チガヤとツバナと万葉集 2019.05.13

散歩していると、道ばたやちょっとした空き地にチガヤの白い穂が目に付く季節になりました。

この写真は柳島の海岸のチガヤの群落です。このように一面チガヤの光景は、海岸よりほかのところでは見ることができないようです。

子どもの頃、もう60年も昔ですが、この白い穂がさやの中に包まれているのを剥き出して口に入れ、クチャクチャと噛んだ思い出があります。
私は九州生まれの九州育ちですが「ツバナ」と呼んでいました。

万葉集にツバナを歌った歌があることを知りました。


1449 茅花(つばな)抜く 浅茅が原(あさじがはら)の つほすみれ 今盛りなり 我(あ)が恋(こ)ふらくは
(訳)盛りに咲いているツバナやスミレのように、私の、おまえに対する恋心は今、絶頂にあります。

1460 戯奴(わけ)がため 我が手もすまに 春の野に 抜ける茅花(つばな)そ 召(め)して肥えませ
(訳)おまえのために、手も休めずに野あるツバナを抜いたのだよ。これを食べて少しは太りなさい。(女性から男性へ)

1462 我(あ)が君に 戯奴(わけ)は恋(こ)ふらし 賜(たば)りたる 茅花(つばな)を食(は)めど いや痩(や)せに痩す
(訳)あなた様に私は恋しているようです。頂いたツバナを食べてみましたが、痩せるばかりです。(上の歌の返し) 

万葉人はチガヤをツバナと呼んで、その穂を抜いて食べていたようです。子どものころの私と同じように。

「茅ヶ崎」の語源は、
茅(チガヤ)の生える砂浜が海に延びて岬(みさき)のような地形をしていたことから名付いた
と、見てきたようなことを書いたものがあったら、それはトンデモ間違いです。
チガサキの「チ」に「茅」という文字を当てただけの話で、チガヤが生えていたから「茅」という字を使ったのではありません。
「そこにはチガヤが生えていた」という解説は、「茅」という漢字に引きずられて出てきたものです。
「じゃぁ、茅ヶ崎の語源は何なんだょ」と聞かれても実は分からないのですが。

●「つばな」の歌三首は、新編日本古典文学全集7『万葉集2』(小学館1995年4月刊)から取りました。(訳)は同書にある現代語訳を参考にして、私が勝手に付けたものです。お粗末失礼!

photo 前田照勝会員
report 芹澤七十郎

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線路わきのハマヒルガオ(共恵1丁目) 2019.05.07(火)晴天

令和元年5月7日撮影

茅ヶ崎駅の平塚寄りに、東海道本線をまたぎ、南北を結ぶツインウェイヴがあります。
その橋梁下部に自転車置き場(ツインウェイヴ南自転車駐車場 共恵1丁目)があります。
駐輪場から線路に沿って平塚側に進みますと、線路と茅ヶ崎小学校の間は、元は水路で、幅3尺(約1㍍)ほどの路地になっています。水路跡という事で簡易舗装もされていませんが、車と接触することもないので、駅までの抜け道として便利に使われています。
この線路わきにハマヒルガオが花を咲かせました。今、まとまって花をつけていて、とてもきれいです。



向こうに見えるのがツインウェイヴです。車が通ります。人は線路の下にある通路を通るようになっています。
この橋が出来る前は「大踏切」と呼ばれていた踏切があり、よく待たされたものです。
ツインウェイヴすぐ先に茅ヶ崎駅があります。
左の写真の逆方向です。
線路の先は、相模川を渡って平塚市に続きます。
写真を撮っていたら、下り電車が来ました。

金網の隙間からシャッターを押していましたところ、下り電車が通り過ぎて行きました。
運転士さんたちにはどのように映っているのでしょうか。

photo&report  尾髙忠昭会員

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新町で祭る厳島神社の例大祭 2019.05.05(日)

令和元年5月5日(日) 快晴

替わったばかりの新元号「令和」を掲げて、厳島神社の神輿渡御

改元に伴う大型10連休も終盤のこの日、お天気は快晴でした。新栄町にある厳島神社の例大祭に、お神輿がまちを練り歩きました。たまたま遭遇した私は、ちょうどカメラを持っていたので、1枚シャッターを切りました。


「新町」は「しんまち」と読みます。茅ヶ崎駅の周辺にあたり、今の住居表示では新栄町(しんえいちょう)・元町(もとまち)・共恵(ともえ)・幸町(さいわいちょう)をいいます。この四町内で厳島神社を祭っています。


夏目善治著『新町をかたる』(昭和58年 新町自治会発行)の中に厳島神社の歴史が書いてあります。
ずっと昔、今の元町14・15丁目あたりは荒れ地で大きな池があった。その地を開くときに殺した蛇を祭って弁天さまを祭ったという話が伝わっている。
明治34年(1901)、現在の新栄町7丁目の一角にある、正一位左近稲荷社に、その弁天様を持ってきて併設した。
大正7年(1918)、現在の茅ヶ崎駅駅前(北口)にあった池のほとりに弁天さまを移転。(従来、弁天さまと呼ばれていたものが、「厳島神社」となったのはこの時でしょうか。)
大正8年(1919)、新町で神輿を作成。浜降祭に出輿した。
昭和23年(1948)、現在地(新栄町2丁目10)に移転。
昭和28年(1953)、宗教法人となる。(社名変更と新ご祭神の勧請は、大正7年ではなくこのときだったということも考えられます。)
昭和48年(1973)、拝殿を完成。
昭和56年(1981)、妙音弁財天を建立。
例大祭は5月5日。「昔は神楽、芝居を行っていた。ご神幸祭(神輿渡御)も行われるようになった」と同所に書いてあるので、例大祭に神輿渡御をするようになったのは、この本が書かれたときより、そんなに遠い昔のことではなかったようです。

現在のご祭神は
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三柱
と境内の由緒書きの看板にあります。
この三女神は、海中に建つ赤い鳥居で有名な、安芸の宮島の厳島神社のご祭神と同じです。
向かって右側が大正8年に作られた神輿。今も活躍しています。
左側はこども神輿。

昭和56年に建立された妙音弁財天。

厳島神社の歴史をたどると、
最初は蛇の供養として祭った「弁天さま」でしたが、いつの日にか広島県の宮島から厳島神社を勧請して祭神もかえたために、それまで祭られていた弁天さまを、新たに妙音弁財天としてお姿を作ったもののように考えられます。

しかし、厳島神社を勧請したのが何時なのか、知りたいものですが今のところわかりません。

photo&report ODAKA会員
撮影場所 
 ●神輿渡御は南口の氏子域を渡御した神輿が、ツインウエーブを渡り北口に向かう 手前
 ●拝殿・神輿二基・妙音弁財天は厳島神社境内 

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茅ヶ崎の芹沢に雹が降る 2019.05.04(土) 

令和元年5月4日(土)

梅の木の若葉をたたき落としながら、庭に溜まった雹(ひょう)です。

5月4日(土)
鳴り物入りで突入した10連休は半ばを過ぎました。
前半は天気が今ひとつでしたが、今日は晴れて気温もあがると、朝のラジオが報じていました。午前中、予報どおりでした。しかし空気はヒンヤリしていました。
午後、2時半頃から、遠くで雷が鳴り始めました。
「これは洗濯物を取り込んどいたがいいよ」
話している内に雷様の音は次第に大きくなりました。
3時半過ぎて雨が降り始めました。
3時42分、土砂降りになりました。その中に白い粒が混じり始めました。
「霰(あられ)にしては大きいな」
「雹(ひょう)だよ」
5ミリ以上の大きさの氷の玉は「雹」というそうです。
見る見る間に、庭の低い所に氷の粒が溜まりました。
このあたりでは、そう見ることのできる光景ではありません。


庭に激突してしぶきをあげています。
踏み石の上は溶けにくいのでしょう。
こんなに溜まりました。
屋根瓦にも積もりました。
雨樋の無いわが家の屋根からは、雨が滝になって落ちました。

photo&report 芹澤七十郎

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茅ヶ崎からダイヤモンド富士を撮る

2019年4月4日撮影
ダイヤモンド富士が見られました。
富士山より西の各地では朝日で、東の各地では夕日で見ることができます。
太陽が富士山頂にかかる時、光芒(太陽の光のすじ)がダイヤモンドのように輝いて見えるのでそのように呼ばれるとネット情報にありました。
富士山頂にかかる太陽でなくとも、カメラの絞りを最大に絞って太陽を撮影すると、その光は光芒としてカメラに定着するそうです。
富士山頂にかかる時のように、太陽の一部が何かに隠れるような状況で、かつ、晴天であればよりクリアーに撮影できるとも書いてありました。

茅ヶ崎の海岸部を通る国道134号の歩道橋近くで撮影したのだそうですが、どの歩道橋だったのか聞き忘れました。
それにしても不思議な写真です。
道路の真ん中から撮影したように見えます。
このアングルを探し、シャッターを切ったこの瞬間を捕らえるのは大変だったと思われます。

photo 写友会 加藤典夫さん
report 編集子

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