8 霊山信仰の石造物

古い時代から、日本人は山岳を神聖視して生活してきた。
形の美しい山を、カミが宿る、あるいは先祖の霊が宿るとしてあがめてきた。
いくつかの自然環境の厳しい山岳は、俗界から離れているが故に修行の場とされた。
このようなヤマの中に霊場が出来て、仏教や神道、両者が習合した修験道が歴史を重ねた。
先に見てきたように、日本各地には多くの修験道霊場がある。その中で茅ヶ崎辺りにまで及んでいるのは、
山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)
静岡県の富士(浅間)
長野県の御嶽(おんたけ)
そして地元大山の信仰であり、いずれも修験が関与している。その信仰の跡は石造物として残されていて、今も身近に見ることができる。

8-1
出羽三山信仰の石造物
羽黒修験は蜂子皇子が開いたといわれる。王子は推古元年(593) 由良(山形県鶴岡市)の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。羽黒修験の元になり、月山も開山した。推古13年(605) 湯殿山に湯殿山神社を建てる。(ウィキペディア引用)
出羽三山は山形県にある。長く羽黒修験として栄え関東にもその石造物が多い。神仏分離後、月山山頂に月読尊、湯殿山に大山祇命・大国主命・少彦名尊、羽黒山頂に稲倉魂命を祭神とする神社となった。三山の中心は羽黒山で、文政3年(1818)三山合祭殿が出来ている。

8-1-01
藤沢市葛原 王子神社の供養塔
碑の上部に彫ってある像は大日如来である。中程に「月山/湯殿山大権現/羽黒山」、下部に「西國 秩父 板東」とある。出羽三山登拝と観音霊場巡拝を兼ねた供養塔である。
右側面に「導師 大先達 宮原邑壽原寺觀明法印」とある。宮原村の寿原寺は、当山派の総本山醍醐三宝院の末寺の修験寺院だった。この碑を建てるに修験寺院が関係していることを示す貴重な例である。
左側面に「高座郡葛原邑 導師 長盛寺正山阿闍梨」とある。長盛寺は地元葛原にあったが今は廃寺である。『新編相模国風土記稿』葛原村(第日本地誌大系本3巻293頁)には村鎮守の王子権現社の真言宗の別当寺とある。この寺は修験ではないが、正山阿闍梨が宮原村の修験寿原寺の觀明法印を先達として出羽三山と観音霊場を回る講中を組んでいたのに関与していたことが分かる。
年銘は安永三年(1774)、凝灰岩七沢石を使ってあるので傷んでいるのが残念。

8-1-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の供養塔
元は大山道沿いにあった。多くの人の目に触れて供養を受けるよう、出羽三山に限らず、供養塔は道ばたに立てられていることが多い。
角柱の上に乗る摩滅した像は大日如来坐像。
正面に、月山・湯殿山・羽黒山、その下に秩父三拾四所・西國三拾三所・四国八拾[ ]・坂東三拾三所供養[ ]とある。
出羽三山、四国八十八ヶ所、百観音霊場供養が合体している。
寛政十二年(1800) 庚申天 三月十三日の年銘がある。

8-1-03
相模原市上溝路傍にある供養塔
向かって右側面に、享和三年(1803)癸七月吉祥日と、正面にアーンク(胎蔵界大日如来種子)、キリク(阿弥陀如来種子)、サ(観音菩薩種子)と「月山 湯殿山 羽黒山」の文字がある。この三つの種子は、三山の本地仏に対応しているようだ。
凝灰岩製で傷んでおり、角柱の上には剥落した大日如来坐像がわずかに形を保っている。

8-1-04
茅ヶ崎市松尾 善性寺の供養塔
角柱正面上部にアーンク、向かって右側面に「文化十有四丁丑年(1817)三月日建之」 左側面に「行者 青木幸八」と刻む。
「青木幸八」は、同じ松尾の共同墓地にある文化十四年(1817)銘の無縁法界供養塔にも名を残している。
青木姓は地元にある姓だから、行者と呼ばれる地元の民間宗教者だったと思われる。療法や祈祷、各地の霊場とこの地の橋渡しなどに携わったと思われる。修験者の一人だったのかもしれない。
基礎石は別の石仏の混入である。

8-1-05
横浜市保土ケ谷区仏向町路傍の供養塔
横浜市保土ケ谷区仏向町にある文化九年(1812)銘神礼寺型地神塔(5-1-07参照)と同じ石質の石を使っている。この塔の特徴は上部に彫ってある種子の見事さである。上はアーンク、向かって右はキリク、同左はサであることは出羽三山供養塔に共通する。
左側面に「東叡山御持羽黒山大先達 御本坊□前院/山先達源正坊/安政二卯年(1855)八月吉日 導師 圓福寺」とある。東叡山寛永寺が羽黒修験に関係していることは知られているが、そのことを表す例である。先に述べた仏向町の文化九年銘地神塔と同じ石工になるものと思う。

8-2
富士信仰の石造物
富士山を神聖視し、講中を組織して富士山登拝を行う冨士講が主に関東地方で江戸時代中期から盛んになった。冨士講の教義は神道・仏教・修験の思想に独特の思想を織り込んでいる(『日本石仏事典』)。
冨士講の指導者を先達とか講元といい、講中を率いたり、自らも33、50、66度などの登拝回数を誇った。富士講碑にはこの願が満了した折に立てられたものが多い。碑の文字は独特の書体をなし、「浅間」を「仙元」と書いたものがある。
神仏分離後は一時衰退したが、やがて丸山教、扶桑教、實行教として教派神道の活動が続き、石碑も建立された。

8-2-01
藤沢市片瀬 泉蔵寺前の富士講碑
日輪と月輪、富士山の絵に「庚申」の文字、三宝の上に枡、下方に三猿とたくさんの文字が彫ってあるが、彫りが浅い上に苔(コケ)がのっていて見えにくい。枡の中がどうなっているのかも分からない。
冨士講では「庚申縁年」を重視する。富士山は庚申(かのえさる)の年に出現したので、庚申の年に登ると大きな御利益があるとする。また猿はお山のお使いともいうそうである。冨士信仰に庚申の習俗が取り込まれたのだろう。
この塔は寛政十二年(1800)の銘を持つ。同年は庚申の年である。庚申縁年には造塔も行われたことが分かる。しかし枡の図柄は何を表しているのだろうか。

8-2-02
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の富士講碑
「不動大明王 富士浅間大神 石尊大権現」とあるので大山信仰と冨士信仰が一緒になっている。
大山に参ったら富士山にも登るといわれているから、大山講が冨士講でもあったのかも知れない。年銘は萬延元歳庚申年(1860)とあり、庚申縁年に作られたもの。
なお「柳庵欽書(花押)」とあり、茅ヶ崎柳島の、幕末・明治の文化人といわれている藤間柳庵の筆である。

8-2-03
小田原市柏山 柏山神社境内の富士講碑
頂部に冨士山が描かれその中に「浅間大神 木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)」とある。
万延元年(1860)庚申歳の年銘があるので庚申縁年の建碑。講紋は◯の中に「花」。「丸花講」と読むのだろうか。
浅間神社と名乗る神社の中で、延喜式内社は山梨県笛吹市一宮町の浅間神社(神社では「甲斐国一宮 浅間神社」としている)と静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社(神社では「浅間大社」)の二社とされているが、他にも浅間神社はあるので、この富士講碑がどこの神社と結びつくものかはわからない。なお二社の縁起式内社の内、前者は祭神を「木花開耶姫命」と、後者は「木花之佐久夜毘売命」と表記を異にする。

8-2-04
秦野市今泉 今泉神社境内の富士講碑
正面上部に富士山の絵と○の中に「岩」の講紋、その下に「中道十四/三十三度/八湖成就」の銘。◯に「岩」は、冨士講の中に「丸岩講」というものがあるのでそれに当たるのであろう。
富士山の5~6合目に、お山をぐるりと回る「お中道(ちゅうどう)」という道があって、3回以上登拝したものだけが通れるという。それを14度めぐり、登拝を33度、忍野八海めぐりをして登拝が成就したことで立てた碑である。
背面に「明治十九年(1886)十一月 小社長 小泉治平」とあるが、この年の干支(えと)は丙戌(ひのえいぬ)で庚申縁年ではない。

8-2-05
藤沢市高倉 七ツ木神社境内の富士講碑
表に「仙元大菩薩」とある。浅間を「仙元」と書く例の一つである。
基礎の正面は富士山の絵に「真」、背面に「庚申 万延元年(1860)四月吉日」の年銘がある。
この碑も庚申縁年の建碑。

8-2-06
鎌倉市上町屋 天神社境内の富士講碑
正面に「南無仙元大菩薩」
右側面に「大天狗/小御嶽石尊大権現/小天狗」
左側面に「元祖 食行身禄□」
背面に「元治初甲年(1864) 登山十三度 泉光院覺□」
基礎には富士山の絵の中に「真」の一文字と「當所先達 内海六郎右ヱ門」とある。
食行身禄(じきぎょう みろく)については、ネット情報に「寛文11年1月17日(1671年2月26日) – 享保18年7月13日(1733年8月22日)。日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤伊兵衛(いとう いへい)。伊勢国一志郡(現三重県津市)出身。伊藤食行とも。」とある。【ウィキペディア】
この碑も構成員を同じくする冨士講と大山講の建碑と思われる。泉光院は『新編相模国風土記稿』(日本地大誌大系本風土記稿第5巻167頁)の上町谷村に、古義真言宗、鎮守天神社の別当と記載されており、上町屋に今もある。その泉光院が主催する講中が、当地の内海六右ヱ門を先達として13回の富士山・大山の登拝を行った記念として建てたと解するが、どうであろうか。ただ、泉光院は修験寺院ではない。

8-3
大山信仰の石造物
相模大山の美しい山容は遠くからも目につき、神奈備山(かんなびやま)として古来、信仰の対象となっていた。この相模大山のお膝元の神奈川県には、多くの大山道が通っているので、大山灯籠、鳥居、道標、不動石像などを各地に見ることができる。
大山も江戸時代以前には修験者の活動が盛んで、戦国時代には武力をもって戦いに参加した形跡がある。徳川期には御師となって関東各地に大山講(石尊講)を組織し、関東各地から多くの人々を大山に誘った。
講中のお導者は、大山道沿いのこれらの石造物をたどって大山に到着した。

8-3-01
伊勢原市桜台 路傍の大山道道標
角柱の上に乗っている像は、被せてある頭巾などのために何だか分からないが不動明王だろう。大山導者のために、道沿いにこのような道標が立てられた。
角柱の上部の種子は、いささか変わった書き方の不動明王種子のカーンマーンである。その下に「右 日向道/左 大山道」とある。これがある桜台は小田急線伊勢原駅南側一帯だから、北西を向いて、右手に進めば日向薬師、左手なら大山となる。現地を見ていないが、道標は南東を向いて立っているのだろう。道標の向かって左側面に元文四年(1739)己未(つちのとひつじ)の年銘がある。

8-3-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の大山灯籠
竿石表面にカーンマーン(不動明王)・タラ(矜羯羅童子)・タ(制吨迦童子)の種子と
「大天狗/石尊大権現/小天狗」、右側面に寛政十年(1798)の年銘がある。石尊大権現と大小の天狗は大山の頂上に祭られていた。
県内では、夏山が開かれている間、村の村組ごとに大山灯籠を立てる習俗があった。取り外しのできる木製のものが多いが、石製もあり、石製はそれを常設にしたものと思われる。
この灯籠のある西光寺は市内を通る田村通り大山道の少し北にある。大山道沿いにあったものを移したと伝えられている。

8-3-03
伊勢原市下谷 八幡神社境内の大山道道標
角柱の竿石の上に剣を持つ不動明王坐像が乗る。その右側面は荒れているが、天保三年(1832)の銘と「田村ふなわたし」、左側面「あつぎみち」とある。南を向いて立てられているのだろう。

8-3-04
茅ヶ崎市高田 本在寺の大山灯籠
本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。
竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居(6-10参照)にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。

8-3-05
藤沢市獺郷(おそごう) 路傍の不動明王三尊
きちっとした覆い屋の中にある。基礎石の正面に「獺郷村/東/講中/嘉永二[ ]/酉(1849)四月/立之」とある。
像は不動三像で、火炎光背の中で右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像と、その下に、滝の流れの両脇に立つ矜羯羅童子(こんがらどうじ 向かって右)、制吨迦童子(せいたかどうじ 左)。三像の顔面は摩滅しているが、削られたようにも見える。廃仏毀釈の被害だろうか。
二童子の間に滝があるのは、大山の禊ぎ場の滝を現すか、『平家物語』巻第五中「文学(文覚)荒行」の一場面、滝でおぼれる文覚を助ける二童子に由来するものか、どちらだろうか。

8-3-06
茅ヶ崎市西久保 日吉神社境内の道標
茅ヶ崎市はその中央部を大山道が東西に突っ切っているので、もっと大山道標があってもいいように思われるが、この一基しか見つかっていない。
この道標がある日吉神社はその大山道から少し離れた南側に位置している。
傷みがひどく、一面に「右大…」の二文字しか残っていない。おそらく「…山道」と続いていたのだろう。昔は大山道沿いにあったといわれている。

8-4
御嶽山信仰の石造物
長野県と岐阜県にまたがってそびえる木曽御嶽山は古くから修験の山だった。御嶽の修験者も江戸時代半ばからは各地に出向いて御嶽講社を組織していった。旧暦6月1日に山開き、7月18日が山じまいで(『日本石仏事典』)、白衣に脚絆、鉢巻き、金剛杖、鈴を下げた導者が先達に導かれて山に登った。
各地に残る石碑には神号が刻まれている。それが江戸時代と明治とで違うのは、神仏分離の影響である。

8-4-01
茅ヶ崎市菱沼 茶屋町稲荷境内の御嶽講碑

茅ヶ崎市菱沼の茶屋町稲荷

江戸時代の菱沼村は南北に長い村で、この碑は村の南、東海道(現国道一号)に近い茶屋町稲荷の境内にある。
菱沼には、ここと鎮守八王子神社境内とこの茶屋町稲荷に御嶽講碑がある。その二つの碑は形、石質、大きさ、彫ってある文字がほとんど同じである。三角形の形は富士山を模している。
正面に「當所中/御嶽山大權現」とあるが年銘はない。「御嶽大権現」という表記から神仏分離以前、江戸時代末期に作られたことが分かる。

8-4-02
茅ヶ崎市菱沼 八王子神社境内の御嶽講碑

八王子神社は村の北側にある。
当時の御嶽講は村の北方と南とに分かれて二つあったのだろう。

 

 

8-4-03
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その1)
菱沼と小和田は隣り合っている。小和田の鎮守、熊野神社には3基の御嶽講碑がある。最も古い年銘をもつこの碑は根府川石製。
銘は正面に「當村中/御嶽山大権現/柳庵謹書(花押)」、
裏面に「萬延元歳在庚申(かのえさる)秋(1860)/八月吉立之」。
「御嶽大権現」は神仏分離以前のいい方で、山岳信仰の蔵王権現に由来し、修験道が関係している。
熊野神社には別に柳庵筆の冨士講・大山講合同碑があり先に紹介した(8-2-02)。石材は同じく根府川石。柳庵はこの二つの碑の文字を同時に頼まれて書いたもののようだ。

8-4-04
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その2)
表に「国狭槌尊(くにさつちのみこと)/国常立尊(くにのとこたちのみこと)/豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)」、裏面に「明治十二年(1879)建設」とある。
木曽の御嶽山のふもと長野県木曽郡王滝村にある御嶽神社は、
里宮と山頂の奥社に国常立尊・大己貴命・少彦名命
五合目の八海山神社に国狭槌尊
七合目の三笠山神社に豊斟渟尊
を祭る(神社のホームページより)。
この御嶽講碑は、木曽御嶽神社の里宮・奥社の主祭神と八海山神社、三笠山神社の祭神を彫りつけたことになる。
国常立・国狭槌・豊斟渟は日本書紀にある神世七代の中の三神である。神仏分離以前の御嶽山信仰では「御嶽山大権現」を祭っていたものが、分離以後は後、神世七代中の三神に変わったことを、この碑は現している。

8-4-05
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その3)
熊野神社境内の三基のうち、一番新しい年銘を持つ。板状の石3基で構成されており、向かって右の碑に「八海山提頭羅神王」、中央の碑に「御嶽大神」、左の碑に「三笠山刀利天」、中央碑の裏面に「本山信州木曽谷鎮座/神道御嶽教会起立講(以下略)」、大正十四年(1925)の年銘がある。
中央碑にある御嶽大神は、江戸時代のいいかたの御嶽大権現を明治時代になってから神道流で表したものである。
八海山は新潟県にある霊山で、その近くにはこの霊山を信仰する八海山神社がある。提頭羅神王(だいずらしんのう)は八海山信仰で祭られる神なのだろう。この神は神世七代の国狭槌(くにさづち)とされている。
御嶽講碑では、御嶽大神(国常立尊)、八海山(国狭土尊)、八海山刀利天(豊斟渟尊)の三神を大書したものが多い。

photo 坂井会員 平野会員
report 平野会員

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7 箱根神社(箱根町)と松原神社(小田原市)

箱根 芦ノ湖 冬の景

箱根神社の歴史は天平宝字元年(757)箱根に入った万巻上人(まんがんしょうにん)が寺院と霊廟を建立し、箱根三所権現として祭った事から始まった。
鎌倉時代になると源頼朝を中心とする鎌倉政権の援助により関東武士の鎮護神となった。この傾向は小田原北条氏にも引き継がれ、僧兵を擁して豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した。廃仏毀釈運動で打撃をうけ、その際多くの宝物類を失った。
小田原市内にある松原神社は現在は修験を表すものは全くないが、神仏習合時代には、本山派修験の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が別当として神社を管理、運営していた。玉瀧坊は大住郡や高座郡を中心に、相模国43カ寺の末寺を抱える地方本山で、相模国本山派の中心的存在だった。

7-1-01
箱根を開いた万巻上人

箱根神社蔵

箱根を開いたのは万巻上人といわれている。
彼は山岳修行僧で、天平勝宝元年(749)に鹿島神宮寺を建立したあと、箱根に来たと伝えられている。
箱根に本格的な堂宇が建立されたのは上人が来山してからで、天平宝字元年(757)、霊夢の告げによって三所権現を勧請した。上人は養老年中(717-724)、洛邑(平城京)に生まれ、成長して修行僧となった。
『方広経』1万巻を看閲することを日課とするという願を立てたので、万巻上人と称されたという。(KL-NETの『箱根神社大系』の説明から)。
箱根神社には万巻上人の坐像が伝えられていて、国指定の重要文化財になっている

7-1-02
箱根神社
『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系本 風土記稿第2巻 79頁)に、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)とあり、「各坐像にて萬巻上人の作という、秘して別当といえども拝することなし」とある。また、別当は古義真言宗の東福寺とある。
神仏分離以前は箱根三所権現(はこねさんしょごんげん)と呼ばれて女体、俗体、法体を祭るものであった(五来重著『山の宗教―修験道案内」(角川ソフィア文庫 122頁)。この三体がニニギノミコトなどになぞらえられていたのだろう。今も三柱のミコトを祭神とする。
かつての修験道の痕跡を見ることは出来ないが、『新編相模国風土記稿』87頁の箱根神社の項に、6月の例祭時、「先達・山伏、神木登(志伎濃保利=しきのぼり)ということをつとむ」とある記述が、そのありさまの一端を示している。

7-1-03
九頭龍神社
箱根神社の境内にも九頭龍神社があるが、本来のものは箱根園の中にある。境内の神社はこの箱根園中の神社を勧請したものである。
『新編相模国風土記稿』箱根三所権現社の項(87頁)に「六月十二日の夜、湖水にて龍神の祭禮あり」とある。また、五来重『山の宗教』に、九頭龍神社は箱根の水の神様で、金剛院という山伏が支配していたとある。
『筥根山縁起并序』に、人々を苦しめる芦ノ湖の龍が万巻上人によって調伏され、後に神として祭られたとある。写真は神社境内にある九頭龍神社。

7-2-01
松原神社
小田原市本町にある。
『新編相模国風土記稿』第2巻8頁の小田原宿宮前町の項には松原明神社として載っている。祭神は日本武尊とある。古くは鶴森明神といったが、海中から金の十一面観音が松原に出現し、その託宣によって、この社に移し本地仏としたことから社号を改めたとある。
小田原北条氏や大久保氏の庇護をうけた。

7-2-02
神社の社額
江戸時代に松原明神社の別当は本山派修験の玉瀧坊だった。
『新編相模国風土記稿』(第2巻11頁)に、山城国(現京都)聖護院宮末で「先達奉行職なり。豆相二州及武州都筑(つづき)、久良岐(くらき)、多摩三郡を支配す、鶴松山玉流寺成就院と号す、当城主の祈祷所なり」とある。


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6 大山阿夫利神社と修験道 (伊勢原市)

大山の僧兵は後北条氏に味方したため、後北条氏滅亡後、家康の粛清を受けた。慶長14年(1609)、徳川幕府は寺院法度を発布。不動堂より上は清僧だけとし、修験者などは移されて、今の坂本の門前町辺りで御師となった。
江戸時代を通じ、御師は積極的な布教活動を行い、各地に大山講を作っていった。年に数回講中を訪ね、御札を配り、初穂料を集めた。また、お盆の季節に山頂までの登拝ができたので、その間、講中の大山参詣を促し、宿泊の業をした。明治初期には1万5千の講社、70万の檀家を数えたという。
江戸中期から国学が広まるにつれ、大山にも神道思想の宗教者が現れてきた。明治元年(1868)の神仏分離令、同5年(1872)の修験道廃止によって阿夫利神社が出来、御師も先導師と名を変えた。
[画像をクリックすると大きな画像で見ることができます]

6-01
大山歴史地図(作成中)
長い歴史をもつ大山には数多くの史跡がある。それらを地図に落として「大山歴史地図」を作ろうとしているが、なかなか作業が進みません。
まだ作成途中のものですが、大山の修験道を紹介するに当たって公開してみます。間違いやさらに含める事項などをお気づきの方は、お知らせ頂ければ幸いです。

6-02
開山堂

『大山寺縁起』に大山を開いたのは良弁僧正(ろうべんそうじょう)と書かれている。
大山の開山町に開山堂とか良弁堂と言われる建物があり、良弁僧正の坐像などが祭ってある。この開山堂の脇に良弁の滝がある。北斎の浮世絵に、納め太刀を担いでこの滝でみそぎをする導者たちが描かれている。


6-03
良弁僧正の坐像

良弁僧正は東大寺初代別当として有名である。宝亀4年(773)閏11月16日に遷化された。(東大寺のホームページから)
この像について『新編相模国風土記稿』坂本村の項には「四十二歳の像(自作、長二尺五寸)、藤之坊持」とある。さらに、藤之坊は「本山修験(京師六角、住心院觸下)本尊不動」ともある。なお、この坐像は江戸時代の作と思われる。
東大寺にも開山堂があり、国宝の良弁僧正の坐像が祭られている。

6-04
金鷲童子(こんじゅどうじ)

開山堂の猿と金鷲童子の像
風土記稿掲載の金鷲童子の絵

良弁僧正は相模国に生まれたことになっている。赤子のときに鷲がさらって東大寺まで運び、境内の大木の梢の先に置いた。それを一匹の猿が地上に降ろしてくれたという話がある。開山町の開山堂には、僧正の坐像の向かって右側に乳児を抱いた猿の像が祭ってある。乳児は鷲にさらわれたことから金鷲童子といわれている。
『新編相模国風土記稿』に、「良辨小児の時の像にて自作という」とありこの像の図が載せてある。


6-05
阿夫利神社社殿

阿夫利神社の社殿は、江戸時代には不動堂があったところに建てられている。これを今は下社といい、山頂の建物を上社という。
急坂の男坂か、ややゆるい坂道の女坂を登ると、江戸時代には山門があった。山門を経た境内には不動堂があり、また多くの神霊が祭られていた。大山にお参りすると言えばこの不動明王にお参りすることであった。
不動堂から山頂までは禁足で、夏山期間中だけ開かれたが、それでも女性は登ることが出来なかった。夏山以外のときは、女性は前不動から先は禁則となっていた。

6-06
阿夫利神社の御朱印写し
会員が受けてきた御朱印

6-07
大山寺の不動明王

大山寺のご本尊で、鉄で出来ていて「鉄不動」といわれている。
鎌倉時代に大山を再興した願行上人(がんぎょうしょうにん)によって作られたと伝える。上人は江の島の龍穴にこもって再興を祈り、浜の砂鉄を集めてまず試みの不動を作った。今、鎌倉覚園寺に残る不動像がそれといわれる。その後、本作したものがこの制吨迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の2童子を脇侍とするこの不動明王である。国の重要文化財に指定されている。
江戸時代には、不動堂で祭られていたが、神仏分離によって現在地に移された。

6-08
大山寺の護摩供養

真言宗、雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)は、江戸時代にあった来迎院の跡地にある。ご本尊の不動三像は、本堂裏手の文化財収蔵庫に収められて祭られているので、本堂に祭られているのは代わりのご本尊である。護摩供養が盛大に行われる。

6-09
先導師の宿

後北条の時代に大山の修験者は、秀吉軍に抵抗するだけの武力を持っていた。この事が災いして、家康の時代になると槍・刀を取り上げられ、山を追われて、御師と呼ばれて主に関東各地を霞場(かすみば)とする民間宗教家に変身した。
御師たちは各地に大山講を組織して檀家を囲い、御札などを届けてお初穂を集め、夏山の期間中は講中を大山に招いて宿を提供した。修験道が廃止された明治時代には先導師と名を変えざるを得なくなったが、各地の大山講との繋がりは絶えることなく、今も旅館業務に携わっている。大山にはこのような先導師の宿をいくつも見ることができる。

6-10
田村通り大山道入り口に立つ大山一の鳥居

田村通り大山道は藤沢の四谷で東海道(現国道一号)から分かれて西に進む。
この分かれ道に大山を指す道しるべと一の鳥居がある。歩いて大山に登っていたころ、東の方から来た大山導者(参詣者はお導者と呼ばれた)は、この下をくぐって大山を目指した。
鳥居は、万治4年(1661)年に木製のものが立てられ、それが延宝4年(1676)に地震で倒れ、長年再建を目指し、天保11年(1840)に願いがかなったがこれも関東大震災で倒れ、昭和34年に今の姿に完成したという。

6-11
鼻の欠けた天狗面

山伏は天狗のイメージで記憶されている。大山―御師―山伏(修験者)―天狗という連想だろう。一の鳥居には天狗の顔を表した額が掛かっている。残念ながら、天狗自慢の高い鼻が折れているが。昭和34年の鳥居再建時に掛けられたといわれている。

6-12
山開きの護摩供養

大山道の入り口である四谷の大山道標の前で、7月1日に大山開きとして、四谷町内主催の護摩供養が行われる。導師をつとめるのは辻堂元町の宝珠寺の住職である。

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285回 (小田原市)曽我の村めぐりと流鏑馬  18/2/11 晴

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01 下曽我駅前出発
今年の冬は寒い日が続くが、この日は暖かかったです。
茅ヶ崎郷土会の285回史跡めぐりは、小田原梅まつりに合わせ、午前中に曽我の史跡をめぐり、昼から流鏑馬を見ることにしました。
急きょ、NPO法人 小田原ガイド協会にめぐりの案内と解説をお願いすることにして、駆けつけてくださったのは協会々長の堀池衡太郎さんでした。駅前は観梅の人で混雑していました。
地図に掲げた番号の順に回りましたが、飛ばしたところもあります。取捨は堀池さんにお任せしました。

02 宗我神社(そがじんじゃ)
江戸時代までは小沢明神と名乗り、明治になって宗我神社と名を変えました。社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したと説明版にありました。境内の大木の梢にたくさんのヤドリギが付いていたのが印象的でした。

 

03 法輪寺 小田原市曽我谷津400
臨済宗建長寺派。天保2年(1831)の火災で、本尊の運慶作と伝える地蔵菩薩坐像が焼失したと説明版にありました。もしも残っていたら、大変なことになっていることでしょう。昨今の運慶ブームはすごいですから。
元禄のころこの地で修行した木食僧の澄禅上人が遺した、一針ごとに念仏を唱えて縫い上げた「一針一拝の二十五条袈裟」と、夢の中で感得したとされる「狗留孫仏の舎利」が安置されており、薬師堂前には上人ゆかりの宝篋印塔があるそうですが、残念ながらこれらは拝みませんでした。

04 大光院 小田原市曽我谷津487
小田原市教育委員会が建てた説明版に次のように書いてありました。
「文明18年(1486)の起立と伝え、はじめ本山修験で小田原の玉瀧坊に属したが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち、明治32年の記録がある。これは役行者のこと。久しく里修験として続き、地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。」
茅ヶ崎郷土会では平成27年度に県内の修験道の聖地を回っています。

05 城前寺 小田原市曽我谷津592
「曽我の傘焼きまつり」が行われることで有名でした。それが2011年から中止になっているという新聞記事を見ました。しかし小田原市役所「小田原の観光」HPには今も行われているように書いてあります。復活したのでしょうか?。
曽我の地では、曾我兄弟との関係をウリにしています。城前寺では、本堂の裏手にある曽我十郎・五郎兄弟、養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓と伝える4基の五輪塔をPRしています。私はチョット抜けて撮影だけしてきましたが、時間の関係でしょうか、一行は寄りませんでした。

06 雄山荘跡
太宰治が小説『斜陽』を書いたとき、登場人物たちが暮らしている住まいは、ここに建っていた建物、「雄山荘」からイメージしたのだそうです。パソコン情報にいろいろとヒットします。焼失したそうで、更地が残っていました。それでも人気スポットであるらしく、大勢の人が訪れていました。西を向いた斜面で、小田原市とその向こうに箱根の山々、さらに冨士山が一望できます。

07 しだれ梅
個人宅の中にあります。かなり大きな木ですが、説明者堀池さんの話では半世紀もたっていないとのこと。まだ一つも咲いていませんでした。

 

 

08 大運寺跡
大運寺は『新編相模風土記稿』の曽我原村に書かれていますから天保の頃まではあったことになります。その後廃寺となったらしく、今は城前寺管理の墓地になっています。墓地の入り口に、石仏愛好者には有名な、「庚申供養」の銘がある丸彫りの石の閻魔坐像があります。『風土記稿』に「閻魔石像 もと村内別堂に安置すと」とあるのが、この閻魔様のようです。説明が略されましたのでやっとピンぼけ写真を一枚撮っただけでした。

09 別所の辻の唯念の名号塔
これも有名な名号塔です。サイトにもたくさん取り上げられています。ピンぼけ写真を一枚撮っただけで先を急ぎました。向かって左側面に「元治元甲子歳(1864)/初冬 佛歓喜[ ]」という文字がありました。
この地は、興味深い石仏がたくさんある土地です。混雑を避けて再度回ってみたいと思いました。
この辺り特有の形のサイノカミが方々で私たちを迎えてくれていましたが、挨拶をしているいとまはありませんでした。
ここでガイド協会の堀池さんと別れ、私たちは流鏑馬会場を目指しました。堀池さん、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。

10 梅祭りの流鏑馬
梅祭りのイベントして行われています。流鏑馬は武田流だそうです。公益社団法人 大日本弓馬会の実演です。
県内の流鏑馬は、土地柄、頼朝と結びつけて説明されることが多いようですが、年占(としうら)の神事としてその始まりはもっと古い時代にさかのぼると、私などは考えています。神様の意向を伺うという趣旨は、山北町の室生神社の流鏑馬がよく伝えています。
各地で行われる流鏑馬は観光イベントの一環となっていますが、開始に当たって神事が執り行われることが元々の姿を留めているようです。
伝統文化を保存するためには、観光イベントの中で生き延びることが、一つの手立てなのでしょう。それにしても大勢の人たちが見に来ていました。私たちもその一人だったのですが。
<茅ヶ崎郷土会では、平成28年に県内の流鏑馬を見学しています。>

01ー神事

 

02- お馬たち今日もガンバレよ!

 

03- 馬場を清める

 

04- 射手のお披露目

 

05- 青黄赤白紫の輪のまとを射る。「奉射」というそうだ。

 

06- 一組の奉射が済むとスタート地点にもどる

 

07- まとを板に変える。見事に的中してまとは真っ二つ。

 

08- かわらけのまとに変える。中に五色の切り紙を入れてある。

 

09- 矢が飛ぶ。これは「競射」というそうである。

 

10- かわらけのまとに的中!

 

10- 戦いすんで皆帰る

 

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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4 八菅神社(はすげじんじゃ) ―愛川町 

八菅神社は愛川町八菅に鎮座する。八菅山一帯は修験道の聖地だった。江戸時代までは七社権現とその別当光勝寺を、本山派修験の本坊二十四坊と脇坊とで運営した。日本武尊・役小角・行基などの来山を伝える。
相模国の本山派修験は小田原の玉瀧坊の下寺が多いが、八菅修験はそれをきらい、貞享4年(1687)京都にある本山派の総本山聖護院の直末寺となった。
回峰修業は春と秋に、八菅山と大山などの峰々で行った。
明治の神仏分離時に光勝寺は廃され、七社権現は八菅神社と改称した。
神社の裏手に平安末期から鎌倉初期の経塚(きょうづか)の跡があり、発掘調査が行われ、神社は多くの出土品を蔵している。経塚は修験霊地に多いといわれる。
火祭りは毎年3月28日に行われている。私たちは平成28年の火祭りの様子を記録した。
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4-01
八菅神社 祭礼遠景
八菅神社は愛川町八菅にある。毎年3月28日に修験道様式の祭礼がある。平成28年のその日(月曜日)は、いささか肌寒い日だったが神社の桜が咲き始めていた。茅ヶ崎郷土会の一行は、この火祭りを見学するために意気揚々と茅ヶ崎を出発した。
八菅神社は茅ヶ崎から遠い。厚木からバスに乗って一時間足らずかかる。長い坂道を下って中津川を渡り、また坂道を登って修験集落だった八菅に着く。神社入り口に大幟が立っていた。しかし正面の幟の文字が読めなかった。
もう祭りは始まっていた。

4-02
屋台のお面
キティーちゃん、ミニーマウス、ドラえもん、ウルトラセブン、アンパンマン、ドキンちゃん、ばいきんまん、メロンパンナちゃん、きかんしゃトーマス、ひょっとこ、おかめ名前が分かるのはそのようなお面。年が知れるというもの。

4-03
八菅神社の社殿
普段は境内に人影は少ないがこの日は参詣者が引きも切らず。覆殿(屋内に七社の社殿があるので覆殿といわれる)は扉を大きく開いてあった。神仏分離前は八菅山七社権現といい、蔵王、箱根、八幡大菩薩、熊野、山王、白山、伊豆の各権現を祭り熊野を本殿としていた。
この七社を納める覆殿は慶応2年(1866)に建てられたもの。神社の「略縁起」や「勧進帳」によると、八菅山も役小角が開いたと伝え、県神社庁のホームページで八菅神社を見ると「山の丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者たちの修業道場として盛んであった」とある。このサイトによると、現在の祭神は次の7柱になっている。国常立命(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・金山毘古命(かなやまびこのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・天忍穂耳命(おめのおしほみみのみこと)

4-04
神社裏手に経塚がある
修験の聖地には多く経塚を伴うといわれる。経塚とはお経を埋めた所をいう。平安時代に末法思想が広まり、仏の教えが消えると考えられ、この無仏の間、お経を伝えるために金属や焼き物の容器に入れて埋納した。
八菅山の経塚は昭和47年の発掘調査で17基が確認され、お経を納めた常滑製の壺などが見つかり、それらは神社境内の宝物館に収納されている。祭の日、この宝物館が開館される。

4-05
火祭りの準備整う
火祭りは、七社権現を納める覆殿の正面の階段下の広場で行われる。この祭場をしめ縄で囲い結界することは、小田原市板橋の量覚院の火祭りと同じである。
祭場の中央に採燈護摩のために杉の葉などを山積みしてある。
階段側に供物檀が設けてあって、御神酒、餅、果物、野菜などが供えてある。その向こう側に碑伝(ひで)と思われる板状のものが立ててあるが、文字を読んでこなかったので、これがなんであるかは分からない。この供え物は、階段を上ったところに祭る七柱の神々に供えられたものだろうか。

4-06
山伏登場
八菅神社は八菅山の中腹にある。社務所は、境内の一番下にあり、長い急な階段を上って火祭りの祭場となり、さらに階段を上って社殿に至る。
山伏の一行は、ホラ貝、鉞(まさかり)と続き、写真では分からないが横笛を吹く人もいたようだ。
量覚院では房の付いた袈裟だったが、八菅山伏の結袈裟(ゆいげさ)は房がなく、結び目になっている。ネット情報では、前者を梵天袈裟(ぼんてんげさ)、後者を輪宝袈裟(りんぽうげさ)と呼び、天台宗系本山派は梵天袈裟を、真言宗系当山派は輪宝袈裟を使うとあった。とすると、八菅修験も量覚院も本山派だから梵天袈裟になるなずなのだが。

4-07
山伏問答
山伏問答と言えば歌舞伎「勧進帳」で、富樫左衛門と弁慶のやり取りが有名だ。
ずっと昔、山伏が諸国山野を経めぐっていたころ、別の一派が支配する土地を通過するとき、自らを明らかにするために土地の山伏との間で交わした問答に由来するものではなかろうか。これは素人考え、全くの思いつきだが。
今は祭礼の中の一コマとして演じられている。この問答を済ませてから、山伏は祭場に入ってくる。

4-08
宝斧作法
模型の大きな鉞(まさかり)を持って護摩壇の回りを回る。鉞を持つのは、かつて山中で修行した修験者たちの日常生活に基づくものと思われる。
祭場を一巡することには、清めるという意味があるようだ。

                                                             


4-09
宝弓作法
続いて弓を用いた神事が続く。四方に向かって弓を放つ。魔を祓うという意味があるようだ。 

 

 


4-10
火をつける
聖なる火炎である。着火するにも作法があると思われるが、この日は分からなかった。 

 

 


4-11
火の前で読経
油分を含む杉の葉を山と積んで火をつける。瞬く間に燃え上がる。煙や火の粉、燃えかすが、見ている私たちを襲ってくる。
小さな錫杖(しゃくじょう)を右手で揺らし、山伏の読経が続く。
この炎が、俗世、俗人の罪 穢(けが)れを焼き尽くす。燃えろ!燃えろ!世のため人のため

 

4-12
火渡り
炎が一段落すると、火の中に護摩木を投げ入れる。その護摩木もほぼ燃え尽きようとするときに火渡りが始まる。まず、剣をかざして渡る。修験者は裸足(はだし)。顔色一つ変えずに飛び込むことが良しとされる。

 

 

4-13
参詣者の火渡り、子どもたちの火渡り
続いて参詣者が渡る。子どもたちも渡る。このお子たち、きっと強い人になることだろう。

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