平成30年 茅ヶ崎海岸浜降祭 18/07/16 晴天

7月の海の日、茅ヶ崎は浜降祭一色に染まります。平成30年は、寒川町にある寒川神社と茅ヶ崎市の鶴嶺八幡社をはじめ、子供神輿も含めて各神社のお神輿、約40基が茅ヶ崎の海岸に集まって、みそぎ祓いの神事が行われました。

神事の最後に、関係者によって玉串の奉奠が行われます。茅ヶ崎郷土会も以前から玉串を捧げる一員になっています。
レポーターは、今年はたまたま芹沢にある腰掛神社の役員を仰せつかりましたので、準備段階から浜降祭に携わりました。
玉串奉奠が行われるとき、腰掛神社をちょいと抜けて、郷土会会員として玉串を捧げてきました。
準備段階から写真を撮りましたので、今年の浜降祭の流れを紹介しようと思います。

お神輿と一緒に大勢の担ぎ手が海岸に行きます。その担ぎ手が神事の間に休む場所を確保しなければなりません。場所取りに、祭りの前々日の14日夕方、だいたい決められているその場所に杭を打ってテープをめぐらし「ここは腰掛神社の休憩所だよ」のしるしをします。

前日にはお神輿を納める場所を整える仕事があります。この場所も事前に決められています。腰掛神社のお神輿は以前から寒川神社の隣に納めることになっていて、向かってその左側です。
竹竿の先にサカキの枝を指し、神社名を書いた幟を立てておきます。幟を竹竿に巻き付けてあるのが、腰掛神社の場所です。
この日は海風の強い日で、竹竿を立てるに苦労しました。

寒川神社の場所は、2~30㎝ほど砂を盛って高くしてあり、そこにハマゴウの小枝と海藻が敷いてありました。浜降祭の始まりを語る話の中で、海から拾い上げられたお神輿を砂浜に置くのは恐れ多いことなので、これらを敷いた上に据えたということになっています。

各地のお神輿は、夜中の2時、3時にそれぞれの神社を出立します。海岸に着く頃ようやく夜明けです。
腰掛神社の神輿は大型トラックに乗せられて、比較的早く到着しました。担ぎ手はチャーターした2台のバスに乗りました。各神社のトラックとバスが続々と集まりますので、国道134号は規制されます。
トラックから降ろされたお神輿は海岸を目指します。

前々日に用意した休憩所にも次第に人が集まります。
そのすぐそばには屋台店が列をなし、順次店を開けていきます。



次第に休憩所も満員状態になります。
屋台店からは良いにおいが漂ってきます。




明るくなるに従ってお神輿の数も増えます。見物の人たちもどんどん増えてきます。






芹沢は、茅ヶ崎市の一番北の端に位置しています。朝の2時に宮立ちした腰掛神社の神輿振りです。




広い海岸を、あっちに行ったりこっちに来たりしながら、お神輿が決められた場所に納められると、神事が始まります。40基ほどのお神輿がすべて着座するのに3時間ほどかかりました。
神事は予定どおりに7時から始まりました。
神社ごとに海のもの、山のもの、お神酒が供えられます。



やがて祝詞が読み上げられます。祝詞奏状は寒川神社の宮司さんです。
祝詞が終わると、参加神社や関係者が玉串を供えます。
神事が始まってここまでに約1時間かかりました。
砂浜を真夏の太陽が遠慮会釈なく照りつけます。
その間ずっと立って神事を行う神職の皆さんも大変でしょうが、椅子は用意してあるものの、参列している方も大変でした。
帽子は持っていましたが、神事の間は被っている訳にはいきません。
年々薄くなる頭髪は太陽光線をさえぎる力もなく、脳みそが煮えるようでした。
茅ヶ崎郷土会としましては玉串奉奠の画像が欲しかったのですが、カメラを構えるのも遠慮しましたので、肝心の画像は無いのです。

photo & report 芹澤七十郎

 

23ヶ村調査 中島の現地探索 2018/07/03  快晴

今年の1月9日に続く久しぶりの中島探索でした。
梅雨明けと真夏日が重なった猛暑の中、何ヵ所かを確認しながら歩きました。

まず、①馬入の渡し場跡
相模川の下流を馬入川(ばにゅうがわ)といい、川を渡って西に向かうに、江戸時代までは馬入の渡しを船で渡っていました。

しかしその場所がどこだったのかは決め手がありません。
中島を昔の東海道(今は国道一号)が東西に横切っています。この道路の位置が変わっていないとすれば、道はどこかで川に突き当たり、そこに川の東側(相模川左岸)の渡し場があったはずですが、明治時代以降、相模川は大きく流路を変えていますので、渡し場跡の位置を特定することは難しいのです。

流路が変わったために、川の東側にも平塚市分の土地があります。いまある馬入橋は平塚市内に位置します。渡し場も平塚市分にあったのかも知れません。
今は、馬入橋の南側(下流)に東海道本線の二本の鉄橋が馬入橋と平行するように架かっています。その様子を写真に撮ってきました。
画像の右側の橋が国道一号(東海道)の馬入橋です。渡しはこの橋の下にあったのでしょうか。

②松山橋跡
中島村は昔から相模川の水害を受けてきました。
明治9年に、地元の村々が神奈川県に出した堤防設置の願い書に「堤防の端は松山橋」までと書いてあります。この橋がどこにあったのかがはっきりしません。
中島を囲むように、相模川に沿って南北に延びる堤防が築かれていて、川に面した土地は湘南シーサイドカントリー倶楽部というゴルフ場に取り囲まれています。ゴルフ場の一角に、大きな松が何本かあり、土地の人たちはそこを松山と呼んでいます。
昔、この地がゴルフ場になる前、ここに村から相模川に向かう小さな流れがあったといいます。
そこに橋があったとすると、それが松山橋ではなかったろうかと私たちは思っているのです。

③大堤防の一角です。画像の左側の土手は堤防ではなく、ゴルフ場との境です。道路が堤防です。堤防の両側にゴルフ場が広がっています。
明治19年の「国史下調」に、明治19年11月、498間(約896メートル)高さ・幅4尺(約120㎝)の相模川洪水除堤を作ったとあります。
その洪水除堤と今、歩いている大堤防とがどのような関係にあるのか、まだ分からないのです。

相模川河畔スポーツ公園
今年3月25日、柳島に新しいスポーツ施設がオープンし、長年市民に親しまれたスポーツ公園は肩の荷を下ろしました。
このスポーツ公園の横を真っ直ぐな道路が南北にあります。この道路も一段と高くなっているので、堤防だろうと思われます。途中からゴルフ場の中に取り込まれていて立ち入り禁止となっています。その先は相模川河口近くの小出川まで続いています。

⑥中島中学校
学校のホームページに、昭和51年4月1日開校とあります。
明治のころの地図を見ると、東海道本線の線路の脇から始まる低湿地が南に下って中島中学校の辺りまで来ており、水も流れていて大川と呼ばれていました。
この大川に沿う所は大川淵という小字になっています。江戸時代にはもっと大きな流れだったと思われます。
大川は、中島中学校とその東側にある柳島小学校の辺りで当時の相模川の支流に流れ落ちていました。
中学校ができるまで、この辺りは低い土地だったようです。

介護老人保健施設 ふれあいの渚
中島には二つの老人福祉施設があります。
ふれあいの渚と湘南ベルサイドです。
茅ヶ崎郷土会の会員も高齢化して、7~80代が多くなりました。
今は元気でも、何時何時要介護となるかしれません。
各地の施設を研究調査しておくことも必要だと思います。

浄林寺の施餓鬼
この日は、浄林寺でお施餓鬼が行われていました。
山門に変わった旗が立ててあったので調べてみましたところ、仏旗(ぶっき)というものだとネット情報にありました。
日本仏教協会に加盟している寺院や仏教各派が仏事を営むときに掲げるのだそうです。外国で始まったもので、日本の仏教界でも取り入れたのだそうです。家庭用もあるようです。

浄林寺さんの本堂の裏にある墓地の一角に、無縁になった墓石などが集めてあり、その中にひときわ立派な石塔があります。
元和九癸亥[    ]
阿弥陀三尊種子 □誉善心禅定門霊位
九(八?)日[   ]
と読めます。
元和九年は西暦1623年です。「□誉善心」の歿年日と思われますが、今から395年も昔のものです。
おそらく年号のはっきりしたものでは、中島で最古のものでしょう。
中島の宝物の一つだといえるでしょう。

ファミリーマート中島店
最近のコンビニには、店で買ったものを食べるスペースが設けられています。
猛暑の中を歩いた私たちには大変ありがたく、中島めぐりの後はよく利用させていただいております。
缶ビールのうまかったこと!
店員さんたちも感じがよく、みなさん親切です。

report photo 平野会員

郷土会 Study Room 名和稔雄さん「南湖院の人々」 2018.06.19(晴)

まるごと博物館の会と共同で行っている催しで、平成30年度2回目の勉強会でした。

会場は茅ヶ崎市福祉会館の集会室6。10時から11時30分まで行われました。

今回のお話は名和稔雄さん。
茅ヶ崎郷土会に長く在籍され、平成27年度まで副会長、今は相談役についておられます。また、担当を降りておられますが、当会の会報「郷土ちがさき」の編集員もつとめられました。
今回はその名和さんに打って付けの南湖院(なんこいん)のお話でした。

茅ヶ崎に住む方には南湖院はよく知られていますが、ご存じで無い方に向けて、簡単に説明しておきます。
南湖院は茅ヶ崎市南湖(なんご)にかつてあった、結核の治療をもっぱらとした病院です。明治32年(1899)に医者の高田畊安(たかたこうあん)が開院し、太平洋戦争の終戦直前、昭和20年(1945)に畊安の死去とともにその役目を終えました。

南湖院には数々の有名人が入院していました。たとえば国木田独歩は明治41年(1908)6月ここで亡くなっています。
名和さんのお話は、開院者であり院長だった高田畊安の紹介から始まりました。

神田駿河台で結核の治療にあたっていた杏雲堂(きょううんどう)病院が、明治29年(1896)に茅ヶ崎の隣の平塚に病院を開きました。南湖院の開院はその3年後のことで、相模川を挟んで両方に結核治療の病院ができたのは、南湖院院長高田畊安の、杏雲堂平塚病院の開設者佐々木政吉へのライバル意識のせいではないかという名和さんのお話でした。

そして院長を慕って宮城県から移ってきた医師、高橋誠一のこと、平塚雷鳥のこと等々と話は続きました。

このような地元の歴史に関するお話は、時を変え場所を変えて、何度も行うことが大切だと思いました。

今後の郷土歴史民俗勉強会は
7月17日(火)
場所は、市役所コミュニティーホールA会議室
時間は、10時~12時
内容は、鎌倉北条氏と小田原北条氏
お話は、源会員・山本会員
(場所がいつもの福祉会館と違っています)

8月21日(火)
場所は、福祉会館集会室6
時間は、10時~12時
内容は、お伊勢参り
お話は、平野会員

photo & report 平野会員

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茅ヶ崎かるた のカルタ取り 音貞オッペケ祭で 2018/6/3 (晴)

音貞(おとさだ)オッペケ祭が行われました。場所は松籟荘(しょうらいそう)。
このイベントに参加して、2日目の3日(日曜日 午後)、茅ヶ崎郷土会は、松籟荘の中にある茶室「松籟庵(しょうらいあん)」の書院を借りて茅ヶ崎かるたのカルタ取り大会を催しました。
こども向けとして計画したのですが、目的のこどもさんの参加が少なかったのがいささか残念ではありました。
それでも三戦が行われました。





赤ちゃんもこの日は貴重な参加者でした。





トップ賞はこの子。
賞状と賞品が、郷土会から贈られて、大得意でした。




松籟荘の庭では「音二郎版 ハムレット」が大勢の観客を呼んでいました。

茅ヶ崎民話の会 「九代目市川團十郎」

「音貞 オッペケ祭」の「音貞」は、明治35年、この地の近くに「萬松園(ばんしょうえん)」という自宅を構えた川上音二郎と貞奴(さだやっこ)夫婦によっています。
「ハムレット」のほかにオッペケ節や祭囃子、茅ヶ崎民話の会による「九代目市川團十郎」、茅ヶ崎高等学校の「乙女文楽―三番叟」なども行われました。
柳島いま・むかし会は茅ヶ崎のむかしおやつ 芋だんごを提供していました。
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会は 随時一般受け付けで、松籟荘の中のみどころ案内30分を行いました。

この日、天気が良く、松ばやしの中をすずしい風が吹いていました。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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30年度第1回 茅ヶ崎の別荘跡めぐり ― 高砂緑地から中海岸へ 2018/05/20(日) 晴

一昨日の18日に30年度総会が行われ、新年度の事業計画が了承されました。
いよいよ新しい活動が本格化します。

20日は昨日までの蒸し暑さが去り、さわやかな五月晴れのなか茅ヶ崎の中心部の一角にある別荘跡をたどりました。
午前9時15分に市立図書館に集合し、1時間ほどをかけてこの日のコースと見学場所の説明がありました。
説明者はminamoto会員とyamamoto会員。
参加者数は、300円の資料代を協力頂いた会員外の方々と、200円を負担した会員との20名ほどでした。

11か所の別荘跡地をめぐりましたが、そのいずれも今は切り売りされて個人住宅となっていたり、通りに面しては商店となっていて、別荘があったころの面影はまったく見られませんでした。この日の訪問地は、茅ヶ崎駅南口からすぐ近くの一角です。


途中でサザン神社というのがありました。桑田佳祐さんゆかりの茅ヶ崎ということからサザンオールスターズの名前を取った設えのようでした。




別荘だった雰囲気が感じられるところといえば、高砂緑地でした。
明治の頃、川上音二郎と貞奴が別荘を建てました。その後、大正6年に実業家の原 安三郎が一帯を購入して別荘とし松籟荘(しょうらいそう)と名付けました。終戦後は無住となっていたこともありますが、昭和59年(1984)に茅ヶ崎市が買収し、高砂緑地として公開しました。茅ヶ崎市は、平成3年にその一角に松籟庵(しょうらいあん)という茶室を設け、さらに同10年(1998)には茅ヶ崎市美術館を開館しました。
写真の表札は、原別荘のときに作られたと思われる、今も現地に残る門柱に貼り付けられています。

この日、松籟庵の中では茶会が行われていました。私たちは、原 安三郎が作った日本庭園をめぐって、お昼頃に別荘跡めぐりを終了しました。

photo & report 平野会員

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