第300回 その-1 横浜市港北区(雲松院・小机城址)2022.3.12

令和4年3月12日(土)
横浜市港北区に①雲龍院 ②小机城址、都築区に③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡を訪ねました。
ここに、その-1として①雲龍院と②小机城址を報告します。


その-2 ③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡はこちらから

この報告は現地に立ててある説明板の文章と画像に基づいています。掲載にあたって文章は簡略化し、画像は加工してあります。

茅ヶ崎城址で

【今回の史跡・文化財探訪の趣旨】
1.県内の城跡の探訪
2.横浜市都筑区に、私たちが住む茅ヶ崎市と同じ地名があるので、そこがどのような様子か確認すること。
海辺の茅ヶ崎市の地名の由来は、「茅(チガヤ)の生える土地が海に面していること」と言われるが、都築区の「茅ヶ崎」は海から離れており、地名の由来を考えるなら、両所に適応する説でなければならないだろうと考えたからである。

①臥龍山雲松院(曹洞宗) 横浜市港北区小机町1451


横浜駅で横浜線に乗り換え、小机駅で下車し、小机城址を訪ねる前に探訪した。
山門前の説明板(平成2年 横浜市教育委員会)に次のように記されていた。

 小机城は、文明10年(1478)に扇谷上杉家の家宰太田道灌に破られてから廃城となっていたが、大永4年(1524)頃、小田原北条氏の勢力圏に入り、南武蔵の軍事上や、経済上の重要地点として修築され、北条氏の重臣笠原越前守信為(のぶため)を城代とした。
 信為は、父能登守信隆(のぶたか)の追善のために、季雲を招いて開山とし、自らが開基となり曹洞宗の寺院、臥龍山雲松院を建立した。
 山門横の通用門には、月舟宗故筆の「臥龍山」、本堂正面には、東皐心越の「雲松院」の額があり、共に名僧の誉れ高い禪師の筆になるものでる。
 墓地には、笠原家代々の墓所、ならびに池辺村の地頭門奈氏墓所がある。

月舟書「臥龍山」の額が掛かる通用門

横浜市指定の文化財 本堂・山門および転籍についての説明板(平成26年 横浜市教育委員会)が立てられていた。

横浜市指定有形文化財(建造物)運松院本堂及び山門
指定年月日  平成7年11月1日
時 代    本堂 宝暦3年(1753)〈棟札〉
       山門 安政5年(1858)〈棟札〉
構造及び形式 本堂 桁行9間、梁間7間、一重、入母屋造、銅板葺
       山門 四脚門、本瓦葺
 雲松院は小机城主であった笠原越前守信為が亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したと伝えられ、寺名は開基信為の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」に由来するとされている。
 本堂は、正面9間、側面7間、方丈形式の堂々たる堂で、内部は八室からなり、来迎柱二本と、仏間と室中境の柱二本を除くすべての柱は角柱で、住居風のしつらえとなっている。
 山門は本瓦葺の四脚門で、昭和30年代に茅葺から改められたが、屋根以外はほとんど改変が認められない。本堂は、関東大震災で大きな被害を受け、改造された部分はあるが、旧状をよく留めており、建造年代も明確で、緑に囲まれた優れた環境と相まった、市内有数の貴重な遺構である。

横浜市指定有形文化財(典籍)
『天童小参抄』(下巻)一冊 (てんどうしょうさんしょう)
指定年月日  平成元年12月25日
時 代    室町時代
構造及び形式 袋綴装32.2×25.4センチメートル
本紙     50枚
 『天童小参抄』は、中国の禅僧 宏智正覚(1091~1157)(わんししょうがく)が行った36の説法を集めた『天童小参録』を批評・解釈したもの。本来は上下二冊からなるが、上巻はなくなっている。著者は明らかではないが、応永28年(1421)頃の写本と考えられ、本書は最も古い写本となる。また、曹洞宗宏智派の宗風を探る『天童小参録』研究のうえで重要な資料である。

 境内墓地の再奥部に 横浜市地域史跡に指定されている笠原家の墓所の前に立てられている説明板(平成26年 横浜市教育委員会)に次のように説明されていた。元は境内の別の所にあったが、平成25年に現在地に移設されたと書かれていた。
旗本笠原家の墓所
 笠原家は、初め小田原北条家に仕えたが、北条家滅亡後は徳川家に仕え、信為の孫の照重の子、重政が天正19年(1591)に武蔵国都築郡台村(現、緑区台村町)に200石を賜った。
 現在、墓所には、元和9年(1623)在銘の宝篋印塔一基をはじめ、笠付角柱塔、石仏など合計17七基の墓を数えることができて、それらは重政、信重、為次ら笠原一族のものである。 登録日  平成6年11月1日

②小机城址(港北区小机町)

小机駅から徒歩20分ほどの丘陵が城址になっている。

正面の丘陵全体が小机城址

小机城址は第三京浜によって東西に分断されている。
現地に立っている説明板の案内図を掲げておく。
「本丸広場」に本丸が、「二の丸広場」に二の丸があったと想定されているが、発掘調査は行われていないようである。

城址の略図(1)
城址の略図(2)

小机城について、説明板に次のように書いてあった。

 築城の年代は明らかではないが、このあたりが開かれた12世紀以降ではないかと思われる。その頃このあたりは上杉氏の勢力下にあった。
 その後、山内上杉家の家臣 長尾景春が、家督争いから反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが小机城にたてこもり、北方にある亀之甲山(現在の新羽根町亀ノ甲橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦った。
 城は文明10年(1478)落城し、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城になっていた。
 大永4年(1524)、小田原北条の一族の北条氏堯(うじたか)の領地となり、笠原越前守信為を城代として再興した。小机は江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになる。
 豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次兵衛重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城した。

また、別の説明板に次のようにあった。

小机城の縄張
 半島形の突出した丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に3つ程度の曲輪(くるわ 郭 城を構成する区画、すなわち削平された地で、防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいう)を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築く。
 また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張で、後北条氏特有の築城法と言える。
 後北条の後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で、近くにある茅ヶ崎城も典型といえる。


縄張とは
 目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し、曲輪の配地、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めること。
 この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士が行った。

本丸広場

先に掲げた「城址の略図(1)」の下方にある「根古谷(ねこや)」の近くから城址に入り、「本丸広場」を目指した。

「城址の略図(1)」には「本丸広場」、「二の丸広場」と、「同略図(2)」には「本丸」、「二の丸」とあるが、「小机城のあるまちを愛する会」が2019年10月に作成した『小机城案内図』では「西曲輪」「東曲輪」となっている。本丸、二の丸の建物が確認できていないためであろう。

本丸広場への入り口
「本丸広場」

説明板にあった本丸の解説

本丸(ほんまる)
 本丸は城の中心、主将のいる所で、合戦中には戦闘の指揮が行われる。
 縄張りを行う時、本丸の防備に最も配慮が注がれる。
 調査等の実績の少ない小机城は、「本丸広場」が本丸跡とは断定できていない。

空堀(からぼり)

城址には巨大な空堀と土塁(どるい)が築かれていた。
「二の丸広場」を目指し、空堀の中を歩く茅ヶ崎郷土会の一行。

空堀について次のように説明してあった。
 堀と土塁(どるい)は城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用したものがある。
 水をはらない堀は空堀と呼ばれ、水をはるために堀勾配のゆるい水堀よりも堅固である。

二の丸広場

本丸広場よりも狭い

二の丸について、次のように解説してあった。
二の丸(にのまる)
 現在地は二の丸と呼ばれているが、資料不足のために断言できない。
 二の丸は、本丸を直接守備する役割がある。

土塁(どるい)

室町~戦国時代の山城の防備には、堀(空堀)と土塁が設けられていた。
小机城にもこの二つは良く残っている。

白い点線のところまで土が積まれている。

土塁の説明板に次のように記されていた。

土塁(どるい)
 土塁は堀と共に城の防備や攻撃に重要な施設で、堀を掘った土で築き上げた防備壁を言う。 土塁の基底幅は5メートル、上底幅は2.5メートル、高さは2メートル。
 一般に中世初期の城の土塁は、塁線に屈曲がなく、塁の上もしくは外のりに、必要に応じて棚・塀・逆茂木(さかもぎ)を設けている。

土塁の頂部。このような土塁で、防御のために郭(くるわ)は囲われている。

櫓(やぐら)

土塁の上には櫓が設けられた。

この一段高く土を盛ったところに「櫓台(やぐらだい)」の説明板が立てられていた。

櫓台(やぐらだい)
 櫓は、矢蔵すなわち兵庫や、高櫓(こうろう)・井櫓(せいろう)と呼ばれる見張台を言う。
 近世初期(15~16世紀)の成郭の天守閣の一源流と考えられる。天守のない時代に展望を目的とした櫓台があったと思われる。

このように小机城址を一巡して、私たちは次の見学地の横浜市都筑区にある③茅ヶ崎城址と④大塚・歳勝土遺跡へ向かった。この2ヶ所の報告は別に行うことにする。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員


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第299回 その-1 藤沢市・茅ヶ崎市(市内の大山道を歩く 藤沢市四ッ谷から市内赤羽根の西光寺まで) 2021.12.11

コロナ禍がなかなか治まらないことから、私たちの会も事業の数を減らしています。
感染者数が減少した折を見て、大山道(田村通り大山道)の始まりの部分を訪ねました。
令和3年(2021)12月11日の土曜日、気持ちよく晴れ渡った小春日の半日でした。

(市内の大山道を歩く その-2 室田永昌寺から円蔵のさぎ茶屋跡まではこちら)

田村通り大山道

藤沢市の四ッ谷から入って伊勢原市の大山に通じる道は、江戸時代に、相模川を田村の渡しで渡ったために「田村通り大山道」と呼ばれていました。藤沢市内、東海道(国道一号)の四ッ谷付近(城南1丁目)にその入口があります。今はそのほとんどが県道44号藤沢伊勢原線となっています。
大山を目指して歩き始めると、間もなく茅ヶ崎市の赤羽根・小和田・菱沼地区に至ります。
今回、この大山道への進入口部分(藤沢市)と、沿線の赤羽根・菱沼地区を訪ねました。
見学ヶ所の説明は山本会員がつとめました。

【この報告を書くために使用した参考・引用文献】
・文献(1) 『新編相模国風土記稿』 雄山閣版
・文献(2) 塩原富男著『ふるさとの歴史散歩』茅ヶ崎郷土会1983年刊
・文献(3) 高野修「相模大山講と藤沢』 藤沢市文書館1986刊『藤沢市史研究』19所収
・文献(4) 資料館叢書10 塩原富男『茅ヶ崎の記念碑』1991年茅ヶ崎市文化資料館刊
・文献(5) 茅ヶ崎市史現代7『地図集 大地が語る歴史』茅ヶ崎市1994年刊
・文献(6) 資料館叢書12『地名が語る赤羽根のむかし』2014年茅ヶ崎市文化資料館刊
・文献(7) 資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏』3 松林地区 2020年茅ヶ崎市文化資料館刊


①観音霊場供養塔口

大山道への入口は三ヶ所あります。
その一つで、三ヶ所の内、最も西側に当たり、茅ヶ崎と藤沢の市境に位置します。国道一号を南北に交差する古道の、国道の北側の植樹帯の中に「奉巡禮西國坂東秩父供養塔」(享和3年⁃1803⁃銘)が立っており「あふり山わけいる道にしおりおく 津ゆのことのはしるべとはなれ」の歌が刻んであります。
「あふり山」は「雨降山」、大山のことです。大山を目指し東海道を上って来た導者たちが、四ッ谷の入口を通り過ぎても、ここも入口だということを表している歌だと伝えられています。

画像中央の傾いている石塔が霊場供養塔
供養塔の脇の道を北に入る大山道の入口

②二ッ家稲荷社口

①から藤沢方面へ約100㍍ほど進むと国道一号の北側に、国道を向いて二ッ家稲荷神社があります。稲荷社の向かって左手に北に進む道路があり、二ッ家稲荷社口になっています。
この道路の先は大山道につながっています。しかしこの道路は、昭和23年の地形図(文献6・P52)にはなく、同43年の地形図(文献6・p53)にはあるので江戸時代からの道ではありません。

二ッ家稲荷神社

境内にある「二ッ家稲荷神社歴表」(平成8年設置)によると、「江戸時代の何回かの修繕の記録があり、その後大破したので明治39年新築した。同43年、その筋により無格社は取り払えの命令を受けて個人宅内に移し、大正4年に神台426番地に再度移した。そこが戦時中の昭和18年、海軍省の命令で敷地300坪余を買収されたので現在地の城南一丁目3番地に新築した」と書いてあります。江戸時代の場所が不明ですが、明治43年の「その筋の命令」とは神社整理令のことです。

稲荷神社の西側に大山道入口の二ッ家口がある
境内の一画に、寛文10年(1670)銘の庚申塔と天明元年(1781)銘のサイノカミ(双体道祖神像)が祭ってある。

③四ッ谷不動堂口

再び国道一号を藤沢方面に進みますと辻堂駅から藤沢市北部の湘南ライフタウンを結ぶ大きな交差点があります。これを越えると、藤沢市街地に続く東海道(旧一国)と新国道一号が斜めに交わる交差点に出ます。不動堂は交差点の新一国の西側にあります。東海道から見れば真っ正面です。江戸などから来た導者は直進して、ここ不動堂口から田村通り大山道に入りました。
江戸時代にはここに、大山導者を当て込んだ茶屋が並んでいて、「四ッ谷の立て場」と呼ばれていました。広重の浮世絵に「大山みち 追分」と彫られた道標が立ち、立て場に茶屋が並んでいる様子が描かれています。


画像には右端に鳥居、中央の屋根の下にお不動様が座っている道標1、道標1に向かって左に白い御影石の道標2が写っています。不動明王が座っている道標1があることからこの地は不動堂と呼ばれています。


上の画像で、奥に見えるのは田村通り大山道の一の鳥居です。
文献(3)に引用されている古文書に、最初の鳥居は万治4年(1661)に木造で建てられ、倒壊したのを延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が再建、元禄16年(1703)の地震で倒れ、再建の志はあったがそのままになっていたところ、天保9年(1838 )に再建願いを幕府に願い出て、同11年(1959)に石造で再建された。さらに大正12年(1922)の大地震で倒壊し、現在の鳥居は昭和34(1959)に再建されたとあります。
鳥居には天狗面が架かっています。昭和34年の再建時に掛けられたがその後落下し一番大事な鼻が欠けたのだそうです。

平成17年再建の道標2
延宝4年(1676)建立の道標1
道標1の上のお不動様

中央の画像) 道標1
竿石の正面上部に不動明王の種子のカーンマーン、その下に「大山道」と彫られています。この刻字の向かって右側に「延寳四(1676)丙辰歳武州江戸横山町外」、下に「講中」、左側に「六月廿八日 宿場 順學院仁兵衞」、竿石下部に瑞垣状の彫物がなされて10人(9人?)の個人名が彫ってあります。竿石の両側面には「こ連よ里大山みち」、下部に名前を彫った瑞垣があります。
銘にある「宿場 順學院仁兵衞」は大山御師の名のようです。「宿場」が四ッ谷宿を表すものなら、大山の御師がこの宿場(立場)に出向いていたことになります。

向かって左の画像) 道標2
石柱表面に「是よ里右大山みち」、基礎石に「御藏前」、向かって左側面に「平成十七年七月一日再建/施主 鈴木得郎/四ッ谷町発起人一同/大山阿夫利神社/宮司 目黒…」、裏面には大山御師と材木座の石工の名があり、右側面は未調査です。
再建前の道標は、文献(3)に、万治4年(1661)に江戸御倉前の商人によって建てられ、天保6年(1835)に再建され、大正12年(1923)の地震で倒壊、翌年修繕して再建とあります。この現物は今は大山に移されて、同24年に大山新道沿いに再建されているそうです。
とすると、万治4年は木製の初代鳥居が建てられた年でもあり、ここ四ッ谷口が大山道の入口として大いに名を売った年だったと言えるでしょう。


向かって右の画像) 石造不動明王坐像
竿石の上に不動明王を頂く道標は、田村通りではこの道標を最初として、大山道沿いに点々と残っています。お不動様に導かれて大山に向かうの手法です。
この四ッ谷口の道標1は、石質も良く作りも刻字もしっかりしていて、石造美術品としての価値が高いと思われます。

大山開きの折、不動明王道標の前で護摩供養が行われる。

毎年7月1日に、四ッ谷町内会によって大山の夏山登拝の無事を祈る護摩供養が行われます。不動明王道標(道標1)の前で祈願されるのは辻堂元町の宝珠寺のご住職。
左の画像は「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会」の加藤幹雄さんが2012年に撮影したものです。

④右野みちの句碑と地蔵尊

大山の一の鳥居をくぐり、いよいよ大山道に入ります。辻堂駅から北に向かう大きな自動車道路を渡って西に進むと先が二つに分かれるところに祠の中の地蔵尊とその脇に小さな句碑があります。
地蔵様は何枚も着物を着せられているので様子が分かりませんが、文献(6)p120に次のように記されています。
「地蔵菩薩の台石の向かって右側面に<右のみち>、左側面に<左大山道 享保二年:1717…>と刻まれていたという。」
文献(6)が書かれた時点で台石の刻字は読めないほど傷んでいたのでしょう。

地蔵尊の脇に立つ句碑には
「右野道/地蔵も花も笑ひけり /蕉風」とあります。
蕉風は市内の萩園の人、故菊池正平氏で郷土会員でした。
句碑の裏面に「昭和五十三年十月一日/茅ヶ崎郷土会/茅村筆」とあります。
茅村(ぼうそん)は高田の人、書家の水越咲七氏。
茅ヶ崎郷土会が今より盛んだったころの建碑です。

「右 野みち」の句碑を過ぎて、大山道を西に向かうと、真っ正面に富士山が現れました。

⑤阿弥陀堂跡と堂開基の供養塔

大山道から離れて北に向かい寺々を訪ねます。まず阿弥陀堂跡と伝えられる所を見学しました。自動車の通りが多い細い道で、道に沿った崖の高いところに新しい六地蔵と江戸時代の古い墓石が2基立っています。
『新編相模国風土記稿』赤羽根村の項に「阿弥陀堂 像は恵心作、専求比丘<寛文七年(1667) 十二月寂す>の造立する所と云ふ、西光寺持ち」とありますが、今は阿弥陀堂はありません。恵心作といわれるこの庵の本尊は西光寺に運ばれているのかも知れません。
その横の墓石は「正徳三年」銘で、江戸中期の1713年です。
寛文7年の専求比丘の墓石は固い石材の板碑型で、当地に庶民の墓石が出現する頃のもので貴重です。

⑥宝積寺 野村もと子の墓碑と顕彰碑

「村野もと子」と現代風の名前ですが江戸時代に生きた女性です。
赤羽根にある宝積寺の境内に、彼女の顕彰碑があり、次のように刻字されています。

(表面)
 長閑なる 雨の名残りの露なるに おりてかざらん山桜花
妙染一貞法尼顕彰碑
 空に立つうき名を何につつままし おほふ計の袖しなければ
(裏面)
野村もと子幼名直(生年不詳~天保八年九月一日 一八三七年没)は上赤羽根村/名主小沢家の娘であって 歌の師加藤千蔭の門下に入り/春夏秋冬恋歌六十九首の短歌一首の長歌を編した。「もと子家集(編者注 歌集ヵ)」を天保六年(一八三五年)四月刊行 当時の女流歌人として/豊かな教養知識をもって歌才を認められる。
昭和五十五年(一九八〇年)「かながわの一〇〇人」に女流歌人として選せられる
昭和五十七年十一月吉日
   小沢家十八代 小沢卓一/ 長男 雄市 建立
   宝積寺四十世 大活俊雄/ 雲外良憲 敬書

「かながわの100人」に選ばれたときに建てられた顕彰碑です。
上記の碑文は文献(4)p32~から引用しました。

本堂の裏手に小沢家の墓地があり、その中に もと子の墓碑があります。向かって右側面に、顕彰碑に刻されている同じ歌があります。墓碑正面の戒名はたいへん痛んでいて読めません。
文献(4)p32~には、もと子の母 白羊、もと子の兄 飯哥、鴫立庵四世の百明が歌と句を寄せた飯哥・もと子の兄弟と思われる聡悟禅童子の墓石も紹介されています。

⑦西光寺 大山石燈籠と石仏群

大山石燈籠
かつて市内の村々で、献燈のために7月下旬から8月半ばまで「大山灯籠」と呼ぶ組み立て式の灯籠を立てる風習がありました。

この大山灯籠を石で作り、常置したものが本市の大山道沿いに2基残っています。
その一つが、赤羽根の西光寺の山門脇にあります。西光寺は大山道から少し離れていますが、この石燈籠はかつては道沿いにあったと伝えられています。

西光寺の半鐘
鐘の銘は次のとおりです。

赤羽根/西光寺
奉寄進半鐘
相州高座郡赤羽根村/迎接山西光寺十三世/浄蓮社欣誉單信上人
為菩提江戸同行寄進
元禄二己巳年二月日
武州江戸住御鑄物師/田中丹波藤原/重行作

茅ヶ崎では最も古い「元禄2年」(1689)の年銘を持つところから重要文化財に指定されています。
また、銘に「江戸の同行の菩提のために寄進」とあり、作った鋳物師も江戸の人物であるところから、この鐘の造立に、大山道を使っていた江戸の講中が関係していると考えられます。

太平洋戦争中に供出させられましたが、西光寺と書いてあったために寺に戻ることができたといわれています。

薬師堂跡から移された石仏群
下赤羽根に薬師堂がありましたが取り壊されました。その境内にあった石仏群は平成16年に西光寺に移されました。薬師堂は『風土記稿』赤羽根村の項に「西光寺持ち、慶安三年(1659)然誉建立す」とあります。移された石仏は寛文5年(1665)銘の庚申塔をはじめ、徳本名号塔、二十三夜塔、弘法大師座像などです。
文献(7)の赤羽根の項にこれらの石仏の個々のデータが収録されています。

⑧長福寺 文学碑と七里役所役人などの墓

西光寺を辞して、国道一号のバイパスの下をくぐり長福寺に着きました。
文学碑

境内に数基の句碑、歌碑があります。画像はその中の唖蝉坊の句碑です。添田唖蝉坊、名は平吉。演歌師と紹介されています。妻の実家が長福寺の檀家です。
文献(4)p38に、句は1956年、唖蝉坊の十三回忌に手ぬぐいに染めて配られたとあります。揮毫は「右 野みち」碑で紹介した書家水越茅村です。石はフグの形をしています。
文献(4)p37~に、この碑のほかに大山古道吟行の句碑、鴫立庵芳如の句碑、水越梅二の結願歌碑などがあると紹介してあります。

七里役所役人などの墓

七里役所とは、江戸時代に尾張藩、紀州藩が江戸と領国を結ぶために七里毎に独自の継立所を設けたもので、本市では菱沼村の東海道沿いの「ぼたもち立て場」に紀州藩のそれがありました。当地で亡くなった役人や家族の墓が立て場近くの須田家に残っていたものを、大正の中頃長福寺に移したと文献(2)p46~に書いてあります。4基ある墓石の1基は童子のものです。

⑨長福寺南の石仏群

長福寺の本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路に当たります。そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っています。また、道路を挟んだ反対側にはサイノカミ(双体道祖神塔)1基が祭られています。
最近は道路整備などで多くの石仏が移設されていますが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが多かったようです。道の辻は自ずと人が多く行き交います。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まると考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説しています。
長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所です。


最後に

長福寺南の石仏群を見て私たちは解散し、茅ヶ崎郷土会第299回史跡文化財めぐりは無事に終了しました。

・この報告で使用した写真画像は前田会員と平野会員が撮影したものです。
・四ッ谷の不動堂前で2012年に行われた護摩供養の写真は、先にも紹介したように、「ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会」の加藤幹雄さん撮影です。
・このホームページの構成は、令和3年11月16日に行った事前勉強会と12月11日当日の現地説明で使った山本会員作成の説明資料を元にしています。
・ホームページの作成と記事の執筆は平野会員が行いました。

〈299回 田村通り大山道の始まり部分を訪ねて テキストへ〉(HP未掲載)
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テキスト 298回史跡・文化財めぐり ―市内 中島の歴史を訪ねて―

2021年10月24日(土)に実施した 市内中島の史跡・文化財めぐりの説明書です。
当日、参加者に配ったものに、さらに手を加えてあります。

「郷土ちがさき」150号に山本俊雄会員が実施当日の様子を報告しています。

画像をクリックするとPDFファイルが開きます。

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298回 茅ヶ崎市内 中島の歴史を調査

2020年(令和2)10月24日(土) 茅ヶ崎市内西南部の中島を訪ねました。

2021年、2020年はコロナウィルス蔓延の影響で、茅ヶ崎郷土会の事業はほとんど中止です。昨年度の史跡・文化財探訪は、市内中島の現地見学だけが実施できました。
2021年度ももう9月。年度の半分に達しましたが、8月に発せられた緊急事態宣言のために、9月に予定した市内下寺尾探訪の事前勉強会と10月に予定した現地探訪を中止しました。

中島探訪を終えた後、ずいぶん日がたちました。やっとここにその様子を掲載します。
なお、「郷土ちがさき」150号に実施当日の様子を山本俊雄会員が報告しています。

中島探訪のコース

茅ヶ崎市中島は、江戸時代は中島村でした。下の図の黒い実線が村境です。中島の北側には平塚市須賀の一部と平太夫新田、東北に下町屋、東に今宿と柳島、西には相模川があります。
下の図に、訪ねたところを朱字で示し、丸数字で順番を示しました。

①いかだま跡・古相模川 ②なんどき橋 ③東チョウのサイノカミ ④小字の番屋と耕作地
⑤ポンプ場(未掲載) ⑥馬入の渡し場跡 ⑦馬入橋 ⑧馬入川橋梁 ⑨村を囲む堤防 ⑩領主 山岡氏の屋敷跡 ⑪鎮守 日枝神社・八坂神社・大山不動尊 ⑫浄林寺・板碑型供養塔・忠霊塔 ⑬殿道 ⑭右近左近稲荷 ⑮状部屋跡

江戸時代は中島村

『新編相模国風土記稿』(雄山閣版第3巻283頁)の高座郡中島村の項に次のように書いてあります。
中島村
旗本、山岡伝五郎の領地。江戸まで15里。東海道が村内を貫く。その傍らに状部屋(じょうべや)がある。これは、官辺および尾紀二侯(徳川幕府・尾張藩・紀州藩)を初め書状往来の時、相模川の増水にあえばここに止置いて村民等これを守る。中島村が馬入の渡しの東岸にあるをもってなり。慶安2年(1649)検地の水帳を用ゆ。相模川の縁に位置するので毎秋川の泛濫(はんらん)の害にたえず。崩入せし田地も若干なりという。民家50。相模川の流作場および芝地あり。
◯高札場一 ◯古相模川、東界にあり。今宿村にいう筏川(いかだがわ)これなり。 〇相模川、村の西にあり。
〇山王社、村の鎮守なり。大住郡馬入村(現平塚市馬入)連光寺持。
〇浄林寺、故詠山山王院と号す。浄土宗。大住郡須賀村(現平塚市須賀)海宝寺末。天正4年(1576)城蓮社厳誉起立。本尊阿弥陀を安ず。△地蔵堂

相模川について同書262頁の高座郡図説には次のように書いてあります。
相模川
相模の国の大河なればこの名を負へり。高座郡の北方田名村(相模原市)と愛甲郡角田村(愛川町)の境を南流し、中程より大住郡の郡界となり、次第に曲直南流して東海道を横切り〈この辺馬入川ととなう。対岸に大住郡馬入村あり。〉柳島村と大住郡須賀村の境にて海にそそげり。〈この辺、中流に洲ありて二流となる。洲の西を流るゝを本流とし、洲よりこの方は当郡(高座郡)に属す、この流を古相模川とよぶ。また大住郡の馬入・四之宮・須賀三村の地、川を隔て大住郡中にあるは、水溢の時、水路変易によって、郡界を改めしゆえなり〉(以下『新編相模国風土記稿』は『風土記稿』と略記する。出典は雄山閣版。) 

江戸時代の馬入の渡し (新編相模国風土記稿から)

① 古相模川と 筏間(いかだま)=筏川(いかだがわ)の跡
② なんどき橋

現在の相模川より一つ前の古い川跡は古相模川と呼ばれて、切れ切れにたどることが出来ます。今宿にその一部が筏間あるいは筏川と呼ばれて残っています。
『風土記稿』に次の様に記されています。
萩園村の項に
「相模川、平常は新古二川分流し、中間に洲渚若干あり。須賀村に沿いたる川、今の相模川にして〈幅三十間(54㍍)〉、当村に沿いたる流れは古相模川なり〈幅五十間(90㍍)、この川上、斜に北の村界より西の方まで中島村の界を廻れり〉、流末は共に湊口にいたりて海に入る」。 
中島村の項に 
「古相模川、東界にあり、すなわち今宿村に言う筏川これなり」。

また、夜中に橋を渡る人に幽霊が「今はなんどきだァ~」と聞いたと言われる②なんどき橋については、今宿村の項に「今宿橋」と書かれています。東海道に架かる橋でした。

③ 東チョウのサイノカミ

道祖神と呼ばれますが、当地の伝統的な呼び名はサイノカミ。村(近世村=大字)を区分するチョウ(町・丁)毎に祭ることが多い。その祭礼は小正月の火祭り(サイトヤキ・セートヤキ・ドンド焼き)で、穢れを焼き尽くし、新たに霊力を復活させるという意味があります。昔は子どもが祭ったもので、疱瘡や風邪を治す神でもありました。

中島には、本宿(ほんしゅく)、二ツ谷東チョウ西チョウぶどう園の五つのチョウナイがあり、ぶどう園は新しい。古くからの四チョウナイに祭られています。本宿には明治18年(1885)銘の文字塔、二ツ谷には文政3年(1820)銘の双体立像、東チョウには双体立像で紀年銘不明、西チョウには紀年銘不明の双体立像と明治15年(1882)銘の文字塔です。
 サイトヤキもチョウナイごとに今も盛んに行われています。本宿とブドウ園は一緒になって親水公園で行うように変わりました。

④ 番屋(ばんや)と中島の耕作地

昭和22年(1947)に撮影の航空写真を見ると、4チョウナイの集落のほかは耕作地です。その耕作地はほとんど畑でした。大正12年(1923)の関東大震災で相模川河口近辺が隆起する前は水田もあったようですが、相模川の堆積作用で出来た耕作地は肥沃で、野菜類の栽培が盛んでした。

東チョウと西チョウの北側に番屋という小字があります。「相模川の洪水のときなどに増える水かさを見るところだった」という話がありますが、それを示す資料は今の所ありません。他に考えられるのは、かつては村の入口・出口に番人を置いて、その地をばんば(番場)などと呼んだ例があるので、それに共通する地名かも知れません。

⑤ ポンプ場(未掲載)
 馬入の渡し場の跡

国道1号は東海道と重なっているので、渡し場はその延長線上にあったのでしょう。しかし「船着き場はここだった」と指すことはできません。
中島村と馬入村の境は、今の相模川を越えた東側、中島側にあります。広い河原は平塚市です。江戸時代にも、馬入の渡しの両端は馬入村だったと考えられます。『風土記稿』大住郡の図説(雄山閣版2巻341頁)には、渡しは「大住郡馬入村―高座郡中島村の間」とありますが間違いではないでしょうか。

慶長6年(1601)馬入の渡しは江戸幕府公認になりました。川会所は馬入村にあって川役人が詰めており、渡しを管理し、渡船賃を取っていました。将軍や朝鮮通信使などの大勢が渡るときは船橋(浮橋)を掛けたことが記録されています。
『風土記稿』馬入村の項に、平水のとき渡し幅70間(約126㍍)、常は船6艘〈渡船3、平田船2、御召船と称する1をおくとあります。寛文6年(1666)に馬入・今宿・松尾・下町屋・萩園村が渡船場の定助郷と指定され、水主(船頭)や人足などの諸役を負担することとなりましたがなぜか中島村はこれに入っていません。元禄4年(1691)、回船を巡る須賀、柳島村の争論に幕府が裁定を下したときから、この両村が渡し場の定掛り村となりました。

『風土記稿』2巻353頁に「(馬入村の)北方に東海道古往還と称する小径あり、幅2間(3.6㍍)。往古は今の渡しより、5(約545㍍)ばかり川上を渡りて往来せしといい伝う」とあり、この古往還が以前の東海道であったと記しています。この伝承に対応する話が東側の中島にも伝えられていないものかどうかは調べる必要があると思われます。

⑦馬入橋と ⑧馬入川橋梁

馬入橋(『茅ヶ崎市史』4-通史編 414頁以降から引用)

◯明治8年(1875)4月、馬入の渡しの渡船による渋滞解消のため、時の足柄県令柏木忠俊は、内務卿に船橋架橋の伺いを提出し翌月許可された。計画は船橋だが、渡船に代わる馬入川架橋工事の計画はこれが初めてである。

◯同9年(1876)12月、神奈川県令は内務卿に、官費を以て馬入川に木橋架設の申請をしたが却下される。
◯同10年(1877)11月13日、神奈川県が民費による馬入橋架橋と渡船賃銭による償却を申請し許可される。
◯同11年、夏頃にはおおかたが完成したが秋に洪水があり流出した模様。
◯同16年(1883)、長さ230間(414㍍)、幅3間(5.4㍍)の木橋が建設されたが流出。
◯同23年7月1日、台風による増水のため、相模川の橋と堤防が決壊する(市史5-P505)。
◯同26年8月11日、台風により相模川の橋と堤防が決壊する。(市史5-p506)
◯同31年9月7日、台風により橋は流失。(市史5-p508)
◯同36・37年、洪水で橋流失。(市史4-p414)
同41年(1908)、一部鉄材を使用し川上側の橋桁手前に流木除けの川杭を打ち込んで洪水にも強い馬入橋がようやく開通。
◯大正12年(1923)9月、関東大震災で崩壊。
同15年コンクリートの橋として建造。
◯昭和55年(1980)4月、現在の馬入橋に掛け替えられる。

馬入川橋梁(『茅ヶ崎市史』4巻-p506など)
◯明治5年、鉄道は新橋〜横浜間が開通しているがその先が進まない。
◯同18年(1885)政府は東海道鉄道敷設を決定。明治19年、横浜〜国府津間を一ケ年で完成するよう命じた。
◯同20年2月、馬入川鉄橋の起工。だがこの時期、川の水量が多く川幅も広く、かつ地盤も悪いため、三度も架け直すほどの難工事だった。
◯大正12年9月1日、関東大震災で全壊。

⑨ 村を囲む堤防

相模川沿いの村々は長い間洪水の危険にさらされていました。江戸時代の様子は『風土記稿』に、萩園村と平太夫新田は相模川側に、柳島村は古相模川に沿って「堤」(ていと読むヵ)が設けられてあると記されています。しかし、中島村の項には「毎秋泛濫(はんらん)の患に堪ず、崩入せし田地も若なり」とあるのみで、堤防があったとは記されていません。

中島などを囲む現在の堤防は次のようになっています。
①国道1号に沿う西チョウのはずれから新田方面に向かう道路は小高くなっている。聞き取りでは大正8年(1919)に出来たという。この道路が国道と東海道本線の線路を南に越えると、ブドウ園の西側で再び、上に掲載した小高い道路となり、ゴルフ場を含み中島をぐるりと囲んで中島中学校のところに出る。建設年代不明だが、相模川と中島を隔てる堤防と思われる。
②元スポーツ公園の東側からはじまって、ゴルフ場の中を南に延びる小高い道路も堤防として作られたものと思えるが建設年代は不明。
③明治時代の迅速測図に、古相模川の流路跡に沿って、現在の柳島小学校から北に延びて、田端村(寒川町)の西側まで延びる堤防が描かれている。『風土記稿』柳島村に記されている「堤」と思われるが、現在はその面影は残っていない。
④聞き取りでは、東・西チョウの北側に土手があって竹やぶが茂っていたが、大正8年(1919)に東チョウから新田に行く道を作ったときにその土手を崩したという。

『茅ヶ崎市史』2巻近現代資料編及び『茅ヶ崎市史』4巻通史編には、明治時代になっても何度も洪水に襲われ、治水対策費用のために村々が困窮している資料が掲載されています。

⑩ 領主 山岡氏の屋敷跡

日枝神社の南側の楳田家を含む一帯は「殿屋敷」と呼ばれ、江戸時代の中島村の領主、山岡氏の屋敷跡と伝えられています。山口金次著『茅ケ崎歴史見てある記』p84に
「楳田家の宅地の北側の、西方より1005番地から1029番地に至る小割りの土地は、明治初年に屋敷跡を楳田氏の先々代が買い受けたものであり、その折に村方へ小割りにして分けたものといわれる。」と書かれています。

 日枝神社・八坂神社・大山不動尊

中島の鎮守で浄林寺と殿道を挟んで並んでいます。八坂神社は日枝神社の裏手にあり、神社役員は両社を兼ねています。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守なり、大住郡馬入村連光寺持」とあります。別当寺を他村の寺院がつとめているのは珍しい事例です。
祭神は大山咋命(現在の日吉大社東本宮の祭神)です。近江から来て中島を領地した山岡景長が慶安2年(1649)に祭ったと地元に伝えられていますが、景長はすでに文禄4年(1593)に亡くなっているので、伝承に混乱があるようです。
なお、八坂神社は『風土記稿』にも明治時代の地誌類にも記録されていません。
拝殿に掲げられている「山王」の扁額には領主景忠(元禄11年:1698)の名前があります。
「郷土ちがさき」151号にこの扁額の詳しい資料紹介があります。
また八坂神社境内に日清戦争で戦死した大森菊次郎の招魂碑、日枝神社境内に大山不動尊、享保8(1723)年銘の六臂青面金剛塔(庚申塔)などがあります。

⑫ 浄林寺

『風土記稿』中島村の項に
「浄林寺 故詠山山王院と号す、浄土宗(大住郡須賀村海宝寺末)天正四年(1576)城蓮社厳誉起立、本尊阿弥陀を安ず」とあります。院号を「山王院」とするのは、鎮守の日枝神社(江戸時代は山王社)が隣にあるからです。
故根本康明さんは聞き取りの時に次の様に語っておられました。「浄林寺は須賀の海宝寺の隠居寺だった。海宝寺の檀家は3千軒と言われる。浄林寺が明治時代に海宝寺から独立するとき、中島在住の8軒の旧家が海宝寺檀家を離れ浄林寺檀家になった。」

板碑型の供養塔

上部に阿弥陀三尊種子があり、銘は
「元和九年(1623)癸亥年/欽譽善心禅定門霊[  ]/八月廿日 施主[    ]
とあります。
本堂裏手の無縁墓地の一角に建っていますが、中島では古い歴史資料になると思われます。

忠霊塔

昭和32(1957)年9月23日に中島地区の有志によって建立されました。裏側に「日清日露及び大東亜戦役等に際し戦没せられたる諸勇士の英魂を慰霊せんがため当部落民の総意によりここに忠霊塔を建立しその偉烈を仰ぎ後世に伝えんとす」と彫ってあります。

戦死及び戦没者28人の氏名が刻まれています。その内訳は、日清戦争1人、日露戦争3人、支那事変1人、大東亜戦争21人、平塚空襲による死者2人です。空襲死亡者2名を除く戦死者の年齢は、20歳1人、22歳1人、23歳1人、25歳4人、26歳2人、27歳5人、28歳4人、29歳1人、32歳3人、35歳1人、36歳1人、37歳1人、年齢不明1人です。故国を離れた中国、旧満州、フィリッピン、ビルマなどでの戦死です。また、昭和20年7月17日の平塚空襲による死者は布川浅次郎、根岸ツルさんです。(資料館叢書10『茅ケ崎の記念碑』119頁)

⑬ 殿道(とのみち)

日枝神社と浄林寺の間にあって、殿屋敷から線路を越えて北に延びて国道1号に至る道路を「殿道」といいます。領主の山岡さんが東海道に出るときに使った道だと伝えられています。

⑭ 右近左近稲荷

殿道の中島踏切と国道1号の間にあります。一つの小祠に右近と左近の稲荷が祭ってあり、東チョウと西チョウが1年交替で稲荷講をしています。
元は寒川神社の「祓い道」にあったとか、洪水に流され「戻りたい」というのでここに戻したという伝説があります。

祭られている場所は「稲荷元」と言われる旧家の屋敷内で、稲荷元の家には弘化3年(1846)2月銘の京都の伏見稲荷本宮が発行した分祀文書の写しがあります。
境内の石燈籠の年銘は文久2年(1862)壬戌12月吉日です。

⑮ 状部屋(じょうべや)跡

 この「中島を訪ねる」の記事の冒頭にも紹介しましたが、状部屋について『風土記稿』中島村に次のように記されています。
「東海道、村内を貫けり。海道のかたわらに状部屋と号する所を置く、官辺及尾紀二侯を初め書状往来の時、相模川水溢にあわばこのところに止め置いて村民などこれを守る。これ当村が馬入渡しの東岸にあるを以てなり」。
相模川が洪水で川留めになったとき、幕府や尾張・紀伊両藩の書状を留めて村民が守った施設だったことが分かります。
状部屋は東チョウの岡田家がそうだったと伝えられています。山口金次著『歴史見て歩き』84頁に「明治維新により、地頭の山岡氏は大政奉還に係わり、用人であった岡田氏(状部屋)は江戸の邸に引き移られたので、日枝神社の傍らの根岸家から跡目を継いで、岡田家へはいられた。浜之郷の龍前院にある山岡家墓所内の石燈籠の銘文に『奉寄上/元禄十三(1700)庚辰天 正月十三日/泰雲院殿陽国玄正居士塔前/施主 両臣 岡田平蔵光政 和田亦右衛門義勝』とあれば、岡田家は元禄以前から続いたもので、和田亦右衛門とあるのは、浜之郷にあった家柄だろう。まだその和田家は確認できていない。(以下略)」
しかし現在、状部屋に関する資料、古文書などは何も見つかっていません。

photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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9 石仏3種 9-2 湘南七庚申 日本最初の青面金剛 庚申塔7基

庚申塔には猿と青面金剛(しょうめんこんごう)像が付きものだが、青面金剛の像は茅ヶ崎、平塚、藤沢、寒川町から全国に広がった。この3市1町にその出現期の事例が7基ある。

寒川町に1基(承応2年:1653)
茅ヶ崎市内に3基(承応3年:1654・同4年・明暦4年:1658)
藤沢市内に1基(明暦2年:1656)
平塚市内に2基(明暦2年・年銘不明)

作られた時期は、最も古い承応2年(1653)から、年不明もあるが明暦4(1658)までの6年間である。

この七基の塔をもって「湘南七庚申」と呼んで順に紹介しよう。

石質、全体の形、四臂(しひ:四本腕)の青面金剛の姿がよく似ていて、同じ石工の手になると考えられる。

「庚申」の文字がないものもあり、庚申塔と言えないという意見もあるが、青面金剛出現の貴重な庚申塔として、平成18年(2006)に県の重要民俗文化財に指定された。これらがこの地にあることを私たちはもっと誇っていいだろう。

9-2-1 寒川神社方徳資料館内 四臂青面金剛塔(しひしょうめんこんごうとう)

高さ90㎝(『寒川町史』一)
承応二年(一六五三)在銘
平成十八年(二〇〇六)、神奈川県有形民俗文化財に指定された。指定名称は「下大曲の庚申塔」。

塔の銘にある「大曲村」は近世村の大曲村のこと。『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』)高座郡大曲村の項に、村は上・下大曲に分かれているとある。二〇二〇年十月現在、この塔は寒川神社の方徳資料館に展示されているが、かつては大曲の下大曲神社社殿に納められていた。保存状態がよいのもそのためと思われる。

背面、側面は粗彫りで、光背型に笠を被せたような格好をしている。他の六基は光背型なのでこの塔の形は異例である。
青面金剛の頭上は額のようにせり出させてあり、これに対応するかのように、足下の張り出しもせり出してある。このせり出している分の厚みを加工して、青面金剛像と二猿を半肉彫りに仕上げている。

青面金剛は二猿を従え、足下の張り出しには二羽の鶏がいる。鶏は七基の塔の中で、この塔にだけあらわれている。二猿はお尻をついて坐り両手を膝がしらにおく。
青面金剛の持物は上右手に剣、下右手に宝棒、上左手に三叉戟(さんさげき)、下左手に羂索。頭髪は焔髪で宝冠を被る。あごの下に宝冠の紐の結びがある。以上の図様は他の六基と同じであるが、他の塔には鶏がいない。安山岩でたいへん固い。
庚申塔に青面金剛像が出現する最初期の事例として、また丁寧な彫刻を施してあること、引き締まったバランスの良さなどから重要な塔である。

調査したのは平成二十七年(二〇一五)一〇月五日だった。
方徳資料館の学芸員の佐原慧さんに大変お世話になった。改めてお礼を申し上げます。


〈銘〉

向かって右側上方に
承応二年九月吉日

向かって左側上方に
相刕高座郡/一宮庄大曲村

左側の村名の「一」と「宮」の間に、読めないが一文字があるようにも見える。また「曲」は「間」のように見える。
結衆名はない。
『寒川町史』(美術工芸編)を参照した。


 『寒川町史』四〇一・二頁に、この庚申塔と石祠の八幡宮が共に下大曲神社にあると記されている。大変興味深いことに、八幡宮の石祠には、青面金剛塔と同じ「承応二年(一六五三)/八幡/九月十五日」という銘がある。

『風土記稿』に大曲村内の神社として八幡社、十二天社、山王社が記されている。石祠の八幡宮はこの八幡社に関係するものだろう。  

次に、茅ヶ崎市甘沼 八幡神社境内の四臂青面金剛塔(承応3年:1654)を紹介します。

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