茅ヶ崎に雪が降る 18/1/22(月)~23(火)雪~晴

1月下旬ころになると、湘南ちがさきにも雪の降る日がやってきます。
今年の降雪はすごいらしい。日本海側や北海道では交通への支障と雪下ろしの大変さがニュースになっています。
ここ、茅ヶ崎は湘南のど真ん中。九州に生まれ育って、東京でも4年間を過ごしましたが、一番過ごしやすいのはこの地です。気候に関して比較したはなしですけどね。
その前から天気予報は言っていました。「雪が降ります、お出かけの節はご注意下さい」と。
そして茅ヶ崎は各地、白い世界。2018年1月22日月曜日。お昼頃から降り出しました。

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夜になって雪はほん降り 【茅ヶ崎市芹沢】

でも、早朝のラジオ体操いつもどおり【茅ヶ崎市柳島】

撮る この日を待っていました【柳島】

今日だけできる遊び【柳島】

お散歩 お散歩【柳島】

芹沢で雪景色を一枚【芹沢】

もう一枚!【芹沢】

芹沢から大山

柳島から丹沢

photo & photo
柳島 前田会員
芹沢 芹澤七十郎

1 修験道とは

日本古来の山岳宗教が、仏教・道教・陰陽道などの影響を受けて成立・発展した日本独自の民俗宗教の一つ。開祖は役小角(えんのおづぬ 役行者)であり、彼は『続日本紀』に登場する。小角は奈良県葛城山に住んで呪法を修め、鬼神を使役したとして朝廷の命で伊豆島に流されたといわれる。
小角が修験道を開いてから、全国各地に山岳信仰の霊地が生まれた。出羽三山・日光山・白山・立山・富士山・木曽御嶽山・英彦山などである。
鎌倉時代初期には、のちに本山派となる熊野修験の教団が成立し、室町時代中期には、のちに当山派となる修験集団が発生した。その後、徳川家康の宗教政策や明治維新時の修験道廃止令で壊滅的な打撃を受けたが、太平洋戦争後は再び活況を呈している。
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役 小角 (えんのおづぬ)
修験道の祖とされて、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる。伝説に包まれているが実在の人物と考えられている。絵や彫像は、老人で岩座に座り、脛(すね)を露出させ、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履き、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と従えている。
「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」(『続日本紀』大宝元年〈701〉6月7日の条)。

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役 小角の石像
役 小角(えんのおづぬ)の石像はたいへん珍しい。厚木市上荻野の荻野神社の境内に祭られているが、なぜここにあるのか理由はわからない。
年銘や文字はない。残念なことに大きく破損して補修してある。もとは右手に錫杖を持っていたと思われる。お顔は童顔で、かわいらしいところが普通の小角の像とは違っている。

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代表的な修験道の聖地
修験道は深山幽谷のなかで歴史を重ねてきた。修験者(山伏)は俗人が容易には近づけない高山や厳しい自然環境の中で修行を積み、悟りを目指した。
神奈川県内では、箱根、大山、日向、八菅などが修験道の聖地だった。

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神奈川県内の修験道寺院の分布
修験は深山幽谷で修業を積み、時に里に出て人々の求めに応じて験力(げんりょく・げんりき)を発揮したが、江戸時代になって幕府の統制を受け、村のなかに居を構えるようになった。幕府は、全国の修験寺院を管理するために、京都の聖護院(天台宗の本山派)と醍醐寺三宝院(真言宗の当山派)の下に本末関係を作らせた。
相模国では、本山派は玉瀧坊(小田原)などが、当山派は大験寺(現藤沢市遠藤)、瀧岡寺(現綾瀬市吉岡)などがそれぞれの派を統べていた。

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23ヶ村調査 いよいよ下寺尾に着手 18/1/16 晴

地元の皆さんと顔合わせ
昨年(平成29年)4月に中島(江戸時代の中島村)から始めた市内23ヶ村調査、二つ目の村、下寺尾(江戸時代は下寺尾村)にはいりました。
平成29年が、この地にある七堂伽藍跡の碑の建碑60周年に当たることから、この村を選んだものです。
午後1時半、自治会館をお借りして、地元から4人の方、私たち「23ヶ村調査隊」は10人の参加でした。
今日を迎えるに当たって、下寺尾自治会長の佐藤次男さんには大変お世話になりました。私たちの計画を各戸に知らせ、また地元の方々を紹介して頂きました。お礼を申し上げるとともに、今後のご指導をお願いいたします。

実は今日は下寺尾調査の2回目でした。29年10月17日、調査隊のメンバーだけで、下寺尾とはどういうところだろうかと回ってみたのです。雨の中の散策でした。

今日は日差したっぷりの暖かい自治会館のフロアーで、まずお互いに自己紹介を交わし、調査の目的・経過・内容・今後の次第などをお話しし、いよいよ地図を広げてご説明を頂きました。
『茅ヶ崎市史3 ―考古編』169頁にある「北方(きたかた)横穴群 下寺尾1127(台地斜面)」はどこだろうかなどが話題になりました。その間やく2時間。

会合終わって、そばにある「おもよ井戸」を見に行きました。
今は井戸はなく、斜面の一角が崩れたように落ち込んでいるだけです。
おもよ井戸
やぶの中でいつも冷たい水が出ていた。奥の方に入っていくと井戸があるといわれていた。池の中に田島(たじま)のように突き出たところがあり、そこにカツの木(ヌルデ゙)があり藁ヅトがぶらさげてあった。虫歯で苦しんだ人が願をかける。治ったらお礼に塩をツトッコに入れてあげた。オモヨ様という人が虫歯で苦しんでその井戸に身を投げたので、それからそこに願をかけると治るといわれる。(川島イト 明治二十九年生まれ)
『茅ヶ崎市史3 ―民俗編』581頁に載っている話です。

少しずつわき水が出ていて、井戸跡をしのばせていました。

風もない暖かい午後でしたが、お日様は西の空へ落ち始めていました。おもよ井戸の前から見た大山です。

photo & report 平野会員

23ヶ村調査 中島のサイトヤキ 18/1/14 晴

四チョウナイのサイノカミとサイトヤキ
中島には四つのチョウナイ(二ツ谷・本宿チョウ・東チョウ・西チョウ)があり、それぞれに一カ所ずつサイノカミ(セーノカミともいう。道祖神)を祭っています。
2018年(平成30年)1月14日、そのサイノカミ祭りを記録しました。
正月14日・15日を小正月といいます。このころ火祭りを行う習俗は全国に広がっています。神奈川県内では、この火祭りはサイノカミの祭りとなっていて、サイトヤキとかセートヤキとか言われてきました。最近はどんど焼きとかだんご焼きと呼ぶことが多いようです。

このようなチラシが家々に配られました。
今年の小正月は土・日曜日に当たっています。昔からサイノカミは子どもたちの神様とされてきましたので、各地でにぎやかに行われました。中島ではこの日の祭りを「サイノカミのお日まち」と言ってきました。

国道一号(東海道)ぞいの東チョウと西チョウでは、幟が立ててありました。東チョウの幟には「奉献猿田彦大神 平成二十六年一月十四日 中島東組氏子中」とありました。

幟が立てられる前の、東チョウのサイノカミです。

国道一号に架かる馬入橋のたもとに祭る西チョウのサイノカミです。幟には「奉献道祖神 昭和五十八年 亥一月十四日 西町氏子中」と書いてありました。

正月の飾り物や古いお札などは、飾り終わるとサイノカミに預けます。西チョウのサイノカミです。

これは西チョウのものですが、東チョウと西チョウにはこのような灯籠も掲げてありました。昔はここで小屋を建てて子どもたちがその中でサイノカミを祭っていたことの名残と考えられます。

本宿チョウのサイノカミです。納められた御飾りでその姿が見えません。

二ツ谷のサイノカミに納められた御飾りです。

14日(日)、10時から自治会館で団子作りが行われていました。団子は青、赤、白の三色。米の粉をこねて蒸して作ります。

できあがった団子を、参加した子どもたちが持って帰ります。

本宿チョウのサイトヤキは親水公園で行われます。”ぶどう園”という、新しく移り住む人たちのチョウナイもここに集まります。
午後3時からと触れてあったので、団子を持った人たちが集まってきます。

団子は柳の枝に刺します。サイトヤキの火であぶった団子を食べると、虫歯にならないとか病気にならないとか言われてきました。

正月に書き初めをしますが、この火で燃します。燃えながら高く舞い上がると“手が上がる”、字が上手になるといいます。

昔はサイトヤキは子どもたちが行う祭りでした。その名残で、集まった子どもたちにミカンが配られていました。

この日は風のない良い天気でした。サイトヤキの火にあたった人たちは、この一年無事に過ごすことができることでしょう。
東チョウの北側の位置から撮影しました。

 

photo & report 平野会員

 

 

おも井戸(おもよ井戸)調査隊 海老名市大谷北の井戸を訪ねる 18/1/11(木) 快晴

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茅ケ崎市に下赤羽根と上赤羽根があります。寒川町にも下大曲と上大曲があります。しかし茅ヶ崎の下寺尾は、それに対応する上寺尾が近くには見あたりません。「どうしてなのだろうか」と疑問を持ち続けていたところ、茅ヶ崎郷土会の学習会で『新編相模風土記稿』の下寺尾村の記述にめぐり会い、上寺尾の存在を知りました。茅ヶ崎から北の方に2里余を隔てて寺尾があると書いてあり、なんと今の綾瀬市内に当たります。しかも「正保の頃(1645~48)はそれを上寺尾と呼んでいた。この上寺尾に対して茅ヶ崎の下寺尾となる」との注釈まで付いているのです。
これが、私たちが綾瀬市とそれに隣接する海老名市を探るきっかけとなりました。早速、図書館で両市発行の図書を何冊かめくってみました。すると、遠い昔に姉妹都市の約束でもしていたかのように、茅ヶ崎・海老名・綾瀬の3市に、類似あるいは共通する逸話がメモ用紙を埋め始めました。その中のひとつが「おも井戸」と呼ばれる池です。茅ヶ崎の下寺尾にあり、海老名の大谷北にあり、綾瀬の早川にある「おも井戸」。この3つの井戸に伝わる話の内容には多少の相違はありますが、同じ名を名乗り、信仰の池として土地の人に親しまれ続けてきたという共通点があります。 茅ヶ崎の「おも井戸」のあらましを知り得てから、海老名市と綾瀬市におも井戸調査の第一歩を踏み出してみることにしました。
地図を頼りに、katada会員と即席の調査隊を組んで、相模線の厚木駅に下車し、海老名市大谷北1丁目にある厚木ナイロン(現 アツギ株式会社)を目指して歩くその先、会社の広大な敷地の東側の住宅地の中に、弁天堂の小さな祠を見つけました。
弁天社とその横に「おも井戸」跡

井戸の跡

その傍らには、掃除の行き届いた3坪程の池の跡が残っていました。池に向かって左手に、細い石段があって、登るとその奥に神明社がありました。池の水は今は枯れていますが、神明社へ参詣する人たちが口を漱ぎ手を清めた御手洗の池であったといいます。かつてはこんこんと湧き出る清水を湛えていたのでしょう。この池の水で眼を洗うと眼病が治るという言い伝えもあります。現地ではこの井戸を「おも井戸」と呼び、神明社への坂(今は階段)を「おも井戸の坂」と呼んで、市の歴史遺産として大切にしているようです。
神明社へ登る階段 かつては「おも井戸の坂」と呼ばれていた

神明社の大鳥居 神明社は福寿院天照寺(高野山真言宗)に隣接している

神明社の説明版

なお、「おも井戸」は「御目井戸」からの転訛と考えられているようですが、解明されてはいません。それにしても「おも井戸」と呼ばれる池が3市にひとつずつあり、いずれも神聖な池として崇められてきたという史実は何を意味しているのでしょうか。不可思議な謎を残して、次の目的地である綾瀬早川のおも井戸へと足を運びました。海老名市と綾瀬市を歩き万歩計の数字は22,957歩。Katada会員の元気と知恵を分けて貰いながら海老名探索の一日を終えました。


report 町田会員
photo 片田会員