相模のもののふたち (3)三浦一族と衣笠城(横須賀市)


三浦一族は鎌倉幕府の成立に大きな働きをなし、三浦半島を本拠地に、幕府開設後も頼朝の有力御家人の一人として活躍しました。
三浦氏の系図は、桓武天皇に発し数代をおいて為通(ためみち)(初代)―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と考えられてきました。村岡の為通が前九年の合戦に参陣し、源頼義から三浦郡内の一角を領地とすることを許されて初代となったという説です。しかし最近、為通以前は三浦氏の神話の時代で、後三年合戦に名を表す為継(ためつぐ)から明確であるという考えがとなえられています。(高橋英樹『三浦一族の中世』)。
三浦氏の直系は衣笠城を居館とし、一族は三浦半島の各地を領しましたが、相模国西部にも勢力を伸ばし、義明の弟義実は岡崎(平塚市)に居を構えました。
義村は、同族の和田義盛が二代執権北条義時と勢力を争うとき北条方について、建保元年(1213)に義盛一族の滅亡を招きました。義村の子泰村は宝治元年(1247)、五代執権時頼と安達連合軍の攻撃を受けて自滅し三浦宗家は滅亡しました。宗家滅亡後は、佐原(横須賀市)に居を構えた佐原氏が継ぎました。戦国時代になって、三浦氏に連なる三浦道寸義同(どうすんよしあつ)、義意(よしおき)は北条早雲の攻撃を受けて、小網代の新井城に籠もって滅亡しました。
三浦半島の各地に残る三浦氏一族の遺跡の中には、三浦氏が関係して創設されたと考えられる寺院もあり、鎌倉時代に制作された仏像が伝えられています。
このコーナーではそのような三浦氏の遺跡と文化財を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます。〉

3-01
衣笠城址(横須賀市指定史跡)(横須賀市衣笠町29)
横須賀市のほぼ中央部の丘陵の中に衣笠城址はある。三浦氏の祖とされる村岡為道(ためみち)が、前九年の役の功によって源頼義からこの地を与えられて三浦を名のり、その後為継(ためつぐ)(次)、義継(よしつぐ)(次)、義明(よしあき)の四代が三浦半島を経営した際の居館だった。(最近は為道を疑う説もある)。
1180(治承4)年、頼朝の旗挙げに呼応した際、ここに平家側の大軍を迎え、時の城主三浦義明は落城とともに討ち死にした。この合戦は「衣笠合戦」と言われている。
その後、鎌倉幕府が開かれてから再び三浦氏の居館となったが、三浦泰村が北条時頼との戦いに敗れて一族と最後を迎えた1247(宝治元)年に廃城となった。

3-02
城跡にある物見岩
城跡の最も高いところにあって、地面から頭を出した巨岩。衣笠合戦の折に、城主義明がこの岩に登って戦の指揮をとったという伝説がある。この巨岩は磐座(いわくら)の趣を漂わせている。

3-03
物見岩のすぐそばにある、出土遺物の碑
「大正八年十二月、陶器二個、銅筒一個、鏡一面、刀剣数口がここから発掘された。古色蒼然としていて衣笠城時代のものであることは疑われず、翌年二月に宮内省に献じた」と書いてある。
なお、これらの出土物のスケッチが、城跡の近くにある満昌寺の御霊神社社殿(宝物館を兼ねる)内に、軸装されて展示してある。撮影禁止。

3-04
衣笠城追手口あと
「追手口」は「おうてぐち」とも読み、大手口(城の正面入口)のこと。衣笠城の追手口あとが、高速道路の横浜横須賀道路と三浦縦貫道路が交差する衣笠インター入口の近くにある。コンクリートで固められた崖の縁の歩道は、進むにつれてゆるやかな坂道となり、城跡の一角にある曹洞宗大善寺に通じている。

3-05
衣笠城追手口跡の碑
巨大なコンクリートの崖の下、歩道の脇に小さな碑がある。知らなければ見落としてしまうような大きさだが、この碑があることによって、ここが城の追手口(大手口)だったことが分かる。碑には「衣笠城追手口遺址」と彫ってあった。

3-06
大善寺の不動井戸 (大善寺 横須賀市衣笠町29-1)
追手口あとから坂道を登っていくと、曹洞宗の金峯山不動院大善寺がある。説明板によると「僧行基が金峯蔵王権現と自作の不動明王を祭り、その別当寺としてこの寺を建てた」とある。衣笠城はこの寺の裏山一帯に展開していた。
寺の入口に「不動井戸」という池があって石造の不動明王が祭ってあった。「お祓いをするときに水がなくて困った行基菩薩が杖で岩を打つと清水がわき出した。衣笠城の生活用水だった」。不動明王は「三浦氏の祖、三浦為継が後三年の役に出陣したとき、敵の矢を防いでくれたので〈矢取不動〉と呼ばれる。今は寺の本尊となっている」と説明板に書いてあった。

3-07
大善寺の文化財 阿弥陀三尊像(横須賀市指定重要文化財)
境内の説明板に次の様に書いてあった。
「大善寺の本尊は不動明王となっているが、それは明治時代以降のことで、以前はこの阿弥陀三尊座像が本尊として祭られていた。像は平安時代末期(12世紀)の特色を示している。三尊像の様式は、死者の霊を浄土へ迎える来迎様式である。阿弥陀信仰は12世紀から一般化するが、この三尊像は三浦半島で最古の遺存例である。指定年月日は昭和60年4月25日」
おそらく三浦一族が、往生祈願のために祭っていた阿弥陀三尊だったのだろう。写真は説明板の写真を複写したもの。

3-08
大善寺の文化財 毘沙門天像(横須賀市指定重要文化財)
説明板に次のように書いてあった。
「製作年代は平安時代末から鎌倉時代初期と推定される。右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下を向く姿は、岩手県の中尊寺金色堂内の増長天立像とよく似ている。頼朝は1189(文治5)年の奥州合戦の折に中尊寺諸院に驚嘆し、それらを模して鎌倉に永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣しており、頼朝同様、平泉仏教文化に影響を受けたことが本像制作のきっかけになったのだろう。平泉の中尊寺金堂様式の仏像は東北・北関東に分布するが、本像はその南限に当たる。」
写真は説明板の写真を複写したもの。

3-09
大善寺門前の庚申塔群
神奈川県は庚申塔の密集地で、茅ヶ崎市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることである。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。
大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来ないが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。
向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れない。

3-10
義明山満昌寺(臨済宗) (横須賀市大矢部一丁目5-10)
山号を「義明山(ぎめいさん)」ということから三浦義明にゆかりの寺だと分かる。境内にある説明板には「頼朝の意思に基づいて三浦義明の追善のために建久五(1194)年に創建された」とある。ちなみに義明は、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの時、衣笠城に平家の大軍を迎えて城とともに討ち死にした。
また説明板には「創建時の宗派は分からないが、鎌倉時代末期に仏乗禅師 天岸慧広(てんがんえこう)が入寺し、臨済宗に改め、建長寺末寺とした。天岸慧広を中興開山とする」とある。

3-11
木像 三浦義明座像(国指定重要文化財)
三浦義明が有名なのはなぜかというと、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの際、平家の大軍が押し寄せると分かっているにもかかわらず、自分の城 衣笠城に留まり、息子の義澄などを逃がし、自分は高齢だからこの城と運命をともにするとガンバッて、落城する中で命を落としたその心意気に引かれるからである。そのとき義明は89歳。
義明の木像は、境内にある御霊神社(義明の霊を祭る。宝物館を兼ねる)内に祭られている。撮影禁止。写真は説明板にあった画像を複写したもの。
境内の説明板には「制作の時期は鎌倉時代後期と推定されている。等身大の像で、没後神格化された武人の像として重要」とあった。

3-12
伝 三浦義明の廟所(横須賀市指定史跡)
義明の木像を納める御霊神社の背後にあり、瓦塀で囲まれた中を廟所(墓)と伝えている。
寺内にある説明板「義明山 満昌寺の由来」に、「廟所は奥の院と称し三浦大介義明の首塚という」とある。
『吾妻鏡』建久5年(1194)9月29日条に「(頼朝は)三浦矢部郷内に一堂を建立すべき由の思し召しを立てらる。故介義明の没後を訪れらるため也。今日、中業(なかなり)(中原仲業 頼朝の右筆)に仰せてその地を巡検すと云々」とある。この「一堂」が満昌寺であるとは書かれていないが、前記した説明板には「当寺は、建久五年九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善のため創建されたと伝えられる。」とある。
また、鎌倉市材木座の来迎寺にも義明の墓と伝える五輪塔がある。

3-13
伝 三浦義明の廟所近景
中央に宝篋印塔、その向かって右側に、石灯籠に隠れているが五輪塔、左側に板碑が立っている。
石灯籠については、寺内の説明板に「廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したもの」とある。現地では良くは見てこなかったのだが、後に写真で見ると、その竿石正面に「享和三年四月□日」とあった。写真は「享」が明確ではないのだが、享和三年は1718年である。

3-14
義明を供養する宝篋印塔
義明の供養塔と伝えられている。下方から、基壇・基礎・塔身・笠は一具で安山岩でできている。鎌倉時代後期から南北朝時代のものと思われる。その上の九輪(くりん)は請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)とも後補か別の混入らしい。塔身の種子(しゅじ)は金剛界四仏の、阿閦如来(あしゅくにょらい)をあらわすウーン。
もとより三浦大介義明没年ころのものではない。

3-15
義明の妻を供養する五輪塔
廟所を正面から見ると、石燈籠に隠れて見えないが、説明板によると、義明の妻のものと伝えられるとある。写真で見ると地輪(ちりん)(方形)と水輪(すいりん)(球形)は一石(いっせき)のようである。火輪(かりん)(笠状のもの)は混入かも知れない。時代は分からない。その上の空風輪(くうふうりん)は室町時代末期のもので、混入したものである。

3-16
観音種子(かんのんしゅじ)の板碑
緑泥片岩(りょくでいへんがん)製の堂々とした板碑である。上部に彫ってある種子は観音菩薩をあらわす「サ」。その下の二行に渡る文字は
具一切功徳慈眼視衆生
(一切の功徳を具し慈眼をもって衆生を視(み)たもう)
福聚海無量是故応頂礼
(福聚の海は無量なり是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし)
素人なりに意訳すれば、
「観音様は大きな功徳と優しさをもって私たちに接してくださっています。観音様の救いが余すところなく及んでいる事への感謝を忘れてはいけません」。法華経の観世音菩薩普門品第二十五(観音経)の一節。
しかし、この板碑の製作年代も由来も判断がつかない。

3-17
満昌寺の文化財 木像天岸慧広(てんがんえこう)の座像(横須賀市指定重要文化財)
古い歴史を有する満昌寺にはすぐれた文化財がある。天岸慧広の木像もその一つで、寺の説明板「満昌寺の由来」に、「鎌倉時代末期に満昌寺に入り、宗旨を臨済宗に改め、中興開山」と記されている。
また別の、この像の説明板には「鎌倉円覚寺の第一座、鎌倉報国寺の開山で、建武二年(1335)に没した。像は玉眼、寄木造り像高76㎝。顔面部の個性的な風貌を写実的にとらえており、没後まもないころに制作されたものだろう。」とあった。拝観はしていない。

3-18
満昌寺の文化財 木像宝冠釈迦如来座像 (横須賀市指定重要文化財)
満昌寺の本尊。
説明板に「玉眼寄木造り。像高36.6㎝。高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただく。着衣はひだが太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北朝時代(14世紀後半)の作品」とあった。
このほか、御霊神社社殿(宝物館)内に、石造双式板碑(元応二年(1320)庚申二月日在銘)の板碑がある。また幕末―明治期作成で、雲龍・松虎・山水の絵柄のふすま絵(16面)と、神奈川県内では大変珍しい磨崖仏が、ともに横須賀市の重要文化財に指定されているが、この2件は拝観はしていない。

3-19
満昌寺山門前の庚申塔群
満昌寺の門前にもたくさんの庚申塔がある。大谷石の基壇の上に整然と並べられている様子を見ると、方々から集めたもののように思える。
三浦半島の庚申塔の、青面金剛のある塔を子細に眺めていると、三猿の所作、金剛に踏まれている邪気の苦しそうな顔つき、金剛の持物(じもつ‒持っている物)の違いなどにおもしろさをおぼえる。石工たちの遊び心を感じるのである。

3-20
近殿神社 (横須賀市大矢部一丁目9-3)
「ちかたじんじゃ」と読むようだ。境内の説明板には次のように書いてあった。
「祭神 三浦義村公
三浦義村は、三浦氏代々の頭領、三浦為道―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討ち死にしたと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。」
説明板は為道を三浦氏の祖とする説に立っている。三浦氏は、義村の子、泰村の時に5代執権時頼によって滅ぼされた。それにしても何故、義村が祭神になっているのだろうか。

3-21
清雲寺 (横須賀市大矢部五丁目9-20)
境内の説明板に次のようにあった。
「伝 三浦為継とその一党の廟所(昭和48年 横須賀市指定史跡)
清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏二代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(1939)に円通寺(廃寺=大矢部二丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。」
なお、「石造板碑 文永八年(1271)在銘」および「三浦九十三騎墓」と伝えられる石塔群も同時に移されたそうである。
諸般の事情で、茅ヶ崎郷土会の史跡巡り当日はこの廟所を見ることができなかった。
古い五輪塔や宝篋印塔を歴史上の人物の墓と称することは多くの場所で行われている。しかし実は、古代・中世の墓がどのような形態であったかはよく分かっていない。史跡の名称に「伝」を付す所以である。
文永8年銘板碑も重要文化財に指定されている。この板碑は、造立者銘と造立趣旨を刻するそうだから、特に貴重なものと思われる。

3-22
清雲寺の文化財 毘沙門天立像(神奈川県指定重要文化財)
境内の説明板に次のようにあった。
「この毘沙門天は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保元年(1213)の和田合戦の折、和田義盛のために敵の矢を受け止めたと言われ、〈矢請の毘沙門天〉と呼ばれている。像高70.7㎝の寄木造り、彩色玉眼入り。鎌倉中期以前の優作の一体である。」
清雲寺には国指定重要文化財の木像観音菩薩座像もある。当日は拝観しなかったが説明板には次のようにあった。
中国、南宋時代、江南地方で作成されたもの。京都泉涌寺の観音座像と同一。この地にもたらされたのは三浦氏が領主であった時代で、一族が滅亡した宝治元年(1247)以前。13世紀から鎌倉周辺に宋彫刻の影響を受けた仏像があるが、時代的背景を同じくするものと考えられる。」

photo & report 平野会員

今までおこなった史跡・文化財の調査一覧へ
フロントページへ〉

相模のもののふたち (4)和田義盛(三浦市・横須賀市)


頼朝存命のころから、粛清されて命を失うもののふは多かったのですが、頼朝が建久10年(=正治元年 1199)1月に亡くなってからも止むことはありませんでした。頼朝没後すぐに梶原景時が滅せられました。
同年10月27日、鎌倉幕府の有力な御家人の一人、結城朝光は、景時の讒訴(ざんそ)によって窮地に立たされたと、朋友の三浦義村に訴えました。この訴えを聞いた義村は、「およそ文治(1185年から)このかた、景時の讒訴によって命を失い、職を失った輩はあげて数うべからず。世のため君のため、景時を退治せずんばあるべからず」と、和田義盛と安達盛長を呼んで相談をかけました。呼ばれた両人は、「それなら連署状を草して訴えるべし」と、時をおかず書状をつくって、66人の同意を得、大江広元を介して将軍頼家に提出の手はずをとりました。しかし逡巡した広元がすぐに渡さなかったため、義盛は御所で広元と同席した折に、「かの状をきっと頼家に披露するのか、ご気色いかん」と詰め寄ります。「義盛、眼を怒(いか)らして…」と『吾妻鏡』にあります。
この一件の結果、梶原一族は命を落とすのですが、三浦義村と和田義盛は同族です。また、この二人に同意して、鶴岡の廻廊に群集し連署状に署名した66人の中には、北条一族の時政と義時の名はありません。筋書きを作り、朝光、義村、義盛を動かして景時を亡き者にした誰かが事件の裏にいたのではないかという説があるのもおかしくはないと思われます。
人の話に乗り、武力一辺倒で押し進む義盛の性格が見えるようです。しかし、このような人物であったからか、今も人気は高いようです。三浦半島には義盛に関する伝説が多く伝わっています。このコーナーでは、そのようなことも含めて義盛の遺跡を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

4-01 和田義盛旧里碑(三浦市初声(はっせ)町和田)
人によって違うだろうが、三浦一族の中ですぐに思い浮かぶのは三浦宗家の義明とその孫、和田義盛である。義明の長男で鎌倉の杉本に居館を構えた義宗の子が義盛、義宗の弟義澄の子が義村、いとこ同士の義盛と義村は後に悲劇の対決をなす。
義盛は現在の初声(はっせ)町和田を領し和田姓を名のった。武勇に優れていたが直情径行の性ありと言われている。頼朝のもとで侍所(さむらいどころ)別当(=長官)に任ぜられ、頼朝亡き後は頼家、実朝に仕えた。次第に北条氏と対立し1213年(建保元)に一族は滅ぼされた。この戦の折、義村は義盛を無視したのである。
和田の八雲神社の境内に「和田義盛旧里碑」が立っており、三浦市が建てた説明板に次のようにあった。
「一族が滅んだとき義盛67歳、この碑は義盛の在所と思われるこの地にその武勇をたたえて大正10年に建立された。」

4-02 和田の郷 八雲神社(三浦市初声町和田)
三浦一族の旧跡を回る下見の日は終日雨が降っていた。神社の説明板「天王様(八雲神社)由来の記」には次のように記してあった。
「祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)(行疫開運の神)
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)といい和田の郷の鎮守。本宮は貞享四年(1687)、藤原朝臣 大井甚五左衛門の勧請と伝えられる。」

4-03 神明白旗神社(三浦市初声町和田1746)
急な石段を登った小高いところにあって、和田の郷を広く見下ろすことができる。境内の説明板に次のようにあった。
「祭神 天照大神 和田義盛
神明社が白旗神社に合祀され、「神明白旗神社」と呼ぶ。和田義盛一族が鎌倉の和田塚に自刃した後、弘長三(1263)年、和田の郷民が社殿を設け白旗神社として祭ってきた。白旗の名は平家討伐に大勝した義盛が、紅白の幟を立て八幡社に報告したことによる。また戦勝の舞「初声」を舞ったことから初声町の名が付いた。『新編相模風土記稿』に、ご神体は義盛の銅像、本地仏は和田党九十三騎の守護仏だが、八体しかないとある。」

4-04 神明白旗神社の庚申塔群
先に横須賀市衣笠町の大善寺と上矢部の満昌寺の山門前にある庚申塔群を見てきたが、ここ神明白旗神社にもたくさんの庚申塔があった。
神社に登る石段の下にあり、ここを訪ねた日は春の陽がさんさんと降り注ぐ気持ちのいい日だった。庚申塔群の前の若草に腰を下ろし、食べた弁当はほんとうに美味しかった。こういうとき、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりに参加して良かったなぁーと思う。

4-05 浄楽寺入口(横須賀市芦名二丁目30-5)
金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺が正式名称。浄土宗、鎌倉光明寺末。
今まで見てきた和田の郷は三浦市の北端に位置するが、市境を北に越えると横須賀市長井になる。国道134号に沿ってさらに北に進み太田和を過ぎると芦名で浄楽寺がある。この辺りは電車が無くて、私たちは逗子駅前から延々とバスに乗った。
参道の奥に見える瓦屋根が浄楽寺の本堂。浄楽寺発行のパンフレットに次のように記してあった。
「『新編相模国風土記稿』にこの寺はもともと和田義盛が建立した阿弥陀堂であったが、その後、光明寺の二世寂恵が寺に入り中興したとある。寂恵は鎌倉後期の僧侶で、芦名に浄楽寺を開いたことは光明寺資料でもあきらか。」
見学の申込みをせずに訪問したのだが、来意を告げたところ、「本堂に上がってお詣りしても良いですよ」とありがたいお言葉をいただいた。そこで一同は、ご本尊様に世界の平和と自らの往生を祈った。

4-06 浄楽寺の扁額 「勝長寿院」
浄楽寺の本堂の扁額は「勝長寿院」と書いてあって、また浄楽寺の院号は「勝長寿院」である。扁額は古くはなさそうだから、院号を文字にしたのかも知れないが、勝長寿院と言えば、源頼朝が父 義朝の菩提を弔うために鎌倉の大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)(現・神奈川県鎌倉市雪ノ下)に建てた寺院の名として有名である。頼朝建立の寺と、浄楽寺の院号が同じなのは偶然なのだろうか。
境内に立つ「横須賀風物百選」の「浄楽寺阿弥陀三尊像」の説明板に、
「寺伝によれば、文治元年(1185)に源頼朝が、父義朝の霊を弔うため、鎌倉の大御堂ヶ谷に勝長寿院を建てたが、建永元年(1206)にその寺が大風で破損したため、北条政子と和田義盛が、そこの本尊をここに移したと伝えています。」
とある。
しかし、この寺伝は伝説であるらしい。それにしても規模の大きな伝説であることか。なぜこのような話が伝わっているのか、たいへん興味を覚えるのである。

4-07 薬師如来と不動尊のお開帳の案内札
浄楽寺には、運慶の作と断定されている木造薬師三尊像と木造不動明王立像、木造毘沙門天立像の五体の仏像がある。三浦薬師如来第十五番の薬師と、三浦不動尊第二十番の不動尊も一緒に、本堂裏手の小高いところにある収蔵庫に祭られていて、毎年4月から5月にかけて御開帳が行われている。
写真の立て札はその期間中に境内に立てられていた案内板である。三浦薬師と三浦不動尊のお開帳に併せて収蔵庫が公開されるが、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりとは日取りが合わなかった。運慶作の五体の仏像を是非とも拝観したいと、後日独自に訪れた。

4-08 運慶作の仏像を納める収蔵庫
運慶作の阿弥陀三尊像と不動明王像、毘沙門天像はもちろん国指定の重要文化財である。国指定の文化財は、どこでも木造の本堂などから移されて、不燃構造の特別収蔵庫内に納められている。収蔵庫内は撮影が禁じられていた。その画像は「おおくすエコミュージアムの会」が発行している『三浦一族と和田義盛』という印刷物に掲載されている。
今年9月26日から東京国立博物館で、運慶が手がけた作品を一同に集めた特別展が開かれる。その記事が9月19日の朝日新聞に大きく取り上げられていて、浄楽寺の五体の像もカラーで印刷してあった。
運慶仏については、浄楽寺のパンフレットに次のようにあった。
「昭和三十四年に毘沙門天の胎内から「文治五年(1189)己酉三月廿日庚戌/大願主平義盛芳緑小野氏/大仏師興福寺相応院勾当運慶小仏師十人」(「芳緑小野氏」は義盛の妻)とある銘札が見つかり、造立は義盛の発願と判明した。静岡県伊豆の国市の北条時政ゆかりの願成就院にも運慶作の阿弥陀如来、不動・二童子、毘沙門天像があるが、浄楽寺の運慶仏は義盛の、時政への対抗心からの発願とも解される。」

4-09 浄楽寺境内にある無縁塔
お寺を回っていると、絶家などで祀り手を失った墓塔や供養塔を集めた無縁塚にしばしば出会う。
浄楽寺にもそれがあって、てっぺんに江戸時代の宝篋印塔、その下にぐるりと地蔵や観音菩薩、如来の像塔、その下に江戸初期の供養塔、最下段に江戸後半期以降の比較的新しい墓石がピラミッドのように積んであった。
祀り手を失ったとは言え無縁塚は宝の山である。墓塔、供養塔の形態変化は死者供養信仰の時代変化を表すものであり、また江戸初期の年銘を持つそれらは村の開発者を知る手がかりになるからである。この無縁塚の中にも寛文年銘の古い供養塔がいくつかあった。

4-10 浄楽寺と前島密(まえじまひそか)
国道に面した参道入口に、青銅製で変わった形でありながら実用されている郵便ポストがあり、その上に前島密の胸像が設置されていた。また、本堂裏手の小高い所にある寺の墓地には前島の墓がある。
4-06で紹介した「横須賀風物百選」の説明板に「収蔵庫前を進んだところに、わが国近代郵便制度の創始者前島密翁の墓があります。翁は、晩年をこの浄楽寺境内で送りましたが、大正八年四月二十七日、八十五歳でその生涯を閉じました。」と記してあった。浄楽寺のホームページに「明治四十四年、密は浄楽寺の境内の一部を借り受け別邸を設け隠居した。」とあるが、どういう理由で浄楽寺境内に住むようになったのかについては触れられていない。

4-11 浄楽寺前の朝市
茅ヶ崎郷土会が浄楽寺を訪れたのは平成29年3月25日の土曜日だった。浄楽寺の参道入口の脇に広場があって朝市が開かれていた。浄楽寺の拝観のあと、次の見学地に向かうバスを待つ間、朝市をのぞいた。地元産の野菜や、産地は不明だが丸ごと姿のままの魚類が並んでいた。自家製たくあん漬けや野菜を買う会員があったが、たくさん入った夏みかんを一袋購入して、一日重い思いをした人もあった。
茅ヶ崎郷土会の史跡文化財巡りは実に楽しい。

4-12 薬王寺跡(横須賀市指定史跡) (横須賀市大矢部1-13)
衣笠城に近い横須賀市大矢部にも和田義盛の遺跡がある。薬王寺跡は通りから細道をしばらく入ったところで見つけにくい。細道の突き当たりに義盛の叔父の三浦義澄の墓といわれる石塔があり、横須賀市教育委員会の説明板があった。
「薬王寺は仏頂山と号し、建暦二年(1212)、和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うために創建したものと伝えられるが、明治九年頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。」
この説明板の文章は理解しにくい。薬王寺は義盛の創建になるが、「もとの本堂跡」から、何時の頃かここに移ってきて、明治9年に廃寺となったと読むのだろうか。義盛創建という説が何に基づくのかの説明はないが、各地にある義盛伝説の一つではなかろうか。各地に伝説を生むほど義盛は人気者なのだ。特に三浦半島では。

4-13 伝 三浦義澄供養塔(薬王寺跡) (横須賀市指定史跡)
瓦塀に囲まれた一角の中央に大ぶりの凝灰岩製の方形石が積んである。三浦荒次郎義澄の墓と伝えられている。説明板に「最下石の四方には胎蔵界(たいぞうかい)の種子(しゅじ)が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿(うが)たれている」とある。
一番下の石は独立しているが、その上にある二重に重なった石は一石のように見える。その上に置かれているのは混入した宝篋印塔である。三段に積まれた石は、三浦半島に多い凝灰岩製の五輪塔の一部のようにも見えるが、元の形を推測しがたい不思議な石塔である。
なお、この一角を瓦塀で囲んだしつらえは、満昌寺境内の、伝 三浦義明廟所のしつらえと同じである。ここ薬王寺跡も満昌寺の管理下にあるのだろう。

4-14 薬王寺跡にある小型の五輪塔・宝篋印塔
三浦義澄の墓と伝えられる石塔の両脇にたくさん置かれている。このような石塔は茅ヶ崎市内にも各所にある。室町時代の後半期のものと考えられるので、もとより和田義盛、三浦義澄の時代のものではない。
説明板には「これらの石塔群は当地出土の元応二年(1320)年銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である」とあった。
先に紹介した満昌寺の宝物館(御霊神社社殿を兼ねる)に、2基の板碑が展示されている。満昌寺の説明板には「石造双式板碑 元応二年庚申二月日在銘 一方は弥陀三尊種子、他方は釈迦三尊種子、形も年銘も同じで、薬王寺旧跡のやぐらにあったもの」と記されていた。

4-15 天養院 (初声町和田1669)
三浦市が寺の境内に建てた説明板に次のようにあった。
「本尊の薬師像は義盛の身代わり薬師といわれていて、和田合戦の折、総身に負傷した義盛が痛さを思わず、一同は不思議な思いをした。そのとき、この薬師像が顔から胸に傷を負い、血潮が流れたという。寺には建暦三年(1213)銘の義盛の位牌と言われるものがあって「筌竜院殿前左衛門尉義盛安楽大居士」の銘がある。
平安時代中期、11世紀ころの作と推定。『風土記稿』には、義盛が舘の鬼門守護に建てたと伝える安楽寺の本尊とある。安楽寺が廃寺になって天養院に移された。」
この薬師三尊は神奈川県指定重要文化財になっている。


4-16 新井城址から望む油壺の入り江 (三浦市三崎町小網代)
新井城があった地は、江戸時代の地名を荒井といい、相模湾に突き出た小さな半島である。北は網代湾、南は油壺の入り江で、三方を海で囲まれており、城を築くには最適の地だったといわれている。
この半島の中の、南寄りの所に新井城はあった。今はやぶの中である。城跡の近くから見下ろすとすぐ下に油壺の入り江が見える。たくさんのボートなどが係留してあった。この地に建ててある説明板には次のように書かれていた。
「新井城を最後の居城として立てこもった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦したがついに永正13年(1516)に破れた。一族の将三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、将兵も討ち死にまたは油壺湾に投身した。そのために湾内が血汐で染まり、油を流したようになったことから油壺の名が付けられた。」

4-17 三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の供養塔へ (同所)
三浦義同は出家して道寸と名のった戦国時代の武将である。茅ヶ崎郷土会の平成28年度史跡めぐりは鎌倉時代のもののふをテーマにしたから、義同(よしあつ)は時代が違うが、三浦半島を根城にした鎌倉時代の名族、三浦一族の最後の当主ゆかりの地を訪ねることにした。
宝治合戦(1247年)に敗れた三浦氏のあとは同族の佐原氏が継ぐ。それから250年ほどたって世は戦国時代の初期。義同は扇谷上杉氏から新井城主の三浦時高の養子に入るが、養父たちとの間に問題を生み、結局三浦氏を乗っ取り、自らは岡崎城(平塚市)に拠り、新井城には子の義意(よしおき)を置いて小田原の北条早雲と敵対した。1512(永正9)年、早雲に追われ岡崎城を捨てて新井城に入る。籠城の末、1516(永正13)年に滅亡した。
写真の細道の突き当たりの石塔が道寸義同の墓といわれ、
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ
は辞世の句とされている。

photo & report 平野会員


今までおこなった史跡・文化財調査一覧
フロントページへ〉