285回 (小田原市)曽我の村めぐりと流鏑馬  18/2/11 晴

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01 下曽我駅前出発
今年の冬は寒い日が続くが、この日は暖かかったです。
茅ヶ崎郷土会の285回史跡めぐりは、小田原梅まつりに合わせ、午前中に曽我の史跡をめぐり、昼から流鏑馬を見ることにしました。
急きょ、NPO法人 小田原ガイド協会にめぐりの案内と解説をお願いすることにして、駆けつけてくださったのは協会々長の堀池衡太郎さんでした。駅前は観梅の人で混雑していました。
地図に掲げた番号の順に回りましたが、飛ばしたところもあります。取捨は堀池さんにお任せしました。

02 宗我神社(そがじんじゃ)
江戸時代までは小沢明神と名乗り、明治になって宗我神社と名を変えました。社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したと説明版にありました。境内の大木の梢にたくさんのヤドリギが付いていたのが印象的でした。

 

03 法輪寺 小田原市曽我谷津400
臨済宗建長寺派。天保2年(1831)の火災で、本尊の運慶作と伝える地蔵菩薩坐像が焼失したと説明版にありました。もしも残っていたら、大変なことになっていることでしょう。昨今の運慶ブームはすごいですから。
元禄のころこの地で修行した木食僧の澄禅上人が遺した、一針ごとに念仏を唱えて縫い上げた「一針一拝の二十五条袈裟」と、夢の中で感得したとされる「狗留孫仏の舎利」が安置されており、薬師堂前には上人ゆかりの宝篋印塔があるそうですが、残念ながらこれらは拝みませんでした。

04 大光院 小田原市曽我谷津487
小田原市教育委員会が建てた説明版に次のように書いてありました。
「文明18年(1486)の起立と伝え、はじめ本山修験で小田原の玉瀧坊に属したが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち、明治32年の記録がある。これは役行者のこと。久しく里修験として続き、地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。」
茅ヶ崎郷土会では平成27年度に県内の修験道の聖地を回っています。

05 城前寺 小田原市曽我谷津592
「曽我の傘焼きまつり」が行われることで有名でした。それが2011年から中止になっているという新聞記事を見ました。しかし小田原市役所「小田原の観光」HPには今も行われているように書いてあります。復活したのでしょうか?。
曽我の地では、曾我兄弟との関係をウリにしています。城前寺では、本堂の裏手にある曽我十郎・五郎兄弟、養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓と伝える4基の五輪塔をPRしています。私はチョット抜けて撮影だけしてきましたが、時間の関係でしょうか、一行は寄りませんでした。

06 雄山荘跡
太宰治が小説『斜陽』を書いたとき、登場人物たちが暮らしている住まいは、ここに建っていた建物、「雄山荘」からイメージしたのだそうです。パソコン情報にいろいろとヒットします。焼失したそうで、更地が残っていました。それでも人気スポットであるらしく、大勢の人が訪れていました。西を向いた斜面で、小田原市とその向こうに箱根の山々、さらに冨士山が一望できます。

07 しだれ梅
個人宅の中にあります。かなり大きな木ですが、説明者堀池さんの話では半世紀もたっていないとのこと。まだ一つも咲いていませんでした。

 

 

08 大運寺跡
大運寺は『新編相模風土記稿』の曽我原村に書かれていますから天保の頃まではあったことになります。その後廃寺となったらしく、今は城前寺管理の墓地になっています。墓地の入り口に、石仏愛好者には有名な、「庚申供養」の銘がある丸彫りの石の閻魔坐像があります。『風土記稿』に「閻魔石像 もと村内別堂に安置すと」とあるのが、この閻魔様のようです。説明が略されましたのでやっとピンぼけ写真を一枚撮っただけでした。

09 別所の辻の唯念の名号塔
これも有名な名号塔です。サイトにもたくさん取り上げられています。ピンぼけ写真を一枚撮っただけで先を急ぎました。向かって左側面に「元治元甲子歳(1864)/初冬 佛歓喜[ ]」という文字がありました。
この地は、興味深い石仏がたくさんある土地です。混雑を避けて再度回ってみたいと思いました。
この辺り特有の形のサイノカミが方々で私たちを迎えてくれていましたが、挨拶をしているいとまはありませんでした。
ここでガイド協会の堀池さんと別れ、私たちは流鏑馬会場を目指しました。堀池さん、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。

10 梅祭りの流鏑馬
梅祭りのイベントして行われています。流鏑馬は武田流だそうです。公益社団法人 大日本弓馬会の実演です。
県内の流鏑馬は、土地柄、頼朝と結びつけて説明されることが多いようですが、年占(としうら)の神事としてその始まりはもっと古い時代にさかのぼると、私などは考えています。神様の意向を伺うという趣旨は、山北町の室生神社の流鏑馬がよく伝えています。
各地で行われる流鏑馬は観光イベントの一環となっていますが、開始に当たって神事が執り行われることが元々の姿を留めているようです。
伝統文化を保存するためには、観光イベントの中で生き延びることが、一つの手立てなのでしょう。それにしても大勢の人たちが見に来ていました。私たちもその一人だったのですが。
<茅ヶ崎郷土会では、平成28年に県内の流鏑馬を見学しています。>

01ー神事

 

02- お馬たち今日もガンバレよ!

 

03- 馬場を清める

 

04- 射手のお披露目

 

05- 青黄赤白紫の輪のまとを射る。「奉射」というそうだ。

 

06- 一組の奉射が済むとスタート地点にもどる

 

07- まとを板に変える。見事に的中してまとは真っ二つ。

 

08- かわらけのまとに変える。中に五色の切り紙を入れてある。

 

09- 矢が飛ぶ。これは「競射」というそうである。

 

10- かわらけのまとに的中!

 

10- 戦いすんで皆帰る

 

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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中島と南湖の稲荷講 2018/2/10・11(土・日)晴

今年、平成30年の初午(はつうま)は2月7日の水曜日でした。
初午には稲荷様を祭ります。

昔は、前日の夜を「稲荷様の宵宮(よいみや)」といい、宵宮からお祭りを始めました。
茅ヶ崎市内にはたくさんの稲荷様が祭られています。家々で祭るケースと数軒から十数軒で稲荷講(いなりこう)というグループを作って祭るケースがあります。家には屋敷稲荷を祭り、講中(こうじゅう)にも入っているという家も多くあります。
稲荷講では、宵宮には、講中の子どもたちは稲荷様に集まって、差し入れの赤いご飯を食べたり、遊んだり、また太鼓を竿に吊して叩きながら近所をめぐったりしたといいます。

今はこのような習俗はなくなりましたが、家々で祭る稲荷様にも、講中で祭る稲荷様にも、幟(のぼり)を立て、お供えをしてお祭りをすることは行われています。
ただ、昔のように宵宮から初午の日に祭るところは少なく、初午を過ぎた休日に行うところが多いようです。

中島と南湖の稲荷講を紹介します。

中島の稲荷講

中島では、家々で屋敷稲荷を祭っています。

東チョウのS家の屋敷稲荷
東チョウO家の屋敷稲荷
二ツ谷S家の屋敷稲荷

中島には東チョウ西チョウ本宿(ほんじゅく)、二ッ谷(ふたつや)、ブドウ園
というチョウナイがあります。

東・西チョウは国道一号沿いにあります。東チョウと西チョウはチョウナイが別で、稲荷様の講中も別ですが、左近右近稲荷という一つの社殿の中に右近稲荷と左近稲荷を祭っていて、両チョウナイが一年おきに稲荷講を行っています。しかし、2018年は講中に不幸があって初午の祭礼は取りやめました。

本宿は鎮守の日枝神社や浄林寺があるあたりをいいます。

二ツ谷は産業道路より東側の一帯をいいます。二ツ谷のS家の稲荷様は二ツ谷の稲荷講でも祭っているようです。

ブドウ園は相模川に近く新しく開かれたチョウナイです。ブドウ園には屋敷稲荷を祭る家はないか、少ないようです。写真は2月10日(土)に撮影しました。


南湖の稲荷講

南湖(なんご)は上チョウ中チョウ下チョウ茶屋町鳥井戸に分かれています。(上町・中(仲)町・下町と書きます)

南湖は昔から漁師町でした。どのような理由があるのかわかりませんが、漁師町には稲荷様が多く祭られています。

上町で祭る金刀比羅神社の隣に宗教法人稲荷神社(南湖3-4-6)があります。
このお稲荷様を中町の東組講中と西組講中と上町の講中の三つの稲荷講中が支えています。今年は11日(日)にお祭りが行われました。

祭りの準備
赤い幟は昭和53年(1978)、藍染めの横幕は昭和13年(1938)にできています。
準備終わって祝詞奏上
神主は大和市在住の大村堯通さんにお願いしています。

西講中と稲荷神社で保管する書類
講中で保管するものに、明治40年(1907)を初めとする講中帳、神社関係書類に昭和8年(1933)日付の市内十間坂、富田石材店からの石の鳥居設置の領収書、昭和11年(1936)に金刀比羅神社と交わした土地使用契約書などがあります。しかし、いつ稲荷様を勧請したかを表すものは見当たりませんでした。

昭和8年に建てられた鳥居

[参考文献]
『茅ヶ崎市史3 考古・民俗編』564~5頁 昭和55年刊 昔の初午の様子が書いてあります

中島 report & photo 羽切会員
南湖 report & photo 尾高会員

茅ヶ崎郷土会 発足の新聞記事 18/02/11

茅ヶ崎郷土会が発足したのは「昭和28年4月」と言われてきました。

このことが何に基づくものかが分からず、ずっと気になっていました。

そんな中で、『創立五十周年記念 「郷土ちがさき」百号のあゆみ』(平成16年9月 茅ヶ崎郷土会刊)があることが分かり、この58頁に
「s28.4.24 神奈川新聞 郷土会設立の記事掲載」とありました。

この神奈川新聞の記事を読みたくて、新聞社に問い合わせたところ
「古い新聞を撮影したマイクロフィルムを図書館に配ってあるので、図書館で見ることが出来ます」ということでした。

藤沢市立図書館に保管されていて、湘南台の本館で見ることができました。
プリントアウトしてきた画像がこれです。


創立記事は三つに分断されていますが、棒線の囲みが目的の部分です。
上部の「神奈川新聞」は別の場所に印刷されていたものを貼り付けました。
神奈川新聞社からは
「著作権の年限が切れているので、印刷などにも使ってかまいません」
といわれました。  

元々画像は不鮮明でしたが、読みにくいので次に書き抜いておきます。

神奈川新聞 昭和28年4月24日(金曜日)二版(2) 横須賀・湘南版

賛成のお方はどうぞ
茅ヶ崎郷土会
茅ヶ崎市の有志の肝入りで、最近茅ヶ崎郷土会というのが設立された。しかつめらしい規約はなく、互に漫然と集まるところにいろいろなものが生まれ、各自/
がそのなかから好きなものをつかめばよいといっている。
行事は史蹟めぐり、展覧会、講演会、読書会、座談会、書画その他の鑑賞会や他の文化団体との交流をする。会費は一年分五十円、会長や幹事はないが市内円蔵の鶴田/
栄太郎氏宅が事務所になっている。新倉政一、久保田一三、石井千賀江の諸氏のほか、寒川、小出などからも参加者があり、新会員を広く募集している。

(「/」は紙面で、段が変わっていることをあらわします。)

新聞にある「小出」は、昭和28年(1953)は別の行政体でした。
今年、平成30年(2018)4月で、茅ヶ崎郷土会の年齢は満65歳になります。

report 平野会員

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2月理事会開催 18/2/6(火) 晴

理事9人出席 於 茅ヶ崎サポセン
[報告]
①七堂伽藍跡碑 建碑60周年記念誌への寄稿について
②茅ヶ崎郷土会のHPについて
[議題]
①大岡越前祭に参加の件
 4月21日(土)・22日(日)場所未定
 大岡越前守遺跡写真展を出展
②平成30年度 茅ヶ崎市文化祭に参加の件
  10月9日(火)~13日(土)於 市民ふれあいプラザ
内容 平成29年度の史跡めぐりから
③今月の行事予定 確認
・23ヶ村調査勉強会(公開) 6日・20日(火)13:30~ 於 福祉会館
・史跡めぐり(公開) 11日(日)雨天は一週間後 285回 下曽我の流鏑馬等見学
・講演会(公開) 18日(日)16時~「長福寺の七里様ほか」源 邦章会員 於 市立松林公民館
・郷土会勉強会(公開) 20日(火)10時~「伊勢信仰―天養記に見る大庭御厨」平野文明会員 於 福祉会館
・「茅ヶ崎郷土かるた」カルタ大会 2月20日~22日(木) 於 市立松林公民館
④その他
・会の活性化をめぐって活発な討論が行われた
・次回理事会 3月2日(金)9:30~ 於 茅ヶ崎サポセン

report 平野会員

TV取材に対応しました 18/02/03(土)晴

TV取材と言ってもN○KとかT○Sとかに対応ではないのです。
小型カメラと三脚をかついでやって来たのは、東海大学文学部広報メディア学部一年生のお嬢さんお二人。
“ 平塚・茅ヶ崎市内の和菓子をテーマに作品を作るのだ ”
と元気いっぱい。
我が茅ヶ崎郷土会に何を聞きたいの?
に対する答えは、
“ 茅ヶ崎に牡丹餅立て場があって、牡丹餅茶屋とも言っていたということですが、それはいったい何だったのですか?”

それなら答えることができると、ウンチクを傾けたのでした。

傾け過ぎた感もありましたが、対応したのは源会員と平野会員、ほかに同席していたのは今井会員、山本会員。会員外で加藤さんという方も同席されておられました。

質問とウンチク返答は次々と広がって、

粟のぼたもちを出す茶屋があったよ、それで牡丹餅茶屋だな、
などと見てきたようなことも言いだす始末。

“ 南湖立て場もあったと聞いていますが ”
といきなり横から来た。
“ 南湖立て場ではどんな食べ物があったのですか? ”
お二人はいろいろ調べていて、なかなか手強いのです。

エーと、江戸時代にー、何という名前だったかなー、あっそうだ大田南畝という人が、江戸屋という店に休んでー、何か食べたという記録があるんだよなー 何を食ったのかなー

などと答えていると、別の会員から

松露(しょうろ)の吸い物とか、ひしこのなますとか書いてあるんじゃなかったかな

とフォローが出てくる。

こんな調子で撮影は進んだのでした。

それにしても今時の若い人はすごいと思ったのは、テーマは湘南の和菓子であるのに、茅ヶ崎にむかし「牡丹餅茶屋」があったことを見つけて、いつの間にか、昔の旅人は何を食べていたのかを調べ始めるという、その三段跳び思考の大胆さについてでした。そしてこういう発想も必要だなとつくづく思ったのでした。

“ これから和菓子屋さんを訪ねてお話を聞きます ”
の言葉で別れましたが、取材はうまく行ったのかと心配するのは、私たちの年のせいでしょうか。

[参考文献]牡丹餅立場―牡丹餅茶屋
水嶋善太郎著『小和田郷土物語』平成元年 p82
土御門泰邦卿『東行話説』 茅ヶ崎市史4 p224収録
南湖立場―江戸屋
大田南畝(蜀山人)『改元紀行』 茅ヶ崎市史1 p303~

report 平野会員
photo 加藤さん

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