。古義真言宗〈平塚新宿等覚院末〉。千手観音を本尊〈古は江ノ島上ノ宮護摩堂に安んぜしを、後ここに移せし由、蓮華座に記せり〉とす。

ご本尊の木造十一面観音菩薩

木造菩薩立像

向かって左側のお像
向かって右側のお像

境内にある厚木市教育委員会設置の説明板の解説
厚木市指定有形文化財
木造菩薩立像 二駆 平成十三年十一月十六日指定
延命寺の本堂内本尊両脇に安置される菩薩立像で、両像は一組とみられ、三尊像の脇侍であったと考えられますが、明確な尊名は不詳です。また、延命寺は一五二五(大永五)年の創建と伝えられますが、本像はそれよりはるかに古く、元々の安置場所などは明らかではありません。
平成十二、十三年に全面解体の文化財修理が行われ、造立当初の像容に近づけた形で修復されました。
両像は、通常の菩薩像の形をとるもので、頭に宝髻(ほうけい)を結い、上半身に条帛(じょうはく)、下半身に裳(も)を着ける姿につくられています。一木造りで彫眼、像表面は修理後、古色仕上げを施してあります。
両像間には多少作風の違いはありますが、共に優しい顔立ちや、全体の穏やかな肉付け、浅く彫られた衣文など、一般に藤原様と呼ばれる平安時代後期の特徴をよく示しています。作行きは地方作としては洗練性もあり、まとまりのよい出来となっています。
制作時期は、十二世紀と考えられます。
 平成十四年三月  厚木市教育委員会

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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第297回 その-2 茅ヶ崎市(柳島から南湖) 南湖下町住吉神社から同仲町八雲神社まで 2020年01月25日〈土〉

297回 その-1柳島から南湖編の続編です。

南湖

南湖は上町、仲町、下町、茶屋町、鳥井戸の5 集落(チョウナイという)からなり、一口に「南湖、カミ ナカ シモ チャ トリ」といいます。東海道沿いを茶屋町、それより南に下って西側を鳥井戸、東側を上町、この南隣に仲町があり、さらに南が下町で海に続いています。
現在の南湖1丁目から6丁目に当たります。
五チョウナイごとに氏神を祭っています。茶屋町は社殿はないが大神宮、鳥井戸は御霊神社、上町は金刀比羅神社、仲町は八雲神社、下町は住吉神社です。

⑤南湖下町 住吉神社

南湖5-5-1

大鳥居の向かって左にある石祠が八大龍王

『相模国風土記稿』の茅ヶ崎村の項に「十羅刹女堂」とあるのが住吉神社の前身と思われます。
同書に、先に紹介した柳島村は「十羅刹女社 鎮守なり」とあり、隣同士の村で記述が似ているのは不思議な感じがします。 この2社は、明治の神仏分離令を受けて、南湖は住吉神社に、柳島は八幡宮になりました。
資料館叢書11『南湖郷土誌』(1995年文化資料館刊)には「明治初期に下町の石黒政五郎などが大坂市住吉区の住吉大社から分霊をいただき祭った」とあります。
祭神は、住吉大社と同じで住吉大神(日本書紀の表記で底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。神功皇后が三韓を攻めるときに加護した神で、勧請元の住吉大社では、この三神と神功皇后を主祭神としています。
南湖住吉神社の例大祭は3月3日です。この日に大祭を行う神社は希で、どのような理由なのか知りたいところです。ちなみに住吉大社の例大祭は7月です。

住吉神社の説明は、「まるごと博物館の会」の石黒進さんにお願いしました。
石黒さんは、説明の中で「神仏分離に遇い、鬼子母神を祭る十羅刹女堂をやめて、大坂の住吉大社を勧請した石黒政五郎は自分の先祖だ」と言っておられました。漁師町南湖だから海に関係する住吉大社を勧請したのだそうです。

大坂市住吉区の住吉大社

住吉大社で撮影した写真。拝殿が並んでいるが、手前が神功皇后を祭る第四本宮、その向こうは表筒男命を祭る第三本宮。
住吉大社の祭神と御神徳が書いてある

社殿彫刻

神社拝殿の向拝(ごはい)にある彫刻は、祭神に関係する絵柄が多いものです。
ところが、住吉神社のそれは何を表しているのか分かりません。
向かって左側の龍にまたがる男神は竜宮の龍王でしょう。
右側に2体の女神が見えます。上側の女神は右手で顔を覆い、左手の先に何かを持っていてその先を龍がつかんでいます。
下側の女神は左手で何か丸いものが入った容器を持ち、右手でそれを男神に捧げようとしている風です。
住吉の三神は航海安全の神で、神功皇后が三韓を攻めるときに加護しますが、古事記・日本書紀では龍神や女神に関係する場面はありません。
「八幡愚童訓」(岩波思想体系20『寺社縁起』収録)という古い文献に、神功皇后が三韓を攻めるときに住吉大明神が現れて「南の海に住むシャガラ龍王から旱珠(かんじゅ)と満珠(まんじゅ)という珠(たま)を借りて敵を攻めよ。珠を借りるために、アズミノイソラ(女神)を道案内にして皇后の妹のトヨヒメを龍王のもとに差し向けると良い」と助言する場面があります。
彫刻の龍王はシャガラ龍王、二人の女神はトヨヒメとアズミノイソラではないかと考えたのですが、まだ、しっくりしません。(「郷土ちがさき」139号 アズミノイソラ―南湖下町住吉神社―
別の解釈をご存じの方は、是非ともご教示ください。

サイノカミ

数十年前、村々で昔のことを聞き書きするとき、「道祖神がありますか?」と聞くと「サイノカミ(セーノカミとも)のことかね?」といわれることがしばしばでした。
最近は「サイノカミは?」と聞くと、「道祖神のことか」といわれます。
住吉神社では、社殿の、向かって左奥に祭ってあります。
銘は 右側面に「下講中」、左側面に「嘉永六年正月吉日」とあります。嘉永6六年は1853年、「下講中」は下町のことです。

八大龍王の石祠と石碑

広い境内の南の端、大鳥居の脇に八大龍王がまつってあります。中央に石祠型、その脇に石柱型があります。 石祠型が元からあったところに、平成24年(2012)に、南湖四丁目の海岸にあった2基の内の1基を移したものです。
石祠型には銘はありません。 海岸から移された石柱型には右側面に「慶応□歳」(1865~68)、正面に「八大龍王」と刻されています。
茅ヶ崎市内の八大龍王は「竜宮様」と呼ばれ、豊漁の神として6カ所に7基祭られていますが、最も古いのは浜須賀海岸にある元治元年(1864)銘のもの、石柱型の慶応年間はそれに次いで2番目です。
『南湖郷土誌』132頁には「竜宮様の例祭は1月、9月の11日で、昔は神楽が奉納された。現在は(注 この本が出版された1995年ころ)1月は住吉神社で、9月は海岸の碑の前で漁業協同組合役員、漁民の代表者が参列して行われる」と書かれています。しかし、南湖四丁目の海岸にあった2基は今はありませんので、祭礼はここだけで催されているものと思われます。

⑥南湖仲町 八雲神社

南湖4-4-29

『新編相模国風土記稿』茅ヶ崎村の項に「天王社」とあるものが八雲神社と思われます。 江戸時代に「天王社」だったのが「八雲神社」に変わったのは、明治時代の神仏判然令で神仏が習合している社寺が禁止されたためです。牛頭天王を祭っていた天王社がスサノオノミコトを祭る八雲神社に変わりました。
この天王社は、元は、南湖茶屋町の脇本陣をつとめていた重田氏江戸屋の屋敷神を移して祭り始めたという話が伝わっています。
資料館叢書4山口金次調査録『茅ヶ崎歴史見てある記』(1978年市文化資料館刊)119頁に次のように記してあります。
「八雲神社の元は茶屋町の江戸屋の屋敷神だった。昔、浜降祭には浜之郷の鶴嶺八幡社の神輿を、まず浜之郷で担ぎ出し、次に南湖で担ぎ、終わると浜之郷に戻して宮入していた。ある年、南湖からの返却が遅れて宮入できず浜之郷が怒った。江戸屋が中に入って詫びをいれ、自宅の屋敷神を仲町に移して祭り、仲町でも神輿を作った。その後、上町、下町でも神輿を造り、鶴嶺八幡の神輿を担ぐことはなくなった。これは江戸屋のおかげであるからと、浜降祭の翌日の朝に南湖の者たちは神輿を担いでお礼に行っていた。今では役員が揃って挨拶に行くだけになった。」
八雲神社と江戸屋との関係は、南湖だけの浜降祭といわれる「御幣祭り」でも見ることができます。 昭和の初期まで、早朝に行われる浜降祭に参加した南湖のチョウナイの神輿は、その日の午后、再び揃って海岸に出て、2回目の浜降りをしていました。その際、五町内を回って海に向かったのですが、まず茶屋町の重田家に寄って神事を行う決まりでした。しかし、あるとき神輿同士の争いがあって、再度の浜降りは仲町八雲神社のお御魂だけが巡幸するように変わりましたが、「御幣詣り」は今も続けられています。


社殿彫刻 スサノオのオロチ退治

『南湖郷土誌』129頁に
「関東大震災のときに本殿を除き倒壊し、昭和5年から3ヶ年計画で復興し、昭和8年(1933)3月に完成した」とあります。
拝殿向拝にある彫刻はこのとき作られたことになります。
社殿彫刻は祭神に関する絵柄が多いと先に書きましたように、スサノオノミコトのオロチ退治です。スサノオの後ろで「アレー」と叫んでいるのはクシナダヒメです。オロチに呑まれるところをスサノオに助けられました。

社殿には見事な鳥の彫刻もあります。(茅ヶ崎市文化資料館『石仏調査ニュース 茅ヶ崎の石仏』15号2011年―オロチを退治する神と種類不明の鳥の彫刻―八雲神社 を参照して下さい。同館のHPで見ることができます。)

サイノカミと金神風神の碑

「〆金神 風神 両社 昭和九年四月祭ル」(1934年)と刻されています。
金神は陰陽道で、この神がいる方位に向かって行うとは凶事とされています。それに「〆」が付いていますからその凶をシャットアウトするという意味が込められているのかも知れません。
茅ヶ崎では作例が少なく、高田の熊野神社境内に年銘なしの「太白金星大金神」と彫った碑があるのみです。(資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏3松林地区』2020年2月市文化資料館刊 151頁)
もう一方の風神は陰陽道から来ているとは限らず、いろいろな意味を持つので、なぜこの両神が一緒に祭られているのかは分かりません。
『南湖郷土誌』131頁には「元は近くの伴田の坂を登った所(注 つまり高いところ)にあったものを移した。子供がはしかににかかると湯掛けという儀式をして、儀式に使ったサンダワラボッチをこの石仏に備えた」と書いてあります。

サイノカミ

嘉永4年銘の双体像
年銘不明の単身像

サイノカミ(道祖神)は境内に2基祭ってあります。
双体像には、右側面に「嘉永四辛亥 仲町氏子中」、左側面に「上町 正月吉日 再立氏子中」とあります。1851年に仲町と上町とで作り直して建てたものであることが分かります。
そのすぐ横に、ほとんど摩滅した単身像があり、銘は「二月十四日」とだけやっと読む事ができます。
茅ヶ崎では単身像が先に出現し、双体像はその後ですから単身像が傷んだので双体像を作ったと考えられます。
先に見た下町住吉神社のサイノカミに「嘉永六年(1853) 下講中」とありましたから、江戸時代末期には上・中・下のチョウナイが成立していたことになります。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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