第295回 海老名市 (戸田の渡し -門沢橋・厚木市戸田)2019.09.28

2019年9月28日(土) 
相模川にかかっていた戸田の渡し場跡と、その渡し場の両岸、海老名市門沢橋(東岸)及び厚木市戸田(西岸)にある神社仏閣などを訪ねました。
茅ヶ崎から相模線に乗り門沢橋駅で下車し、午前中に門沢橋の各地をめぐり、昼食のあと戸沢橋を渡って戸田に至り、散策見学してバスで平塚駅に出て解散しました。
下見の日は雨の後でしたが、当日は初秋の好天に恵まれ、みのりの多い一日でした。
ここに載せた写真は下見、当日の両日に撮影したものです。
渡し場跡を訪ねることと、寺々に残る古い仏像を拝むことが目的でした。

江戸時代は門沢橋村

海老名市門沢橋
海老名市門沢橋は、市域の南部に位置する。
相模川がすぐ西側を流れていて、JR相模線と県道22号横浜伊勢原線が交差する所に門沢橋駅がある。
県道に沿って南側に大山道がある。江戸時代には大山詣りの導者たちで賑わっていた。
大山道が相模川に差し掛かるところに石造不動像の道標⑤がある。
社寺では、浄久寺②と正覚寺③と鎮守の渋谷神社④がある。

『新編相模国風土記稿』高座郡門沢橋村の項(以下『風土記稿』と略記。雄山閣版3巻335頁)に「海老名郷の下方に在るをもって海老名下郷と号す、民戸96、東西11町半(約1200m)、南北9町半(1036m)、東は本郷村(海老名市)、南は倉見村(寒川町)、北は中野村(海老名市)・本郷村、西は相模川を隔てて大住郡戸田村(厚木市戸田)に接する」とある。
また「街道は2、東西に貫くものが大山道(幅2間〈3.6m〉当村継場から東の方用田村〈藤沢市〉へ30町〈3.3km〉、西の方戸田村へ18町〈約2km〉)、南北に通ずるのは八王子道、幅9尺〈2.7m〉」とあり、「柏尾通り大山道」と呼ばれる大山道はメインストリートだった。
相模川についても「幅百間余〈約180m〉、平常の水幅は80間〈144m〉ばかり、高さ3尺〈1m〉の堤が設けられ、渡船場があり、戸田渡しと言われ、船2艘を置き、対岸の戸田村との共同の持ち(管理)で、大山道にかかっている」とある。ちなみに、対岸の戸田村の項には「河原とも幅六、七町〈700m〉、渡幅一町(108㍍)ばかり」とある。

明治以後の来歴は、
 明治22年(1889)町村制施行により、高座郡有馬村大字門沢橋となる。
 昭和30年(1955)有馬村が海老名町と合併し、海老名町大字門沢橋となる。
 昭和46年(1971)海老名町が市制施行した。

相模線門沢橋駅は無人駅です
小田急線の厚木駅とくっついています
トイレは両駅共用でした
駅前で打合せ
この日、参加者は多くありませんでした

① 門沢橋を探す

『角川日本地名大辞典』14神奈川県の249頁にある門沢橋の解説の
「(門沢橋という)地名は永池川が相模川に合流する河口に位置することに由来し、この河口に橋が架けられて門川橋と称し、転じて美唱の門沢橋になった」という説は何に由来するか書かれていないこともあるが、理解しがたい。

駅前に立ててある地図に永池川に架かる「門沢橋」の表示があった。
今も、このように呼ばれる橋があれば、地名に関係するのではないかとその橋を探した。しかし、探し方が悪かったのか、橋は見つかられなかった。
捜索の途中で親切な土地の人に出会い、「それならこっちだ!」と案内して貰った。
原川(永池川に落ちる)に架かる小さな橋で、駅前の地図にある橋とは別物だった。
両方の橋は数百㍍しか離れていない。実際に同じ名の橋が二つあるものか、あるいは地図板の図が間違っているか。
原川に架かる門沢橋が昔からあるものならば、村名・地名に関係する橋なのかも知れない。

駅前にあった説明用地図
①に「門沢橋」と書いてある。しかしこの橋にはたどり着けずに、②の位置にある「門沢橋」を見つけました。右の写真がそうです
やっと見つけた門沢橋
原川に架かっていました

② 浄久寺(浄土宗) 海老名市門沢橋4-11-1

浄久寺本堂 
浄久寺は、江戸時代に門沢橋村の領主、長谷川家の菩提寺としてできました
開基は『風土記稿』に、長谷川政氏とありますが、いささか疑念があります
寺の名は、政氏の戒名「長清院空譽浄久」から付けられました

長谷川山隆崇院浄久寺
『風土記稿』に次のように記されている。
長谷川山隆崇院と号す。浄土宗〈増上寺末〉、本尊阿弥陀仏〈座像長一尺七寸(約51cm)春日作〉、開山然譽知全〈元和三年(1617)二月十九日卒〉、開基長谷川筑後守政氏〈法諡、長清院空譽浄久、寛永十五年(1638)九月二日卒〉
しかし、上記中の「政氏」は「正成」の間違いではなかろうか。後に記すが、「空譽浄久」は、境内にある長谷川家の供養塔中の、2代正成のものに刻まれている戒名なのである。

ご本尊は平安時代の阿弥陀如来坐像
海老名市指定の重要文化財の平安仏。
境内に立つ説明板に次のように紹介してある(現物は縦書き)。

平成十七年五月十八日指定 海老名市指定重要文化財
浄久寺 木造阿弥陀如来坐像
この木造阿弥陀如来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したと伝わる仏像です。
平成七年(一九九五)の海老名市史編纂仏像調査により平安時代後期(十二世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。
像高は五十二・一センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く調えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確実に確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。
 平成十七年十二月 海老名市教育委員会

平安時代、定朝様式と判定されているご本尊の木造阿弥陀如来坐像
残念ながら我が茅ヶ崎市には平安仏はありません。鎌倉時代の作とされる銅造善光寺式阿弥陀三像像(宝生寺蔵)が最古のものです
浄久寺さんにお願いして近くで拝ませていただきました
写真撮影も許可していただきました
本堂内におまつりされている

善導大師のお像
善導大師は中国浄土教を大成した僧で、日本で浄土教を開いた法然上人はその他力念仏の教えを引き付いだ。
多く浄土宗の寺院でまつられている。
2019年度第1回の郷土会史跡めぐりで訪れた鎌倉材木座にある光明寺には善導塚がある。

浄久寺の開基正成を含む長谷川家歴代の供養塔
池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川平蔵は、浄久寺にある長谷川家がモデルになっていると言われている。
門沢橋村の領主だった長谷川家のことを『風土記稿』は次のように記す。
「今、長谷川太郎兵衞正岱知行所なり。〈寛永二年(1625)十二月、先祖筑後守正成賜る〉」
「今、」とは、風土記稿ができた天保時代を指す。その頃は正岱が門沢橋村の領主で、村を賜ったのは寛永2年、正成だったという。

本堂の向かい側に宝篋印塔が15基並んでいる。
その中に正成の名も、正岱の名も刻まれている。

宝篋印塔の脇に立つ説明版には次のように書かれている。

平成十七年五月十八日  指定
海老名市指定重要文化財 浄久寺 長谷川家石造宝篋印塔群
寛永二年(一六二五)に幕府旗本の長谷川正成(まさなり)が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、幕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。
台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成以降、正岳(まさたけ)まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。
別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。
宝篋印塔は、江戸時代に幕府旗本の墓塔としてよく用いられ、江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。
また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。
 平成十七年十二月  海老名市教育委員会

長谷川家一族の供養塔
そばに立ててある説明板と合わせるために番号を振りました

宝篋印塔にある銘
15基の宝篋印塔の銘は教育委員会が立てた説明板に掲載されている。
その説明板を写真に撮って、文字に起こしたものが次のとおりである。
写真では潰れて読めない文字があり、傍線や□にしたが、現物の説明板にはちゃんと書かれている。
正成はNO.9、正岱は№11。

№1
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面  于時正保四天(1647)
      為桂誉円大姉
      亥七月廿日
№2
塔身正面  于時明暦元(1655)
          □入
     為泉誉智春信女
          菩提
     五月廿二日
№3
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面  于時寛永九年(2632)
      為光窓恕閑居士
      酉九月十一日
№4
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎正面   于時慶長十三天(1608)
       為薫誉花慶大姉
             施
       六月九日
№5
基礎右側面  寛文七丁未暦(1667)
基礎正面   清隆院殿
       (阿弥陀種子)畠誉
       永譛信女
基礎左側面  十二月六日
№6 三代 正登
塔身正面  胎蔵界大日種子
基礎右側面 寛文四甲辰年(1664)
基礎正面  隆崇院殿
      善誉源春
        居士
基礎左側面 二月四日
№7 八代 正鳳
塔身正面  (胎蔵界大日種子)
基礎右正面 寛政六寅年(1794)
      閏十一月廿二日
基礎正面  徳巌院殿
      仁誉智浄
      義山大居士
基礎左側面 長谷川主膳
      藤原正鳳
№8 四代 正忠
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎右側面 浄泰院殿
      慶安五年(1652)
基礎正面  為幼夢梅春居士
基礎左側面 壬辰二月二日
      文善院殿
№9 二代 正成
塔身正面  (阿弥陀三尊種子)
基礎右側面 于時寛永十五天(1638)
基礎正面  頓證仏果
      為前筑州太守空誉浄久居士
      菩提円満也
基礎左側面 寅九月二日

 

№10 六代正冬・七代 正直
塔身右側面 四月十六日
      宝暦二壬申(1752)
塔身正面  松寿院殿宗誉
      法山仁性大居士
塔身左側面 長谷川監物
      藤原正冬
基礎右側面 八月初七日
      寛政四壬子(1792)
基礎正面  演徳院殿
      神誉廣山
      寿翁大居士
基礎左側面 長谷川
      太郎兵衞
      藤原正直
№11 十一代 正岱
塔身正面  (阿弥陀種子)
基礎右側面 文久三亥年(1863)
      八月初七日
基礎正面  崇徳院殿
      興誉豊寿
      腥翁大居士
基礎左側面 長谷川氏
      太良兵衞
      藤原正岱

№12
基礎正面  延宝二甲寅年(1674)
      住誉□貞信女
      二月十九日
№13
塔身正面  五庄院殿
№14 九代 正運
塔身正面  (阿弥陀種子)
基礎右側面 天保十三(1842)
      壬寅年
      九月初八日
基礎正面  功徳院殿
      令誉宝利
      能山大居士
基礎左側面 長谷川氏
      太郎兵衞
      藤原正運
      隠居名能山
№15
基礎右側面 春光院殿
      寿光院殿
      清浄院殿
基礎正面  寛政五丑五月二十三日(1793)
      真正院殿
      真浄院殿
      安永午七月十七日(1774)
基礎左側面 春 安永二巳正月六日(1773)
      寿 安永九子七月七日(1780)
      清 寛政八辰五月廿四日(1796)
基礎裏面  安永四未十一月九日(1775)
      光輪院殿
      心光院殿
      明和四亥八月八日(1767)
平成十七年十二月 海老名市教育委員会
銘文は篠崎 信氏の調査による。

宝篋印塔にある阿弥陀三尊種子
本堂の横の、歴代住職の墓域にある筆子塔
文字をちゃんと読んでこなかったのが残念です
かつて浄久寺で寺子屋を開いていた住職のものです

③ 正覚寺(真言宗) 海老名市門沢橋4-13-13

境内に大きな宝篋印塔(江戸時代)があります
明和4年(1767)建立 天保9年(1838)再建と刻銘がありました
興味深かったのですが、詳しく見ている余裕がありませんでした

橋沢山延命院正覚院 
『風土記稿』門沢橋村の項に「橋沢山延命院と号す、古義真言宗」あとある。

『海老名市史7』682頁は『鷹倉社寺考』を引いて次のように延べている。
開山開基不詳。寺伝に曰く。明和年中(1764~71)正覚寺光雅当寺創建と伝う。按ずるに前稿加牟之由明神がことと不合せざること多し。光雅は中興の僧なるべし。万治二年(1659)の稿本に橋沢山延命院正覚寺と記し開基不詳と記す」と、万治期に開基不詳の記録があることを根拠に、明和期は創建ではなく、再興であるとしている。

ご本尊は海老名市指定重要文化財の十一面観音坐像

このお像もこの日の目的の一つだった。
ご住職にお願いすると、本堂内で身近に拝むことができて写真撮影もご了承いただいた。

境内にある説明板に次のように書いてある。

海老名市指定重要文化財
正覚寺本尊 木造十一面観音菩薩坐像 昭和四十九年四月二十三日指定
本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五㌢の寄せ木造り、玉眼嵌入です。肉身部は金泥、条帛・衣文などは黒漆塗りです。頭上には仏面、化仏の十一面を据え、左手に蓮華のつぼみの入った水瓶を持ち、右手は、願をかなえる与願印で垂下しています。
江戸時代に編纂された『風土記稿』には、鎌倉時代の運慶作と記されていますが、実際の制作は江戸時代前期ころと考えられています。ただし、作風は、中世の仏像を手本としており、まとまりの良いものとなっています。
昭和五十四年に解体修理を行い、残された特徴をもとに、ほぼ創建当時の姿に復元されました。この復元の際に、像内から(木造十一面観音坐像・一木造)が発見されました。平成七年に実施された海老名市仏像悉皆調査によれば、その作風は、本尊よりも遡る室町時代後期ころの作とされています。             平成拾六年九月 海老名市教育委員会

胎内に本像と同じ十一面観音坐像が納められているそうです。
昭和54年に解体修理され、とても見事な像容です。

 そのほか、本堂内にはいろんな仏像などがおまつりしてあった。

木造青面金剛立像
庚申信仰の主尊仏です。路傍には石造の庚申塔がたくさんありますが、木造はそれに比べると数が少ないです。左腕にショケラという裸の女性をぶら下げています。
善光寺式阿弥陀三像像
中央の阿弥陀様も両脇の観音(向かって右)・勢至菩薩も儀軌どおりのスタイルです
青く彩色された不動明王
どういう訳か、火炎に包まれているかのように撮れていました
あらゆる願い事をかなえることができるという宝珠
手にして押し頂くと、その効果がたちどころに現れると、ご住職の説明でした

④ 渋谷神社 海老名市門沢橋4-11-14

江戸時代は神寿〈かんじゅ〉稲荷と呼ばれていた。

『海老名市史7』(通史編・近世・2001年海老名市刊)645頁に次のようにある。
「鎮座地は門沢橋字稲荷町。村のメインストリートである柏尾通り大山道に面しており、当社の社前には高札場があった。祭神は「寒川名神ノ御支枝」の加牟之由之命〈かむのいわれのみこと〉加牟之由比古命(かむのいわれひこのみこと)とも、倉荷魂命〈うかのみたまのみこと〉ともいう。当社は下海老名郷(現在の社家・中野・門沢橋のあたりか)の総社であり、門沢橋村の鎮守であった(『鷹倉社寺考』)。平安時代末期の寿永年間(1182~83)に渋谷庄司重国が当社を造営し、嘉禎3年(1237)に渋谷又太郎が鎌倉郷の稲荷を合祀したと言われるが(『社寺考』)、史実かどうかははっきりしない。かつて下海老名郷は海老名氏の支配地であったが、下海老名郷の史料上の初見は文永元年(1264)とされるので、それ以前に神寿稲荷に渋谷氏が関係していても矛盾はしない。近世でも門沢橋村は、名前だけ残っていた渋谷庄の一部であった。
近世の棟札二枚が現存する。寛保元年(1741)十二月のものには「新造立」、天保九年(1838)二月のものには「再建」とある。当社の別当寺は寛永五年(1628)創建の長谷川氏の菩提寺の浄久寺ではなく、より古い正覚寺であることや、供鐘が延宝七年(1679)の鋳造であることなどから、寛保元年の「新造立」は創建ではなく、全面的再建を意味すると思われる。(以下略)

拝殿の向拝の梁に龍の彫刻がありました
裏を見たのですが、作者銘はありませんでした
拝殿は戦後の建築のようでした
渋谷神社本殿
拝殿(覆殿)に入れないので実物を見ることはできませんが、説明板にその写真が掲げられていました
その複写です

境内にある海老名市教育委員会設置の説明板

海老名市指定重要文化財
渋谷神社本殿  平成十五年四月三十日指定
渋谷神社は江戸時代に神寿(かんじゅ)稲荷(稲荷社)と称し、旧門沢橋村の鎮守であった。現在の渋谷神社に名称を改めたのは、明治七年である。江戸時代の延宝七年(一六七九)鋳造の鐘を鐘楼にかけていたので、その成立は同時代初期に遡ると思われる。勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。
本殿は、間口四尺の一間社流造り(いっけんやしろながれづくり)の建物で、覆殿内部に安置されている。建築年代は、本殿内にある棟札から、寛保元年(一七四一)と推定される。また同じ棟札から、作者が地元の工匠であることが判明している。
母屋は、正面両脇の小壁に上り龍や下り龍の彫物をはめ、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)は、正面を獅子と獏(ばく)の彫物、背面は象鼻と絵様木鼻である。また中備(なかぞなえ)には、草花を彫ったかえる股を置くなど、小規模な建物ながら、彫物装飾を効果的に用いた造りになっている。
当本殿は、斗供(ときょう)の形式、虹梁(こうりょう)の絵様や、木部と彫物すべてに当初から彩色が施されている点など、十八世紀の中ごろの特徴をよく示しているうえ、保存状態も良い。また、当時としては彫刻を多く用いるのは珍しい。
以上のように、本物件は十八世紀前期の標準的な遺構として貴重であり、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。
 平成十六年九月 海老名市教育委員会

⑤ 柏尾通り大山道と石造不動坐像の道しるべ

大山道が西に向かって相模川に突き当たる所に大山のお不動様の石造があります
「オレの後ろに大山があるぞ まっすく進め」という雰囲気で、大山導者を昔からにらみ付けていました

柏尾通り大山道
江戸時代は、江戸をはじめ、上州・房州などから大勢の人たちが大山参拝をしていた。
東海道を下ってくる導者は、柏尾村(かしおむら 現在の戸塚区内)から分かれて西に向かい、用田(藤沢市)、門沢橋村とたどって、相模川を渡った。
門沢橋村はこの柏尾通り大山道が相模川を越す戸田の渡の東岸にあって、導者相手の村として栄えていた。

中央の道路が、昔の大山道
『風土記稿』には道幅2間(3.6㍍)と書いてあります
門沢橋では、「昔は導者相手の商売をしていた」と伝える家が今も何軒かあります
道路の突き当たりの、赤い柵で囲まれているのが、大山不動の石像です
正面
不動像の下の竿石に「大山」とあり、柏尾村から点々とあるお不動様をたどると大山まで導かれるようになっています
側面
「安政二卯五月廿八(日)/門澤橋」とあります
安政2年は西暦1855年です
凝灰岩(七沢石)の柔らかい石で作ったために傷んでいます
角塔婆の左側面は「是大明王無其所居但徃(住)衆生想之中」(大明王〈不動〉はほかの所におられるのではなく、人々の信仰の中にいつもおられる)という意味でしょうか。ネットで調べると「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」の一説だとありました
角塔婆の右側面にある、不動行者加護の「不動心呪」
その上9文字です
不動尊の脇に立つ角塔婆(かくとうば)の正面
「カーンマーン(不動種子)寳塔者為大山柏尾道不動尊門澤橋安穏万民豊楽也」
訳すると
「宝塔(角塔婆)は大山道柏尾道にある不動尊のおかげで門沢橋の人たちが平和で豊かに暮らせるように立てた」ということでしょう
右側面
基礎にはこの不動尊を奉納した村人の名が彫ってあります
左画像の下、「セン」をダブらせて15文字です
角塔婆裏面には「令和元年(2019)年8月吉日 門澤橋不動講々中一同」とあり、講中が健在のようです
戸田の渡の説明板
石造不動尊の脇に立ててあります

⑥ 戸田の渡し 渡し場跡

県道22号に架かる戸沢橋から見た相模川下流です
この流れの先は相模湾
左側が海老名市門沢橋、右側は厚木市戸田

「戸田の渡し」について、『海老名市史7』(569頁以降)に書いてある。
要点を書き抜くと次のとおりである。

『風土記稿』に、船2艘を置き、当村と対岸戸田村の両村持ちとある。
江戸時代の門沢橋村は二つの街道(編者注 大山道・八王子道)に沿って多くの家が立ち並び、屋号に人馬の継場を思わせる「立場」や「木村屋」「富田屋」「桐屋」「柏屋」等があり宿場を思わせる街であった。
毎年6月末に始まる大山の夏の例大祭(6月27日~7月17日)時に渡船場は賑わった。
渡船賃は寛保元年(1742)、宝暦11年(1761)の資料で、旅人から定額一人12文、武士は無料であった。
船は、戸田村との組合持ちで馬船(まぶね)1艘・歩船(ほぶね)1艘で渡河していた。
渡し場は、当初戸田村一村の業務だったが、寛永18年(1641)頃に門沢橋村が助郷を始めてから両村で行った。毎年2月下旬に、会所や渡し場の崩れている所を修理し、渡船場を開く準備をする。冬の間は、恐らく他の渡船場同様に土橋などを用いていた。
渡船場の監督は戸田村の船守大支配人が行い、中戸田村(戸田村中分武田領)の名主級の有力農民から出すことになっていた。その下に下戸田村(戸田村下分岡部領)から船渡下支配と呼ばれる副役が出た。
中戸田村と下戸田村の関係は、税負担や収益、船の修理でも中戸田村は2/3で下戸田村が1/3の負担という定めであった。戸田村と門沢橋村の関係では五分五分の定めだった。
宝暦11年(1761)の文書によると、門沢橋村には水斗(かこ)仲間が26人いた。水斗とは、船頭ではなく渡船場株(職業上の特権)の所有者であり、また水斗仲間を束ねる水斗仲間世話人という役職があった。渡船場株は相当の収益があったようで、質草にもなった。
幕末の攘夷運動の高揚の中で外国人襲撃事件が起きると、幕府は、近隣の村々に対して横浜表別段取締という警戒体制を取ることを命じた。多摩川・相模川・その外の見張小屋を関東取締出役の手で強化した(『神奈川県史』通史編3)。安政7年(1860)の「相模川筋渡船場往還道見張番屋御請書帳」(相模原市・鈴木家文書)によると、戸田・門沢橋両村渡船場、厚木・川原口・中新田三か村渡船場を含めた相模川の7カ所の渡船場に対して「川西岸へ繋ぎ置き、東岸へ見張り番屋補理(しつらい)、最寄り番非人へ申し付け交代番致させ、平日きっと相守らせ、村役人ならびに組合大小惣代のもの時々見回り、且横浜表急変の節は通達これあり次第、右詰場村々え触れ知らしめ急速人数差し出し村役人付き添い厳重に取り締まり仕り候」とあり、寄場組合単位で見張番屋を作っていたことが解る。

門沢橋の大山道が相模川に下りる所にあった石造不動道標の先が渡船場跡かと思い、そのまま川の方に進むと、このような設えがあり、その先はヤブで、道らしいものは消えてしまいます
相模川の川べり、門沢橋側 
戸沢橋の上から下流を向いて撮影
何もないはず、こんなヤブだったのです
徒労に終わった渡し場跡探しののち、戸沢橋を歩いて戸田に向かいました
それでもがむしゃらに進むと、川のふちにでました
向こう岸は厚木市戸田、左手に見える白い橋は戸沢橋です
結局渡船場跡らしきものは何も見つけられませんでした
戸田側の川べり 同じく下流を向いて撮影
スポーツ公園ができています
戸沢橋の両側のモニュメントにあった渡しの説明です
文中に「渡し巾百十メートル」とあるのは、『風土記稿』戸田村の記載にある「渡幅一町ばかり」に依ったものです
ちなみに同書、門沢橋村の記載では「幅百間(180㍍)あまり」とあります

渡し場跡見つからず
渡船が終息してから長い年月が経っている。
渡船場には恒久的な構築物はなかっただろうし、相模川は何回も氾濫し、川岸の様子は大きく変わっていることだろう。
今の時代なら、渡し場閉鎖のときに記念碑でも作るだろうが、明治のころは無用になった渡船場跡を保存しようという考えなどなかったに違いない。
ヤブの中で大汗かいて、私たちはそう思った。

戸沢橋
『角川日本地名大辞典』14神奈川県 625頁には次のように説明されている。
相模川に架かる橋。主要地方道路横浜伊勢原線が通過。厚木市戸田と海老名市門沢橋を結ぶ。昭和42年竣工。横長526m・幅員8m。九径間連続鋼鈑桁橋で、耐震性を重視した構造を持ち、橋内部に下水管を通している。
古くから戸塚から用田を経て戸田の渡しを渡る大山道が通じていた。
昭和5年、横長445m・幅員4.5mで架橋されたが、増水のため流失し、再び渡船となっていた。
昭和28年頃、平常流水の幅に長さ140m・幅2mの鉄筋コンクリート橋が架設されたが、出水時には水面下に没し、交通不能たびたびであった。現在の橋は、国道129号および主要地方道藤沢厚木線から新道を開き架橋したもので、6年の歳月で完成したが、のち両側に歩道をつけた。

⑦ 戸田の渡し場跡など

戸田側に着いて、渡し場跡かと思われる川際から上がってくると、その先は大山道になって西に向かいます
大山道の北側には県道22号が平行しています
画像の左方向に進むと、相模川の堤防の上を走る道路が南に延びています。この少し先に、戸田の渡し場跡の記念碑が2ヶ所にあります
⑦-1
一つ目は厚木市設置の記念碑
「安藤広重はここで相州大山道中戸田之渡を書いている。昭和59年2月 厚木市」と彫ってあります
冒頭に掲げたコース地図の⑦-1です
⑦-2にある歌川広重の相州大山道中戸田川之渡をモデルにしたプレート
⑦-2
二つ目は、堤防上の道路をさらに南に行ったところにあります
大きな御影石で作ってあり、渡し場の解説と、広重の浮世絵が銅板に刻まれて貼り付けてあります
コース地図の⑦-2です

⑦-2の記念碑に彫ってある説明文は次のとおりです。
戸田の渡し
相模国風土記稿に源頼朝の妻政子が、大山の不動尊や日向薬師に安産の祈願をしたという記述があることから、この戸田の渡しは、鎌倉時代にはすでに武家の大山詣りや米の運び道として利用されていたと推察される。この渡しは、用田・長後方面から下津古久・落合を通り大山へ通ずる大山詣柏尾道の要衝であり、江戸時代の有名な浮世絵師の歌川(安藤)広重によって画かれた「相州大山道中戸田川之渡」には、多くの人々がこの渡しを利用している当時の様子が窺える。戸田村と門沢橋村の両村が船二艘で経営した戸田の渡しは、川が氾濫する度に渡船場の位置が変わったが明治の末まで盛んに利用された。


⑦-3 戸田の大山不動尊(石仏)

大山道を少し進むと、民家の脇に石造の大山不動がありました
不動様の台石に「小柳講中」とあります。戸田村の中の小柳という集落で大山講を組織していて、この石像を作ったということです
そのとなりにはブロックの覆い屋で囲まれた道祖神もありました
石造不動坐像の後ろにある石柱(竿石)です
昔はこの上にお不動様が乗っていたのでしょう
宝暦8年(1758)に立てた不動像を昭和13年(1938)に再建したとあります
そのお不動様が、左の写真の不動像なのでしょう
とすると、再建したのは竿石だけだったのでしょうか。

⑦-4 大山灯籠があったところ

先の不動坐像の近くの道の脇に、切石などが寄せ集められている一角があります
わずかでも元の形を留めていると思われる石材に①から⑦の番号を振りました

その中のNO.③です
大山灯籠はこれだったと思われます

今回参加している会員から「昔ここには大山灯籠が立っていた」と教えて貰った。
集めてある石材には元の姿をそのまま留めているものはなかったが、大山灯籠があったのなら、その残骸がまだ残っているかも知れないと思った。しかし、めぐりの途中で、詳しく見ている余裕はなかった。
撮影しておいた画像に依って分かったことを記して置く。
①に「講中」とあった。「大山講中」とあったものだろう。②「○○信士・○○信女」とあり墓石。③竿石・中台・壊れた火袋が揃っている。向かって左側面に「明和□歳」(1764~71)の年銘。大山灯籠はこれであろう。④地蔵立像。⑤竿石に「施主…」の銘。⑥観音らしいが兜を被っているようで特異な形の石仏。⑦⑥の観音像に似ている。

⑧ 八幡神社 厚木市戸田1057

境内のサイノカミ(道祖神)を見る

大住郡戸田村の鎮守。
『風土記稿』戸田村の項に次のように記されている。

八幡宮 鎮守なり。
例祭八月十五日。
社地、相模川の辺にありしが、大水のとき度々崩れしにより、文政十一年(1828)十一月、別当寺(注 延命寺)境内に移す。
社領八石の御朱印は慶安二年(1649)八月賜うところなり。

広い境内に遊具や村内から集めたサイノカミ(道祖神)の覆い屋、庚申塔群、関東大震災の記念碑などがあり、ことに石仏が興味深かった。
当日撮影した画像から、いくつかの石仏情報を復元してみたが、撮影しなかった部分もあり、ここに記した説明は不十分であるであることをおことわりしておく。 

神社は相模川の方向(東)を向いています
石仏の類は、写真の向かって右側に、2ヶ所にまとめておいてありました

地主神

従四位侍従源信之謹書
と揮毫者の署名がありますが、誰だか分かりません

関東大震災の碑

地神塔の得意な形かと思いましたが、裏面に
明治六年 當社再建時境内敷地寄附
  祭 石川宗八霊
  明治三十八年八月建之
と彫ってありました
明治6年(1872)に社殿を再建する際、地所を寄附した石川宗八氏の霊を、明治38年(1905)に「地主神」としてここに建立したということです
単なる記念碑ではなく、ご神体ということになります
関東大震災の碑です 銘は次のとおり 「/」は碑文の改行か所です
大正十二年九月一日正午前二分俄然/響アリテ大地震撼シ山河崩レ屋宇仆/レ死傷算ナシ特ニ此地ハ震源ニ近シ/ト云フ惨烈想フベシ今茲恰モ七周年/ニ當ル相州村字戸田中分ノ人相謀リ/禮位ヲ設ケテ死者ノ魂ヲ祭リ併セテ/文ヲ石ニ勒シ以テ不慮ノ天災ニ備フ/ルノ用意ヲ来者ニ促ス/昭和四年九月一日

覆い屋に祭ってあるサイノカミ(道祖神)

一方向から撮影した写真しかありませんでしたので、刻まれている総ての銘を写した訳ではありませんが、次のとおりです
双体道祖神  銘の有無は不明
角柱文字道祖神  (正面)道祖神 (右側面)嘉永五年(1852)正月十四日 (左側面不明) 
疱瘡神 (正面)奉請 疱瘡神 (右側面)維(時)文化九(1812)壬申年/十月吉祥日 

疱瘡神はサイノカミの兄弟です
昔、子どもが疱瘡にかからないように、サンダワラの上に座らせてお湯を少し振りかけ、そのサンダワラに赤い紙の御幣の立ててサイノカミに供えるまじないがありました
サイノカミは疱瘡除けの神様でもあったのですが、次第に疱瘡専門の疱瘡神が独立していきました

庚申塔群
境内の奥、拝殿の横に、庚申塔などを集めた一角がある

①については前記した。
②、③、④、⑤、⑦は記録してこなかったので、ここでは割愛。
⑦はどのような石質なのかは分からないが、大きな石にたくさんの穴がある。この穴に入っている小さな石ころでなでるとイボがとれる俗信があるとネット情報に出ている。

⑥笠付角柱型庚申塔
⑥の形の庚申塔は、相模川の西側ではよく見かけるが、その東側に住む私たちにとっては珍しいものである。
この日のめぐりが終わって、戸田からバスで平塚駅に向かう途中に、平塚市大神の寄木神社境内に同じ形のものがあるのをバスの窓から見かけた。

崩れた形の反花座の上に角柱を立て、笠を被せて擬宝珠を置く。
この塔を記すに当たって、仮に、拝殿を向く面を1面とし、右回りにその向かって左側面を2面、1面の向こう側を3面、向かって右側面を4面とする。
3面(現状では背面)には全面に次の銘がある。
 于時寛文四丁辰年六月吉日
奉造立為庚申供養石塔二世安楽也
 相刕大住群戸田村

寛文4年は西暦1664年。庚申塔の古塔である。
この3面が本来の正面である。現状を90度回転させると元の姿に戻る。

1,2,4面は上下2段に区画し、上段を花頭窓に掘りくぼめて三猿を刻む。
1,2面の猿像は破損して元の姿が明確でないが、1面は聞かざるのようである。4面は見猿であることがはっきりしている。3面(本来の正面)から右回りに見ざる・聞かざる・言わざるの順となる。
下段は、1面(本来の背面)は花頭窓に掘りくぼめ、中央上部にアクを置き、その下は二行にして左右三文字の梵字を刻む。
2面も同様の構成で、上部はウーン、その下の梵字は石面が荒れていて読めない。
4面も同様の構成で、梵字も配置も同じようだが、石面の荒れが甚だしい。
もしも、1、2、4面の梵字が、それぞれに7文字ずつあるとすると、光明真言の可能性があるが、今のところ、何とも判断できない。
また、石質も私には分からない。茅ヶ崎あたりでは見かけないようだ。
ただ、寛文の年銘を持つ貴重な塔であることは確かである。

 ⑨ 延命寺(真言宗) 厚木市戸田1099

9月28日、私たちが訪れた日、延命寺ではお葬式の準備が進められていた。私たちのおまいりと重なってしまったので、ご遠慮致しましょうかと申し上げたら、「夕方からだから」と、この日の目的の一つである、平安仏の木造菩薩立像を間近に拝むことを許していただいた。
誠にありがたいことと、一同感激した次第である。

『風土記稿』戸田村の項に次のようにある。

延命寺 戸田山普賢院と号す〈万治三年(1660)院号を免さる〉。古義真言宗〈平塚新宿等覚院末〉。千手観音を本尊〈古は江ノ島上ノ宮護摩堂に安んぜしを、後ここに移せし由、蓮華座に記せり〉とす。

ご本尊の木造十一面観音菩薩

木造菩薩立像

向かって左側のお像
向かって右側のお像

境内にある厚木市教育委員会設置の説明板の解説
厚木市指定有形文化財
木造菩薩立像 二駆 平成十三年十一月十六日指定
延命寺の本堂内本尊両脇に安置される菩薩立像で、両像は一組とみられ、三尊像の脇侍であったと考えられますが、明確な尊名は不詳です。また、延命寺は一五二五(大永五)年の創建と伝えられますが、本像はそれよりはるかに古く、元々の安置場所などは明らかではありません。
平成十二、十三年に全面解体の文化財修理が行われ、造立当初の像容に近づけた形で修復されました。
両像は、通常の菩薩像の形をとるもので、頭に宝髻(ほうけい)を結い、上半身に条帛(じょうはく)、下半身に裳(も)を着ける姿につくられています。一木造りで彫眼、像表面は修理後、古色仕上げを施してあります。
両像間には多少作風の違いはありますが、共に優しい顔立ちや、全体の穏やかな肉付け、浅く彫られた衣文など、一般に藤原様と呼ばれる平安時代後期の特徴をよく示しています。作行きは地方作としては洗練性もあり、まとまりのよい出来となっています。
制作時期は、十二世紀と考えられます。
 平成十四年三月  厚木市教育委員会

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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