284回 鎌倉の廃寺跡(鎌倉市) 平成29年12月25日(月)

はじめに
暮れも押し詰まった12月25日(月)、参加者は少なかったですが、鎌倉の廃寺跡をめぐりました。
コースは①理智光寺跡、②永福寺跡、③鎌倉宮、④法華堂跡(持仏堂跡)、⑤太平寺跡、⑥宝戒寺、⑦東勝寺跡としました。
鎌倉宮や宝戒寺は廃寺ではありませんが、話の続き具合と道順の関係からコースに取り込んだものです。
めぐったのは上記のとおりですが、ここにその報告をするにあたっては、⑥宝戒寺を除外し、①理智光寺の願行上人との関係から大覚寺跡を加え、また記述の順番を回った順番と違えました。これは関連ある内容毎にまとめたためです。
『鎌倉廃寺事典』(昭和55年有隣堂刊)を大いに参照しました。

284回-1
鎌倉に居を構えた頼朝は、二つの巨大寺院を建立しました。
勝長寿院と永福寺(ようふくじ)です。
勝長寿院は大御堂ヶ谷(住居表示は鎌倉市雪ノ下)に父 義朝の菩提を弔うために建てたもので、文治元年(1185年)に落慶供養が行われました。
永福寺は二階堂に建てました。頼朝は文治5年(1189)に陸奥国の藤原氏を倒します。現地で中尊寺の二階大堂、大長寿院を見て感激し、これを鎌倉に再現して、奥州の戦いで死亡した多数の怨霊を弔うためであったと『吾妻鏡』は記しています。
頼朝が鎌倉に帰ってすぐに準備は始められたようです。計画はすでに奥州中尊寺でたてられていたのでしょう。
建久2年(1191)2月15日の『吾妻鏡』に、頼朝は寺の位置を定めるために大倉山の辺を歴覧したと書いてあります。
『鎌倉廃寺事典』は『吾妻鏡』を引きながら、永福寺が出来る課程とその後についてくわしく記しています。ただ『鏡』の書きぶりは、建設工事の進捗よりも、その庭造りに頼朝がいかに心を配ったかに関心をもっていたかのようです。永福寺の庭園は完成後に名園として知られていました。三方を小高い山に囲まれて、東向きに建てられ、前に池がありました。奥(北)に薬師堂、中央に永福寺(二階堂と呼ばれた)、南に阿弥陀堂の三つの建物が回廊でつながって一直線に並んでいました。しかし二つの堂と永福寺はそれぞれ別の寺として運営されていたようです。
建久3年(1192)12月25日に竣工式に当たる永福寺供養が行われました。阿弥陀堂の供養はその翌年の11月27日、薬師堂は建久5年(1194)12月26日で、それぞれ京都から高僧を迎えて導師としています。堂供養の年は1年ずつ違っていますが建物は同時に完成していたのではないでしょうか。
その後火災に遭ったり修理されたりしますが、15世紀半ばまで記録に表れているそうです。いつ廃絶したかは明確ではないようです。

284回-2
頼朝の霊をまつった法華堂 その跡 -鎌倉市西御門2丁目5-5

頼朝は子どものころから聖観音の像を自分の守り本尊として信仰していました。
治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れて落ちるときに、その像をある岩窟に安置しておきました。鎌倉に凱旋したあと、一人の僧がこの像を持って頼朝の元にやっ
てきました。
文治5(1189)、奥州討伐に出かけるとき、この僧に「出発後20日たったら、館(大蔵幕府)の後ろの山にこの観音像を祭るように」と指示しました。僧は、仰せに従い仮屋を設けてまつり観音堂と名付けました。

建久2年(1191)2月21日、頼朝は持仏堂に阿弥陀三尊の画像を安置し、御堂供養を行いました。同6年(1195)、この持仏堂に造作を加えます。仮屋だった観音堂を本格的な寺院(持仏堂)に建て替えたものだろうと『鎌倉廃寺事典』は記しています。
同事典は観音堂がそのまま持仏堂になり、その後法華堂と呼ばれるようになり、その場所は動かなかった解釈しています。しかし、現在頼朝の墓所されている場所と法華堂の位置関係については諸説があるようです。事典は諸説についても論及しています。
正治元年(1199)1月13日頼朝が亡くなりました。
同年3月2日頼朝の四十九日、4月23日の百ヶ日、翌年正月13日の一周忌仏事は持仏堂で行われました。この一周忌法要の場所として初めて法華堂の名が出てくるそうです。
鶴岡八幡宮寺は二十五坊と呼ばれた供僧によって運営されてきました。応永22年(1415)、坊号をあらためて院号としたとき、その一坊だった頓学坊は相承院と名前を変えます。戦国時代の記録には、法華堂は相承院が管理するとあるそうです。
江戸時代になって、寛文3年(1663)、延宝8年(1680)の文書に、相承院が法華堂を支配しているとあります。『新編鎌倉志』(貞享2年:1685)にも法華堂は相承院が領するところで、頼朝の観音像は相承院に安置されているとあります(雄山閣版6巻15頁)。
さらに時代が下り、神仏分離のときに相承院は廃寺になります。法華堂も消滅し、その跡に白旗神社が出来たといわれています。とすると、法華堂は、いつの頃か今の白旗神社の所に下りてきていたのでしょうか。

284回-3
北条氏一門が自決した東勝寺 その跡 -鎌倉市小町3丁目10

頼朝が幕府を開いてから約150年、鎌倉に拠点を置いていた鎌倉幕府は滅亡しました。
元弘3年(正慶2年)(1333)、新田義貞の軍勢が鎌倉を襲いました。
5月8日に上野国で旗揚げした新田義貞は援軍を増やしながら鎌倉を目指します。阻止しようとする鎌倉方は14代執権北条高時のもと、各地で迎え撃ちますがいずれも突破され、新田勢はついに5月18日、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻撃を開始します。しかしこの切り通しの守りは堅く、死者の数ばかりが増えていきました。
『太平記』によれば21日夜、義貞は龍神の庇護のもとに潮の引いた稲村ヶ崎を越えて、鎌倉に突入し、稲瀬川のあたりの人家に火を放ちます。海風にのって鎌倉中に燃え広がった中で死闘が続き、北条勢は追い詰められ、菩提寺の葛西ヶ谷、東勝寺で自決しました。その数を『太平記』は一門の者283人、殉死者と合わせて870余人と記しています。
『鎌倉廃寺事典』によると東勝寺の開基は2代執権北条泰時、開山は退耕行勇。行勇は仁治2年(1241)東勝寺で示寂とありますから鎌倉時代前期の創建です。
同事典には廃絶の時期は不明としますが、文明18年(1486)の文には寺名がないとしています。
高時の霊は、東勝寺から滑川を越えた宝戒寺で祭られています。宝戒寺は歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝えられています。高時の慰霊のために後醍醐天皇、足利尊氏によって創建されたといわれています。

284回-4
護良親王をまつる鎌倉宮 -鎌倉市二階堂154
もちろん鎌倉宮は廃寺ではありません。ここに取り上げたのは鎌倉幕府滅亡後、建武の新政を支えた護良親王を語るためです。
護良親王は鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇の子どもです。『太平記』には第3宮とあります。父と共に倒幕のために転戦しますが、建武の中興の政策が動き始めると足利尊氏と対立し、やがて後醍醐天皇とも不仲になって、ついに父の命によって捕らえられ鎌倉に送られました。

当時、鎌倉は尊氏の弟の足利直義が治めていて、その監視下に置かれ、二階堂にあった東光寺の土牢に幽閉されたと『太平記』は記しています。
東勝寺で自決した14代執権北条高時の遺児、北条時行が、建武2年(1335)、鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉に迫ります。鎌倉にいた足利直義は鎌倉を脱出する際に護良親王の殺害を命じました。時行が護良親王を擁して建武の新政側に対抗することを恐れてのためと考えられています。
明治維新を成し遂げた明治政府は天皇親政国家を目指しました。後醍醐天皇の建武の中興を鏡としました。建武中興に尽力した人々の功を賛える中で、明治天皇は護良親王を祭る神社の創建を命じ、東光寺跡の現在地に鎌倉宮が造営されました。明治2年(1869)のことでした。

284回-5
護良親王の墓所を守った理智光寺 その跡 -鎌倉市二階堂748のあたり
鎌倉宮の南側の道路を東の方、永福寺跡、瑞泉寺方面に向かうと、左手に永福寺跡、その反対側に二階堂川にかかる理智光寺橋があります。この橋を渡って進むと住宅地として開発されていますが、地名を「理智光寺谷」といいます。おそらくかつてはこの谷(やつ)の全部が理智光寺の寺域だったろうとされています。
開山は願行坊憲静(?―1295 願行上人)、寺の名は鎌倉時代の末期から現れます。初めは理知光院と名乗っていましたが、戦国時代の16世紀半ばから理智光寺と書かれ、その頃は勢いを失っていたようです。

江戸時代末期に作られた『鎌倉攬勝考』(かまくららんしょうこう 文政12年:1829)には「尼寺となって東慶寺の末寺」と、また『新編相模国風土記稿』(天保12年:1841)には「東慶寺の末寺で阿弥陀堂のみ」と書かれているそうですから、もっと衰退していたようです。
『鎌倉廃寺事典』は、廃寺になったのは鎌倉宮御造営のころ(明治2年)で、その後は、今の護良親王御陵の石段の前に2間×3間の庫裡があって手習師匠のお婆さんが住んでいたという興味深い話を引用しています。
このように理智光寺の歴史をたどってもあまり面白くもないのですが、注目点は、大塔宮護良親王とこの寺との関係です。
今は宮内庁の管理になっている護良親王墓所が、この理智光寺谷の一角、理智光寺橋を渡ってすぐの小高い丘の上にあります。『太平記』巻13に、建武2年(1232)、鎌倉を脱出する足利直義が、部下に命じて土牢に捕らえられていた親王を殺害し、その首を捨てたのを、理知光院の長老が拾って葬った話が載っています。親王の墓所はこの話を元に築かれたのでしょう。
寺の創建はこの事件より前であったにしても、理智光寺は護良親王の霊を祭ることを大きな役目としていたのではないでしょうか。

284回-6
願行上人が試みの鉄仏を作った大楽寺 その跡 -鎌倉市二階堂421覚園寺の近く
理智光寺の開山といわれる願行坊憲静が試みの鉄不動を、大楽寺で作ったという話が「大山不動霊験記」(江戸時代)に載っています。伊勢原市大山にある大山寺の本尊、国指定重要文化財の鉄不動を作るにあたって、大楽寺で試作したという内容です。

大楽寺の本尊はこの試みの鉄不動だったと伝えられています。大楽寺が廃寺になると、他の諸仏とともに、近くの覚園寺に移されました。
創建は鎌倉時代末期の文保3年(1317)、開山は公珍。胡桃谷(くるみがやつ 現在は浄妙寺4丁目の当たり)に建てられました。
それが、永享元年(1429)に貰い火から全焼し、薬師堂が谷(現住居表示は二階堂)に移りました。『風土記稿』には「胡桃山千秋大楽寺」とあります。
大塔宮鎌倉宮の前を北に進み、道の右側に庚申塔があります。そこから斜め左に入ったところに寺があったと『鎌倉廃寺事典』に書かれています。この頃は覚園寺(鎌倉市二階堂421)が管理していたようです。同事典は明治維新で廃寺になったのであろうとしています。

284回-7
仏殿が円覚寺の舎利殿となった太平寺 その跡 -鎌倉市西御門1丁目11-1来迎寺のあたり
『新編鎌倉志』に「円覚寺の開山塔の昭堂(=舎利殿)は、太平寺の仏殿なり」とあります(西御門村高松寺の項 雄山閣版6巻17頁)。
今、国宝指定を受けて有名な円覚寺舎利殿は、西御門にあった太平寺の仏殿を移築したものという意味です。
太平寺の創建は弘安年間(1278-1287)、妙法尼によるとされています。
時代は下って、初代鎌倉公方(在位1349-1367)の足利基氏(1367死去)の後裔とも室ともいわれている清渓尼が中興の祖とされています。鎌倉時代には衰退していたのかも知れません。復興は基氏の没後始まったと『鎌倉廃寺事典』にあります。
さらに時代は下って戦国時代、青岳尼(1576没)が住持のとき、小田原北条氏と敵対していた安房国の里見の兵が鎌倉に攻め入って、本尊の聖観音立像と青岳尼を連れ去りました。そして住持を失った太平寺は消滅します。
太平寺の仏殿が円覚寺に移されたのは、円覚寺開山堂が火災に遭った永禄6年(1561)後とされています。仏殿が移設されるのですから、その頃はもう太平寺は機能していなかったものと思われます。

Photo 平野会員
Report 山本会員 平野会員

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280回 鎌倉市 鎌倉五山 平成29年5月22日(晴)



280回-00
はじめに
北鎌倉駅から円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺と鎌倉五山寺院のうち、四つの禅宗寺院を訪ねて鎌倉駅で解散しました。
まず、北鎌倉駅横の円覚寺前で、minamoto会員が中国に発する五山制度の由来、鎌倉・京都の五山寺院とその文化について説明しました。
そして、今日の説明はわたくしyamamotoでした。
つい口をすべらせ、「JRの線路の向うの池、百鷺池(びゃくろち)の先に見える石垣までが元々の境内で、明治政府により横須賀の海軍鎮守府まで鉄道を通す必要から分断された」と言ったところ、「向こうにも門があったのですか」と質問され、「エエ、ありました。」とあやふやに応えてしまい、まずい、また宿題を抱えてしまいました。
調べてみますと、円覚寺の古絵図では、池を囲む様に築地塀があり、その凹型の外側に馬道があり凹型の左右の先端を南北に今の鎌倉みちが通っていました。つまり見えていた石垣のさらに向こうに馬道があったという事です。門は凹型の側面左右下部に南門北門と二つあったことが分かりました。

280回 1-01
円覚寺 (鎌倉市山ノ内409)

臨済宗大本山 瑞鹿山(ずいろくさん)円覚寺

「瑞鹿山」の額の総門
三門(山門)

 

「漱石」銘の手水鉢

 

 

 

 

 

鎌倉五山第二位、開基は8代執権北条時宗、開山は無学祖元(仏光国師)
蒙古襲来の文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で戦死した両軍兵士の菩提を弔うために弘安5年(1282)に建立されました。総門から入り、三門(山門)をくぐり仏殿に向かうと、右側に手水石があり、「漱石」と彫ってあります。「水に枕し、石で口注ぐ」の中国の古文からとった文句で、夏目漱石も自分の号の由来としています。天保6年(1835)年の銘があり、1867年生まれの夏目漱石とは何の関係もありませんが、漱石は塔頭(たっちゅう)の帰源院に来ているので、面白いと思いました。

280回 1-02
仏殿 宝冠釈迦如来像 白龍の図 開山の無学祖元の頂相
円覚寺の境内は広大で全てを見学するのは時間的に難しいので、桂昌庵(十王堂、徳川五代将軍綱吉生母、桂昌院ゆかりの建物)、選仏場、柳生道場を移した居士林(在家修行者のための専門道場)を観て、仏殿に入り本尊宝冠釈迦如来像を拝観しました。
天井絵は日本画家の前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図です。
関東大震災で倒壊したため、現在の仏殿は元亀4年(1573)の「仏殿指図」を基に昭和39年に鉄筋コンクリート造で再建されました。

280回 1-03
鎌倉石の露頭と鎌倉石の石垣
鎌倉では方々で鎌倉石の露頭を見ることができます。円覚寺の境内にも巨大な崖となって露出しています。鎌倉石は柔らかい石で加工しやすく、かつてはたくさん切り出されていました。石段、敷石、擁壁、かまど、水路の樋などに利用されていましたが、現在は切り出しが禁止されているそうです。三門の通路の敷石も鎌倉石が敷き詰めてありました。

280回 1-04
妙香池・舎利殿
仏殿を出て、方丈の横を、妙香池を左手に見ながら進み、仏日庵の手前を左に折れると、鎌倉で唯一の国宝建築物で、かつ日本最古の唐様建築物の舎利殿があります。
下見をした5月3日には特別公開されていましたので間近に見られたのですが、この日は門の外からしか見られませんでした。教科書で見た建物が遠くに見られるだけでした。横浜の県立歴史博物館では、原寸大の実物模型を展示しています。
花頭窓(かとうまど)や弓欄間(ゆみらんま)、粽柱(ちまきばしら)に裳階(もこしなどが特徴です。

280回 1-05
仏日庵 時宗の像
舎利殿の先に仏日庵があります。円覚寺の開基 北条時宗の廟所です。
9代貞時(時宗の子)、14代高時(時宗の孫)も合葬されています。
この日は高時の命日に当たり、札がでていました。
またこの日は、元弘3年=正慶2年(1333)、東勝寺で北条一門が滅亡した日で、宝戒寺では「得宗権現会」が行われていますが、そちらにも回るのは時間的に不可能でした。
仏日庵は門外から中の様子を見て、寄らずに進みました。

280回 1-06
白鹿洞(びゃくろくどう)
「円覚寺開堂の日、集まった人々と共に、無学祖元禅師(むがくそげんぜんじ)の説法を聞こうと、洞穴から白鹿が群れをなして現れた。この奇瑞譚によって円覚寺の山号を瑞鹿山(ずいろくさん)という」
と説明版に書いてありました。
この山号は総門に掲げられています。

 

280回 1-07
弁天堂 洪鐘(おおがね)
鎌倉三名鐘の一つ国宝の洪鐘(おおがね)を見るために,急で高い石段を登りました。数えると百段余り、苦しい記憶のみ残っています。
画像はその登り口です。
円覚寺では梵鐘のことを洪鐘といっています。そばに立ててある説明板に次のように書いてありました。
「時宗の子、貞時によって1301年(正安3年)に鋳造された。鋳造がうまくいかず、江ノ島の弁天様に祈願したところ、百鷺池の底をさらえとの夢告があり、金銅の塊を得て、それを使ってこの鐘を作った。貞時は江ノ島弁才天を洪鐘の神体として弁天堂を建てて祭った」
弁天堂のそばに茶屋と富士山の見える見晴らし所がありました。

280回 2-01
浄智寺(鎌倉市山ノ内1402)
臨済宗円覚寺派金寶山浄智寺
鎌倉街道を南に進むと、踏切手前右側に五山第四位の浄智寺があります。
開基は北条宗政とその子師時(後の10代執権)です。5代執権時頼の3男宗政が29歳で若死にしたため、宗政の夫人が一族の支援により、夫と遺児である師時の名で開基としたと伝わります。
開山は三人といわれています。「当初開山に招かれた日本人僧の南洲宏海が、自分が開山となるには大任過ぎるといって、師である宋の僧、大休正念を迎えて入仏供養を行い、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧(ごったんふねい)を開山としたため」と説明板に書いてありました。
総門の前には鎌倉十井の一つ甘露ノ井があります。

鐘楼門
山門は二階建てです。2階は鐘楼になっていて、鐘楼門と呼ばれています。

280回 2-02
曇華殿(どんげでん)
鐘楼門をくぐると仏殿(曇華殿)があります。
当寺の本尊の阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来を安置してあります。
この三体を「木造三世仏座像」といい、それぞれ過去、現在、未来を表しているそうです。三体の姿はほぼ同じで、中央のお釈迦様がわずかに高く、その外の違いは指の組み方です。向かって左の阿弥陀如来の印相が弥陀の定印で、他の二体は法界定印のように見えます。
鎌倉に多い衣の裾を台座の下まで長く垂らした「法衣垂下様式」で室町時代の作と言われています。

280回 2-03
観音鎌倉札所三十一番
曇華殿を、向かって左に回り込むと裏手に木造観音立像が祭ってあります。観音様の脇に板碑が立ててありました。

 

 

この観音様の頭上には木板の額が架かっていて、次のように書いてありました。
鎌倉札所第三十一番/山ノ内 浄智寺/観世音菩薩像/けふよりそ(ぞ) こかね(黄金)の/やまに入りにけり/きよきさとりの/ちゑをとりつゝ/東京深川木場/伊勢㐂店主/施主材木商/初代齋藤夘兵衞/安政三年三崎町西浜/大井家ニ生化齢七十三才
安政3年は西暦1856年です。

観音堂にはこのような額が架かっていました。
右から左に「◯◯殿」の「◯◯」が読めません。
境内を散策していますと、宝篋印塔や五輪塔に出会います。

 

280回 2-04
鎌倉時代から現代に続く墓地
本堂の裏手は鎌倉石の露頭で、そこにやぐらが穿たれています。やぐらの中も、その前にも現代の墓石が林立していて、この一角の墓地は鎌倉時代にさかのぼることを表しています。
現代の墓石が多いなか、江戸時代の供養塔もありました。3基の中の右側二つが古く、その向かって左は「元禄三庚午」(1690)、右は「寛文九乙酉」(1669)の年銘でした。庶民が墓石を建てるようになったころのものです。

280回 2-05
横井戸の跡
鎌倉石を掘った井戸跡がありました。説明板に、
「横井戸 山の水をためて用水に使うため、かなり古い時代に掘ったものとおもわれます。三十数年前まではコウモリのすみかになっていました。」と書いてありました。

 

280回 2-06
5月の風 渡る
境内に茅葺きの大きな建物があります。中に上がることはできませんが、玄関から眺めると畳の間を通して庭園の一角が広がっています。
このカメラアングルは多くの人の目を引いたらしく、ネット上にたくさんの画像が掲載されています。
浄智寺を辞するあたり、私たちも一枚!

 

280回 3-01
建長寺 境内図 (鎌倉市山ノ内8)
建長寺は鎌倉五山第一位です。
開基、北条時頼が、開山に蘭渓道隆(大覚禅師)を中国(宋)から迎えて建長5年(1253)に創建されました。禅宗寺院を模したもので、総門、三門(山門)、仏殿、法堂、方丈など主な建物が直線上に並ぶ、中国禅宗様式に基づいているそうです。
現在もほぼ直線をなしていて、三門、仏殿、法堂、唐門は国指定重要文化財、梵鐘は国宝です。

280回 3-02
三門(山門)
「三解脱門」の略で「三門」というと説明板にありました。この門をくぐることであらゆる執着から解き放されるそうです。
楼上に、釈迦如来、十六羅漢、五百羅漢の像が安置されていると説明板に書かれています。
安永4年(1775)に再建されたともありました。
楼上の巨大な額に「建長興/国禅寺」とあります。創建が建長5年、禅によって国の興隆をはかるという意味が込められています。
この門の下で、お賓頭盧(びんずる)様が参拝者を迎えておられます。手でなでられてツルツルです。
毎年7月15日に、この三門の下で施餓鬼会が行われています。このとき、梶原景時の亡魂も供養するそうです。

280回 3-03
柏槇(ビャクシン=柏樹)
禅宗寺院にはよくビャクシンが植えられています。禅問答の「庭前の柏樹子」の話に関係があるのでしょうか。あるいは、禅宗寺院に植えられることが多いから、この話が作られたのかもしれません。
開山蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を創建の際に撒いたと伝えられているそうです。「かながわの名木百選」に選ばれ「鎌倉市指定保存樹木」になっています。

 

280回 3-04
仏殿
巨大な木造建築です。説明板に、「創建当初より4代目のもので、芝の増上寺あった徳川秀忠夫人お江の方の御霊屋を移築した。建長寺の本尊、地蔵菩薩を安置する」とありました。
格天井と上方の小壁に絵と彫刻があります。当初は見事なできばえだったと思われますが、たいへん痛んでいて、特に絵は何が描かれているかはっきりしません。
いくつかある彫刻の中から迦陵頻伽(がりょうびんが)の画像を載せておきます。極楽浄土に住むといい、上半身ヒト、下半身鳥だそうです。この彫刻ではわかりにくいですが、顔がヒトになっていて、蓮華を持って飛んでいます。

280回 3-05
法堂
説明板によると江戸時代の文化11(1814)に再建とありました。元は建長寺全体の修行道場として使われていたそうです。
本尊として千手観音が祭られています。
その前には苦行中のお釈迦様の坐像があります。確認しませんでしたが、パキスタンで作られたものと書いてあったとのことです。
天井の雲龍図は建長寺の創建750年を記念して描かれたのだそうです。

280回 3-06
唐門
金色のピカピカの建物です。説明板に「寛永5(1628)に芝の増上寺に、徳川二代将軍秀忠夫人の御霊屋の門として作られたもので、正保4(1647)に仏殿などと共に建長寺にもたらされた。いまは方丈(龍王殿)の正門として使われている」とありました。
ピカピカなのは平成23年に解体修理を済ませたからです。
紹介しませんでしたが、円覚寺にも唐門があります。彫刻がすばらしく、素木の落ち着いた感じの建物です。彫刻師の名があるかとしきりにさがしましたが見当たりませんでした。

280回 3-07
庭園
方丈から見ることができます。方丈はいつも解放されているようです。
建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 大覚禅師)の作庭だそうです。
寺の創建750年を記念して、平成15年に大改修されたとありました。国の史跡指定を受けています。

 

280回 3-08
半僧坊に登る
方丈の横を先に進むとやがて上り坂になります。この坂を上ったところに半僧坊があります。

 

 

 

280回 3-09
烏天狗の群れが迎えます

 

 

半僧坊本殿
「半僧坊縁起」という説明板が壁に掛けてありました。それによると、
「今から五代前の住職あおぞら貫道老師が半僧半俗の老人に山中で会い、自分を清浄の地に祭るならいよいよ栄え、ありがたい事が絶えることなしという夢を見た。その老人こそ建長寺の鎮守にふさわしいと、静岡県浜松市の方広寺を訪ね、分霊を勧請し、建長寺内で最も見晴らしの良い現地に御堂を建てて祭った。明治23年5月のことだった。当時は一都二十数県に広まり信者は5万人を数えた」
と書いてあります。
浜松市の方広寺は臨済宗方広寺派大本山を名乗り、鎮守として「奥山半僧坊大権現」を祭っています。寺のHP詳しく掲載してあります。

280回 3-10
半僧坊の御利益
烏天狗が登場し、山の高いところに社殿を構えていること、現世利益をうたうところなどから、半僧坊信仰は、修験系の山岳信仰に基づくものでしょう。

 

 

280回 3-11
建長寺の梵鐘
半僧坊の山を下って、国宝の梵鐘を見学し、建長寺を後にしました。
重さは2.7トンだそうです。平成28年の建長寺の施餓鬼を訪ねたとき、この梵鐘の音が重く響き渡りました。
説明板に、
「開基の北条時頼の発願によって広く施主をつのり、開山の大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、鋳物師の物部重光によって建長7(1255)に鋳造された。この梵鐘の奥に、大覚禅師を祭る塔頭(たっちゅう)の西来庵がある」とあります。

280回 3-12
建長寺の四方鎮守 第六天(鎌倉市山ノ内1523)
建長寺には四方鎮守というものがあるそうです。
寺を後にして、鎌倉街道を北鎌倉駅方面に戻る途中、進行方向左手の崖の上に、その一つの第六天が祭ってありました。
社殿は急な石段の参道の上で、見えません。
参道入口にある説明板に次のように書いてありました。
「四方鎮守は、中央に五大尊、東に八幡、北に熊野、西に子神、南に第六天。これらは江戸時代の記録に出てくる。第六天は、棟札によって社殿建立と修復再建は宝永4年(1707)、天保2(1831)と分かる。社殿内に江戸時代作の第六天像、四天王が安置されている。四方鎮守の中で、今も明らかなのはこの第六天だけである。」
この第六天は、鎌倉市山ノ内の上町町内会で祭っているそうです。

280回 4-01
岩船地蔵堂(鎌倉市扇ガ谷3丁目3)
第六天の先数十㍍の所を進行方向左に折れると亀ヶ谷坂の細道になります。この道をたどって寿福寺を目指しました。
やがて横須賀線の線路に出会いますが、この三叉路に岩船地蔵堂があります。
栃木県岩舟町にある天台宗岩船山光勝寺は本尊に地蔵菩薩を祭る古刹です。
江戸時代に、この光勝寺の地蔵信仰が広まりました。各地に、お地蔵様が船に乗っている姿の石仏が作られています。茅ヶ崎にはありませんが、藤沢市などで見ることができます。
その一つがここ、扇ガ谷にもあり、海蔵寺が管理しているようです。

閉扉してあり参拝することができません。
御堂の横に説明板があって、次のように書いてあります。
堂内に木造と石像の地蔵尊が祭ってある。石像を本仏とし木仏を御前立とする。木仏には体内銘があり「頼朝の息女、大姫の守り本尊だった。元禄3年(1690)に堂を建て、本像を造立した」旨が書かれていた。
しかしこの説明板、文字が薄れていてほとんど読めないのです。
扉の隙間から覗くと、御前立の地蔵様が見えました。

280回 5-01
寿福寺 外門(扇ガ谷1丁目17−7)
亀谷山(きこくさん)寿福寺金剛禅寺。臨済宗建長寺派。
頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、頼朝夫人政子が、明庵栄西を開山として創建しました。鎌倉五山の第三位。
「此地は、もと源頼朝の父、義朝の館があったといわれている。治承4年(1180)鎌倉入りした頼朝はここに館を構えようとしたが、すでに岡崎義実が義朝の菩提を弔うために御堂を建てていたのでやめたといわれている」と説明板にあります。
亀谷山の額
外門に架かる額です。

 

 

 

280回 5-02
参道を歩く郷土会の一行
境内は国指定の史跡になっています。
外門から山門に至る敷石道です。

 

 

280回 5-03
境内の柏槇(ビャクシン)
仏殿の前に4株のビャクシンがあります。

 

 

 

280回 5-04
墓地
寺の裏手は鎌倉石の岩盤で、それを穿って鎌倉時代からやぐらが作られてきました。今も墓地として使われています。

 

 

280回 5-05
政子の墓
三代将軍実朝と政子の墓と伝えられる五輪塔がやぐらのなかに安置してあります。写真は政子のものといわれている方です。
五輪塔は形もよく、鎌倉時代のものと思われます。

 

 

280回 5-06
双体像の墓石
苔むしているので像も銘もはっきりとは見えませんが、双体道祖神の初期の形によく似た石塔を見つけました。個人墓地の中にあったものです。
中井町あたりにはサイノカミ(道祖神)像の初期のものがあります。それらは双体僧形の立像です。
また時に、墓石のなかに双体僧形の供養塔を見ることがあります。サイノカミの石仏は、この形の供養塔をモデルにしているのではないかと思うほど、形が似てるのです。
私たちは寿福寺を後にして、この年5月15日に開館したばかりの鎌倉歴史文化交流館(鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1)を見学して鎌倉駅に出て解散しました。

この日の説明・案内 山本会員
Photo 前田会員 平野会員
Report 山本会員 平野会員

 

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283回 (箱根町) 塔ノ沢の阿弥陀寺と箱根湯本の早雲寺 11月27日(晴)

283回-01
小田急 箱根湯本駅
行く秋を惜しみ、塔ノ沢の秋景に涙しよう と箱根町を訪ねました。
小田急線の箱根湯本駅は絶好の秋日和、雲一つ無い秋空の下にありました。
まず向かったのは浄土宗 阿育王山放光明律院阿弥陀寺塔ノ峰の中腹にある寺院で、のぼること小一時間と聞き、駅前から車に分乗することにしました。

 

283回-02
阿弥陀寺参道
そのタクシーも途中までしか行かず、参道を歩くことしばし。荒れた日は大変でしょうが、私たちは好天に恵まれ、紅葉を見ながら歩くのは楽しいものでした。
途中にたくさんの石仏があります。このお地蔵様、年銘はありませんが、「施主 江戸神田鍋町 松屋徳兵衞」とあり、江戸時代に神田の徳兵衞さんが身内の者の供養のために建てたものでした。
ほかの石仏にも江戸の人が建てているものがありました。江戸時代は祈祷寺として知られていた阿弥陀寺の歴史をあらわしているようです。

283回-03
阿弥陀寺(箱根町塔之澤24)
大して疲れる間もなく、阿弥陀寺の境内に着きます。入口で六地蔵と青銅の阿弥陀様がお出迎えされていました。これが今回の参加者一同。

 

何にやら打ち合わせている私たちの話を如意輪観音が聞いておられました。
阿弥陀寺の草創は慶長10年(1605)といわれています(西海賢二著『漂泊の聖たち』27頁)。木食行者の弾誓上人(もくじきぎょうじゃのたんせいしょうにん)はその前の年に塔之澤に来て、洞窟に籠もり念仏三昧の修行を積んだそうです。その洞窟が寺の裏を200㍍のぼったところにあり、上人ゆかりの石造物なども残っていると聞いていましたので、期待していたのですが、道が通れず行くことができないと分かりました。
阿弥陀寺は木食聖(もくじきひじり)によって開かれた特異な歴史の寺院です。

283回-04
阿弥陀寺本堂
建物は豪壮な雰囲気です。
本堂の分厚い屋根は銅板で覆われていましたが、その中は藁葺きだと思われます。
「浄土宗神奈川教区青年会」のホームページに紹介されている阿弥陀寺の項には「本堂は天明4年頃に、今の小田原市久野の庄屋の家を移築したもので、民家造りとなっています。」とありました。天明4年は西暦1784年です。

283回-05
ご住職の琵琶の演奏
阿弥陀寺住職、水野賢世さんは琵琶の演奏家として知られていましたので事前にお願いしておきました。平家物語と皇女和宮を奏していただきました。琵琶の音色は聞いたことがなかったこともあり、一同いたく心を動かされました。

 

283回-06
本尊 木造阿弥陀三尊坐像
箱根町の文化財に指定されています。
『箱根の石仏』(澤地弘著かなしんブックス)に、「元禄年間に江戸本所の回向院の旧本尊であったものを回向院四世の喚霊によって寄附されたもの」とあります。短い一行ですが、この言葉の裏にどのような歴史があるのか、とても興味を引かれます。両国の回向院は江戸時代には、有名社寺がこぞって出開帳をしました。その回向院の本尊がどのような理由で阿弥陀寺にもたらされたのでしょうか。

283回-07
阿弥陀如来立像
『箱根の石仏』には、「芝増上寺にある黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像の御代仏として作られた仏像で、皇女和宮の念持仏だった。和宮と湯本温泉との関係から、和宮の七回忌に阿弥陀寺は増上寺の別院に昇格し、この御代仏がもたらされた」とあります。このことについても、もっと詳しい事情が知りたいものです。

 

283回-08
後生車
本堂入り口に大きな後生車(ごしょうくるま)が下がっています。大数珠がベルトのように掛けてあって、この数珠を引くことによって車を回すことができます。
また、入口の脇に漢文の「轉輪日課百萬遍記」が立てかけてあります。後生車にもこの厚板にも、「天明四年甲辰」とあります。西暦1784年です。
民俗行事の「百万遍数珠繰り」は、講中が集まって大数珠を回しながら願い事をしますが、ここに架かる車は、百万遍数珠繰りを一人ででも行うことができるように工夫されたものと考えることができます。
山北町世附にある神奈川県指定無形民俗文化財の「世附の百万遍念仏」と同じ仕組みです。
厚板の「轉輪日課百萬遍記」を読むと、これを回すことによって百万遍と同じ仏果が得られると書いてあります。

283回-09
葵の御堂
本堂の脇にある御堂は「葵の御堂 皇女和宮香華院」といわれています。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は脚気を患い、箱根塔ノ沢の「環翠楼」で湯治をしていましたが、明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去したそうです(Wikipedia)。阿弥陀寺には和宮の念持仏だったといわれる阿弥陀如来像(先に紹介した、芝の増上寺からもたらされた御代仏)があり、位牌もあるそうですが、和宮と阿弥陀寺との関係はまだ調べておりません。

283回-10
潮信院殿尊前の手水鉢
境内にある手水鉢に「潮信院殿尊前 元禄九年九月六日」の銘と、11人の武士の名前が彫ってありました。元禄9年は西暦1696年です。
調べてみると「潮信院殿」は小田原藩主稲葉美濃守正則の戒名でした。「尊前」とありますから、正則を供養する塔か何かが別にあって、その前に置かれていたものでしょう。あるいは阿弥陀寺に正則の霊を祭ってあるのでしょうか。年銘は正則の命日です。
側面の家紋は「折敷に三文字」といわれる稲葉家のものでした。

283回-11
馬頭観音
阿弥陀寺に別れを告げて、参道を下る途中にもたくさんの石仏があります。
これは三面八臂(3面の顔と8本の腕)の馬頭観音です。頭の上の動物の頭はネズミか何かのように見えますが、馬頭でしょう。『箱根の石仏』には、参道のこの部分を「馬道」というと書いてあります。

 

283回-12
石仏を見ながら下る
参道沿いにある石塔・石仏のほとんどは個人の供養塔でした。その中でも、この画像にある自然石の供養塔には「寛永五戊子年正月七日」とありますので、最も古いものではないかと思われます。西暦1628年です。「◯◯禅定門、◯◯禅定尼」とある夫婦の供養塔です。阿弥陀寺が開かれてから20数年後に建てられていますから、ごく初期の信者だったのでしょう。
弾誓上人は慶長16年(1611)に京都で入定していますので、この供養塔が建てられたときは阿弥陀寺にはいませんでした。

283回-13
山門
さらに参道を下ると山門がありました。
「阿育王山」は阿弥陀寺の山号です。
ネット情報によると、阿育王山という山が、中国の浙江省にあるそうです。
古代インドで仏教を擁護したアショーカ王は、中国で阿育王と表記され尊ばれました。仏教の日本への伝来と共に、アショーカ王信仰も伝来し、ゆかりの阿育王山の名を山号にする寺が現れますが、その事例の一つです。

283回-14
三尊仏の石龕(せきがん)
山門の下、進行方向右側に入ったところにあります。
大きな自然石を堀くぼめて三体のほとけを半肉彫りしてあります。
この三体の仏像を『箱根の石仏』は32ページに「中央は阿弥陀如来、右側は薬師如来、左側は観音菩薩」としていますが、
中央の阿弥陀如来はよしとして、
その右像(向かって左)は蓮台を持つ観音菩薩、
左像(向かって右)は地蔵菩薩
のように見えます。
また、三像の頭の上に種子(しゅじ・しゅうじ)があり、阿弥陀キリク、右像の上はサ(この二つは明確です)、左像はカと見えます。つまり阿弥陀三尊の勢至菩薩が地蔵菩薩に変わった変形だと考えられます。
年銘は二か所にあって地蔵の右に「□□癸酉□月四日」(元禄六年 1693)、三尊龕の向かって左の小さな龕に「元禄五年□月□日/施主 秋山弥五□□」とあります。
『風土記稿』は塔之澤の項(雄山閣版2巻128頁)に、塔之澤温泉の始まりは諸説あるとし、その一つに「阿弥陀寺開山弾誓(たんせい)、慶長中(1596-1615)秋山道伯(元湯彌五兵衞の祖)と謀りて、起立せし」という話を載せ、この話は阿弥陀寺に伝わる念光という僧が書いた手帳に「慶長十年(1605)9月、弾誓上人が病者のために流れに従って山谷を下り、岩を杖で突いて湯を湧出させ、道伯に与えたという記述による」としています。「元湯彌五兵衞」の「元湯」とは塔之澤温泉の環翠楼の前身です。
つまり、塔之澤温泉の始まりは「元湯ー環翠楼」にあることを、「道伯ー彌五兵衞」を阿弥陀寺の開祖である弾誓上人に結びつけて説くもので、各地にある弘法の湯伝説の域を出るものではないようです。
以上の話も含めて、この石龕は興味深いと思いました。

283回-15
梅村美誠夫婦の墓
石龕三尊像の隣奥にあります。
梅村美誠氏は塔ノ沢の温泉宿環翠楼の2代目楼主で、湯本村の村長も務め、村の発展に寄与しました。
和宮が療養していた宿がのちに環翠楼と名乗ります。

 

283回-16
紅葉
参道を下りきったところの紅葉がきれいでした。

 

 

 

283回-17
昼食は「山そば」
箱根湯本駅のそばのソバ屋「山そば」に予約を入れておきました。
月曜日だったにもかかわらず店内は混んでいました。
観光地の食堂は大したことないことが多いですが、ここの蕎麦はおいしかった。ビールも最高でした。もっとも、長い山道を歩いた後でもあったのですが。

 

283回-18
早雲寺に登る急な坂道
昼食のあとは旧東海道沿いの早雲寺を訪ねます。早川を渡り、湯本富士屋ホテルの脇を抜けると急な坂道です。
この日は80歳代の参加者もありましたが、皆さん大変お元気でした。
この坂道がかなり続くのですが、一気に登り切りました。
茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりは健康維持に効果絶大です。
百歳まで生きる人が多くなった昨今、運動と頭の体操は欠かせません。
皆さん! 茅ヶ崎郷土会に入ると長生きしますよ。

283回19
早雲寺遠景
晩秋の日の落ちは早い。谷あいにある湯本は、午前中の日差しを失ってきました。

 

 

 

283回-20
早雲寺の始まり 看板(箱根町湯本405)
この看板が寺の歴史を語っています。
臨済宗大徳寺派。金湯山早雲寺。
「新編相模国風土記稿」湯本村の項に「北条氏綱、早雲庵宗瑞の遺言にまかせて建立。大永元年落成す。ゆえに早雲をもって開基と称す」とあります。

 

283回-21
開山堂
早雲寺の開山は以天宗清(いてんそうせい)という臨済宗の僧。
説明板には「生まれは文明4年(1472)、京都。北条早雲、氏綱、氏康の帰依を受けて早雲寺の創建に係わる。天文23年(1554)死去」とあります。

 

 

283回-22
北条五代の墓
本堂の裏手にあります。
説明板に「天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城を攻めるために早雲寺を本陣とした。6月に一夜城が完成するとそちらに移り、早雲寺に火を放ち、寺は灰燼に帰した。7月、北条氏降伏。氏政、氏照は切腹、氏直は高野山へ追放となったが一門の氏規、氏勝が家系を伝えた。江戸時代の寛永に寺の再建がはじまる。北条五代の墓は、氏規の子孫によって寛文12年(1672)に供養塔として建立された」とありました。
向かって右から早雲長氏、氏綱、氏康、氏政、氏直と並んでいます。

283回-23
梵鐘 神奈川県指定重要文化財
現地で確認しませんでしたが、元徳2年(1330)の銘があるそうです。この梵鐘とは関係の無いことですが、3年後の正慶3年(1333)に鎌倉北条氏が滅びます。
豊臣秀吉が小田原を責めたとき、三島の寺にあったこの鐘を一夜城に運び、戦の鐘として使った。その後早雲寺にもたらされたといわれています。

 

283回-24
飯尾宗祇の歌碑(昭和8年建立)と墓碑 
世に婦るは 更にしぐれの やどりかな
本堂の前に連歌師 飯尾宗祇の歌碑があります。
「飯尾宗祇(いいおそうぎ)は旅の途中、文亀2年(1502)7月30日、箱根湯本で客死した。享年82。」と説明板にありました。
本堂の裏手に墓があります。
説明板には「宗祇の遺骸は弟子たちによって静岡県裾野市桃園の定輪寺(じょうりんじ)に埋葬された。早雲寺の墓は供養塔である」とも書いてありました。

283回-25
白山神社と神明社(箱根町湯本431)
早雲寺の山門を出て、旧東海道沿いに白山社があります。
『風土記稿』に「白山社、当村(湯本村)および湯本茶屋の鎮守なり、例祭正月十九日、村持」と書いてあります。
境内にはこのような巨岩がいくつかありました。磐座(いわくら)なのかもしれません。

このあと、神明社を通過して小田急の箱根湯本駅に戻り解散しました。

 

 

 

Photo 前田会員 平野会員
Report 前田会員

 

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郷土ちがさき 143号(2018年9月1日発行)

内容

  • 表紙 「ワクワクしますか?」
  • 特集 二十三ヶ村調査勉強会 中島村 (調査勉強会参加者一同)
  • 特集1 『中島の歴史』 構成案
  • 特集2 中島 地名の由来 (平野文明)
  • 特集3 馬入の渡 その位地 (平野文明)
  • 特集4 中島の政治家 (羽切信夫)
  • 特集5 中島親水公園 (羽切信夫)
  • 「むら」を知る手がかり (小川正恭)
  • 史跡・文化財めぐり「市内の別荘跡を歩く」
  • 第287回ー高砂緑地から中海岸へー (源 邦章)
  • 第288回ー共恵から南湖方面へー (源 邦章)
  • 〈別荘跡を歩く関連論文〉南湖院 高田畊安の人物関係図 (源 邦章)
  • 風(自由投稿欄)
  • 浜降祭と海辺(中島幸子)
  • 民俗資料館 旧藤間家住宅の紹介 (社会教育嘱託員 富永富士雄)

    馬入の渡の図

    • 編集後記
    • (画像をクリックすると、PDFファイルが開きます)

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    郷土会 Study Room 山本俊雄さん 源 邦章さん「 鎌倉北条氏と小田原北条氏」 2018.7.17(火)

    今年度3回目の郷土歴史民俗勉強会
    山本俊雄さんによる「鎌倉北条氏」
    源 邦章さんによる「小田原北条氏」
    のお話でした。
    この催しは「ちがさき丸ごと発見博物館の会」との協働事業です。

    ほぼ毎月、第3火曜日の午前中に開きます。
    場所は福祉会館を使うことが多いのですが、この日は祝日の翌日で休館だったため、市役所のコミュニティーホールA会議室を確保して行いました。
    会員ではない方も参加できます。
    資料作成・会場費などのために、会員は200円、会員外は300円の負担をお願いしています。「参加できます」(上から目線のようですみません)と書きましたが、実はなるべく多くの方に来て頂きたいのが本音です。

    昨年度、29年度の茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりは鎌倉市と小田原市でした。
    その様子は、当ホームページの<今まで行った史跡めぐり>に一部掲載してあります。

    この鎌倉・小田原史跡めぐりに関連して、両地の北条氏をテーマに取り上げ、それぞれを会員の山本俊雄さんと、源 邦章さんが語って下さいました。
    山本さんのお話は、伊豆での北条氏の出自から元弘3年(1333)に北条氏が滅び、鎌倉幕府が消滅するまでの中で、並びいる有力御家人を次々と倒していく事例を紹介されました。
    正治元年(1199)梶原氏、建仁3年(1203)比企氏、元久2年(1205)畠山氏、建保元年(1213)和田義盛、承久元年(1219)実朝(裏に北条氏)、承久3年(1221)後鳥羽上皇など(承久の乱)、宝治元年(1247)三浦氏、弘安3年(1285)安達氏、永仁元年(1293)平 頼綱等々が潰えていきました。
    この折々に、北条氏は味方をする御家人たちと共にあり、一方潰える方は孤独な戦いを強いられており、北条氏のそのような策略・戦法がなぜ可能だったのかという問題に大きな興味を引かれると、講師の山本さんは語っておられました。

    続いて、小田原北条氏について源 邦章さんのお話。

    備中国(現 岡山県)出身の伊勢宗瑞(いせそうずい)は、山城(京都)、駿河(静岡県)、伊豆(静岡県)を経た後に、小田原を本拠にして相模国と伊豆国を領する戦国大名となりました。
    二代氏綱、三代氏康と代数を重ねるごとに関東に領地を拡張し、四代氏政、五代氏直時代には上野国(群馬県)、下野国(栃木県)まで勢力を伸ばしましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに、氏政は自刃し、氏直は高野山へ追放となり、小田原北条氏は潰えました。
    源流の小田原北条五代記を語って下さいました。

    8月の郷土歴史民俗勉強会
    8月21日(火)
    「伊勢参り」 お話は平野文明会員
    長く続いた伊勢信仰の話も、伊勢参りで終了します。
    場所 茅ヶ崎福祉会館集会室6
    時間 10時~12時
    資料代など 会員200円 会員外300円

    (photo・report 平野会員)